第二日目 チトワンへ

2.2012(平成24)年2月14日(火) カトマンズ、ソウラハ(チトワン国立公園) 曇り

起床(0500)朝食(0610)ホテル発(0754)カトマンズゲート(0830)ソウラハ入り口ゲート(1216)ソウラハホテル着(1243)昼食(1330)タル村訪問(1523~1700)夕食(1830)就寝(2020)


2-1 朝

起床(0500)朝食(0610)荷下ろし(0730~)

 朝起きてみると、深夜に一旦回復した電気だったが、またもや停電している感じだった。それでも、さすがにカトマンズのホテルである。必要最低限の電気は自家発電部分で点灯している。その他は勿論停電。エレベーターは動いていない。朝食レストランは一番下なので、階段を下る。レストランに行くと、チケットをフロントでもらってこいと言われる。?と思ったが、そしてこの分は払わされるのかなぁと思いながら、フロントへ行く。チケットを下さいというと、なにやら書いて紙片を渡してくれた。その中にNKTという文字があったので、安心をする。再度、チケットをもらってからレストランへ行く。それでも、部屋番号を確認している。
 レストランには既に、欧米系の人が2組いた。
 内容は一応アメリカンスタイル。パンと簡単なおかず。オムレツは作ってくれたので暖かいものを食べた。食べ始めたころ、まだお湯が沸いていないらしく、欧米人の女性グループは待ちきれず席を立っていってしまった。出発時間が迫っていたからだろうが、まぁこの感じになれないといけないのだろうと、我が身を反省。
 食べ終わってからホテルの外観を撮ろうと外に出ると、昨日の人とは別の警備員さんが、屋上に上ると景色がよいと教えてくれた。お礼を言って、自室の4階より更に高い屋上を目指し、階段を上る。屋上はテラスになっていたが、更にその上に二段階登るところがあり、どうやら周りが高くなるにつれて継ぎ足した感じだ。一番上に登り景色を撮る。見晴らしはまぁまぁだった。
 さて食べ終わってから、やることも無いので、今日から持って行く荷物を入れたバッグをまずロビー階まで運んだ。エレベーターがあれば全部いっぺんに運ぶことができるのだけれど、何しろ動いていないので、手で運ばなければならないので、2度に分けて運ぶことにした。朝早いので、ベルボーイも見当たらなかった。
 部屋に戻った頃今回のガイドから部屋に電話があり、今着いたと言うことなので、スーツケースを持って下へ下りる。運ばせると言うことだったが、殆ど空となったスーツケースを運んでもらっても意味が無い。ガイドと途中で出会ったので、それでも幾分か重いjunのを持ってもらう。スーツケースをホテルの倉庫に預けて、準備が完了した。さぁ正味9日間のネパール旅行の始まりである。

nepal0067 14 09-27.jpgNKTというのは現地受け入れ会社
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2-2 ソウラハへ

ホテル発(0754)カトマンズゲート(0830)休憩(1000~1023)ポカラとの分岐点(1110)ソウラハ入り口ゲート(1216)ソウラハホテル着(1243)

