戻る

2000年12月31日(日) チチェンイッツア

・・・暫定版で写真掲載の際に大きく変更される可能性があります

 【つかの間のリゾート気分・・・だったけれども】則は明け方4時30分には起き、順さんも5時30には起きた。海側の部屋ではあったが、ほぼ西向きだったことと曇っていたために日の出は拝めなかった。明日の初日の出は町中だから全く趣が無いので、一足早くという感じだったけれどもその願いはかなわなかった。昨日あんなに夕日が輝いていたのだが。
 朝食の前にホテルの前のプライベートビーチエリアを散策。昨日は見えなかった海の色が、これぞ瑠璃色というように目の前に広がり、順さん大感激。「タヒチの女」ばりの気分に浸りたかったが、風が強く波も荒いので近づいて海に入ることはしなかった。ここにも小さなマヤ遺跡があった。
 朝食を7時からとる。今日は8時30分と、当初の8時よりそして全体の予定でもややゆっくりめの出発。出発前のチェックアウトで、なんと使っていないルームサービスの請求。使っていないという証明書にサインさせられた。他の客にも同様のことがあったようだが、最後まで感じよくなかったここのシェラトン。

 【唯一のバスでの移動日・・・カンクンからメリダへ】さて今日はバスにてメリダへ向かう。途中チチェンイッツァを観光する。いよいよ遺跡の本まもんにあう日。楽しみだ。チチェンイッツァ迄バスで約2時間。高速道路が通じていて、110キロのスピードで低木のジャングル地帯をひたすら走る。これは10年くらい前にできた道路だそうで、これができる前までは今の2倍以上の時間がかかったらしい。ジャングルを切り開いて造った道路なので、どこまでもまっすぐ。
 チチェンイッツァの手前で10時35分に高速道路沿いのまぁ日本で言えばパーキクングエリアのようなところで、トイレ休憩をしたのち、11時30分にチチェンイッツァの遺跡に到着。

