第八日目 マウントフライト、パナウティ、バネパ、バクタプル

8.2012(平成24)年2月20日(月)
   マウントフライト、パナウティ、バネパ、バクタプル 晴れ

起床(0445)ホテル発(0530)カトマンズ空港着(0545)チェックイン(0625)搭乗(0823)離陸(0834)エベレスト(0850)着陸(0933)空港発(0945)パナウティ(1045~1145)バネパ(1207~1255)バクタプルゲート(1328)昼食(1340~1417)バクタプル散策(1420~1535)ホテル着(1535)散策(1652~1810)夕食(1900~1930)散策(2000~2045)就寝(2130)


8-1 朝

起床(0445)ホテル発(0530)

 今日は楽しみにしていたマウントフライトだ。お天気次第でかなり遅れたり飛ばなかったりするというので、起きたときからドキドキものだ。
 期待したほどの天気では無かったが、カトマンズは排気ガスなどで空気が汚れており、ホテル近くの様子では判断できないというのを聞いたので、それに期待した。
 待ち合わせ時間より少し早めに下へ下りて、朝食の弁当を受け取った。
 ガイドもドライバーもちゃんと時間前に来た。この人たちはいつもそうだ。日本人相手に向いている。実際ガイドは、「ネパールで時間を守るのは我々のような日本人相手のガイドだけだ」と言っていた。

8-2 カトマンズ空港

カトマンズ空港着(0545)チェックイン(0625)

 空港について、そこでガイドとはしばらく離れることになる。空港内に入ることができないということだ。そこで弁当を持って入ろうとして時に、弁当が二つもいらないのでとりあえず一つだけ持っていくことを伝えると、「じゃあ、残ったのは頂いてもいいですか?」とすぐに声をかけられた。どんなものが入っているのかまだ開けて見てもいなかったのだが、つまりどんなものが入っているのか知らなかったのだが、その素早い問いかけに思わず「どうぞ」と答えてしまった。この辺りこのガイドはものすごくしっかりしている。普段の食事でも、我々よりもかなり多く食べる。まあ、若いのだから仕方ないかと、この時点では思っていた。
 それにしても、空港内のシステムを車を降りる間際になって説明を始めた。空港税を払うことなどを。何故前日に言わないのか。心の準備も必要だ。この点、我々より更に旅慣れない人は戸惑うだろう。更に言えば、この時点でパスポートの必要性に言及しなかった。また今日は飛ぶのかと聞くと、問題ないでしょうという答え。(つまりはそうした情報を仕入れるということもしていないと言うことが、結果分かった。)
 さて空港に入る際には「Eチケット控え」を見せて、手荷物の検査を受けボディチェックを受け、空港施設内に入る。初めに空港税を払わなければならないのだが、銀行がまだ開いていなかった。6時からなのでしばらく待て、ということだった。それでもその5分前には係員が来て購入することができた。が、次の、ブッダ航空のカウンターがまだ空いていないのでしばらくまたまたしばらく待つことになった。
 時間はどんどん過ぎて出発時刻の5分前にようやく開いた。今回の座席は指定席。左側の後ろを、と要望したのに、口では「OK、OK」といいながら2A・Cになった。丁度プロペラの辺りでは無いか、と思ったが、もう仕方が無い。後に沢山の人が並んでいて、それぞれ勝手にカウンターに押し寄せてきている。またこの時に初めてパスポートが必要なことが分かった。ホテルにセーフティーボックスに預ける国だってある。こうした点はきちんと言ってもらわなければ、何の為のガイドか分からない。
 さて搭乗口へ行く前にまた検査がある。男女別のボディチェックがあるのも前回と同様だ。
 待合室は一つだけ。二つある搭乗口のどちらから出るのかわからないが、液晶の画面に飛行予定が出るので、それを見ていると何となく分かるようになっている。といっても、飛行予定時刻の表示がされているだけで、予定時刻を過ぎたものもそのまま表示されていた。それを見ていて気がついた。今日は1本も飛んでいない!そういえばガスっている感じもする。
 西洋人もカウンターに押しかけて色々交渉しているが、待てという以外に係員は言わない。そのうち面倒になったのだろう、とうとう彼女は逃げ出してしまった。
 今から考えれば、ブッダエアーのチケットカウンターではこの事態を把握できていたはずだ。だからのんびりとやっていたわけだ。次第に待合室には人があふれるように多くなってきている。トイレに行きたいが、その間に呼ばれたら困るなぁと思いつつ、交代に行く。
 待合室にあるテレビでは、今日のシヴァラートリーの実況中継をしていた。ものすごい人で賑わっていた。しばらくそれを見ていた。今日はこの祭りの一端を体験するつもりでいる。
 待って、待って・・・ようやく7時48分頃に、我々のフライトが8時になると表示された。

