第六日目 ダンプスからアスタムへ

6.2012(平成24)年2月18日(土)つきのいえ、はなのいえ  快晴

起床(0530)展望台(0635~0655)朝食(0720~0750)ホテル発(0900)ホテル到着(1156)昼食(1230~1250)作業見学(1504~1530)アスタム村見学(1544~1645)入浴(1730~1800)夕食(1830~2040)就寝(2100)


6-1 朝

起床(0530)出発(0626)

 今朝は早い。と言うのも、日の出を見に行こうということになっているからだ。一応目覚ましをかけておいたのだが、その前に二人とも起き出した。
 6時半出発ということだったが、ガイドも起きていたので、その少し前に出発ということになった。のろい我々の足を考えると、早めに出た方がよい。行き先はロッジから少し上ったところにある開けたところ。実は昨日も通ったところ。といってもやはし石がゴロゴロしている山道を登るので、昨日同様しっかりとストックを持った。この頃には既に少し明るくなってはいたが、用心のためにヘッドライトも持って行った。
 道は昨日降りてきたところを逆に登ってゆく。どういうわけか白い犬が我々を先導する。

nepal1658 17 21-19.jpgストックはあった方はよいと考えた
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6-2 展望台(0635~0655)

ホテル着(0707)

 思ったよりも早く着いた。まだ日は上りきっておらず、太陽は山陰に隠れていた。しばらくそこで待っていると徐々に徐々に空が赤みを増し、ようやく太陽が顔を見せた。
 空にはまさに雲一つ無くすっきりと晴れ渡って、山並みが綺麗に並んでいた。
 「うわぁー、うぉー」と二人で悲鳴とも叫びともつかぬ声を出してははしゃいでいた。こういう風景を見慣れているガイドにはいい年をした大人が、とちょっと奇異に映ったかも知れない。
 そろそろ帰りましょうか、というガイドの声に促されて下りてきた。
 ロッジに戻るとまたお茶のサービス。冷えた身体には有り難かった。この頃になると盛んに飛行機が上空を飛び交うようになった。昨日の朝はそんなことは無かったのに。朝は比較的気流が安定している為だが、どうも昨日は不安定で欠航していたらしい。明日のカトマンズへ戻る飛行機は欠航して欲しくは無い。

nepal1702 18 10-03.jpg日の出の時
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6-3 朝食(0720~0750)

 朝食はお粥と揚げパン。揚げパンは、これにきなこがあれば給食のと同じだねぇ、といいながら食べたが、美味しかった。
 食事の後、今日は移動日となるので荷物をしっかり片付けた。この重い荷物はポーターさんに運んでもらうことになっている。
 出発直前に来たポーターさんは若い男の子。我が家の二つの荷物を上手にまとめてひもで頭から下げるようにして担ぎ上げた。20kgはゆうにあるだろう荷物なので申し訳ない気もしたが、それが彼らの仕事です、とガイドは割り切っている。
 ダンプス村とアスタム村は一旦降りるもののジープでは相互に行き来が可能。それよりもこの男の子の方が安いと言うことなのか。それとも、地元民を使うと言うことに意義を感じているのか。・・・このことにこだわるのは、ダンプス~アスタム間をジープ移動で運ぶことが出来れば、何もカトマンズで荷物の積み替えをしなくて済んだからだ。ジープだって、ダンプス村の人が運転するのだから、地域振興策になるのは変わりは無いはず。鞄の代金だって馬鹿に出来ないと思うのだが。

nepal1755 18 10-37.jpg今朝は揚げパン
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6-4 アスタム村へ

ホテル発(0900)村通過(0930)休憩(1008)村通過(1035)休憩所(1058~1106)標識(1130)ホテル到着(1156)