 今日の予定は、午前中はチトワン国立公園近くまで移動すること、そして午後は近郊の村を見て回る。この近郊の村を見て回ることを含め、ホテルの指定のアクティビティー(というかホテル滞在費に組み込まれている)に宿泊者は参加する形になる。
 まずは目指すは、バラトプルという町。ここから車は左折してチトワン方向に向かう。まっすぐ行けばポカラ方面で、つまりバラトプルまでは再度戻ってくると言うことになる。
 運転手は空港でピックアップしてくれた人。少なくとも我々には笑顔を絶やさなかったし、突然彼のオフィスを訪ねてもすぐに見つけて応対してくれた、感じのよい人。仕事も丁寧で、控えめではあるが、そつなくこなしてくれた。名前は、「サンカル・シュレスタ」というらしいが、難しくて覚えきらなかった。
 さてカトマンズ市内の一部も含めて、道はネパールでは悪くガタガタでほこりもすごいと聞いていたが、まさにその通りの道だ。というか、南アジアの外の国々と大差は無い。ご多分に漏れず、道路には車やオートバイがあふれ、信号も無いところを皆、我が王様気分で走るので、クラクションの渦。ただ、パキスタンのような、正面から双方で突っ込んできて意気地のない方がよけるというような荒っぽさはこの国では無い。
 リングロードと呼ばれている今から20年くらい前に外国資本を注入して出来たという道を通る。昔は細い道だったと言うが、急激なモータリゼーションに追いつかないのは中国などと同じか。その脇では牛やヤギが闊歩する。
 郊外に出ると煉瓦工場がいくつか見える。市内のは郊外へと強制的に移転させられたらしいが、伝統的な家屋から煉瓦中心の家が多くなってきており、その需要を満たす為に多数の煉瓦工場があるのだそうだ。やがてこれらの吐く煙が問題になる日も近いだろう。
 ネパールでは学校の始業時間は10時。したがって丁度登校の時間と重なる。幼稚園から高校まで、一斉に登校時間だ。あどけなさが見えて、ほほえましい。
 しばらく走ってトイレ休憩をしようとしたが、中国人団体がいたので、その先まで行く。この国でも中国人があふれていた。中国政府が元を自由化したら、どうなることだろう。世界は中国旅行者であふれかえることになるだろう。何故かここには国連(UN)の車も停まっていた。
 少し走っていくと、道路に横転した車。かなり破壊されている。過積載なのか?カーブを曲がりきれなかったのか?
 さてスタッフが選んだ休憩場所は、小さな休憩所。軽食を売っていたので、ガイドさんと運転手さんはそこで軽い食事を取る。彼らは朝はチャ(茶)を飲む程度で、9時から10時頃に少し腹の足しになるものを食べるらしい。今は丁度その時間というわけだ。我々もチャを飲む。チャイでは無く、チャなのだそうだが、中味はインドのチャイ、つまりは甘いミルクティー。ただインドよりも量が多い。noriは帰国後すぐに人間ドックなので、旅行中血糖値が気になって仕方が無かった。
 彼らが食べている間、我々は、目の前に広がる朝市?を見て回った。野菜や豆類が並べられていた。いくつかの種類の豆がミックスされて売っているものがあった。面白かったが、お土産には重すぎる。ダルバート(ネパール定食)の材料になるらしい。また乾燥した魚も売っていた。貴重なタンパク源なのかも知れない。
 さて彼らのブランチにつきあった後、再び車に乗る。走り出して、サドゥーと呼ばれている業者とすれ違う。一瞬のことだったので、写真はうまく撮れなかったが、彼らはシヴァラートリーの為にカトマンズへ向かう途中らしい。
 そうこうしているうちににポカラへ行く分岐にさしかかる。今日はこれを左折してチトワン方向に向かう。やがて車はバラトプルの町へ。ここはインドからの物資がカトマンズに入る際の中継地になっているところで、東西二つのインドルートの分岐点(集合点)らしい。けっこうな賑わいだ。
 そこからソウラハに向かう。ソウハラとは、チトワン国立公園に隣接した町。そこに入るには、コンクリート製の橋が架けられているが、橋を渡るのに通行料を取られる。かつては、渡し船しか無かったので、ここから車を一旦降りて、対岸のホテル迎えの車に乗り換えるという手続が必要だったという。
 ソウラハの町に入って行くと途中で象とすれ違う。勿論野生では無いが、とうとうチトワン公園に近づいてきたという感じがした。更に進むとまたまた道の真ん中にゲートがある。今度は行き先を言うと車を通してくれた。この先は公園エリアが近いので、車を制限する理由があるのだろう。
 (上段のポートレートは左が運転手のサンカル・シュレスタ氏、右がガイドのラジェシュ・カパリ氏。・・・実際はもう少し両者とも老けた感じがする印象だった。)

nepal0084 14 11-25.jpgネパールにも歩道橋(環状道路から見る)
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2-3 ソウラハ <ローヤルパークホテル 8号室>