nepal2551 20 09-06.jpg国内線ターミナル内部
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8-3 エベレスト遊覧飛行<U4 103便  2A・2C>

搭乗(0823)離陸(0834)エベレスト(0850)着陸(0933)空港発(0945)

 しかし、新しい飛行時間である8時を過ぎてもいっこうに動きは無い。ただ、別の航空会社が乗客を乗せ始めたので、そろそろかなと思って耳を澄ませていた。そのうちに係員が大声で、先行する101便が呼ばれた。
 実際に出発のバスに乗ったのは、8時13分。小さなプロペラ機に乗ったのは23分。一番前の席には窓が無いから、2A・Cというのは実質一番前の席の左右だった。すぐ隣にプロペラがある。最悪と思ったが、前を見ればプロペラから外れるし、後ろを見ても外れるので、まあいいか。それよりも、満席で窓の無い一番前の席にも乗客がいたのには驚いた。かわいそうな彼は初め仕方なく本を読んでいた。これで同じ料金を取るの?とはなはだ疑問。(彼は他の人より多くコックピットを占めることは出来たのだが・・・)
 34分に離陸。2時間遅れとなったが、上に行くと雲の上にヒマラヤの山々が見えてきた。
 初めは左側にそれがよく見える。青空に反射してなかなか写真が撮りにくい。
 こんな飛行機でもキャビンアテンダントは乗務している。キャラメルも配られた。そして途中で山を指さして一人一人に説明をして歩き回る。ただ、それを聞いてもエベレスト以外に山の名前を知らないので、ただうなずいていただけだった。それがもどかしくなったのか、noriが山を確認しているときに、noriのカメラを取って代わりに写してくれたりした。そして、今この山を撮ったのだと教えてくれた。
 そのうちに一人一人コックピットに呼ばれて写真タイム。操縦士が、エベレスト、と指さして教えてくれた。エベレストは全員が写真を康平に撮れるように配慮してくれるという寸法。
 そこでUターン。今度は右側の席から山がよく見える。
 大満足で戻ってきた。着陸してからバスに乗り、昨日と同じ所へ着いた。そこでガイドと合流した。我が家的にはこれで世界遺産「サガルマータ国立公園」を制覇したことにしたい。

nepal2674 20 12-08.jpgこれがエベレスト(左のピーク)
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8-4 パナウティ(1045~1145)

