3.1月10日(木) 飫肥城下観光 (快晴)
起床(0530)朝食(0700~)ホテル発(0820)飫肥散策(1820~)青島(1548~1710)ホテル(1810)夕食(1850~1940)日高(1950買い物)ホテル(2000)就寝(2100頃)
3-2 飫肥へ
ホテル発(0820)宮崎駅着(0840)宮崎発(0909)
歩いて駅まで行った。そこで切符を買ったりして出発時刻まで過ごした。
この駅は面白いことに出発ホームによって改札口が違っている。表示を見ながら間違えないように行った。
ホームは閑散としていた。
入ってきた車両は2両のみ。行き先のプレートが「青島」となっているので少し慌ててしまったが、すぐに係員が付け替えていたので安心した。
これはワンマン運転ということで、運転手さん一人。しかも無人駅が多いので、殆どが1両目からのみの乗降となる。
我々のはこんな電車だったが、向かいのホームには新しい車両が止まっていた。
青島を過ぎた頃から、海岸線は鬼の洗濯岩と呼ばれる岩が見え隠れし始めた。
3-3 飫肥散策(1820~)
飫肥着(1018)
飫肥は、飫肥藩5万7千石の城跡。飫肥城を中心に、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、松尾の丸や大手門は銘木飫肥杉で復元造営されている。
さすがにここの駅には駅員がいた。
駅前でレンタサイクルをしようと思ったら、定休日とのことで(業務を取り扱っている横のお店が休みだった)、仕方なく歩いて行くことになった。
ともかく、始めに「食べ歩き町歩きマップ」を手に入れなければならない。これはこの町で行っているイベントだ。入場券と試食券がセットになっている。しかもJRを使ってくると100引きの900円になる。ということで一番近いマップ販売所を目指した。ちなみに、飫肥まで宮崎交通バスで行くと、1日券で1800円であり、JRは片道910円とあり、今回帰りに青島に寄ったので、値段差は何とも微妙ではある。
さてこの「食べ歩き町歩きマップ」があると6ヶ所の見学と商品5個がもらえる。しかもこの商品、数あるお店がそれぞれ1商品を提供しており、その中から自由に選ぶことが出来るので嬉しい。
ちなみに赤い鳥居は、飫肥駅から飫肥城下に向かう途中にあった。
3-3-1 旧高橋源治郎家(1035~1043)
明治中期の近代的和風建造物で、屋根が茅葺きから瓦ぶきに転換し始めたころの建築物として価値が高い。主屋内部には鶴や孔雀や当時の生活ぶりが描かれた日本画がある。
入り口でマップを購入して、準備してくれている間に中を見て回った。
二段目左の写真は風呂場の天井。風呂場一つにも豪華さが伝わってくる。板に書かれたツルとその反対側のクジャクは必見。カマドを見ても、この家に寝起きしていた人の数の多さが想像される。
さて見終わってマップを受け取ると、商品を取り替えられる店で、今日休業しているところには丁寧に×印が付けられていた。お礼を言っているとそこへカメラをぶら下げた男性が来て、これからすぐ近くで泰平踊りがあるから是非見て、と言われたので、そちらへ向かった。窓口の人が「館長さん」と呼んでいたので、ここ旧高橋源治郎家だけの館長さんかと思ったのだが、大きな間違いだった。(飫肥城関連施設全体の館長さんのようで、実は「偉い人」だったようだ。この方のブログははこちら。)この館長さん、他にも見た方が良いところや商品をもらった方がいいところを教えてくれた。
保育園児もいて、行儀良く並んで座っていたが、我々を見ると「こんにちは」と元気に挨拶してくれた。
3-3-2 泰平踊り(1050~1107)
コンビニの駐車場を借りてそれは行われる。と言うのも今日は丁度十日戎の日だからなのだそうだ。
いったときは丁度獅子舞が終わったところだった。
それからいよいよ泰平踊り。と言ってもこれがどのような物なのか、飫肥館長始め飫肥の皆さん申し訳ない・・・我々には全く知識は無かった。何しろ、駅前の泰平踊りの像も無視して通り過ぎてきてしまったくらいだから。
『(地域情報サイト)日南を代表する伝統芸能「泰平踊」は、飫肥に元禄の初めから伝わる郷土舞踊です。踊り手は元禄風の武士姿と奴姿で、踊りは武芸十八般をかたどった優雅さがただよいます。この踊りには二流あり、姿勢の高低によって泰平の世の象徴である鶴亀を型どっているといわれています。高い姿勢(鶴)で舞うのが日南市泰平踊今町保存会、低い姿勢(亀)で舞うのが日南市泰平踊本町組保存会です。どちらも、深編み笠に着流し姿の侍と、鉢巻きに丈の短い着物の奴が登場し、太鼓や三味線の演奏に合わせて武芸十八般を型どり優雅に踊ります。』