 記念写真を宿の主人と撮る。この人は比較的今回のNKTスタッフの中ではホスピタリティーがあったっと思う。忘れ物が無いか確認して出発。今回もストックを借りていく。これはポーターさんが戻るときにここへ届けてくれることになっている。
 3時間くらい歩くことになる。下るだけですから楽ですよ、ということだったが、あまり道がよくないので歩きにくい。が、目の前には、雲一つ無い空にヒマラヤの山が見え続けていた。
 今日は土曜日で学校も休みなので、そろそろ聞こえてきてよい子供達の歓声も聞こえない。校庭にも誰もいない。村全体が静かな佇まいだ。見通しのよいところに出ると、先に行った我々の荷物を背中に背負った青年の姿が遠望された。ご苦労さん。
 静かなダンプス村の中心に降りてゆくと、右も左もホテルばかり。ホテルといっても、あまり大きくないものばかりなのだ。民宿のちょっと大きめのもの(ゲストハウス)のようだ。
 シーズンはこれらが満杯になるのだろう、まだ建設中のもある位だから、シーズン中はこの静かな村も人であふれかえるのだろう。
 すこし先に昔の家がそのまま残っている村があったので、そちらの道を通っていくことになった。狭い道を挟んで石造りの民家が並んでいた。この道は、生活が覗けて良かった。
 水汲をする人、洗濯する人、散髪してもらっている人などなど・・・生活のにおいが感じられる村の道をひたすら進む。軒先にはトウモロコシがつるされ、蜂の巣もあった。これは蜂蜜を取るための物で人の管理下に置かれている。かつては蜂蜜は貴重な栄養源であったことだろう。
 1時間くらい行くと「この辺りで三分の一くらい来ましたね。」という事で少し休憩。この辺りから地元の男子3人が付いてくる。そのうちnoriのメモリーカード入れを見つけて「クレクレ」としつこくつきまとっていたが、村の境界まで来るともう付いてくることはしなくなった。人々の生活は村落単位で行われていて、それが子供達にも身についていると言うことだろう。
 だいぶ下ったところにある次の村は、平地が多いせいか畑の作物が豊かに青々と育っていた。大根やジャガイモ、長ネギ、青菜などと共に芥子菜も広い範囲で花を付けていた。桃の花も咲いていた。
 そこから少し上りになると峠の頂上に茶屋のような休憩所があった。休憩をする。そこでお茶でも飲むのかなと思っていたら、ガイドさんと茶屋の主人が話をしただけだった。その間我々は椅子に座ってしばしの休養。ここで三分の二。まだ先は長い。が、相変わらず景色が綺麗なので歩くのも楽しい。蛇の絵の看板があった。蛇は村の守り神と言うことらしい。
 しばらく行くとアスタムまであと30分という標識があった。そこからまた、オーストラリアンキャンプと同様noriの足が速くなった。
 そしてその標識通りに30分後にはアスタムの「はなのいえ」に到着した。
 ここは広い敷地に、畑や農場がある。その小高いところに2軒で1棟のロッジが5棟ある。目の前には勿論ヒマラヤが広がっている。

nepal1788 18 12-03.jpg中央が宿の主人のトゥルさん
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6-5 昼食(1230~1250)

 出迎えてくれたのは、欧米人のような顔つきのマネージャー。ネパールにはこうした顔の人もいるのだとか。ということはそれまで欧米人と思っていた人の多くはネパール人だったのか。
 早速お茶のサービス。その後、部屋に案内された。丘を利用して造ってあるので上り下りがある。近いところがいいと思ったが、少し下に下ったところだった。
 「つきのいえ」とは違って、各部屋にシャワーとトイレが付いているので有り難い。
 早速昼食だ。レストランまで歩いて行く。内容はなんと「幕の内弁当」。日本のと比べても全く引けを取らない内容だ。大勢の分ならまだしもたった3人分だけでこれだけの種類を細々と作るのは大変だったろうと思う。美味しかった。味噌汁もしっかりとだしがきいていて美味しい。中に入っている豆腐は、こちらで作った物だそうだ。
 これらは二人の日本人女性が現地人を指導した成果だという。この人たちは本来はここで働く為に、建設中に呼ばれたのだが、あまりにも建設が長引いたので、ネパール人に作り方を教えて帰国してしまったのだそうだ。

nepal1966 18 15-11.jpgほぼ予定通りに到着
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6-6 まったり時間

