1月2日(水) ポンペイ、カプリ島観光

<戻る>

 今日はこのツァーの最大の見所を二つも含むメインの日。最初に向かったのポンペイの遺跡。既に我々もモヘンジョダロ・ハラッパ・エフェソスなどの巨大遺跡をいくつか見てきているが、ポンペイはそれらに劣らない巨大都市遺跡だ。既に順さんは昨夏に日本におけるイタリア年のイベントの一つポンペイ展に行っていたので、その興味は則以上のものがあった。則もポンペイ展の図録を見ているので、少しは前知識がある。興味は高まる。ポンペイにはナポリより30分程度の距離のところにある。バスは予定より順調に進んで、定刻よりも少し前に付く。高速も今日はトラックなどが少し走り始めているが、それでも十分流れていた。実は昨日はナポリの普段の混雑しているようなところを含め、元旦休日でかなりスムーズだっただけに、今日の交通量を心配したがそれは杞憂だった。しかしながら、入り口で我々は相当待たされることになる。何故か?チケット売り場のレジの機械がうまく作動していないらしい。何故か?そうこの遺跡も昨日は休みだったので、ユーロ切り替え第1日目だから。それでも少し待たされただけで、無事に入り口へ。我々は最初一番だと思っていたが、入場は二番目だった。このユーロ切り替えという状況を目のあたりにしたいというのも今回の旅の目的だったので、実際にこうした経験が出来たことはあう意味有意義なものだったと言えるかもしれない。

 実はこのツアーは一つだけ残念なことがある。それは何度かふれたように、正月休みを利用しているからどうしても元旦をまたがなければならず、元旦ポンペイが休みなので、その分今日にずれて今日の予定がタイトになっている。だからポンペイの見学時間も限られた上に限られていて、我々の見るコースもずいぶんと変わってしまったようだ。しかしこれも考えようで、その分他の団体が行かない方向を回ったようで、静かな中で見学をすることが出来た。おおむね一番古い時代の部分を中心に見学をした。とはいえ、最初は入場門から公共広場へ至る道筋は同じだ。ここは中央には神殿のようなものも見えるが、基本的には当時のショッピングセンターのようなものだったらしい。そして当時既に貨幣が使われていたと言うことだから驚きだ。

 それ

ここかから少し他の団体とはそれて、広場前の道をそのままわれわれは直進した。(多くは広場を奥の方に進んでいった。)道は比較的大きな、丁度メインストリートと言った感じの道で、なだらかな丘陵地帯をずっと先まで延びていた。その両側には家々が立ち並んでいたようであり、玄関口とおぼしきところの石には、引き戸のようなものが取り付けられていたと推定される線の筋のついた石がある家もあった。(上の写真左で、道の真ん中におかれた石は井戸の場所で、この道には所々にそれがあった。右の写真は引き戸の溝跡。)
 また玄関口にイノシシに吠えたてる犬のモザイク画描かれている家があり、既に犬はこの時代から人間の友達になっていたことが分る。それにしてもこのモザイク今もなおきれいに残っているのは、そこがある日突然に停止してしまった町であることを象徴しているかのようだ。いったいこうしたモザイクを家の玄関に並べるという身分は、どのような階級の人だったのか興味が湧いた。

  更に先に進んで少し横道にそれると、円形劇場があった。これはこのポンペイの中でも比較的古いものだそうで、どういう根拠かは聞きそびれたが、ここでは主に喜劇のようなものが演じられていたそうだ。この劇場は丘の斜面を利用して建てられているが、これがやがてローマのコロッセオ(円形競技場)のような平地でも可能な形に発展していったのではないだろうか。今ひとつ大型の円形劇場があると言うが、それがどういうものなのか興味がそそられた。

 またわれわれは別の道を選択し、お金持ちの家というのに入った。玄関の前には椅子が作られていて、多分ここで下人達は、或いは訪問者は、一旦待ったものなのだろう。この家の圧巻は、それぞれの部屋にも模様などが描かれているのだが、奥の方の部屋の壁に描かれたフレスコ画は見事だった。保存状態よく残っている。まるで高松塚古墳と言った感じだ。いくつもの部屋が他にもあり、交易なのだろうか、人々の交流がそこで行われていたことを物語っているように感じた。現に玄関直ぐのところに水場のようなものがあり、量を採ったか足などを清めたかに使われたように思う。

