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2000年12月29日(金) クェルナバカ・ソチカルコ・タスコ

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 【ポポカテペトル山を見ながらクェルナバカへ向かう】朝は未だまどろみの途中を起こされる。すこぶる眠く、体調も思わしくはない。今度の旅行はすごくきつい日程になっている。飛行機に乗り換えを含め10回も乗る弾丸ツアーなのだ。ホテルを8時に出発。しばらくすると道路は地下鉄(の地上部分)と併走する。実はメキシコ国鉄は1年半前に倒産してしまい、今は走っていない。メキシコシティーは地下鉄が結構発達しているようで、系統も両手近くあるという話だ。
 さて今日からいよいよ実質的な観光が開始される。最初の観光地はクェルナバカ。メキシコシティーが標高2300メートルの高地にあるが、ここは標高1480メートル。途中高速道路の最高地点つまりは峠越えをしたことになると思われるが、3100メートルのところを通り一挙に下ってきたわけだ。
 途中、昨夜降った雪を抱いたポポカテペトル山が綺麗に見えた。この18日に噴火したばかりの活火山だ。皆さんついてますね、とガイドが言うくらいだから、きっとこんなに山頂まではっきりと見えるのは珍しいのだろう。クリスマス休暇中で、車が少ないせいのようだ。ちなみにポポカテペトル山の姿はインターネットでリアルタイムに中継されている。(更にポポカテペトル山は1月5日早朝に新しく爆発したということだ。)

 【クェルナバカ大聖堂】さて、9時40分にクェルナバカ到着。この町は花の町と言う意味があるそうで、確かに街路樹のベンジャミンは緑が鮮やかだったが、他に赤やピンクのブーゲンビリアやオレンジ色の花が沢山咲いていた。また、非常に坂の多い町で、とても歩く気にはなれない。
 ここでの見物は、カテドラル(クェルナバカ大聖堂)。もちろん世界遺産に登録されているくらいだから、それなりの歴史的な価値がある建物で、特に入り口の髑髏の紋章は有名だ。海賊が格好いいからそうしたという説や、スペインの圧政に苦しむ農民達の抵抗の表れだとかいわれているらしい。また人民を支配する意味もあったのだろう、その形は教会というよりも砦の雰囲気だ。
 しかしそれよりも何よりも我々日本人がなじみ深いものが近年発見されたのだ。この辺りでは疫病がはやると漆喰で壁などを塗り、たぶん感染の遮断を狙ったとされている。そのようなわけで、長年塗りつぶされて隠されていたフレスコ画が偶然にも一部修復で露わになったのだ。その内容が、日本の26聖人殉教を描いたもの。事件が起きた翌年に完成している。なぜこのような速さで日本の事件が伝わったかだが、第一にはその犠牲者の中にメキシコの宣教師(聖人フェリペ・デ・ヘスス・・・唯一のメキシコ人の聖人)が含まれていたことだろう。それから日本との交流だが、支倉常長の一行がメキシコ経由でローマに入ったことからして、一定の交流があったのだろう。教会内部はフラッシュ撮影禁止なので、写真を撮るのに不自由した。

 【ソチカルコ遺跡】10時10分、クェルナバカへ出発。目指すはソチカルコ。ソチとは花、カルコとはある所、つまり花のある所という意味の町らしい。やはり常春の地域なので、花の話題には事欠かない。今日最後に訪れるタスコも同様で、ポインセチアやグラジオラスの原産地とのこと。しかも野生のポインセチアは3mもある大木も見られると聞いてびっくりした(もっとも実際には見つけられなかった)。ついでに言うと、ここで大成功を収めた日本人もいて、この国の植物学ではかなり重要な位置を占めているらしい。松本とか言ったと思うが、この人移住して来る際に沢山の植物の種を日本から持って来たばかりでなく、南米等の植物も積極的にこの国に導入したということで、その子孫が今も大きな花屋を何軒もメキシコシティーに持っているということだ。また、移住した日本人というのはかなり多く、しかも何度か時代を分けているようで、在来種ばかりでなく日本のようなキュウリや茄もあるし、白菜さえ栽培されているということだ。
 11時00分にソチカルコ遺跡到着。後の遺跡もそうだが、ビデオは撮影代として30ペソかかる。もちろんけちな我々はビデオは置いていくことにした。カメラは無料なのだ。ここではピラミッド(2つ)他を見る。ピラミッドのほうは、修復の方法が悪くて興ざめだった。というのは、朽ちている状態でもちろん発見されたわけだが、その修復に構成する石の間を無遠慮にコンクリートで固めてしまっているからだ。構成する石が古くても、我々の目にはコンクリートばかりが目に入り、まるで単に古い石を流用した小山にしかみえないからだ。ラテンの人々との感性の違いだけであろうか。写真は入り口から奥の方にある神殿。
 住居跡も少し残っていた。石の囲いが部屋割りが解る形で残されている。窓はあまりなかったらしい。写真でわかるように、結構小さな部屋に分かれていることがわかる。ここでも結構コンクリートで塗り固められているのがわかると思う。壁は石だが、天井はどうなっていたかというと、写真のように再構成されている家があり、写真のように木が敷き詰められており、(たぶん)その上に小石が敷き詰められていたのだろう。左の写真の手前、少しぼけたようになっている白い台は大はオリジナルだそうで、用途としては寝台のようなものだったらしい。拡大していただけるとわかると思うが、角のあたりに青い色が奇跡的に一部残っているのがわかる。だいたいこの次代のものはこうした構造であったらしい。
 勿論、ここのメインはケッツアルコアトルの神殿。ここはさすがに力を入れて修復してあるようで、かなりの完成度がある。表面を構成している石の固まりと言うか、彫刻の見事さと量感に圧倒されるが、それらもきちんとした形ではあまり組合わされていないので、これまた少々残念なところであった。この上にはあがることが出来、周りを見渡すことが出来る。
 最後に球技場を見た。その勝者が讃えられて首を跳ねられると想像されている競技で、ボールを石の穴(ドーナッツのようになっていてその周りにはマヤ文字が書かれている)に入れるのを競ったらしい。この頃になると気温が上がって、半袖姿になる人が多くなった。写真の中央におかれた輪は、実際には壁に付けられていたものと思われる。