 カトマンスからバクタプルまではネパール屈指のよい道が出来ている。昨年完成したとかで、街路灯なども整備されている。日本の援助で完成したらしい。ただインドもそうだが、直ぐに沿道に店が出来て旧態依然となるのでは無いのか。それが心配だ。
 さてしばらく走ると、巨大なシバ神の像が丘に建てられているところを通過した。さしずめ東京湾観音のシバ神バージョンと言った感じ。最近建立されたものだと言うことだが、今日はシヴァラートリーの日なので、沢山の信者が丘の上を目指して登っていた。
 この町へ着くまでに、何度もロープを張った子供たちに車は通行を止められた。今日はシヴァラートリーというシヴァ神のお誕生日で、お祭りの日。こうして通行料をもらうことが認められている。これで子供たちはお菓子などを買うそうだ。こうした祭は年に二回あるそうだ。
 旧市街地区の入り口からは歩いて町を回る。最初にゲートをくぐる。この街に流れている川は見た目汚い川なのだが、12年に一度大きな祭が開かれることで有名だ。ただそのような川にどうしても見えない。
 外の町でもそうだが、ちょっと歩くと神様に会う。それくらいにヒンズー教や仏教の寺院が多かった。
 この町には伝統的な建築が数多く残っている。昨日、何を見たいですか?と聞かれたので、そういう建物をみたいと答えておいた。というか、日本側の説明では、この街でシヴァラートリーを見ることになっていたのだが、そのような方向では通知がなされていなかったようだ。ちぐはぐさが目立つ。というか、日本側は観光客を送り込むだけで、後はすべて現地任せと言うことがこの頃になって感じられるようになってきた。
 この街を散策していても、容赦なくシヴァラートリーの洗礼を受ける。少し歩くとすぐに子供たちの作った臨時通行料徴収所に出くわす。しかしながら、我々が体験したいシヴァラートリーは宗教行事としてのそれだ。
 さて古い建物は木組みの家で、3階建てが基本なのだそうだ。一応修復などもされているようだが、どんどん新しくなっているのは致し方がないことだそうだ。
 確かに家を見ていると貧しい感じがする。人が住んでいないような家も目立っていた。
 町の中心に立つのは、3層屋根のインドレスワル・マハデーブ寺院。シバ寺院だ。ということは子供たちの通せんぼも多かった。あめ玉でもいいというようなことを書いていた旅行記があったので、我が家はそれを用意したのだが、現金でないと駄目、といわれたので、ガイドに任せたが、中には、青年たちが太い丸太で、ひどいところは橋を通行止めにしてたかっているのもあった。子供たちなら可愛いものを、どうせ酒やたばこ代になるのだろうと話した。こうなるとひどいものだという感想だった。
 インドレスワル・マハデーブ寺院に入るのには、入場用300ルピーがかかる。結構な高額料金だ。併設の小さなミュージアムの入場料も含まれているらしい。この寺院の屋根の支柱にはシバのさまざまな化身が表現されており、ネワール建築の木彫の傑作といわれているそうだ。ここでもたくさんの主に女性信者がお参りに来ていた。
 次にすぐ横を川が流れるクリシュナ寺院にきた。この寺院にはガートがあった。人が集まっていたので、葬式だったのかもしれない。
 それから見たのは、やはり寺院なのだが、形がちょっと違い、壁にはフレスコ画が描かれているものを見た。
 いろいろな文化が融合していて、それなりに面白い町だった。

nepal2898 20 14-31.jpgインドレスワル・マハデーブ寺院
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8-5 チャンデスワリ寺院(1207~1255)

 バネパに入る直前に、女神チャンデスワリを祀ったチャンデスワリ寺院に立ち寄った。
 パルバティ女神が悪魔を滅ぼす姿になり、この地にいた厄介者を追い払ったので、パルバティは「チャンドを殺すもの」という意味のチャンデスワリという名をもらった。この寺院は、その女神を讃えて建てられた。
 屋根を支える支柱はもとより、建物全体に施された彫刻はやはり見応えがあり、また面白い。いろいろと見学するにしたがって思い始めたのは、こうした建築群の適切な保存法というのはないのかということだ。白木に施された細工は、風雨にさらされたままにある。中には着色しているものもあるのだが、保存という概念がないままに、惜しげなく滅びてゆく美を追求しているような感じさえする。民家の古建築のきれいな三連窓枠についても同様だ。透明で光らない(目立たない)塗料などを施すことで、エイジングを防ぐなどの工夫はできないものなのだろうか。修復がきちんと行われていれば別だが、大寺院や世界遺産登録地域は適切な手が入るだろうが、そうでない場合には放置状態だ。ガイドにそのことを聞くと、要は私有財産なの仕方がないという返事。
 この寺院の最大の見ものは、西の壁の巨大なバイラブの色鮮やかなフレスコ画。バイラブは恐ろしい破壊のポーズをとっている。あまりにも鮮やかなので聞いてみると、修復されているということだ。ところで、フレスコ画と簡単にに書いたが、この技術は西洋伝来のものなのか、ネパール(南アジア)独自のものなのかは聞き逃した。おそらくは中国伝搬か。
 黄金に輝く金属葺きの屋根がきれいなのだが、あいにく逆光で背面からしかきれいにとれなかった。
 ここでは例の通せんぼはなかった。この街には子供がいない・・・訳では無かろう。シヴァラートリーでシバ寺院詣でも行われていたのに、何故か不可思議だった。