 部屋に戻って荷物の整理をしてから、junは今朝早かったこともありベッドで少し横になったりした。noriはホテル内を色々散策した。
 ここにはロッジ風の建物(宿泊棟)が全部で五棟ある。それぞれがツインの部屋が二部屋の作りになっているので、「つきのいえ」の二倍の収容力と言うことになる。
 敷地内の開けたところからは、眼下の集落を見ることができる。
 ホテルのロビーには暖炉が置かれている。標高は約1500メートルなので、ダンプスよりは200メートル以上下りた場所と言うことになる。宿の周りは農園になっていて、「つきのいえ」のそれとは違って、きちんと耕作が行われている。標高が下っているせいもあるが、ここでは大勢の人間が働いていて、半ば自給自足の生活を送っているというのは事実と感じた。

nepal1986 18 16-59.jpgロッジの家並み
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6-7 作業見学(1504~1530)

 予定に入ってはいなかったのだが、作業を見せてくれるというので、台所にお邪魔した。

6-7-1 バター作り

 まず初めにバター作り。水牛の乳を煮立てたときに上にできる幕のような物を何日か分ためておいて回転分離させるのだそうだ。言ってみれば牛乳の湯葉のようなものか?
 実演してくれたのは若い男性。火おこしのように軸になる棒を回転させる。すべて手作業だ。やはり体力がいるらしい。やがて水性のものと固形物が分離して、できあがってきた。それを冷蔵庫でしばらく寝かせるのだという。残ったものは、ラッシーのようにやはり冷やして飲むのだそうだ。
 日本で言うと、バターは牛乳から作るので、かなり製法が違う。勿論出来上がってきたものもだいぶ趣が違う。実際問題後で味わってみたが、どちらかと言えばラードのようなものだった。

nepal2009 18 18-20.jpg火おこしのような感じ
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6-7-2 ろうそく作り

 次はろうそく作り。芯になる紐を何度も何度も蜜蝋に付けて少しずつ形作っていく。蜜蝋の入った壺に長く浸けすぎてもいけないのだそうで、「簡単そうに見えますけど難しいんですよ」、ということのようだ。浸けすぎると、温度でせっかく付いたものが落ちてしまうと言うことらしい。技術と根気のいる仕事だ。これらは、停電の多い土地柄、ホテルの各部屋で使われる。
 できあがった物をお土産に頂いた。きれいにリボンもつけてくれた。

nepal2036 18 18-57.jpgスタッフの面々
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6-8 アスタム村見学(1544~1645)

 そのあと、周辺の村を散策に出かけた。道はものすごく悪い。車の轍が道を削っている。
 少し上にこれまたホテルを建築中で、そこへ資材を運ぶ車が通ったりするものだから、余計にガタガタになるらしい。そこを地元の子供二人が、お父さんに作ってもらったという遊具で遊んでいた。
 しばらく歩いて行くと、学校に出た。ここも幼稚園から中学校まで一緒のようだ(ダンプスのは高等学校まで一緒)。ここの校庭からは見晴らしがよいというので、勝手に校庭に入って行った。校舎の一つには、「環境保護の為にポリ袋は使ってはいけません!」と言う趣旨が書かれて。環境への取り組みはまだまだとガイドは言っていたが、こうしたいわば片田舎でも教育はしっかり行われているようだ。ここでもパラグライダーを見た。しばらくそこで周りの田舎の風景を味わってから、先へ進んだ。
 今は丁度サトウキビの収穫期らしく、あちこちで作業をしている家族を見かけた。ここでは子供も働き手の一員だ。
 ぐるりと回っていると、西洋の人と思われる人々とすれ違った。ここにもホテルがあるのだと言うことを知った。が、観光客は他に見かけなかった。「はなのいえ」を中心に、「つきのいえ」のように観光村が形成されていくのだろうか。
 現在はまだ静かな農村という感じだったが、いつの日か変容している気がしないでも無いなぁとの感想を持った。
 今回も歩いている間に沢山の鳥を見つけた。その多くは、モズの仲間のようだったが、鮮やかな色のもあった。ところで、日本語でモズはまた百舌・百舌鳥とも書く。そうガイドに説明すると、この鳥はよく外の鳥の鳴き声の真似をするということだった。ネパールに来て百舌鳥の語源をしった。