この2つの他に、飫肥小学校でも踊りは引き継がれているそうだ。我々が見たのは、本町組保存会のもの。
泰平踊りは3曲演じられた。いかんせんコンビニ駐車場で行われているので、コンビニには容赦なく買い物客の車が入ってくる。だから我々は遠巻きにしてしか見ることができなかった。演じる人のコスチュームは二種類。笠をかぶったお武家と、その後に奴姿の人が続く。
踊りの最後に館長さんに呼ばれて、一緒に写真を撮ってもらった。恥ずかしかった。
3-3-4 旧山本猪平家(1113~1125)
本町は、江戸時代から昭和初期にかけて、商人町として飫肥杉を取り扱う材木商が栄えていた。旧山本猪平家は、明治40年代に豪商山本猪平が、隣接する小村寿太郎生家が没落した際に、土地を買い取り新築したもの。
ここに来て初めて先ほどの泰平踊りという物が、この地にとっては大事な踊りであったことに気がついた。そういえば,飫肥駅にもこの踊り姿の像が立っていたし、大きな絵も描かれていた。
ここで1個目の商品、「寿太郎巻き日向夏あん」をもらう。お茶の用意もあったので、そのまま旧山本猪平家で食す。仄かに柑橘系の味のする上品なものだった。
3-3-6 小村記念館(1140~1150)
小村寿太郎の記念館、ということで、彼の生涯と業績が紹介されている。
小村寿太郎らが非常に苦労をして、日露戦争を終結に導いた成果が、ポーツマス条約であるが、通り一遍の歴史やその業績の意味するところは一応理解はしているつもりだが、正直あまりなじみが無い人物といっては、宮崎の人に申し訳ないか。
ただこのことが縁でポーツマス市と日南市とは姉妹都市の関係にあるという。彼の等身大の写真があったが、156cm程度の小柄な人だったそうだ。(今の人で言うとナインティーナインの岡村氏とおなじとか。)
「日本の近代外交の礎を築いた明治の外交宮・小村寿太郎侯(1855~1911)の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動及ぴ世界に飛躍する人材育成に寄与することを目的に平成5年開館しました。彼の生い立ちや遺品、ポーツマス会議に望んだ時の様子を再現した絵などが展示されています。(日南商工会議所)」・・・ここはまた地元の国際教育の拠点にもなっているらしい。
3-3-7 飫肥城大手門(1155~1158)
飫肥城は、3度の地震のために大規模改修を余儀なくされ、新しい館となる建物は元禄6年(1693)に完成。飫肥藩伊東家の中心施設としてきたが、明治維新間もない明治2年(1869)、伊東家が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊された。
取り壊された大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元された。
まだ新しい物だが、見た感じはそれほどでも無く歴史を感じることが出来る。やはり城に大手門はつきものだろう。
3-3-10 飫肥小学校(1221)
松尾の丸の正面から見えるのが飫肥小学校。城内に学校がある。藩校時代からの歴史を感じさせる。
実際飫肥小学校のホームページにはその歴史を、『享和元(1801)年11月、伊東祐民が八幡馬場明智院跡屋敷を「学問所」とし、これが飫肥小学校の始まりとなります。
天保元(1831)年には、伊東祐相が改築に着工し、翌年「振徳堂」と名づけられ藩校となりました。振徳堂の教授には安井息軒などがいます。また、振徳堂では、小倉処平や小村寿太郎が学んだこととしても有名です。
明治6年に「飫肥小学校」として認可され、その後「飫肥高等小学校」や「飫肥尋常高等小学校」「飫肥女子尋常高等小学校」、「飫肥国民学校」と名前を変え、昭和22年「飫肥小学校」と現在の名前になりました。
飫肥小学校は、振徳堂から数えると206年、飫肥小学校になって134年の歴史があります。』
雰囲気を壊さないように工夫しているようだが、ずいぶんと大きな学校だった。
3-3-12 大手門(1227)
一回りしてまた大手門へ出た。noriが見逃したといって写真を撮ってきたのだが、先のjunのと殆ど同じ画角だった。
3-3-13 豫章館(1227~1240)
明治2年(1869)、飫肥藩主の伊東祐帰が知事に任ぜられて、城内よりこの屋敷に移った時、邸内にあった数百年を経た大楠にちなんで豫章館と名づけた。
邸内は明治初年に造られた主屋で、飫肥藩の典型的な武家屋敷。
中に入ることは出来ず、家の周りから内部を伺うのと,庭を見ることが出来る。庭園は往時のそれをとどめている。また母屋脇には苔むしたエリアがあり、この後行った服部植物研究所の創始者服部新佐を育てた土地だなぁと思った。園内の暖かい場所では早くも水仙が咲いていた。