nepal2962 20 15-24.jpgチャンデスワリ寺院遠景
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8-6 バネパ(1228~1255)

 それからバネパに入る。結構賑やかな町だ。ただそこは新市街なので、我々は旧市街地の方へ車を捨てて歩いて行った。
 同じように、ここも木組みの家で、繊細な木彫りが施されていた。その若い職人もいて、店先で熱心に仕事をしていた。他にも若い女性がミシンがけの仕事をしていて、この町では若い人が多く目に付いた。
 この町も寺院が沢山並んでいた。ヒンズー教も仏教も分け隔てなく信仰しているので、一つの所に両方の神が祀られている。シヴァラトリーのたき火の用意もなされていた。
 ただ、町の印象としては、クラクションをかき鳴らして人を威嚇しながら走るオートバイなどは殆ど見かけず、静かな町だった。
 ガイドがここでミカンを買った。昼が遅くなったからと言うことだったが、いくつも買ったにも関わらず、我々に何故か一つずつ与えて、後は自分で食べていた。甘いミカンだったので、手に汁が残りそれがべたべたした。後からとってつけ加えたように、もう一ついかがと聞かれたが、食事が控えているのに、そう食べられるわけもない。急にミカンを買いだして驚いた訳だが、自身が腹を空かしていたのだろう。というか、この辺りから彼の食事感覚がおかしいという疑問が我々を覆うことになった。
 一旦例の日本の技術で作った道路に出て、近くの店で昼食をということでガイドが店に連れて行く。連れて行ってもらった店は、看板も無く、ビルの裏側から階段を上がっていくような、ディープな世界のところだった。これはこれで面白そうだったが、しかしながら、あいにくと休みだったので、バクタプルまで行くことになった。この人のレパートリーの少なさがここでも露呈した感じだ。
 途中、もう一度最大級のシバ神とか、畑の様子を写真に納めた。この辺り、煉瓦工場も多かった。

nepal3016 20 15-42.jpgバネパの街並み
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8-7 バクタプルゲート(1328)

昼食(1340~1417)

 ゲートを入るときにまたもや通行料。今度は確かに払ったという証明書を渡された。観光中に求められたら見せなければいけないのだそうだ。
 初めに昼食のレストランへ行った。これも行きたかったところは満席のようなので近くの別の店に入った。二人で気楽なのはいいが、団体の時のように予約などというものをしないために、こういうことが続く。まあ、それでも代わりのところが面白ければ言うことはないのだが。
 店は、トゥマディー広場、つまりは今夜のホテルと同じ広場に面しているところにある。その3階に通された。広場全体が見渡せる、場所的にはいいところだった。更に上があるというので、そこにも行ってみた。
 それから昼食。ネパール料理ですと言って出されたのは、「やきぞば」と「チャーハン」。それをシェアして食べた。それとダルスープ。最後の三つの写真がそれだ。言っておくが、ここは観光地の食堂だ(ゲストハウスの食堂)。外国人も入る。こんな内容のものしか作れないわけでは無い。しかし本当にこれだけ。がっかりの内容だった。どうも我々の食欲を満たすことに気を遣うより、ミカンをむさぼり食べていたように空腹だったガイド自身の食欲を満たすこと中心になっている感じがした。
 これが普通のネパールの人の昼食なのか? 何か見くびられているような感じがした。こんな粗末な昼食を、海外で食べたことは殆ど無いと行ってよいくらいの内容だった。・・・だがこの日の食事の内容はこれにとどまらなかったのだ。それを知ったのは数時間後だった。
 文句ばかり綴ってきたが、よいこともあった。この建物、食べた場所より更に高いところに上れるようになっている。このことはnoriが発見した。カトマンズのホテルもそうなっていたので、たぶん同じような背伸び背伸びの構造だろうと考えたのだが、それは当たりだった。トゥマディー広場が俯瞰できた。これは炭水化物ばかりのばかばかしい食事を帳消しにするほどの俯瞰だった。