昼食(1330)

 我々のホテルは比較的奥まったところに、かなり広い地域を占めている。混雑した道(丁度昨日から三日間フードフェスティバルが開かれていて地元民でもごった返していた)を進んで、少しまともに走れるようになってきたなぁと思った思ったところで、ホテルに到着。ホテルと言っても4部屋で一つのロッジとなっているスタイルで、ロビーで受付をしてからそこまで案内してもらう。一つ一つの建物は干渉しない程度に離れているので、プライバシーは保たれる。我々の部屋は食堂から一番近い場所にあって、年寄りとしては好都合であった。
 部屋は石床でシングルベッドが二つ置かれているだけのシンプルな物だ。シャワールームは4畳もあろうかと思われるほど広い。従って寒い。勿論暖房など無い。お湯も熱いのが出る保証は無い。トイレは洋式の水洗だ。
 部屋に荷物を置いて、レストランで昼食を摂る。
 初めて食べるこちらの料理だ。といっても、もともとここは欧米人が経営にタッチしていたホテルなので、サービスや味はかなり洗練されている感じ。スープが出て、サラダが出て、メインは茹でたスパゲッティと、たぶんそれにかけて食べる趣向なのだろう、カレーが出た。水牛の肉ということだった。ヒンズー教徒がほぼ9割を占めるネパールでは、水牛は牛の代替品という感じで、この後もよく食べた。料理の仕方にもよるだろうが、概してやや固めだったが、我々の食生活が柔らかすぎるのかも知れない。デザートも出た。食後はやはりチャであった。
 午後からのアクティビティーは15時からと言うことで、その後はしばらく部屋でのんびりと過ごす。それでも時間が余ったので、ホテルの近所を散歩した。

nepal0201 14 17-42.jpgホテル入口
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2-4 タル村訪問(1523~1700)

 さて最初のアクティビティーは近くの村を訪問することだという。だいたい午後にチトワン入りして、2泊して帰る場合の標準的なコースらしい。ネット上でもほぼ同じアクティビティーをこなした人の話が載っていた。さて村訪問の乗り物は牛車。我々の他に一人旅の西洋人が一緒。
 牛車を牽くのは二頭のこぶ牛(犎)。こぶ牛2頭の首に車を引くための丸太をかける。御者が合図をすると牛が自ら首を下から丸太にかけるでびっくり。そして感動したのは、ずいぶん昔にパキスタンに行ったときにモヘンジョダロ辺りで買ってきたテラコッタの土産とその姿がほぼ同一だったことだ。5000年あまりの時を越えてなお今も現役の姿がそこにあった。
 こぶ牛に載せた丸太が首から外れないか不安になったが、よく見るとそうはならないような工夫がなされていた。
 ホテル敷地から出て、ホテルの前の道を進んでいく。道幅は狭い上にここでも車やオートバイが結構走っているので、今度はぶつからないかと不安になったが、車の方でうまくよけていってくれるので、牛はマイパースでゆっくりと進むことができた。
 その道を逸れて田舎道に入ると今度は車輪が畑の溝にはまらないか、横転しないかと不安になる。が、そうなりそうになると御者がうまく操って無事にタル村に到着。
 家の周りには鶏や牛、羊などが沢山飼われていた。その家の造りの特徴があるそうだ。牛糞を壁に使っているというのは中東と同じだ。基本的な骨組みはジャングルに生えているエレファントグラスという葦のような物を使う。屋根もエレファントグラスを使う。が、最近ではその数も少なくなりどんどん新しく造り替えられる場合にはスレート葺きなどに置き換わっているとか。近代化と言うよりも、材料が手に入りにくくなったことが大きな原因だそうだ。エレファントグラスの生えている地域は殆どチトワン国立公園内で、政府の制限がだんだんきつくなってきて、年に何日も刈りに入れないようになってきているからだそうだ。公園の保護と先住民の生活の保障をどう釣り合わせていくかは課題なのであろう。
 道ばたに今日生まれたばかりのヤギがいた。まだ体が少し濡れていて、親が舐めていた。一生懸命立ち上がろうとしているところだった。更に進む。通って行った道すがらには大麻が生えていた。この国の大麻事情については、後に譲りたい。
 さて驚いたというと失礼になるが、そんな小さな村でも博物館がある。そこでは自分たちの昔からの生活の様子をわかりやすく説明していた。こうして残しておく努力をしているのは素晴らしいと思った。援助もあるのだろうが、自分たちの文化に誇りを持っている点は、非常に感心させられた。
 その博物館では、いろいろと生活、婚姻だとか死を迎えたときだとか、耕作だとかをジオラマ風に展示していた。また博物館外壁(我々のロッジにもあった)の壁に手のひらがペタペタと押されていたが、これはお祭りの時に女性が押すのだそうだ。博物館の外に出ると、インコの集団が木に留まっていた。
 このタライ地区は先住民族のインド系タル族が定住している。昔は農業で生活をしていたが、最近では現金を手にするために若者は町の方へ行ってしまい、今は年寄りと子供が殆どだそうだ。牛車で進むと、丁度アブラナの脱穀をしていた。少し降りて見学した。
 帰りは違う道を通って帰ってきた。途中牛が少し走ったので、驚いた。ホテルに戻るとお茶のサービスがあった。またのんびりと時間が流れた。