 この後当時の生活の一端をかいま見るコーナーに入った。最初に洗濯屋。大きな家の中央部に洗濯桶の巨大なものが置かれている。モロッコで見た洗濯屋をふと想像させたが、ここが洗濯場ではなく洗濯屋であるゆえんは、この店の道路に面した向かい側にフレスコ画の看板とも言うべき洗濯の場面が描かれたものがあるからなのだそうだ。
 またパン屋の炉の跡というのも見た。大きいので商売としてやっていたと想像したようだが、その脇は店舗になっていたという説明があった。
 また公衆浴場もあって、比較的身分の高い人たちのたまり場のようなところだったようだ。男女別に出来ており、小さながらプールもあった。ここには当時なくなりその燃えかすが化石のようになった人物の固まりがあったが、ここで出土したのかどうかは聞き漏らした。写真右はそのうちの女湯の方。
 最後に娼婦の館に行った。何処の遺跡にもあるこの種の建物は、この商売の歴史が古いことを示している。小部屋毎にベットが置かれている様は、日本の遊郭の構造にも似ている。左の写真はその家の中の壁に掲げられていた絵。

 そこからわれわれはまた広場へ引き返し、後ろ髪を引かれる思いでポンペイを跡にした。ポンペイの高速入口から乗ったが、直ぐにわれわれは降りた。カメオの工場でカメオを見て買い物をするため。順さんはここでまた買い物をした。カメオは全くの手工業から生まれているもので、その意味では宝石など半分は偶然の産物よりは価値のあるもののように思う。ここでは買うと裏に購入者の名前と制作者と今日の日付を制作者自身が入れてくれる。写真は、順さんが買ったカメオの制作者。このおじさんの手はカメオを彫る為に手がタコだらけだった。(通称タコおじさんというのだとか聞いた気がするが定かではない。その制作者とカメラに収まってうれしそうな順さん。)

 カプリまでは説明ではホバークラフトのような話だったのだが、結局普通のフェリーで行った。そのために少し時間がかかったが、それでも1時間弱の旅。順さんは寒いのでずっと船の中にいたが、則は結構甲板にいて写真を撮っていた。無事に船旅も終わり、カプリに上陸。実はカプリに来た最大の理由は「青の洞窟」という、塩の力であけられたのだろう小さな洞窟に船で行き、そこの神秘的な青さを体験することにあった。しかし冬はあまり可能性がないと聞かされてきたわけだが、このときに、そもそもいくらないでいても船はでないことを悟った。皆ボートは打ち上げられているのだって。気を取り直して食事をとる。

 食事の後、「青の洞窟」を地上から見に行く。上から見ても海面は結構青い感じがする。時折外側から眺めるボートがやってくるが、中には大きすぎて入れないので、直ぐに立ち去ってしまう。われわれもおっかなびっくり入り口付近を眺めてから退散した。他のグループで、若い女性だったが滑って何処かを打ってしばらく立ち上がれない人がいた。ただこのチャレンジのためにまたくるというのじゃどうかとも思う。その程度の感じ。

 その後この島を愛したある作家の別荘庭園が開放されているので、そこに時間つぶしに見学に行く。高台の美しい家で、港を上から眺めることが出来た。そこから眺めると、ソレント半島がほんとうに近くに見えて、かつて陸続きであったと言うことだが、その話が本当に思えた。

 それでもまだ時間が余って、町をぶらぶらと散策した。イタリア語が分らないからなのだが、面白いポスターを見つけた。マフィアが指を詰めている状態で、日本で言えばさしあたり暴力団お断りのポスターかと思って写真を撮って来たが、後で現地ガイドに見せると子供の花火などのケガの注意を促すポスターだと言うことだった。というわけで、一同大笑いをした。

 それから再びフェリーに乗ってナポリに戻り、一路ローマへ向かった。ローマまでは長い道のりで、およそ3時間かかったが、途中によったオートグリル(日本の高速道路のサービスエリアの売店のようなところ)では、買い物をしたらリラで払ったのだが新しいユーロが来た。既にユーロは一般に流通し始めているらしいことが実感出来た。イタリアなどその対応の遅さが心配された国ではあったのだが、そんなことはなく存外スムースな遺構がなされているのだと感じた。そういえば、ミラノからローマまで運転してくれた運転手さんも、リラ−ユーロの変換機能付き計算機を持っていたし、もちろんそれはオートグリルでも売っていたしで、十分な対応があったのだということが分った。

 ローマでの宿泊は、ローマ郊外のシュラトンホテル。この夏出来たばかりのホテルで、何もかも新しかった。

<戻る>