nepal3093 20 16-57.jpgトゥマディー広場全景
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8-8 バクタプル散策(1420~1535) ・・3108

 それから散策。
 バクタプルは889年にアナンダ・デヴ王によって築かれ、その後12世紀~18世紀の間、首都のひとつとして栄えた。住民の8割以上がネワール族で、ネワールの建築物や彫刻を見ることができるという、旅行会社の今回おすすめの町だ。本当はここに宿泊する予定はなかったのだが、担当者が勧めてくれたのだ。
 結論を書いておけば、この勧めは正解だった。たぶん彼はこの街を訪れており、その魅力を理解していたのだろうと思う。この部分について言えば、「つきのいえ」などの説明のいい加減さを帳消しに出来る。すばらしい街だった。

8-8-1 ダルバール広場

 旧王宮前にある広場で、旧王宮・寺院を中心にネワール建築がならんでいる。建物の多くは17~18世紀のネワール美術の花開いたマッラ朝のもの。
 トゥマディー広場からは路地一本で繋がれている。
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8-8-1-1 パシュパティナート寺院

 最初にパシュパティナート寺院から見学した。
 寺院の中ではバクタプル最古のものであるといわれており、1492年に建立された。シバの化身のひとつであるパシュパティを祀っているが屋根の支柱にはチベット仏教の影響を受けた彫刻が施されている。カトマンズにあるパシュパティナートを真似て造られたといわれている。いつもは前の扉は閉ざされているのだが、今日はシヴァラートリーということで開かれていた。お参りをする人が多かったので、ヒンズー教徒でない我々は遠慮して通過した。(実際、翌日早朝訪れたが、既に扉は閉ざされ、中で僧侶が読経?していた。)

nepal3117 20 17-34.jpg門の開いているパシュパティナート寺院
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8-8-1-2 メーン広場

 次の広場に出ると正面に旧王宮と国立美術館が並んでいた。その向かいには今はレストランになっている建物があった。(我々もホテルの夕食を放棄してここで食べればましな食事にありつけたかも知れない。)
 美術館の向こうが正面の入り口だと言うが、遠目に見ただけだった。美術館も入り口の彫刻だけ見た。獅子の後ろにいるのはハヌマン?早く家に帰りたいのか、ガイドの足も駆け足気味だ。

nepal3122 20 17-35.jpg王宮(左が美術館) 
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8-8-1-3 旧王宮

 旧王宮は、17世紀にヤクシャ・マッラ王により建立され、その後、代々のマッラ王によって増築された。そこに入る門がゴールデンゲート。1745年にランジット・マッラ王によって造られた。この門には、ガルーダにまたがるカーリー女神やヴィシュヌなどのヒンドゥーの神々がいる。そしてそのゴールデンゲートの前には、ブパティンドラ・マッラ王(在位1696~l722年)がお祈りをしている像が上に乗った石柱が立っている。
 門をくぐって中に入る。ただ、王宮の中には入れないので、王の沐浴場へ行った。周りには彫刻が施され、優雅な沐浴の様子が偲ばれる。

nepal3125 20 17-38.jpgブパティンドラ・マッラ王
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8-8-2 バクタプルの町

