12月29日(土) ベニス観光

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 今日も出発は早い。7時30分だ。則はまだ時差ぼけなのだろうか、2時前には起きてしまった。日記を書いていると結果的には順さんまで起こしてしまった。ところで今回の旅行から再びデジカメが登場。何故かと言えば、則の写真が捨てるものが多いので、それでもったいないのでデジカメとなったわけ。その整理などもした。コンチネンタルスタイルの朝食は7時からだ。我々の普段の生活では元々朝は食べないので、コンチネンタルスタイルの朝食でも全く問題がない。だいたいこれまで見てきた国々の中で、一番しっかりと朝食を食べる民族というのは日本人ではないだろうかとさえ思う。国内旅行などで、ホテルのバイキング形式の朝食が人件費がらみでだろう増えているが、そうした場面で年輩の特に女性の食欲を見ていると、感嘆に近いものを覚えることがある。今日の観光は最初に二つの建物とベネチアングラスの工房を見て、イカスミスパを食べてゴンドラを経験した後、一路フィレンッェへ向かう。4時間くらい高速でかかるらしい。

 さて朝の出発はあっという間で、気が付いたらもうバスは発車していた。我々が宿泊したのはベニスの島々の対岸に位置している。だからまずフェリー乗り場にいかなければならない。ベニスの町は自動車がない町だ。交通はもっぱら海上交通、昔はゴンドラ今はモーターボートやフェリーに頼っている。そして島と島の間は運河で区分けされており、その間を大小の橋で結んでいる。したがってベニスを構成する島々には自転車さえも皆無といって良い。唯一の例外が一番手前にある島で、ここには列車まで乗り入れている。我々のバスもこの島まで行き、ドゥカーレ宮殿やサンマルコ寺院のある島までフェリーで渡る。今日半日のベニス観光は、ここでいったんバスとはお別れになる。船着き場は何日か前に降った雪がアイスバーンになっていて少し怖い思いをしながら、船に乗り込む。天気が良い分相当の冷え込みで、かなり寒い思いをした。船ではだいたい外に立っている則だったが、さすがにここでは船内に閉じこもったまま。到着した船着き場は既に、水面すれすれのところにあった。冬場であること、月齢が満月に近いことなどで、海面が上昇しており、その分運河の水面も上昇している。

 最初に溜息橋と呼ばれている橋を見る。運河にかかったこの橋はドウカーレ宮殿とその対岸に作られた牢獄とを結ぶもので屋根がつき外が見える小さな窓が開けらられている小橋だが、より正確には実は岸辺側から見る者には橋からは溜息は聞こえてこない。この橋は、ドゥカーレ宮殿の中にある裁判所の中の犯罪人専用通路を通って来た者が、今世の別れをこの小窓からして思わず溜息をつき後悔の念を抱くというわけだが、その裁判所の部分からここまで来た犯罪者の通る通路は反対側にあるのだ。こちら側の通路は裁判所関係者、つまり牢役人や弁護人の通った方。つまりこの橋は左右二つの通路に厳然と区分けされた内部構造を持っている。

 それから観光客用のトゥカーレ宮殿の入り口へ通過しサンマルコ広場へ向かう。時刻は8時半近かったと思うが、このころになると水が少しずつ岸辺からはい上がってきてた。サンマルコ広場の石畳には穴があいているところがあり、そこから水が噴き出している。これはかつて運河だったところを埋め立てた部分で、今でもそこはたぶん地下の部分では水路のようになっているからだろう。つまりはサンマルコ広場はこの日の満ち潮の時間の9時45分頃まで徐々に水が埋め尽くすようになってくる。この現象は先に書いたように、冬の特徴的な、それも運良くというべきか満月近くだったのでより著しく現れる時期だったようだ。このころになると広場や岸部周辺には完全に木道が出来上がる。高さは50センチに見たない程度だが、尾瀬沼のように住民や観光客の為の通路が出来上がる。

