8月29日(火)

○現地ガイドの憂い
 今日も午前と午後に分かれて観光だ。午前中には少し離れた場所にあるバンテアイ・スレイへ行った。それは、Kulen山脈の殆ど足下と言って良い場所に位置し、ホテルからは1時間半くらいの行程。ここはけっこうな悪路を進むことになる。インターネットの他のページなどでは、45分から1時間程度で着くようなことが書いてあるが、どうしてどうして、アンコールから北方二十重数キロも離れている上に悪路となれば相当の時間もかかる。我々のバスも昨日まで利用していたものと変更されている。これの方がスピードが出るというようなことを現地のガイドは言うが、サスペンションかな蜷kの問題なのだと思う。揺られつつも不思議なもので、その現地ガイドの言葉を子守歌に次第次第に皆まぶたを閉じ出した。則だけが一番前に座ったので仕方なく相槌を打つ。
 彼の話の要旨を書くと、第一にシアヌークは諸外国に3度もだまされている。政治的な駆け引きのまづさがこの国の今日を招いている。(この中でカンボジアはタイとベトナムに領土を割譲し今日なお返還されていないと言う説明をしていた。)第二には、ポルポトを悪く言うが、そうではなくクメール・ルージュの中のベトナム傀儡(かいらい)のやからが一番の悪さをしたのであり、ポル・ポトだけを悪者にするのはおかしい。第三には、現在の指導者の夫人はベトナムなど外国人ばかりで、次代の指導者はこの国の人でなくなってしまうのではないか、特にシアヌークが死んだときが怖い。(シアヌークの奥さんはベトナム人だ。)・・・こんなところだろうか。日本人相手だから言える話なのか、そうでないのかは定かではないが、彼もまた難民キャンプの出身で、そこで教育を受けたのだそうだ。彼の両親も二人の兄も皆戦争の犠牲者だと言う。故郷では妹三人が農業をしているが彼女らは文盲だという。そして、この国ではお金さえもうければ何でも手に入るから、教育に親ともども熱心ではない。お金がすべてと思っている。これはまずいことで、自分も教育で境遇を変えられたのであり、もっと教育に重点を置かなければならないと熱く語っていた。ここの部分だけは耳が少し痛かった。とはいえ、一番前に座った則と今一人の男性以外ガイドの話を聞いていた人はいない。みんな寝ていたのだ。特に則は殆ど差し向かい状態で、彼の熱弁を聞いた。彼の運命をその説明のまま鵜呑みにするとすれば、言いたいことは分からないでもない。

○バンテアイ・スレイ
 そうしてバスは近年(正式には1998年からとのこと)拝観が許可されたバンテアイ・スレイへ徐々に近づいていった。それにしても聞きしにまさる悪路だ。それでもみんな寝ているのは、疲れているからなのか、はたまた政治の話は格好の子守歌だったからなのか。ようやく10時半近くに到着。ここの見物は「東洋のモナリザ」と表現される女神デバダー像である。その美しさにフランス人が持ち出そうとしてつかまったとの言い伝えさえある。最初に参道を進む。寺は東側を向いておりその参道にはリンガが林立し、そこがヒンズーの寺院であることが分かる。
 寺の前の池の手前に出る。寺全体を眺める。ここは解説によれば寺の名前の意味は「女の砦」だとのことだが、それはこの寺の美しさ故に近代名付けられたあだ名のようだ。それはまた「クメール芸術の宝石」とも称される。アンコール王朝次代の摂政ヤジャニャヴァラーハと言う人の菩提寺なのだそうだ。さてこの寺は他の寺のように高い塔状の建物はない。他の寺院の経蔵と称されるような建物程度の高さのものしかない。遠望すると、赤色の砂岩でできているために夕日に照らされているようにも見える。これまでのものよりも全体がこじんまりとしているが、それ故すべてが手中に収められると言うこともあろう、その均整のとれた伽藍配置は建築学上も注視するに値する者のように思われた。
 リンガの林立する参道を越えて楼門をくぐるとシバ神の乗り物である牛が出迎える。しかしながらこの牛は殆ど破壊されており、わずかに残る足の部分の羊蹄目特有の爪でそれとわかる程度だ。建物にはいくつも細かい彫刻があり、よくは分からないが叙事詩の一節なども刻まれているらしい。猿の喧嘩の図を写真に収めた。今一つの特徴は建物の小面の矢の三角形の部分が三段階になっていることで、上から蛇(ナーガ)・ガルーダ(伝説上の鳥でインドネシア航空のシンボルにもなっている)・獅子の順であり、それぞれ水だとか風だとかの象徴を表しているとのことだった。
 件のデバダーは我々が教えられたのは左経蔵の壁面に着いているものだがどうも諸説有りと言った感じで、解説書にも左向きのそれもあり右向きのそれもある。まぁ美しいことに変わりはない。右の写真は現地の案内人がこれがそうだというので、まぁそれを信じてカメラのシャッターを切ったもの。確かにウエストは細いし、胸も豊かで、髪も長い。美人の形をしている。デバダー像はこのほかに見沢山あったし、アンコール・ワットにもおびただしい数あり、デバダー像だけを比較研究するのもまた趣があるというのは、順さんの指摘。たしかに、ここのは他のものよりも赤色の砂岩でありながら保存状態がよく、繊細な彫刻の状態がよく保存され今日に至っている。モナリザの微笑も謎を夫君柄いるとされているが、この多くのデバダー像のそれぞれの微笑みは何を意味しているのだろうか。
 さて帰りもまたもと来た道を引き返すしかない。仕方が無いが、ガタガタ道だ。帰りは解説もないから、さすがに帰路は則も寝入ってしまった。12時少し前にホテルに戻り、12時15分より昼食。後はまた午睡。

