8月20日(水)快晴 35度

0545 起床
 暑くてうつらうつらしながらも起きたのはこんな時間。
 部屋は海側に面しているので、窓を開けると港を挟んで市街地が見える。今日観光する大聖堂の高い塔もはっきり見える。今日も暑くなりそうだ。

0715 朝食
 あまり種類もないので長居もせずに部屋へ戻る。荷物を整理してできるだけ持ち歩くのを少なくした。

0900 市街地観光へ徒歩で出発
 覚悟をして外へ出る。港沿いに歩きながら市街地へ向かう。すでに泳いでいる人がいて、涼しそうだ。

0910 観光(旧市街入り口、町役場・裁判所も兼ねる、聖ミカエル教会、聖マルコ大聖堂、司教座・内部は宝物館、マルコポーロの家、イコン博物館、自由時間)〜1200
 階段を上って旧市街の入り口にある門をくぐる(右写真・これは陸の門と呼ばれる城壁内に入る門)。とすぐ右に町役場がある。といっても裁判所等も兼ねていたので道路に面しては開かれた建物となっている。ここにコルチュラの紋章が刻まれていた。また、その横には国旗掲揚塔があって、それにはその時々の歴代支配者の紋章が刻まれている。
 次に聖ミカエル教会。則はもう暑さに参ったようで座り込んでいた。実はこの席はだてにある物ではない。別に観光客向けに作っているわけではなく、ここに座ってその昔裁判のような物をやった、その時の裁判官の役目を果たしたヒトの席だと思う。
 一番大きなのが聖マルコ大聖堂。ハサードの上には聖デオドールが、両側にはアダム(右側)とイブ(左側)が刻まれている。ここで珍しいのは、キボリウムという屋根付きの祭壇。12〜13世紀に造られたもので、こうして残っているのは非常に珍しいのだそうだ。また、司教さんの椅子も当時のまま。
 また聖歌隊席も用意されており早速則は記念撮影。
 次に司教座(宝物館)へ行った。ここにはこの地で禁じられているバルコニーが付いている。この町の道というのは、上のゲートの写っている写真で分かるように、この町のメインの通りでさえあの細さであるから、一般医バルコニーの建築は向かいの家のプライバシーの関係もあって、禁止されている。権力を持った者にだけ許されたものらしい。中には当時使っていた物や司教の衣服などが飾ってあった。信者には貴重な物でもそうでない物には装飾品にしか映らない
 それからもっとも古いとされる教会を通って一番の売り物「マルコ・ポーロ」の家へ行く。狭い路地を入っていった所にそれはあった。
 が、何とも表現のしようがない。ただ普通の家に表示とレリーフがあるだけなのだ。しかも中に入れるわけでもなく、ここがそうかと思うだけ。
 ところで、ベネチア国際空港は「マルコポーロ」の名がかぶされている。一般にマルコポーロはイタリア人(ベネチアのヒト)として認識されている。しかし、おとなしそうな現地のガイドさんもこのときばかりは強い口調で、しっかりと添乗員に説明をしたのかとチェックを入れていた。そう、コルチェラ島はマルコポーロの生誕落ちとしてクロアチア人には信じられているのだ。この地はやはりベネチアに従属していたからだろうし、何よりもの証拠としてガイドさんが語ったのは、ベネチアにあるマルコポーロの墓とされている所だ。この地域の人は出身地別に、埋葬されているのが通例らしく、事実なんとマルコポーロはクロアチア人墓地に埋葬されているのだ。
 それからまた細い路地を通ってイコン博物館などを見て自由時間となる。棒のような物が何本も映っているのは、お祭りの時に使うろうそく立て。イコン博物館ではイコンがとれなかったのでその代わりの写真。
 暑いのであまり動き回りたくはなかったが、もう一度「マルコ・ポーロ」の家に行きたいというので、そこへ行って写真を撮った。それからどうしようかと思っていたら、門の上に上っている人を見つけて、我々もと早速行ってみた。5クーナを払って上ったが、これは上った価値があった。町全体の様子が港も含めてよく見えた。
 時間が迫ったので、おみやげのキーホルダーを買ってから昼食の集合場所へ戻った。

1200 昼食 〜1330

1400 乗船
 帰りは行きと違った港から船に乗る。昼食後に乗船場まで移動。乗船場の前は丁度「海の門」のところで、則はこれを探していたといって写真を撮った。ここに箱の二つの門でしか、外部と結ばれていなかった。
 まだこないというのでふらふらしていたが、順さんが港の先の方まで行ってみると、そこに我々の荷物を積んだ船が止まっているのを見つけて、すぐに則に電話で連絡をした。そこでみんなが集まってきて出航。

1420 バス発
 バスに乗って出発。

1538 ボスニアヘルツェゴビナ入国
 帰りは行きと違う道を通るので、一時的にボスニアを通るのだという。で、今回3番目の国ということになる。入国と行っても特に何があるわけではなくほとんどそのまま通過。
 つまり、クロアチアの中にあって、わずか7qだけれどもボスニアヘルツェゴビナ領がある感じ。これはその昔に、海を持たなかったオスマントルコ軍が、クロアチアのローマ帝国からの圧力回避との見返りに割譲させた土地。それが今日までも残っていて、いわばドヴロヴニクのある地域は、クロアチアの飛び地状態になっている。この地域をネウムと読んでいる。
 もっともこの地域、一大リゾート地であり、その億の所有者はクロアチア人と言うことだ。

1550 ボスニアのスーパーで買い物 〜1620
 ただし、この国をさっと通過するのではなく、しっかりと足跡を残す。スーパーでお買い物だ。則はこういうのが大好きだ。早速チョコレートとビールを買う。チョコレートはおみやげ用。ビールは今飲むための物。ボスニアのビールだ。これはバスの中ですぐに飲んだ。
 いつの間にかクロアチアに入っていたバスはホテルへ向かってひた走る。(と書いたが、左の写真おところで国境を越えた。)
 途中、ネレトヴァ川流域のデルタ地帯を通る。ここは作物が豊富にとれる所で、ほとんどの野菜・果物を栽培しているという。見渡す限りの畑が広がっている。
 少し行くと川沿いに鉄道も走っていた。この国は地質の関係で鉄道を通させるのが難しいそうでこれが唯一の鉄道だと言っていた(ような気がする)。

1700 湖沼群
 しばらく行くと、湖群に出会った。全部で6つあるらしいが、渓谷の間に見え隠れする湖は何度シャッター切っても飽きることがなかった。ただし、ここではバスは停車が出来る所がないということで、そのまま一気に走り抜ける。何とも残念なことだ。結構な観光資源だと思うのだけれども。
 更にバスは進んで、一カ所だけ停車した。ここは海岸線の中で、特に美しい所、そして海岸線おところで海中からわき水が出ている所と紹介された。水がわき出るというと戸rは定かには分からなかったが、とりあえず記念撮影はしておいた

1900 ホテル着
 ホテルへ少し遅めの到着となったので、部屋に入る前に食事をとった。

2030 入室

2230 就寝

ホテル マルヤン 227号室
 このホテルは旧共産国時代からあるホテルで、昔は超一流だったけれども今は設備も悪くて人間は昔のままの愛想のなさとサービスの悪さなので、覚悟しておくようにと言われたが、あまりそんな感じはなかったように思う。
 部屋は特にどうと言うことはなかった。ただ、隣のガソリンスタンドのにおいが気になったが、それとてドアを閉めていれば気にならない程度のものだ。遠くに明日訪れるスプリットの街の灯りが見えた。

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