 その通路を通って少し戻ってドゥカーレ宮殿の見学者用の岸辺に向いて作られた入り口に向かう。この宮殿は、かつてのベニスの貴族、彼らはいわば世襲制の国会議員集団で、基本的には彼らの中にはカーストはなく、互選によって毎年上院議員やら裁判官の任に当たる者やらを決めていたようだ。ただし、その頂点に立つ大統領のような職だけは一度選ばれると死ぬまで保証されたとのことだ。つまりは限られた階層の中だけではあるが、完全な形での民主主義が実現されていた商都であったらしい。またドゥカーレという言葉だが、デュークつまりは今風に言えば大統領とも言うべき職のものが君臨した宮殿といったい見合いのものらしい。8時45分の開門を待つ間も水は上がってきていた。現在のドゥカーレ宮殿は、かつての宮殿の内部を形成していた様々な部屋の壁面を彩った著名な画家やその指導の元にその弟子たちが描いたおびただしい数の油絵や、備えられていた甲冑や剣や盾あるいは大砲や銃(中には銃身を複数もって手動ではあるが回転しながら連射できる元祖機関銃とも言うべきガトリング銃の原型とも言うべき火縄銃などもあった)が展示されていたりという感じで、一大美術・博物館となっている。展示室には我々はトップを切って入る。誰も前にいない一番に見学するのは気持ちがいいし、第一精神的にもゆとりを持って見学が出来る。例えば階段だが、モザイクの仕掛けで上から見ると菱形の文様が浮き出て立体的に見えるのだけれども、沢山の人の中ではそのようなものはおそらくはゆっくり見ることは出来ないだろう。残念ながら撮影禁止なので写真には撮れなかったわけだが、すばらしい絵画類を初めとして貞操帯に至るまで数々を見学した。そしてその最後の方で先ほど書いた裁判所を見た後、溜息橋を往復して牢獄を見学した。往復しなければ牢獄を出られないから・・・というのは冗談で、実際には釈放されたり刑期が終わった者は別に出口から出たらしい。ところでこの裁判所は、シェークスピアの戯曲ベニスの商人の有名な裁判場面に出てくる所であるが、前日のロミオ&ジュリエットの原型の話のベローナとともにシェークスピアはこの地を訪れてはいない・・・というよりもそもそもイタリアの地を踏んだことは小がいなかったらしい。(写真右側がドゥカーレ宮殿で、左がサンマルコ寺院。画面左下に水が迫っているのがわかる。)

 ドゥカーレ宮殿に隣接してサンマルコ寺院がある。もともとドゥカーレ宮殿に君臨した歴代元首のプライベート寺院の性格を持っていたものであったが、今はベニスの人々の祈りの場所になっている。このころ水の進入は最高潮に達していたようで、通路を踏み外すと大変なことになるほどになっていた。寺院の外装はまるでトルコのようだ。というのも、これを建築した当初その技術がベニスにはなかった為に中東の人々とその技術を導入して作られた。だからもちろん教会だから十字に作られているわけだけれども、例のネギ坊主のようなキューポラが合計5本立ち並ぶという、キリスト教とイスラム教の融合した形式になっている。だからトルコの一部の一部のイスラム寺院の似ていると感じた。現在の国際情勢に思いを及ぼすと、歴史は今も動いている感が強い。かくも中東つまりはイスラムの世界がかつてはヨーロッパすなわちキリスト教世界を歴然と凌いでいたことがここでも再確認されたわけだ。中は中でまた日本の桃山時代(だいたいこれが建てられた当時もそのころだったような説明を受けた)の城郭建築のよう。壁面のほとんどがモザイクで埋め尽くされているのも驚愕だが、その描かれている宗教的なテーマの背景は金色になっている。これはガラス・金箔・ガラスというサンドイッチ状態のもので構成されており、おそらくは完成した当時はまばゆいばかりのものだったように思う。今もその往事の姿をしのぶことは十分に出来る光をそこからはなっている。ここでも小集団の強みで、小さな声ではあったが十分な説明を聞くことが出来た。それによれば、サンマルコはマルコ伝のマルコで、もちろんチビマルコではない。当時エジプトにあったマルコの遺体、すなわち骨を安置する為に作られたもので、これが寺院の名前の由来。仏舎利ならぬサンマルコ舎利を祭壇中央に安置している。このあたりの発想は何となく仏教的な感じがしないでもないが、キリスト教の発想とそれとは同じものなのかどうかはわからない。

 サンマルコ寺院を出て、ガラス工房に向かう。ベニスのギルドたちが作り出す芸術はベネチアンガラスとして我々も言葉としての認識を持っていた。つまりは、サンマルコ寺院はそうした意味で中東と欧州の世界の融合物でもあるといえるだろう。特にハデ好きなベネチアの人々が誇ったのは、炎色反応にも似た化学反応によってもたらされるガラスの着色技術、なかでも赤の見事な発色は有名だ。これは金(といくつかの金属)を混ぜることによって達成されているもので、すばらしい芸術性を持ったもの。工房自体はショウ的な要素のあるものであり、実際の工房はムラーノ島という島にあるのだが、日本の様々なところにあるガラスの工房もこうした地域からの技術移入によって成立しているものなのだなぁという印象を持った。ここで、赤のお茶セット(茶碗6個とボトル)を購入。(写真はそのガラス工房&ショップでの順さん。)