nepal0246 14 19-14.jpg今生まれたばかり・・・ 頑張れ!
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2-5 ホテルにて

電気点く(1750)夕食(1830)就寝(2020)

 食堂前のベンチでお茶をごちそうになっていたが、しばらくして部屋に戻った。ベットに寝ていると、5時半過ぎになって電気が点いた。といっても多分自家発電の分だけなのだろう、コンセントも電灯も1カ所のみ。最低限のようだが、とりあえずカメラのバッテリーなどの充電はできる。ありがたい。
 慌てて充電の準備をしていると、すぐに夕食の時間になった。先ほどのレストランへ行く。ここでの食事はすべてホテルのレストランで済ませた。ビュッフェスタイルなので、カレーなど好きな物を取ってくる。といってもお客は5組程度だった。ガイドに聞くと、今日はかなり少ないという。今は観光シーズンでは無いのだろうか。
 食事の時に飲み物をというので、ローカルビールを頼む。エベレストビールというビールを飲みたかったが、無いと言うことで、ゴルカを飲む。同席のガイドさんを無視するわけにもいかず勧める。遠慮せずよく飲むガイドさんだった。というか、ガイドは普通別席で食べると思うのだが、いくつか個人旅行してきたが、こうしたケースは初めてだった。拒否はしづらいものの、何とかしてもらいたいものだ。勿論差し出さなくてもよいわけだが、日本的な常識では、そうも行かない。その点をうまく利用されている感じがづっとした。食事の後しっかりデザートも出た。(ガイドは日本にも研修に来たと言っていたが、日本側ではどういう教育をしたのだろうか。)
 部屋へ戻る途中空を見上げたが、東京よりやや多め程度しか見られなかった。
 明日の予定は、レストランの前のボードに書かれているおり、それぞれで確かめるようになっている。部屋ごとに違っているので、ここは気をつけなければならない。ガイドの言う時間と少し違っていたので、確認をした。この確認は、ここにいる間必要だった。
 部屋に戻ってシャワーを浴びた。期待はしていなかったのだが、かなり熱いお湯で気持ちよかった。くたびれていたのだろう、8時過ぎにはもう眠たくなっていた。

nepal0282 14 20-17.jpgホテルの鍵
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