8月28日(月)

○アンコール・ワットの日の出
 今日は、アンコール・ワットへ日の出を見に行くと言うことで4時半モーニングコール。と言うことは、勿論則は4時ころから活動している。懐中電灯もリュックに詰めて用意完了。5時に出発。外は真っ暗なのに、ろうそくをつけて商売をしている屋台がある。アンコールワットの遺跡の堀に近いところまで車が進んでくると、しだいしだいに外は明るさが取り戻し始め、アンコールワットを包む森もシルエットとして浮かび上がるようになってきた。5時半アンコールワットに到着。登っていくのかと思いきや初めの門を入ったところで全景を楽しむとのこと。後で述べるが、アンコール・ワットの正門は東向きなので、アンコール・ワットのメインの尖塔は正門から見ると真東で、春分秋分にはその塔の真上から日が昇るという。我々は少し先に陣取ってナーガ(蛇の欄干)の切れ目を撮影ポイントにする。あいも変わらず日本人が大半を占めている。
 5時40分ころから少し明けてきたが、雲が多くて日の出は拝めそうにもない。6時10分まで粘ったが、すっかり日は昇ってしまったようだ。あきらめて帰る。ガイドによると雨期はあまり見えることが無いのだそうだ。11月ころが最高とのこと。(写真は朝日が出た場合の想像の写真)
 ホテルに戻って朝食。朝食もバイキング。そう代わり映えのするメニューではなかった。

○アンコール・トム(南大門)
 8時に出発。アンコール・トムへ向かう。アンコール・ワットより少し先。アンコールワットの掘りに突き当たると反対側にバスは進んだ。
 南大門前で下車。ここは物売りが多かったが、皆一列に並んである線よりこちらへはよってこない。さて南大門は大きかった。門の前に両側に並ぶ神々と阿修羅の蛇引きの様子(乳海攪拌)もよく分かった。門の前に何故こののようなものがあるかというと、門の部分以外は掘り割りが巡らされており、門の外(人間界)と門の内(神界)とをナーガ(神の使いのコブラ?)が取り持っているという構図からだ。写真は神様側(南大門外側から見て右側)の姿。残念ながら首が欠損しているものもある。
 門の裏表には3つの頭を持つ象の彫刻もある。そしてその門の上四方にはジャヤヴァルマン7世の姿を映したと言われる観世音菩薩がある。この顔の部分だけでも3メートルあるということだ。門を歩いて入り、振り返って写真をとった後そこから再びバスに乗る。アンコール・トムは高さ8メートルほどの壁に囲まれた都市で、全部で5つの門を持っている。その形はどれも似たりよったりらしいが、南大門は他のそれらとは違い大規模な修復も加えられているし、またその元々の保存状態も一番良かったようだ。

○アンコール・トム(バイヨン寺院)
 バスはバイヨン寺院を目指す。バイヨン寺院は期待通りですごかった。バイヨンは大きな都と言う名の一辺が約3キロにわたる王都のアンコール・トムの更にその中心を占める、丁度城壁の各門からT.5キロのところに位置する。第一回廊のレリーフは見事ときいていたが、まさにそのとおりで、よくも当時のままこんなにしっかりと残ったものだと感心。戦いに赴く王の姿や、戦闘前の勝利の祈りのために生贄にされた牛の姿や、海戦の状況などを見ることができた。
 また、朽ちかけた柱にもデバダ像やアプサラが沢山彫りこんであった。更に足場の悪い石段を進んで建物の中に入って行くと、暗い中で仏を祭っているところに出た。老婆が、入れ入れと言うので行われるままに入って上を見ると小さな明かりが見えた。明かり取りにしているらしい。考えた構造だ。どうやらここが中央らしい。
 更に進んでようやくテラスへ出た。中央の塔の下の回廊になった部分にいくつもある顔の中で、一番美しい顔と言う前で何枚も記念写真をとった。少し自由な時間があったのでぐるりと顔を見て回った。顔、顔、顔・・・である。厳かな気に自然になる。よくもまあこんなに沢山の顔を作ったものだと思うが、みないい顔ばかりだった。日本の人たちの手で調査修復が行われていた。
 それからガイドについて下りていったが、離れずに着いていないと迷子になるような道筋だ。外へ出たところで、後を振り返って全景を見るとこれまた素晴らしくて、ガイドの手招きを無視して何枚も写真をとりまくった。すごい。ここからの姿もまたすごいの一語だ。道路の向こうに出てから思った。我々はジャヤヴァルマン7世に見つめられていたのだろうか、それとも観世音菩薩に見つめられていたのだろうか。