 【タスコのサンタプリスカ教会】11時45分に出発。タスコに向かう。13時、タスコ到着。レストラン「BOUANZA」にて昼食。ビュッフェスタイルで、メニューは、クリームスパゲッティ、チキンのスパイス煮、牛肉のソテー、トルティージャ、フルーツ(バナナ・メキシコみかん・パイナップル等)、コーヒー、紅茶。順さんはいろいろ食べたが、則はあまり食が進まなかったようだ。ここの特色はトイレ。大きな民族衣装の人形で各個室のドアまで飾られている。粋なことをするものだ。
 食事の後、14時20分にサンタプリスカ教会到着。名にしおう銀山の町である。曲がりくねった細い道が町のメインストリート。当然ながらバスは昇れる道ではないので、銀製品の店を見ながらしばし坂道を上って行くことになった。しかしその細い道をワーゲンのビートルのタクシーなどがかなりの勢いで上ってくる。けっこう危ない道だ。この町ではブレーキは3カ月ごと取り替えなければならないというほどにすさまじい。
 登り詰めたところが教会で、その周りには沢山の土産物屋が軒を連ねたり、露店の店があちこちに出ている。この教会は双塔を持ち、その高さは40mもあり、遠くからでも良く判る。門前には多くの店が出され、今日一番の観光地だ。タスコの銀山王ボルダが町に寄贈したチュリゲスク様式で飾られた教会で、内部には9つの祭壇があり、華麗な装飾が施されていた。彼は一代で成した財をこれで全て一時失ったとさえ伝えられる。正面のメインの祭壇の細工も見事で、彫刻の上にかつては銀をはり、更に金をはっていたらしい。今はそれらも剥げ落ちているというが、スペイン人の入ってきた後の話だから、未だ剥離するには時間が少ないようにも思えた。この教会のもう一つの特徴は右のサイドにも入り口があり、その正面、つまりは左サイドが一部くぼみ、そこにも祭壇が設けられていることだ。かわいそうに強制的に改宗させられながらもインディオ達は白人との同席を許されなかったのだ。褐色のマリア、グアダルーペや黒人の祭祀の像もあり、今までとは違った雰囲気を持つ教会だった。
 そのあと自由時間となったが、買い物には興味のない我々は、周りの市や店を冷やかす。順さんにおよそ60USドルのブレスレットを買わないかと誘ったが、頑として応じなかった。16時30分タスコ出発、帰路に着く。ここでもアクシデントがあり、皆がそう時間が要らないということで、早めに下山してきたもののバスが到着する時間は変わりなく、30分も待たされるはめになった。このことを含めて添乗員の対応が最低。皆よく文句も言わないというか、あきらめの境地なのか。

 【夜はマリアッチと民族ダンス】19時20分、メキシコシティーの繁華街のピンク・ゾーンに建つホテル「クリスタル・ゾナ・ロッサ」に戻ってくる。20時過ぎにホテルから5分ほど歩いた市内のレストランにて、マリアッチの演奏を聞きながら夕食。ここは観光客相手の所らしいが、珍しく日本の団体は我々のみ。代わりに韓国の団体が二つも入っていた。座席は舞台の一番前。座ると直ぐに食前酒のマルガリータが出てきたが、我々はそれとは別にビールを2本頼んだ。そうこうするうちにショーが始まった。
 まずは、トリオ・ロス・パンチョスばりの男性集団の歌。なじみの歌が懐かしく心地好い。次に民族のダンス。かなり激しい踊りが続く。その際、男性の頭の羽飾りから落ちた羽根をしっかりと順さんは持ち帰った。次の女性歌手はまさにエンタティーナー。客に何処からきたのかを聞いてはその国の言葉で語りかけるかその国の歌を歌ってサービス満点。ちなみに日本の歌は「恋人よ」韓国の歌は「釜山港に帰れ」と新しいものを取り入れていた。また日本語がけっこう巧みだった。さいごは自分のCDを売りに聞たが、真っ先に我々のところ。もっともそこで初めの分は完売だから、さすが。また、例によって、食事中に写真を写しに来るのもあって、我々はまたその手にのってしっかりと購入。こういうところで、やはり日本人は儲かるいい客らしい。

 【ホテル】昨日と同じ クリスタル・ゾナ906号室

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