 そこからサンマルコ広場に戻り、広場の寺院側の橋に立つサンマルコ寺院の鐘楼に登った。ここのエレベータ代は10000リラで、まだここだけはユーロ表示はなかった。ここはまた本当に登って良かったと思わせるところだ。幸いにして天気もすばらしく、360度の遠望がきいた。教会だけで構成された島や、行き交う船や海岸線なども見ることが出来たし、今見学してきたばかりのドゥカーレ宮殿やサンマルコ寺院を直下に見下ろすことが出来た。町の家々の屋根は、オレンジ色に統一されていて、これまた見事だった。

 さてそれから我々は広場に向かい合って二つある元祖カフェとも言うべき喫茶店の一つ、カフェフローリアン(こちらの方が古いらしい)に入ってエスプレッソを飲んだ。空腹時に飲んだので、則などは結構胃に来た。その店でしばらく添乗員さんを含み5人で歓談した後、いったん解散となった。

 我々は最初にサンマルコ広場からサンマルコ寺院の特徴ある外形を遠望して、また写真に収めた。特にサンマルコ寺院の壁面に飾られた金色の羽を持つライオンが見事だった。この金色の羽を持つライオンは想像上のもので、ベニスの象徴とも言うべきモチーフであり、至る所で目にすることが出来るが、残念ながらその殆どが後世のもの。ナポレオン侵攻時に、徹底的に破壊されてしまったらしい。

 それからリカルト橋を目指した。そこから橋に至る入り組んだ路地路地には、土産物やらDCブランドの店やマクドナルドやディズニーショップといったものまでが並んでいた。道々の要所には案内の矢印が出ているので間違うことはほとんどないが、この町の現在の姿の凝縮がそこにあるように感じた。橋は一大観光名所で、多くの人がその姿や行き交う通船やボートの間をかいくぐる観光ゴンドラを眺めていた。我々もその仲間入りして、しばらくは太陽の当たる側でボーとしていた。

 しばしの休息を楽しんだ後、並んでいる店店を見ながらゆっくりと再びサンマルコ広場に戻り、今度はドゥカーレ宮殿の外観を写真に収めた。まだ少し集合時間の12時45分には早かったが、指定されていた羽の付いたライオンの塔のところへ向かうと、同行のAさんとじきに落ち合い、やがて添乗員さんも来て昼食所へ向かった。昼食はイカスミのスパゲッティーとヒラメのムニエルとデザートにティラミスを食べた。日本でブームになった頃のそれよりしつこくはなかった。

 昼食の後はゴンドラのクルーズ。我々の為に旅行者側でアレンジしてくれたコースは、結構マイナーなコースだったようで、途中にあまりゴンドラにあうこともなく、貸し切り状態の中をゴンドラは進んだ。洗濯物などが干してある場所や、ややどぶ川に近い臭いのする場所なども通り、運河の中に自動車道路の道路標識を見て、一通出口をどういう訳か遡るなどして、約40分を楽しんだ。そういえば、町々に警官の姿を見ることは出来たが、水上都市でありながら、我々観光客には気づかなかったと言うことではあろうが、水上警察とかは見あたらなかった。隠しエンジン付きのパトロールゴンドラなどというのもまたおつではないか。

 そしてゴンドラクルーズを楽しんだ後は朝のコースを逆にたどり、再びバスの中の人となった。これから一路フィレンツェすなわちフローレンスを目指して240キロほどを走りぬかなけらばならない。途中で石原伸晃行政改革担当大臣も視察したという(その場所ではないが)オートグリルという日本で言えばサービスエリアに一度立ち寄った。ここで我々はついにキッズサプライズの元祖を我々自身の手で発見したのであった。もちろん既に荷物はガラス工房でも買い物をしたので膨らみに膨らんでいる状態であるにもかかわらず相当数を買い込んでしまった。フィレンツェに入る高速を降りたところでバスはその名もチェックポイントとかかれている場所に立ち寄った。これは現代版通行税とも言うべきもので、この州の中を他の州のバスが動き回る際に徴収するその関所のような場所。タリバンや北部同盟も同様の施設を持っていたが、それを笑うわけにはいかない。このあたりも石原大臣は視察して、父親に報告すべきではなかったのか。そうすればまた新しい?石原新税構想も生まれたかもしれない。

 さてそれから今日はホテルにチェックインする前に夕食をとることになった。それはたぶん道順とか時間とかのからみからだろう。夕食は中華料理で、日本で言えば町の中華レストランという感じで、日本人観光客の他の一組もいたが、地元の人たちも来ていて、例の円卓を囲んでいた。ここではさすがにワインではなく、紹興酒を飲んだ。ホテルに着いて風呂に入ったら、疲れて鞄を広げたまま10時頃寝てしまった。

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