○アンコール・トム(パプーオン・象のテラス・勝利の門)
 次はパプーオンの参道へ出た。パプーオンはバイヨン寺院の北西に位置する寺で、ここは単にそこから遠目に望むだけだった。ここに初めて両足が膝から下の無い物ごいがいた。ガイドの話によると軍人は保証金のようなものが支給されるが、民間人は地雷に飛ばされても何の保証金もでないとのこと。かわいそうだとは思うが、黙ってやり過ごす。それにしても彼らはここへどうやってきたのだろうか、誰かが連れてくるのだろうか、住んでいるのだろうか。パプーオンは朽ち果てた寺院で、バイヨンよりも高さがったと言うが、今は全くその面影はない。ただいま修理中の様子だった。
 写真を何枚かとって直ぐとなりに象のテラスへ。塀にずっと象の彫刻が続いて規模の大きさにびっくりした。王様の謁見のテラスと言うだけに気張って作ってあるのだろう。ここでも象の鼻のしっかりしているのがおもしろかった。この3つの頭を持つ象というのが神聖な象の形なのだそうだ。
 そこからまたバスにのって勝利の門へ。勝利の門も南大門と同じ形式同じくらいの大きさの門だ。同じように、この両側の神々と阿修羅の像がつらなるのだが、それらの像は無残に殆ど首が無い。皆盗まれたのだろうが、聞けば密輸をするとお金になると言うが、神々も泥棒には勝てないと見える。

○タケウ
 タケウでも撮影タイム。建築途中で王が死んだために未完成の寺院。外側からのみの鑑賞となる。その一角だけ残されているこじんまりした感じだ。しかしながら、ここは建築学上は非常に意味のあるものになっている。写真でも分かるように塔の部分と基壇部分とでは雰囲気が違う。下段はほぼ完成しているものの上段の尖塔部分はまだ未完成で、外側の基本になる石積みが行われたところで工事は停まっているのだ。これによって、アンコール・ワットなどの内部構造が自ずと推定することができ、研究対象としての価値も高い寺院だ。

○タブロム
 さて次が楽しみにしていたタプロム。遺跡を破壊する自然をそのままにしてあるところ。ききしにまさるすごさだ。大きなガジュマルの木が建物を喰い尽くすように噛み付いている感じだ。この木が倒れるときに周りの遺跡も破壊されるでしょうと話していたが、そのとおりだろう。といって、ここまで大きくなってしまった木を取り除くのも大変なことだろう。自然の驚異。(ガイドによれば、気を取り除くと他の寺院遺跡と同じになるから鳥の竿家内と言っていたが、真偽のほどは?である。)
 ここは日本人に好まれている場所だと解説書にあるが、鬱蒼とした寺域はなるほど神秘な感じを与える。寺院の構造が複雑なので、人の声が遮断されるために、静けさがもたらされ、神秘感が強まる。
 ここで日本お若い人たちの一団と出会った。彼らはビニールの袋を持っていた。寺院遺跡の掃除のボランティアをしながら旅を続けているらしい。こうした若者も存在するのだなぁと思いながらすれ違った。

○シエスタ・タイム
 その後土産屋へ行ったが、我々には関係の無い世界。ホテルへ戻る。服は汗でびっしょり。水もがぶがぶとかなり消化。湿度が高いのだろうか。あまりのひどさに則は直ぐにシャワーを浴び、順さんは洗濯にいそしむ。昼食は初めてセット料理。そのあとシエスタで一寝入り。