 この町も面白い。他の都市と同様に、いろいろなところに神様がいる。壁にも道にもだ。人々が信じるもの、それが神と言った様態は、日本の土着神のそれににているかもしれない。ある種のおどろおどろしさも類似性を感じる。
 それもヒンズーの神様だけではなく仏教の神様もいる。ネワール人はヒンズーだ、仏教だと区別することなくどちらも大切にしているのだそうだ。日本で言う神様仏様と言うのと同じか。何か非常に親近感を覚えた。最もガイドに言わせれば、日本の神と仏の違いが分からないと言う。現在のネパールは明治期以前の日本に近いのかも知れない。そのような趣旨を言ったがどこまで伝わったかは疑問。
 それから仏教であるが、最初の写真は入口で、ここは仏教の旗があるので中に寺院がある。正確には住宅の中に寺院部分がある。中はスペインのパティオや中国伝統的家屋である四合院と言った雰囲気の建物に囲まれた中庭に通じている。その建物の一部が寺院となっている。生活の中で祈りを捧げているという感じ。在家仏教の感覚か?だがネパールは小乗仏教のはず。この整合性はどこから来ているのか。
 ともあれ、そんな中で暮らす人たちではあるが、生活は生き生きしている。商売熱心でもある。中には日本語で表示されている店もあったりする。もちろん当てずっぽうに、「ニーハオ」「アンニョハセヨ」という人もいるし、「こんにちは」と言う人もいる。この町でちょっと歩いただけで、複数の日本語学校を確認したのには驚いた。
 最後の写真は民家の入口を写したものだが(画像をクリックして拡大して下さい)、このような絵というか絵文字のようなものが左右に飾られている。これは新婚の過程を表していると言うことで、結婚(および出産?)が尊ばれていることが伺われた。

nepal3176 20 17-54.jpg五色の旗は仏教旗
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8-8-3 タチュパル広場(ダッタトラヤ広場)

 ここは14世紀に造られたバクタプルで最も古い広場で、かつては町の中心部だったそうだ。最も重要な場所であったとされ、中央にダッタトラヤ寺院がある。1427年にヤクシャ・マッラ王の統治時代に建立され、1458年にビシュワ・マッラ王により、改築された。1本の木から彫りだされたといわれている寺院だとのこと。それは多分伝説なのだろうが、それでも柱などに施された彫刻は繊細で見事なものだ。
 ヒンドゥー教の寺院で、本尊はヴィシュヌの化身であるダッタトラヤ。寺の正面には柱があり、その上にはヴィシュヌの乗り物であるガルーダの像が、また、入り口には、伝説の戦士のジャヤ・マッラとパッタ・マッラの像が一対ある。ダッタトラヤはブッダのいとこであるとされるため、仏教徒にとっても重要な寺院で、ヒンドゥー教・仏教の両教徒が参拝するところとなっている。
 ここに女性の参拝者の長い列ができていた。これがどうしてなのか分からなかった。旅行記などを見るといつも女性でいっぱいとあるが、この日は夜まで及んでいた。やはりシヴァラートリーのせいなのか、普段通りなのか分からなかった。
 壁面には最後の写真のような歓喜天のような彫刻がいくつもあったが、ヴィシュヌとラクシュミーなのだろうか?

nepal3211 20 18-17.jpgタチュパル広場(ダッタトラヤ広場)
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8-8-4 木彫りの窓など

