12月31日(月) シエナ、アッシジ観光

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 いよいよ2001年も今日が最後。ついこないだミレニアムと騒いだり、2000年になれば飛行機が落ちるなどと言っていたことが嘘のようだ。2日間泊まったフィレンッェの町に別れを告げて今日はローマ近郊のポメツィアへ向かう。行程の走行距離は400キロを超えるという大移動日。

 朝の出発は7時30分。なんとまたまた雨だ。実は昨日、則はフィレンツェ観光をする前に、予言のように晴れると言ってしまったから大変だ。最初の観光地は、シエナという町の旧市街地域全体がゴシック建築だらけというか古い町並みを保存しているので世界遺産になっている、その町の観光。シエナは今では人口6万足らずという小さな町だ。さてまたまたバスは旧市街に入れないので、そして観光税を支払わなければならないので、町はずれに一端停車した。そこから少し行ったところに駐車場がありそこから徒歩になる。ちょうど城の外側の壁にあたる部分が見える場所だったが、なんと降りる頃には奇跡的に雨があがっていた。歩いて町の観光案内所のある場所で現地のガイドさんと待ち合わせて観光を始める。(写真はシエナの遠望。左がプブリコ宮殿=現市庁舎=で、右がドゥオモ。)

 シエナの町は先にも書いたようにゴシック建築の宝庫な訳だが、この町のガイドさんはこの町を、そしてゴシック建築をこよなく愛する人だった。歩いて行く途中に大きな交差点にさしかかると、そこはアメリカのファーストフード店などがある場所だったが、ここは見るべきものはなく私は嫌いだから先に行きましょうと、すたすた歩いていってしまった。無理矢理こうしたどこにもあるものをこの町に持ち込む必要性を感じないと言うわけだ。添乗員さんが後で聞いた話では、彼女はその持ち物のすべてがシエナで買ったものなのだそうだ。おそらくは彼女だけでなく、かなりの人々が彼女と同じような考えを持っているのだろう。そうした町への愛がこの町を支えていると思う。

 観光の最初はドーモだ。この町は実はフィレンッェに最終的には滅ぼされた町だが、その戦いのさなか総攻撃を仕掛けられたある時、建設途中だったこの町の教会に当時の市長が入り祈りを長い時間捧げたという。市民もこれに従った。その結果奇跡があり、夕方近くに敵の気がゆるんだところを攻撃を仕掛け見事勝利に導いたという言い伝えのある教会だ。フィレンッエもそうだが、この町も当時も今も金融業が盛んな町。この町の銀行の一つは、イタリアはおろか世界中に400以上もの支店を抱える銀行があり、もちろん東京にもWTCに支店があり、その支店にはすべてシエナの人が派遣されていて、さらにその収益の半分はシエナに還元されているということだ。だから、フィレンッエからここへの高速道路もその一つで、実はイタリアの高速は日本同様に有料高速道路なのだけれども、ここへのそれにはゲートがなかった。(写真左の道が上の銀行通り、右が下の銀行通りと呼ばれている道筋。)

 ドーモへの道筋にはそうした銀行の建物や、商工会議所のようなところなどが銀行通りと名付けられている道々に点在していた。雨上がりの石畳に足を取られながら、徐々に登っていくと、ドーモの前の広場に突然出る。ドーモの正面のファサードは、ピサの洗礼堂の説教台を作ったジョバンニ・ピサーノ(父親のピサーノの方)の作品で、少しロマネスク様式が混在する美しいもの。細工が細かいのがよくわかる。隣接してそびえる鐘楼は外観にある柱が下から0〜5本まで増えていくという、少し変わった意匠のもの。柱を細くすることで重量的なものを稼ぐことと先の方が広がって上まで同じ太さに見せようとする視覚的な効果をねえらったものか?見事だ。さて、ドーモの内陣の床は、大理石のモザイク画などでキリストの生涯などを描いている見事なもの。特にモザイクでなく、大理石を削るように掘ることによって絵を描いている部分が見事。また未完の教会だが、後の芸術家たちの作品が内陣にはいくつか存在し、例の銀行が、世界中に散らばってしまったものを買い戻している最中という。

 シエナのもう一つの見所はカンポ広場とその中でもひときわ目にひく市庁舎になっている建物とその脇にそびえるマンジャの塔と呼ばれる建物。マンジャの塔は高さが100メートルを超えるという高さで、カンポ広場を見つめている。カンポ広場はそのマンジャの塔のある市庁舎方向に放射が収束するように傾斜がつけられて、8つの線によって9分割されて、ちょうど貝殻のようになっている広場。ここで有名なのがパリオという競馬のお祭り。地域の代表とも言うべき人々がこの広場を3周ほどしてその栄誉を求めて競い合う。さて9分割されているこのカンポ広場の床面のデザインは、職業を9分類しその代表が2ヶ月おきにそれぞれ交代しながら市政を担ったという、この町の9君主制と呼ばれる独特の民主主義の象徴。またカンポ広場はゴシック建築の宮殿様式で取り囲まれた広場でもあるが、その9君主制の時に、各家には柱を立てそこに飾りを付けるべしと言う、今日の都市計画の最初の制度ともう言うべきものを制定したことも思い浮かべてみなければならない。ともかくその美しさは世界一の広場だろう。