○アンコール・ワット(ナーガの歓迎)
 3時30分からアンコール・ワットの見学に向かう。どうも雲行きが怪しい。現地のガイドもあと少しで絶対雨が降ってくるなどと言う。そんなこと言わないで欲しいと思いながら、幾度通ったであろうかアンコールワットへの道を進む。見上げれば黒雲が今にも頭上へ来ようとしている。強も急峻な階段を登らなければならないから、雨は禁物だ。この時になって、添乗員が傘だけでなくカッパを持参するように指示した理由が判った。アンコールの外周の堀のところへ出たが、未だ幸い雨が落ちてくる気配はない。心だけが先へ先へと急ぐがバスはいつものスピードしか出ない。遺跡の入り口へ回り込んだあたりでバスの高さから中心の須弥山部分が掘り割りの彼方に顔を出すのだが、それを眺めるとその方向だけ異常に晴れている。バスを降りるとその理由が判った。丁度アンコールワットの上に虹がかかっているのだ。順さんに言わせればこの夏二度目の虹、そう前回の旅の終わりのCDG(パリ国際空港)で見た虹以来だ。おそらくはその背後ではすでに雨があがったところなのであろう。それともナーガは虹になって神界との橋渡しをするというが、今まさにそのときだったのだろうか。もちろんシャッターを何度か切った。

○アンコール・ワット(カンボジアの魂)
 だからといって我々の頭上が安心だと言う訳ではないので、西の門(王が入る門)を目指して急ぐ。西の門をくぐった辺りで現地ガイドが立ち止まり説明の時間となる。則はなんとはなしにこれは雨が来そうも無いなぁと言う感じをもったが、順さんはゴロゴロ鳴っている天空が心配で、ガイドの話も半分といった感じで、気も漫ろだ。最初に門の説明がある。我々が入ってきた門は西の門、すなわち今朝そうだったわけだが、春分秋分の朝日に立ち会えば須弥山の戦闘部分から朝日が昇るのを見ることのできる門。日本でも南大門という言葉があるように多くは南向きに建てられているのが正門(寺院を真正面にとらえた門と言う意味)だが、ここが西向きに作られているのは、王がアンコールトムからやってきてぐるっとわまらなければならないのを避けるためと言うことだと説明があった。この関係は甲乙丙低の「甲」の字で説明できる。甲の中心部分の田の字の部分がアンコールトムである。他の字の従事のクロスする部分がバイヨンだ。このバイヨンから下に伸びている道が南大門である田の字の部分と交差するところを突き抜け、甲の字を書いた際の最後の止めの部分にあたるところにアンコールワットの西門があると言うあんばいだ。そこからアンコールワットは丁度アンコールトムの田の字の四分割された一つのの口の字の左一辺の中心を甲の字の止めにつければ、アンコールワットとアンコールトムの関係は完成する(以上は則のオリジナルな説明)。
 さて西門の説明が長くなったが、実は西向きの門はこれだけではない。須弥山に対峙した門は王の門であって、その両わきには王妃の通る門がある。更にその外側には象の門がある。その他の東と南北の辺にはそのほぼ中心にそれぞれ一つづつ門があるそうだ。それから外壁の内側の装飾に話が移る。おびただしい数のデバーダーが描かれている。更に飾り窓。飾り窓と言うのは、丁度算盤の玉を少し押しつぶしたようなものを沢山串刺しにしたものが縦に5・6本並んだもので、最初よく判らなかったが、回廊に進んで飾りで無い窓があり、その意味が判った。それにしても良く判らなかったのが、「心」と「魂」の関係だ。現地ガイドの説明では、アンコールトムはカンボジアの心で、アンコールワッットはカンボジアの魂とかいっていたが、どうも判別がつかない。ともかくここでの雷の音を聞きながらのやや長い説明の最後の言葉が印象的だった。かいつまんで言えば、長い内戦中も、ポルポトやベトナム兵がいても、世界の人々はカンボジアを忘れない、地雷が残っていても国が疲弊してもいつの時代にも困難をしつつも世界の人々はカンボジアにやってくる。それはこのアンコールワットがあるからだ。これが無ければカンボジアは忘れ去られてしまっているだろう。そしてこのカンボジアの魂は今国旗の中に鮮やかに生きている。彼が言いたかったのはおそらくは、魂と言うよりは、カンボジアの象徴、カンボジアの諸民族間の団結(統合)の象徴とでも言いたかったのではないかと思っている。