 ガイドがまだ風邪気味で、鼻をむずむずしていた。痰もよく出る。あまり同行している身にとっては気分よくは無い。だいたいこないだの薬を飲んだのか。飲んだ形跡を感じない。面倒なので、今度はjunの薬を一瓶ごとあげた。彼はお礼は言ったが、当然のように受け取った。きちんと飲むこと、風呂には我々と一緒では無く寝る前に入ることを言い渡した。彼は、今日は入らないと答えた。

nepal2126 18 19-53.jpg百舌鳥?
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6-9 入浴(1730~1800)

 また少しのんびりしてから売り物の五右衛門風呂に入る。ここのは露天ではないので外を見ることは出来ない。山を見ようとガラス窓に近づきすぎると、外から見える気がして湯船にどっぷりつかって暖まるだけだった。
 ここも今夜の宿泊客は我々だけなので好きな時間に好きなだけ入っていられるので有り難い。ただ、シャワーはぬるくて使えなかったのがちょっぴり不満。身体を洗ってから、といわれてもこれは不可能だ。しかも「つきのいえ」にはあった洗い桶がここには無かった。どうせ我々だけだから、と結局はそのまま飛び込んだ。気持ちよかった。

nepal2136 18 20-40.jpg窓からのぞけばヒマラヤが見える
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6-10 夕食(1830~2040)

就寝(2100)

 夕食は和食かネパール料理かどちらかを選べたが、当然ネパール料理にしてもらった。
 その食事の前にやはり振る舞い酒があった。ここは暖炉のあるロビーと食堂が違う建物なので、まずは暖炉で振る舞われた。その途中に停電。念のためにともってきていたヘッドライトが役になった。お酒は何と徳利に入って出された。器はおちょこ。中身は地元の蒸留酒だが、形は日本風だ。おつまみには砂肝。これが美味しかった。
 用意ができたというので食堂へ行く。丸いお皿の中央に白いご飯。取り囲むように野菜など数種類があった。他にチキンカレーとダルスープ。味は日本人向けに辛さを控えているとのこと。noriにはそれが不満だったようだ。
 食事の途中で、今日作ったネパール風「バター」の試食があった。先にも書いたが、ラードのような風味で、チャーハンを作るのにはよいかなぁと思った。いわゆるバターとこのバター(ギー)の違いは結局分からずじまいだった。(後でwikipediaで調べると、これは「澄ましバターの一種」ということであった。)
 食事が終わると、従業員が歓迎の踊りを見せてくれるというので、しばらく待つと、呼ばれていったところは台所。どんな物?と思っていたら、酔っ払ったようなおじさんが腰をくねくねさせながら一人で踊っていた。他に若い子なども踊るように促されていたが、一人は開き直ったように踊ったがもう一人はどうしても嫌だと机にしがみついていた。そのうちnoriもかり出されて踊ったが、junは頑固に拒否。これがネパール式の歓迎の方法だったのだろうか。
 まぁこうして「はなのいえ」の夜は更けた。毎度やってくれているわけでもなさそうな踊りだったので、ガイドの取り計らいだったのだろう。感謝をしたい。最後にスタッフにお礼を言って部屋に戻った。

nepal2159 18 21-40.jpg最初は暖炉脇でいっぱい
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