○マーケット見学1
 15時の出発に合わせ身支度をしていると、どうも外が暗い。案の定スコール状態で、激しい雨が落ちてきた。しかしバスは定刻に出発。
 午後の最初は途中にあるマーケットの見学だ。完全に地元民のものであり、生鮮食料品から日用雑貨までさまざまなものが並ぶ。しかしながらそこの天井は粗末な布によって支えられており、雨にさらされている地表はぬかるんでいた。降雨の中の見学だったので地元民の買い求める姿はあまり無かったが、生活臭ムンムンの場所だった。あいにくの雨ですこぶる足場も悪かったのでそうそうに我々は引き上げた。写真は焼きバナナを作る女性。

○ロリュオス遺跡群(ロレイ)
 午後の寺院見学はロリュオス遺跡群と名付けられ地域。この地域はアンコールに先立つ都の地であり、いわば今まで見てきたものの源流を無す建物が見られる地域。ここまでの道のりも午前中と同じような道路をじっと我慢で進む。しかもさっきのスコールでぬかるんでいるので、車も勢いスピードを更に落とさざるをえない。4時30分ころロレイに着く。ここはかつては灌漑用の大きな池の中央部分にあったヒンズー教の寺と言うことで、バスは丁度その池の部分に着いた。ここにはかなり崩壊の激しい4つの堂宇がある。すでに天井を欠いているものさえある。4つの堂宇はさいころの4のように並ぶ。
 そしてその4つの中心部分にはリンガが有り、一方だけ欠損はしていたが東西南北に樋状のものが配置されている。これはリンガの上に水をかけ、東西南北に水を均等に分けると言う形式上の灌漑の重要性を説いたものだろうと理解した。バスの到着したところはおそらくは東の門の辺りであろうが、そこの階段はリンガのある中心に向かっては行ない。ここは次ぎにいくブリア・コー遺跡の形状を書いておくとわかりやすいだろう。ブリア・コーはそれぞれ2つの堂宇をもつ3列6つの構造だ。六文銭の旗を横にしたものと思ってもよい。このうちの左と中央の4つだけが作られて、右の2つは作られなかったのがロレイらしい。したがって、池下であろう階段から登っていくと、右(完成していれば中央)の堂宇につきあたる。つまり当初の計画と完成時の姿に差があることを意味している。ここは現在仏教寺院が隣接しており、多くのお坊さんを見る事ができた。丁度夕食を作る時間とかで、その当番の坊さんを集める?音楽が大きく鳴っていた。見学が終わるころから雨がまた少し強くふるようになってきた。