○アンコール・ワット(第一回廊)
 さて西門から第一回廊への200メートルほどのアクセス道路をとおり、第一回廊に入る。この第一回廊はレリーフで有名なところだ。最初にインド伝来の(「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」と言うインドの古代2大サンスクリット叙事詩に由来する)戦いの場面。レリーフというより浮彫りという言葉がぴったりなようにくっきりと様子が分かるように残っている。以前は触ってみることもできたと言うが、今は近づけないようにロープがはってあった。次も戦いの場面。王を中心に進んでいくのだが、ガイドが、「昔はこうやって王様も戦いに行ったのに、今の王様は座っているだけ。」と言っていたのが、彼らの不満の一部かなと思った。(そうだよなぁ、シアヌークを見ればそう思う世なぁ。)
 「マハーバーラタ」の中心テーマは、2つの王族の争いである。名門バラタ族の王子ドリターシュトラには100人の王子があり、カウラバとよばれていた。また弟王子パーンドゥには5人の王子があり、パーンダバとよばれていた。この両者が王国の所有をめぐってあらそい、結局パーンダバの一族が勝利する。「ラーマーヤナ」は、文武にすぐれたラーマ王子の物語。美女シーターを妻とするが、継母に王位継承をさまたげられ、ラーマは追放の身となり、森にはいり、悪魔を退治する。しかし魔王ラーバナににくまれ、幽閉される。ラーマは猿の将軍ハヌマットと、猿と熊の軍隊の助けによって、妻シーターを救いだし、王位につく。国民は幽閉中のシーターの貞節をうたがう。シーターは潔白であったが、大地にのまれて世を去る。ラーマもやがて王位をしりぞき、天界にのぼる。(マイクロソフトエンカルタ99より)
 更に進むと、天国と地獄の場面。一番上は天国、つまり神様の世界。真ん中は裁定を受けに行く人々、つまり普通の人たちと言うことだろう。そして、一番下が、よくもここまで悲惨に書くものだと思ったが、地獄。拷問の場面が次から次にと描かれていて、顔を背けたくなるようなものもあった。(左図で上段天界、中断が人間界、そして下段が地獄と言うことになっている。)
 それから一番期待していた「乳海攪拌」だ。これもインドに由来するもの。阿修羅と神々の蛇(ナーガ)引きの様子を表したものだが、その力強さと表情の豊かさにはびっくりした。一人一人がとても丁寧に作ってある。神様の表情も柔らかくて、戦っているとは思えないほどに神々しさが感じられた。足を踏ん張っている姿もリアリティに富んでいて、その前で同じかっこうをしてみたが、まさに一番力の入る姿だ。写真を当然何枚か取ったのだけれども、どうもうまいのがない、何とはなしに雰囲気だけ味わってもらうしかない。

