12月30日(日) ピサ、フィレンツェ観光

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 今日は日曜日ということではないだろうが、連泊するホテルでありながら8時30分というやや遅めの出発。午前中はピサの観光。ホテルからは1時間半程度かかる。夜どうも雨の雰囲気だったので、部屋から外を見ると道路は一部乾いている。ただ空には星はない。少し心配な空模様だと思っていたが、案の定バスが走り始めたとたんに空から嫌なものが落ち始めた。高速に乗る頃になると、風も相当出てきたし先行きが不安になる。

 さて、ピサであるが、人口10万足らずの現在では小さな町で、かなりの部分観光に立脚しているところがある。その歴史的なところは後に譲るとして、この町では大型のバスを旧市街に入れることを禁止している。そこで我々は設けられているバスの駐車場から、シャトルバス(バスの駐車料金に含まれているらしい)に乗り換えて、いわゆる斜塔のあるエリアに向かう。このころになると天気は荒れ模様の様相を見せてくる。しっかりと傘売りなども出てきて、風雨ともに強く、傘さえまともにさせ得ない状態の時も生じた。でもともかく観光をしなければ始まらない。

 ピサの町はその昔、十字軍の頃には海岸線が現在のおよそ10キロ程度先ではなくまさに海に面したあり、格好な軍港であったという。そのようなことは解説されて、そういえばそんなことを読んだことがあると思ったが、現在では海を見ることはない。観光の中心のピサの斜塔、これは100メートル超の鐘楼を建てるつもりが設計ミスで50メートルを越える程度で断念せざるを得なかったわけだけれども、この事実はそこが紛れもなく海か湖沼で地盤が弱かったことを示している。で、ピサの歴史に戻るが、ピサは後期の十字軍の成功で、巨万の富を得た。つまりは現在よりもかつてピサは歴史の表舞台に出た町だった。このピサが寂れたのは、十字軍の後の制海権争いに敗れたためだが、ちょうどそのころ戦利品などを使い建てたのが、ピサ様式といわれているロマネスクの一様式であり、現在○○○寺院の中心の4つの建物がドゥーモ広場と呼ばれる場所に集まっている。

 この寺院建築群は現在でも残る壁に囲まれた内側に存在する。4つとは、すなわち大聖堂(ドゥーモ)、その手前に位置する洗礼場、その左に位置する細長い戦士たちを初めとする墓の建物、そして大聖堂の先に位置する鐘楼。この鐘楼がいわゆるピサの斜塔と呼ばれているもので、この12月15日にようやく傾斜阻止工事が完成して一般公開されたばかり。

 最初に大聖堂を見る。大聖堂のファサードの部分には大きな扉があり、そこにはカエルともう一つの動物が下の方に描かれていてそこにさわると希望が叶うとか言う伝説があるらしい。が、今はさわれなくなっている。大聖堂の中では見るべきものは二つ。説教台と聖堂中心部にある巨大なシャンデリア。説教台はこの後見る洗礼場の説教台の作者の息子の作った作品で、芸術的な価値が高いと言うことだが、この日が日曜日ということで礼拝が行われており近づくことがかなわず、残念なことに詳細を見ることは出来なかった。今ひとつのシャンデリアも遠目にしか見ることは出来なかったが、これがガリレオが等時性を発見したシャンデリア。そう、彼はピサの大学の学生だったのだ。
 大聖堂をちらっと見た後、洗礼場を見る。ここは内部の撮影が許されている。したがって、説教台も間近に見ることが出来た。すばらしい飾りで、キリストの奇跡の場面が6つの足に支えられた8つの場面として構成されている。ここでは聖歌隊が時折歌を披露しており、すばらしいドームも音響効果で、しばし我々も聞き惚れた。またここは上部に登ることが許されており、斜塔に登る時間的余裕のない我々はその代償として丸屋根の部分まで登ってみた。上からは斜塔が雨の中にくすぶって見えた。それから今は博物館になっているというカタコンブの建物のを外観から眺めて、トイレ休憩。そのあと最後にピサの斜塔を、それに登っている人をうらやましく眺めつつ、見上げて暫しの感激に浸った。斜塔はもちろん鐘楼として造られたわけだが、鐘を鳴らすと沈下が早まると言うことで、殆ど鳴らされてないらしい。先を急がなければならない我々は、近郊の村に伝わる話が元になったというピノキオの人形を買い、徐々に歩きながら塔を遠望して、天気の荒れ模様の中の観光を終えた。バスに乗っている間だけ雨が降ってもかまわないと軽口をたたいていたら、シャトルバスを待つ間にかなりまたまた風雨がきつくなってきた。これも遠路斜塔見学に来た我々への、ピサの守護神の歓迎の方法のだったのだろうと思うことにして、ピサの町をこうして後にした。

 本来であればここで我々はフィレンッェに戻って食事となるが、特に天気の悪い今日は十分な光のあるうちに町を遠望したい。そこで昼食の時間を遅らせて、まずフィレンッェの町が一望できる高台に登った。山麓には高級住宅街が広がる静かな地域であったが、展望に指定されている場所は、荒れ模様だった天気にわらず、沢山の人々が訪れていた。またその広場にはミケランジェロの彫刻(コピー)が置かれていた。たぶんそのためなのだろう、ここはミケランジェロ広場と呼ばれている。ここで我々は今日徒歩観光するエリアをだいたい把握して、そしてその長さも覚悟するように暗に言われて、その広大な地域を把握した。このころ、嘘のように天気が一時回復し、雨があがり、傘無しでその遠望を楽しむことが出来たのは幸いだったと思う。(ミケランジェロ広場からのフィレンツェの町並み遠望。上の写真で左に橋が見えるがこの橋の右詰あたりがウフィッツィ美術館、その右の塔が市庁舎のあるところ、そして更にその右の塔と丸屋根が見えるところがドゥオモ。この後このあたりを散策した。写真をクリックすると大きな絵になるが結構重たいので注意。)