○ロリュオス遺跡群(ブリア・コー)
 次はそのブリア・コー。伽藍と言うか堂宇の配置は前述の通りだが、保存状態はロレイよりもよい。ただ朽ちかけているのは同じで、中心の堂宇6つには近づくことは許されていない(立入禁止の札があった)。全体的(土台部分を含む)な破壊が始まっているということだろう。それもそのはずで、アンコールの遺跡中現在発見されている中で一番古いものなのだ。インドラバルマン1世の御代の寺院で(先のロレイもそうだが)、まだ尖塔と言うか葱坊主状の形ができあがる前の建築であり、ロリュオスのこれらはそれだけ時代的に古いものであることが分かる。作り方は煉瓦の上に石灰のモルタル装飾を施したスタイルだ。デバダー像などがきれいに残っているのが遠望できた。
 ここで特徴的なのは3列のそれぞれ前にシバ神の乗り物である牛が置かれていることだろう。午前中のバンテアイ・スレイのそれはかなりの部分が破壊されていたので良く判らなかったが、この牛は門の方向ではなく、堂宇の方向を向いている。シバ神の乗り物だから突き詰めればシバ神を祭る堂宇へ向いていて不思議はないと言うことになるのだろうけれども、こうしたものは普通デザイン的なものもあるだろう、外向きになっいるのが普通だから、少し違和感がある。これがヒンズーのスタイルなのか堂かは今後勉強しないとならないと感じた。

○ロリュオス遺跡群(バコン)
 ブリア・コーロの門前の道を更に進むと数百メートルで長いしかしながら人の高さほどもない低い、塀(へい)があらわれる。その規模はかなりのものだが、残念ながら雨で写真に収めることはできなかった。塀沿いに進み右折するとそこがバコンの正面の門になる。このバコンは我々のアンコール地方の寺院遺跡の見学の最後となるのだが、それにふさわしいものなのだ。この寺院は現地のガイドによれば試みの寺という表現を使ったが、つまりは環壕を伴った尖塔(ピラミッド)を持つ最古の寺なのである。試みのと言うよりは、アンコール・ワットなどの遺跡の原形となったものということだろう。少し急な階段はあったが、それは順さんをためらわすほどのものではなく、中央の尖塔の付け根部分に容易に立つことができた。これはこの寺が神々の寺であることを示しているように思われる。建立時の3寺の年数を記載すると、ロレイが893年、ブリア・コーが880年、バコンが881年である。ただし中央部分はその後11世紀のアンコールワットスタイルのもので、そもそものものはもう少し大きかったのではないかと推定している解説書もある。14メートルの高さにそれは載っており、さすがにそこからの見晴らしは良く、この寺の伽藍の配置などが手に取るように分かる。
 我々が尖塔の基壇に到着する頃には、我々一行よりも多いとさえ思われる子どもの群も登ってきた。このロリュオスの遺跡群には子どもの物売りが沢山いたが、ここの子どもたちの何人かは他の2寺院とは違う行動をしていた。それは草で器用に即席で編んだものを首輪や指輪にして観光客に巻き付け、それでいくばくかの稼ぎをあげようとする子どもたちだ。順さんもつかまったが、その女の子はじっと順さんに付いてくるだけで、強い具体的行動には出なかった。年長の物売りの女の子もふざけ半分で、ここでも決して豊かではないが貧しさだけではないカンボジアが見てとれた。やることがなければ我々の親の世代だってチョコレートをくれる米軍兵士に群がったのだから。

○マーケット見学その2とアプサラ・ダンス
 一旦ホテルへ戻ることなく、再びマーケット見学に行く。今度のは常設市場であり、既に片づけを始めていた。その一角には観光客相手の店舗もあり、そこは遅くまで営業しているという。一行の多くがそこで土産物を買っていたが、比較的安かったようだった。我々は街をぶらついたが、身の危険というものは全く感じることはなかった。
 見学の途中で激しい雨が降ってきた。バスで集合時間まで待ち、そこから「アプサラ」ダンスの見学に行く。タイの舞踊の見学と同様に、そこで食事を食べて、その後に鑑賞するというスタイルだ。このアプサラの踊り手達も、ポルポト時代に大半殺戮されてしまったので、現在ようやく息を吹き返しつつあると言うことだ。踊りはタイのそれと近似している。タイはテープによったが、ここでは子どもによる演奏(歌も)によって、踊りが演じられた。確かに踊り手は2〜30人いたが、陽か雨滴年齢が若い人が多かった。
 内容の解説というものがないので定かではないが、アプサラだけでなくココナッツダンスなどいくつかが演じられていたと見る方がよいように後で旅行案内書を読んで思った。どうもこの点など、寺院の様々な解説を含めて詳細なものが今回のガイド(旅行社)には少なかったように思う。このあたりは旅行社を選ぶ一つの基準になるかも知れない。(最後の写真はどうやら「フィシャーマン・ダンス」らしい。)


アンコール遺跡への旅のページへ戻る 飛んできた直前のページへ戻る