○アンコー・ワット(第三回廊)
 さて第一回廊を見学してから第二回廊へ登り更に第二回廊(ここにはレリーフは無く、第二回廊と第一回廊の中間点、中に階のようなところに大きな仏像が何体か安置されている・・・ここの例の天竺と思い来た日本人の落書が有ったようだが見のがした)を横切り、第三回廊の基壇部分に出た。ここにはものすごい階段があると覚悟していったが、いやあ、ききしにまさるとはこのこと。首を上にして見上げる感じに階段があるのだ。
 昨日のプノン・バケンの第一段階の階段とおなじような急峻だが、長さが違う。途中で休める踊り場が無く、一挙に第三回廊部分まで直登する感じ。階段はいくつもついている。各辺に3箇所くらいある。その南面の中央の部分には手すりと幅50センチほどの階段のステップをコンクリートで塗り直したところがあり、大半の人はこれを使う。地元の子どもなどはゴムのスリッパがけで、体を階段と水平にしてぴょんぴょんと飛ぶように登っていく。慣れとはすごい。
 さて手すりのある階段は一つだから片側交互通行だ。我々の一行の元気(勇気)な人が登り始めた。もっとも男子高校生とおぼしきはその前に登っていたが。順さんはもう登ることをあきらめている。それを無視してカメラなどをリュックにしまい、身支度を則は整える。ここまできて登らないのはつまらない。順さんはまた恐れをなして、待っているという。その気持ちをなんとか前向きにさせて登はん開始。我々一行の登った組の後陣をはいしての登坂だ。なぜ、順さんが登る気になったかと言うと、端に階段を補充して更に壁に捕まって登れるような柵があったことで、安心感が生まれたものと見える。下は見ないようにして昇る。ステップの数がいくつあったのかも定かではないが、それでもどうにか手すりに助けられて、はいつくばるようにして登る。それでも必死の思いで一切下を見ずに、帰りのことなど考えもせずに登った。途中で則の足が順さんにぶつかって、思わず悲鳴をあげたら、階段途中に止まってみていたポリスに大声で笑われてしまった。やっと登ったときには、満足感は大きかったが、ひざはガクガク震えていた。
 しかし、登ればその甲斐あって周りが遠くまで見渡せる。ほぼ全景が分かるのだ。おまけに、遠くにしか見えなかった塔の細かい造りまで良く判る。デヴァダ像も沢山見れた。地元の子どもが、ここが一番綺麗、と言うところを教えてくれた。それにしても、日本人の観光客が一番多いと言うことだからなのだろうが、どこへ行っても小さな子どもでも少なくても一言二言は日本語をしゃべるので驚く。
 しばらく中央塔の十字回廊をうろうろした。第3回廊は田の字状になっており、その中心が須弥山で、田の四隅にそれより少し低い先塔が形成されている。回廊は所々修復中で、そのうちの一つには木の扉の残骸のようなものがついており、かつては木の扉が数多くついていたことが判った。ここにも子どものガイドがおり、盛んに話しかける。日本語でいうものも。日本語であってもあなた英語できますか?と聞くものなどさまざまだ。寝転がっている少し大きめの子どものサンダルが落ちていたので拾ってやると、「どうもありがとうございます」と返されたのにはいささか驚いた。さすがに高い位置にあるだけに涼しい風が吹き抜ける。だんだん人が多くなってきた。彼らは皆西側に集まってくる。なぜかというと、ここから夕日を眺めようと言う算段なのだ。しかし強も夕日は地平線ではなく雲間に沈みそうなので、我々は競争にならない時間にゆっくりと第三回廊から下へ降りることにした。

○アンコール・ワット(外観と帰路)
 それからもう少し第一回廊を見ようか迷ったが、日もかげてきたので全景を収めるために外へ出た。全景を収めながらゆっくりと帰り道を進んだが、そのうちに須弥山に登っていた連中が降りてきた。どうやらサンセットをあきらめたらしい。そのうちに急激にアンコール・ワットはシルエットになってきた。我々が最後だと思って急いでバスに戻ってみたら、何の事はない一番最初だった。
 帰りはまた同じ道をたどる。順さんはあこがれのアンコール・ワットを見れたので満足したようだった。ホテルへ戻ってからはまた例によって風呂のお湯がでないので、急いで順さんを風呂に入れた。最初お湯が出ていたのだけれども、直ぐに水になった。仕方なくそのまま入って、それから食事へいった。もちろんアンコールワットを模したカンボジア国旗と同様に、アンコールワットビールを3本並べたことは言うまでもない。後は寝るだけ。そうそう、まぁそれで我々が判断して良しとしたのだけれども、ここでは泊まっている間にシーツ交換はなかった。


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