3-3-14 商家資料館(1247~1258)
商家資料館の位置する本通りは、飫肥城下町の商人通りとして栄えたところで、江戸時代の豪商妹尾金物店を移築復元して、資料館とした。
建物は明治3年(1870)に当時の山林地主の山本五兵衛が建てたもので、木造一部二階建ての白漆喰壁の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉を使った豪壮な建物となっている。当時の商家及び商人たちが使用していた道具約250点を展示している。
ここでクーポンを使った見学場所は終わりになる。
ここで3つめになる「姫アイス」を頂く。昔ながらの味、ということだが、シャーベットのようだった。
3-3-18 服部植物研究所(1323~1400)
次も館長さんお勧めの所。世界で唯一の蘚苔類専門の研究機関だそうだ。宮崎県にはコケの種類が多いということで、コケの研究をしていた服部新佐という人が創設した。この人は「ナンジャモンジャゴケ」というのを発見して世界的に有名な人だとか。・・・著名な学者だったのだが、家業を継がなければならず仕方なく、研究所を作るという条件で故郷に戻ってきたと言うことだ。
まずビデオで彼の業績を見た。その間に、コーヒーとキンカンをごちそうになった。ここの人もえらく親切な人だった。ちなみに館長の話だが、その方にひょっとすると館長ブログにあなたたちのるかもと脅された。
その後で2階に上がって展示物を見た。中に小学生の自由研究が張り出してあったが見事な物だった。ここの指導もあったのだろうが、とても小学生とは思えないできだった。
3-4-2 青島神宮
鳥居をくぐって行くと、すぐに神社へ着いた。すぐにnoriが聖徳太子も食べた古代の「蘇」という看板を見つけて物欲しそうにしていたが、奈良で買ったのももてあまし気味だったのでjunが断固拒否。先へ進んだ。
まず手を洗ってからお参りをした。
その後、細い通路を通って元宮へ。まるで原生林の中を歩いているようだった。そこでもお参りをした。こんな所にもしっかりと商売物を売っていた。いや、そんなことを言ってはいけない。お参りをする人の必需品と言うべきだろう。
しかし、この神社、そのようなお参りする人の心理をうまく付いたもの、というかお守りやおみくじの種類が多種多様で目を惹いている。絵馬も目立つところに飾られている。その中に巨人軍のもあったので、junがパチリ。
3-4-4 帰路
また植物園の中を通って駅へ向かった。バスもないかと調べたのだが、何せ本数が無いので、やはり電車にした。駅には水仙が咲いていて、やはり暖かいのだ。
junが用を足している間に、noriは電車の確認をした。で・・・、この時間、南宮崎までしか無いことが発覚。noriは大慌てで色々と宮崎へ戻る方法を調べた。タブレットで調べたが接続が極めて悪い。南宮崎隣接の宮交シティーから何とかバスで帰れそうだと安堵したが、それでもダメならと、南宮崎の飲み屋のクーポンまで調べたのであった。
が、実際には、南宮崎駅で向かいのホームに止まっていた電車が連絡した。乗り換え時間が無い連絡だったので、タブレットでは調べきれなかったらしい。おそらくは地元の人しかいないので、皆悠然と構えていたわけだ。
青島は無人駅だったので、支払いは改札口で直接駅員に現金を支払った。
3-6 夕食:ビストロ コダマ(1850~1940)
noriがピザが食べたいというので、ホテルの隣のビルのイタリアンレストランへ行った。宮崎名物だけ食べていると飽きるので、ちょっと趣向を変えたいという趣旨だ。
メニューを見たら品数があまりなくてちょっと失敗したかなと思ったが、一通りの物を注文した。ワインは一番安いのにした。そこで、noriが万歩計を忘れたことに気がついてホテルまで取りに戻った。近くで良かった。
最初にお通しが出てきた。宮崎ではこうしたレストランでもお酒を飲む場合にはお通しが出てくるのだろうか?不思議だった。
シーザーサラダは、目の前でチーズを削り入れてくれるタイプだったので、沢山お願いしたら、野菜が隠れる程入れてくれた。でも、ドレッシングが無くてチーズだけで食べるの?という味も素っ気も無いサラダだった。
ピザは4種類のチーズというのを頼んだが、こちらはチーズが本当にたっぷりで美味しかった。ただ、ちょっと小さい、いあやだいぶ小さかった。写真は半分くらい食べてから、撮り忘れたのに気がついて撮った。ゴメン。
4810円。食事後にnoriがカードで払おうと思ったら読み込んでくれないので、junのカードにした。が、この後もnoriのカード、他の店では何の問題も無く使えた。何だったのだろうか。