 【ピラミッドとの対面・・・チチェンイッツァ】チチェンイッツァは純粋なマヤ人だけのエリアとトルテカの影響というか混血のマヤ人の住んだ時代が下ったエリアの二箇所が隣接してある。前者を旧と言い後者を新と言って区別している。
 入り口から入って最初に目に入ってくるのは巨大なカスティージョ。綺麗な形を下ピラミッドだ。その前の広場を右折して旧エリアに向かう。まず、旧チチェンイッツアを見学するのだ。
 最初に赤壁の飾り台を見る。このものが何であっのか説明を聞き逃したが、多くの建物は、おそらくは旧のエリアではその殆どが赤色に塗られていたようだ。赤は命と言うかよみがえりの色らしい。その前に直径10メートルくらいの円形の高さは10数センチのものがある。これはこの中に井戸があると言う説明だったが、こうした都市においては井戸もしくはため池のような何らかの上水施設は不可欠だったろう。おそらくはこの周りは今は埋められているという状態なのだろう。
 その前に立つのが、高僧の墓と称されるピラミッド型の建物。戦士の神殿と同じ造り方をしているそうだ。骨と多数の装飾品が出たので、当時の神官の墓ではないかと考えられている。
 高僧の墓を回るようにして裏へ出ると、チャックの神が一面に飾られた碑のようなものに出会う。そこを通って更に進むと大きな広場(昔はここにも建物があったのかも知れない)に出る。そこで目に飛び込んできたのが、カラコルつまりは蝸牛の形に似ているからそう言われるのだが、天文台である。大きな基壇の上にドーム型の建物があり、中にはら旋階段がついていると言う。ここには登壇できないので、詳細には分からないが、ドーム型の建物には入り口と東西南北の5つの穴が開いており、それで天体観測したということだ。しかしこちらで時計の磁石で測定するとどうもその穴は東西南北ではなく更に45度傾いた方角のようであった。
 次に天文台の右手奥にある尼僧院に向かう。尼僧院と言うのはヨーロッパ人が自分たちの地域の尼僧院に似ているからそう呼ぶだけだ。この建物は2階建てになっており、けっこう大きな建物だ。中には小さな部屋が沢山あるということで、僧院のような形のものではなかったかとも想像されている。
 尼僧院の左手にあるのが教会と呼ばれる建物。チャックの飾りが美しい。チャックをモチーフにした建物と言うのが、この次代の特徴のようだ。ここで旧チチェンイッツァの見学は終わる。気がついてみると則のカメラがパノラマモードになっている。非常に残念だがどこかで切り替わってしまったようだ。あわてて帰路旧エリアの写真を再度と少しだけ撮る。
 12時20分に新チチェンイッツアと呼ばれるエルカスティーリョを中心としたエリアに戻る。
 最初にエルカスティーリョの外観を見る。ここでこの建造物の意匠、つまりはマヤの暦の18カ月が表されているとか1年365を階段で現しているとか、春分の日の奇跡の発見者は当時のヒッピーだったとか、そう言ったことの説明を受けた。広大な広場の中にたたづむエルカスティーリョは十分に威圧感のあるものだった。
 次にジャガーの神殿。これは建物の前にジャガーの像があるからそう呼ばれているもの。そしてそのジャガーの神殿の裏手が球技場。ここの球技場は大きい。最大級のものと言われている。球技場の例の壁についている穴はここでは約18センチ。球技場の長軸方向の中央部分のレリーフは首を切られた競技者が勝者ではないかという推測の元になっているレリーフ。なぜなら彼から吹き出ている血の部分から花が咲いているからだ。
 球技場を出てツォンパントリ(骸骨の壁)を見学する。一面髑髏。ここは今でいえば牢屋のようなところだったらしい。わざと塀を低くして逃げやすくし、捕まえては首を切ったらしい。さすがに異様な感じを受ける。
 更にそこから広場のほうへ戻る道にジャガーと鷲のステージがある。ジャガーが夜をつかさどり、鷲が昼をつかさどっていることを現しているらしい。ともに(人間の)心臓を抱えている。そのあと道をそれてセノーテ(泉)への道をたどる。泉は直径20メートルもあろうかと思われるもので、陥没してできたもののようでもある。神聖な場所であり、生け贄が身を清める、今で言うサウナのような場所もあった。実際ここではアメリカ人によって池の底から子どもや女性の骨、そして金の装飾品が発見されている。
 暑い中結構歩いたので、セノーテ脇の休憩所で、13時5分ごろ休憩をとる。水をがぶ飲みして一息。
 そのあと、13時15分、再び新チチェンイッツアへ戻り、まず金星のステージを見る。ここではほんの僅かではあるが、黄色・オレンジ・赤・青等の彩色が残っているのが分かる。また、ケッツァルコアトルの顔もはっきりしていた。
 カスティージョとともに見どころである戦士の宮殿と千本柱へ向かう。残念ながら戦士の宮殿は登れないので、その上部にあるチャックモールについては、遠望して見るしかなかった。千本柱は円柱が林立する場所で、その名の通りにおびただしい数の石柱が並ぶ。
 13時50分、最後にいよいよ自由時間となって、エルカスティ−リョに登る。エルカスティ−リョ、すなわちスペイン語の城を意味する名がかぶせられているピラミッドはまた91段の階段を登ったところに神官が民に向かって声を発したであろう基壇に至る。さまざまな文献でその基壇に至る道のりがいかに大変かが語られている。ロープのついている壁面はすごい人だかりなので、今一つ開放されているロープのない壁面(実はこちらが正面で、春分の日の奇跡が見られるのもこちら)から登る。最初は何だかんだと言っていた順さんだったが、ともかくも91段を登りつめた。アンコールワットの最後の第3基壇に登るときよりは恐怖感はなかった。それはステップの幅の問題だろう。そこからの長めは絶佳であり、登るだけの価値は十分にある。360度の視界と、当時の為政者の心の一端を感じさせてくれる。しかしながら下りは登りよりも更に怖い。おそらくは登るときの2倍はかけて降りただろうか。そのお陰で足の筋肉はパンパンに張り数日その痛みが取れなかった。

 【一路メリダへ】感動のうちに14時25分、チチェンイッツァを出発、少し走って14時50分に昼食場所のHACIENO’XA’YBA HOCAMABRA’に到着。スパゲティ・ピラフ・とり肉のスパイス煮・サラダなどのバイキング。相変わらず則はあまり食べない。15時30分 出発。
 バスは密林を縫う高速を疾走し、17時頃メリダの町に入る。大晦日ということで、クリスマスではないものの市がたって大賑わい。バスも流石に繁華街に入りのろのろ運転だ。軒先では、大晦日に赤い下着をつける風習があるため、いくつもの店で赤い下着の山がみられた。子どものものものと言えば、やはり教会が騒ぐほどのことはある、ピカチュウが大人気だ。でも、まがい物なのか何処か日本のそれとは雰囲気が違う。また、星形のピニャータ(中が空洞になっていて、子供へのプレゼントが入っている)も溢れていた。これは飾りとしてもこれからずっと目にした。
 17時30分にホテル着。19時より夕食。メリダの食というライムのスープ、豚のステーキ(こんがりよく焼けてた)をいただいた後、日本から持ち込んだそばがふるまわれ、年越しをする。それ以外には何ら特別なこと無く、深夜同行のM女史と酒を少々酌み交わすのみ。

 【ホテル】エル・コンキスタドール 1708号室 

戻る