 寺院の辺りの建物を見ると、家全体に彫刻がなされている。窓から顔をのぞかせている彫刻もあったりして面白い。
 すぐ裏手にあるのが、かつてはヒンドゥー教の僧院として使われていたが、今は木彫博物館になっているという建物。中国語で説明書きがしてあったのを見て、またもや中国の勢いを見せつけられた。そこで木彫りの窓枠をお土産にと思ったが4千ルピーというのでやめた。
 この建物の外側にある孔雀の窓がネパール工芸美術の最高傑作とされている。羽をいっぱいに広げた孔雀の周りには小さな鳥が35羽、そのほかにも幾何学模様や悪魔、動物などが彫りこまれている。この孔雀の窓、一つだけかと思ったら、大きいのが一つで後はやや小さめのものが沢山あった。名付けてピーコック通り。お土産屋さんが並んでいたが、見るだけだった。
 他にもいろいろな木彫りの模様が見られた。
 それからまた路地を通ってホテルの広場へ戻った。路地を通っている際に特徴的な黒を基調に赤を配した柄のサリーを着ている人に何回か出会った。これはバクタプル地方の特徴的なものだそうだ。では、サリーは各地域にそれぞれ特徴あるパターンがあるのかとガイドに聞くと、そんなことは無いという。では何故にここで過特徴的なものを?と問うも答えなし。このガイド一応名称はシティーガイドになっているが、ちょっと突っ込むとその先は出てこない。まぁ翻訳機と考えればそれでよいが、何とも頼りない。
 さて街のあちこちで今夜のたき火の用意がなされていた。こうしてどんどん気分もシヴァラートリーに向けて高まってくるのが観光客の我々にも感じられた。この高揚感がよいのだが、これはお祭り好きで無いと分からない感覚かも知れない。ガイドは面白い祭では無いという一点張りだった。どうもnepal人なのに、nepalのよいところを吸収して帰ってもらいたいという気概が感じられなかった。
 驚いたのは豆腐を売っていたこと。こちらでも作っているのだとか。日本や中国の影響なのか、独自の文化なのか、分からない。昔から作っていますよ、とのことだ。それから何故か、生では食べられない、固い豆腐だから、という。彼は我々が醤油を持っていることを知っているので、勝手食べやしないかと心配だったのかも知れない。
 ホテル前の広場(トゥマディー広場)に戻る直前、大きな木製の車輪を見つけた。これは何でも祭の時の山車の車輪だそうだ。この大きさ(ひとひら以上ある)の車輪が牽く山車を見てみたいものだ。

nepal3224 20 18-22.jpg孔雀の窓
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8-9 ホテル<サニーゲストハウス 201号室>

ホテル着(1535)

 ホテルはトゥマディー広場に面していた。
 すぐにチェックインしようとしたので、またトゥマディー広場の説明を聞いていないと言って、そちらへ行って簡単に説明してもらった。この行動にはnoriは相当に頭に来た。ガイドは今日はここへは泊まらずにカトマンズの我が家へ帰るので、早くしたかったのだろう。もうこの街に来てからそれが見え見え。昼食の粗末さも、早くできるものを注文して済ませようという魂胆なら納得が行く。まだ16時にもなっていないのだ(確かに朝は早かっただろうけれども、マウンテンフライトがある日はこんなものだろう)。
 それから部屋へ案内された。今回は2階だったのでよかった。入り口には若いお兄ちゃんが陣取っていて、出入りをチェックするようになっていた。ソファーに毛布があったので、どうやらそこで寝泊まりするらしい。
 電気が一番心配だったが、自家発電ですべてまかなえるというので安心した。扇風機はあったが、暖房はないので、junが毛布をもう1枚ずつ欲しいと借りに行った。実はガイドに言っておいたが、どうも徹底していなかったようだ。その間noriはトイレが汚いと行ってトイレ掃除をしていた。 シーズンオフで客が少ないせいか、そういう所が行き届いていなかったのか。
 ただ、インターネットは常時つながっていたので、この点では有り難い。また窓は二重になっていたので、広場に面してはいたが、まぁまぁ遮音性もあった。

nepal3241 20 18-41.jpgニャタポラ寺院
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8-10 散策(1652~1810)