 下山して昼食場所へ。昼食後市内観光。最初に比較的小さな教会の脇を通る。この教会はメディチ家の何代目かを暗殺したバッツィ家の反乱者を処刑した一族の菩提寺のようなところらしい。そしてかなり歩いて大聖堂に出る。
 この町の大聖堂のファサード部分は驚嘆に値するものだ。ピサもすごかったが、商都のフィレンッェは主に軍隊は傭兵で構成されていたらしいが、ピサを制圧するだけの軍事力に勝るものをこれだけでも感じざるを得ない。圧倒的な質感となって迫ってくるし、見るものを平伏せさせるだけの力を感じる。この中心部分のキューポラはしばらくは建築が放棄されていたことで知られている。このときの説明では、そしてたぶんそれが現在の解釈と思うが、あまりにも大きく高い為に足場などのくむ方法が見つからなかったということだ。一説にはミケランジェロが巨大な虫かごとけなした為に、ブルネッレスキという建築家がこれを放棄し、後世ダニョーロという人が完成させたと言われてもいる。さて回りが迫っているから、鐘楼(ジョットが作った鐘楼だが完成まで彼は生きていなかった)も実際に高いがそれ以上に否応なく見上げる姿勢になり、その壮大さが増大される感じだ。ここの入場にも我々は行列を作らなければならなかったが、このドゥオモ、正式には花の聖母教会と呼ばれるが、そのすごさは中にはいるとこれまた驚きとなる。その外部の荘厳さとは全く反対に、内部はきわめて質素であり、ここがフィレンッェの町の祈りのまさに中心であったことが知られる。
 ところで、このドゥオモの前には「天国の門」という名の付いている門のある洗礼堂がある。ただしここに飾られているのはそのレプリカと言うことだ。

 さて内陣の見学を終えて、いよいよ今日の午後のメーンイベント、ウッフィツィ美術館の見学だ。ここを則は、プラド再びと呼んでいて、非常に期待していたところだ。ここはその昔は事務所、つまりメディチ家の統治時代にその統治機構の事務的な部分を司ってた建物で、その3階建ての最上階をいつの頃からかおびただし美術品の収蔵をする場所にしていた。そのためにオフィスを意味するイタリア語のウッフィツィが冠されている。そして、後世これがメディチ家最後の人からフィレンッェ市に寄贈されて今日こうして我々も見ることが出来る美術館になっている。ここの収蔵品もすごい。しかも一豪族の手によるわけだから、いかにメディチ家が冠たる一家であったかがこれだけを見ても想像が付く。建物の形状は、アルノ川沿いにコの字型に作られている。アルノ川にはこの建物からのびた二階建ての橋が架けられていて、その先もその回廊はおよそ1キロ先のメディチ家まで続き、もしもの場合の脱出ルートにもなっていた。(写真は美術館のまどから見た回廊部分。この回廊が橋の2階部につながり、更にそれは1キロ先の宮殿まで続いていたという。)
 さて、ウッフィツィ美術館であるが、ここは収蔵品が年代を追って下るように工夫され並べられている。解説の方によれば、従って、美術史的な観点からも鑑賞できるようになっていると言うことだ。つまり、宗教画に始まった絵画が、平面的なものから立体的なもの、単に金ピカなものから次第に人間的なもの、そして花の都の名の通りにフィレンッェの町に花開いたルネッサンスの時代に至るまでの道筋が、なるほどと我々のような素人にもわかるように構成されていた。しかし我々の目的は6つの作品に凝縮されている。ボッティチェリの対の作品、「春」と「ヴィーナスの誕生」、そして額縁まで本人の作品として今日まで残っているミケランジェロの「聖家族」、レオナルドダビンチの「受胎告知」、ラファエロの「ヒワの聖母」、そしてテッツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」。最初のボッティチェリの2作品は巨大な作だが、これまで感じていたよりも絵があせた感じを持った。また解説の人によれば、ラファエロの「ヒワの聖母」は現在修復中とのことで、その模写が掲げられていたが、ひどい作品で見ない方が良いという厳しいお言葉。でも聖母の顔などもあまりにも平面的であり、全くその通り。後でこの方の本当の職業を聞いたら、彫金師なのだそうだ。どおりで説明も鋭いと思った。このラファエロの「ヒワの聖母」はなんでもさらに悲惨な状態で、元々小さな断片に切り裂かれてしまっていたわけだけれども、修復自体に何度か失敗をしているらしい。公開はいつになるのかわからないような状態だという。(写真は夕暮れのウッフィツィ美術館。この両側が美術館で、一つ前の写真はこの後ろにあるコの字型の縦の部分から見た絵。つまりこの写真の右側をアルノ川が流れている。後ろは市庁舎。)

 さてそれからミケランジェロという革製品を中心とした店で、しばし買い物タイム。しかしながら、誘惑には負けずにここは我慢。そしてホテルに戻り、1時間ほど休憩してから7時から早めの夕食。この日は友人と会うと言うことで、同行のAさんはパスしたのでなんと添乗員さんと3人の食事。ワインを2本開けた。10時頃就寝。

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