 さてそうしたゴシックの世界遺産を抱えるこの町は、かつてはローマ巡礼の宿場町でもあった。この町にはフォルテパン、すなわち強いパンと呼ばれるお菓子がある。小麦粉にナッツや香草を入れた、感じとしては中村屋の月餅のナッツの入っている方を少し堅くしたようなもので、巡礼者の食事の為に日持ちよく工夫されたもの。フォルテは従ってここでは長持ちするというような意味。我々もそれを自由時間に買い求めに行く。そのころになると少し雨が落ちてきた。則の御利益もこれまでだろうか。カンポ広場に建ち並ぶ喫茶店の一つに入りホットチョコレートを飲みながら集合時間を待つ。このホットチョコレートも添えられた生クリームも美味であった。最後に再び坂を上りながら、坂の途中で町を遠望して観光をおおえた。

 次に向かったのがこの日の最後の観光場所のアッシジ。ここはシエナよりもさらに小さな町だが、サンフランチェスコ大聖堂のある場所。しかしながらここで大問題が・・・天候が急変し吹雪のような状態になってきた。則はまたまたみんなに天候はどうにかならないのかと言われてしまった。そこで、この天気が回復したら聖人にしてくれるかと尋ね同行者のAさんと添乗員さんに了解された。そうこうしながら、バスはアッシジへのインターンを降りたところで、トイレ休憩。ここで則は16時(日本時間1月1日午前0時)用に発泡ワインを買い5人分の紙コップをもらう。しかしアッシジまでの2時間では天気は回復する様子は見せなかった。最初に食事だったので、まだ時間はあるといいながら、町の中心部のレストランを探して入る。ここでのレストランは雰囲気も良く、また食事もよかった。またまたここでもワインを飲む。

 さてここで奇跡は起こった。なんとあれほどまでに、一時は吹雪くほどに、降っていた雪もみぞれ状の雨も止んだ。観光を始める頃には、もはや傘は必要がなかった。則は聖人になった。最初にフランチェスコが生まれたという、キリストの再来と呼ばれる一つの理由にもなっている、馬小屋後の見学。クリスマス直後できれいに飾られていた。そこでみんなの質問、セント・ノリはどこで生まれたのか?と。ノリは答える、ガレージと。

 最初に向かったのが、フランチェスコの生誕地に建てられた教会。地元では新教会と呼ばれている建物で、外に両親の像が建つ。父親の方は衣服を持ち母親の方は鎖を持つ。この像の意味するところは、裕福な家庭(生まれるときも何人もの医者が待機していたくらいに・・・にもかかわらず馬小屋で偶然産気づいた)に生まれながら、出家しようとる息子の衣服を剥ぎ鎖で幽閉しようとした父と、それを哀れんでその鎖を外した母を現している。

 次に向かったのが、キアーラ教会。この教会は、聖人にやはり列せられたキアーラという女性が奉られている教会。彼女は最初フランチェスコに恋をして(と言われている)、彼を追ったのだけれども、彼が教えの道にはいると彼女自身も修道女になり、人々の為に尽くすことによって(たぶん)彼への思いを昇華しまた代償行為を通し成就させたという物語を持つ人。彼女は60歳の生涯を神に仕え、今この教会の地下にミイラとなりサンフランチェスコの眠る教会と対をなす位置に埋葬されている。実際われわれもそのミイラを見たが、とても60歳とは思えぬ美しい寝姿だった。

 さてサンフランチェスコ。アッシジの生誕にそびえるお城のような教会。もちろんゴシック建築の建物だが、その内陣はシエナ派と呼ばれる画家たちの多くの作品で埋め尽くされており、祭壇中心部はジョットの師の作品によって構成されている。さてそのジョットの有名な「小鳥に説教するサンフランチェスコ」は教会の後ろの右側壁面に描かれている。彼は実際にこうした動物を含めた森羅万象をこよなく愛し、裕福な貴族の出ながら清貧のうちに暮らし感謝と奉仕の生活を自らの行動とともに示した人。地元の人たちには第二のキリストとさえ言われあがめたたてらつまれている聖人だ。彼は44歳で生涯を閉じたが、彼もまた教会の地下に眠っている(ミイラではない)。サンフランチェスコ教会は高台に位置しており、キアーラ教会のところも風景的にきれいだったが、ここの展望も劣らずにすばらしいものがあった。教会の外には大きなキリストの降誕のジオラマが展示されていたが、それのある植え込みにはT字型に刈り込みをされた植木がある。則が気が付いて質問をっしてもらうと、これはサンフランチェスコ独自の特別な形の十字架なのだという説明が返ってきた。行き交う道々にもこのやや崩れたようなTの字型をモチーフにしたものが多く売られていた。

 こうして今年の最後の日の観光は終わった。終わってバスとの待合い場所へ戻ってきて、少しだけ早かったのでバスを待ち、駐車場に入る前のバスにあわてて飛び乗った。飛び乗ると我々の関心はサンフランチェスコやアッシジへの別れの挨拶もそこそこに別のものに移動していた。そう、乗り込んだ時間が16時少し前。発泡ワインがAさんご夫妻、添乗のBさん、そして我々それぞれに行き渡ったその時に、則の腕時計がチチッと鳴った。日本人のみなさん、ハッピーニューイヤー。

 さて我々のバスはこれからローマ近郊まで足をのばす。運転手さんが頑張ってくれて19時を少し回ったところでホテルへ着いた。夕食後ホテルの部屋で5人でイタリアの新年を待つべく、忘年会をした。その後部屋に戻ったが、外では爆竹やクラクションで騒然な状態になって、ペアガラスの内側までとどろいていた。24時近くに就寝。

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