 しばらく休んでから夕食前の散歩に出かけた。
 まずは、地図を片手にダッタトラヤ広場へ行って見ることにした。迷子にならないように地図に歩いた道を印しを付けながら行った。
 鳩がものすごく多くて、いつ糞が降ってくるか分からないのでなるべく道の中央を歩いた。
 今夜は夜通したき火をするのだそうで、その準備もなされていたが、さっきよりもその場所が増えていた。
 この通りにも沢山の寺院が見られた。途中、賑やかな部分があった。そこではなまはげのようなこの地区の神様が現れていてそれを取り囲んでの大騒ぎだった。その子分と思える子供たちが、我々を見ると「マネーマネー」といって手を出したが、笑って通り過ぎた。これは写真に撮ってはいけないとガイドに言われていたので、何もせず通過(原則的に)。何故かこの時だけ、このガイドが宗教的なことを口にした。
 無事にダッタトラヤ広場に到着できた。相変わらず女性の列は続いていた。そこでまた一回りして写真を撮ったりした。建物もそうだが、窓が特徴的で面白い。そんなうちにどんどん日が落ちてきた。
 そこで一旦ホテルに戻ることにした。途中、たき火にはもう火が入っていた。
 暗くなる前に同じ道を通って途中まで行き、ダルバール広場のシバ寺院を見てホテルへ戻ってきた。シバ寺院の前にもたき火はあったが、シヴァラートリーではあるが、信者の数は先ほどより激減しており、数えるほどであった。
 最後の写真は喜捨?を求めて各店店(家々か?)を回る人々。町内会のお祭り協賛日を集めに来ていると言った感じかも知れない。

nepal3279 20 20-28.jpg祈りの時を待つ女性の長い列
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8-11 夕食(1900~1930)

 夕食の時間になったので屋上のレストランへ行く。屋外もあったのだが、日が落ちると冷えてきたので、中にしてもらった。ガイドがあらかじめネパール料理を頼んでおいたというので、楽しみにしていたのだが、出てきたのは例のダルスープとご飯山盛りとチキンカレー。
 カレーは直径が5cmほどの小さな器にちょびっとあるだけ。他に何か出てくるのかと思ったらこれで終わり。今夜は飲むぞ、と意気込んでいたのだが、ビール1本で早々に引き上げた。
 今日の昼といい、何という食事なのだろう。食事を楽しんでもらおうという気持ちが全くない。ただ、食べさせればいいと思っているようで、大いに不満だった。自分が食べないから?と勘ぐってしまった。いや絶対にそうだと思う。noriはこの時にガイドには絶対チップは渡さないと決意した。(junなど、にこにこ敬礼する警備員さんにさえチップを渡していたのだから、この怒りとも言うべき感情を推し量ってもらいたい。)
 前日あれだけ飲んで食べても二人で1000ルピーなにがし、我々は一人40万を払っている。一帯どこをどうけちれば気が済むのだろうか。

nepal3340 20 22-22.jpg水牛の脳みそ

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8-12 散策(2000~2045)

 ガイドにはあまり夜は出歩かない方がいい、みたいなことを言われたが、これが楽しみなのだとばかりに出かけた。ダルバールのシバ寺院はたいしたことが無かったので(扉が特別に開いているだけにように思えた)、やはりダッタトラヤ広場へ向かった。
 道のあちこちのたき火には火が付けられ、何となくお祭りの雰囲気が出てきていた。さっき準備されていなかったところにも火の手が上がっていた。そこで暖を取りながら過ごすようだ。
 人々が大勢広場の方へ向かって歩いていた。日本で言う初詣のような感じなのかも知れない。女性、特に子供たちはおしゃれをしていた。行き交う女性の顔を近寄った際に覗くと、ハッとするほど美しかった。
 ダッタトラヤ広場には、更に長い列ができていたが、女性だけではなく男性もいた。子供もいた。何をお祈りするのだろうと思いながらその列を見ていた。
 また、寺院から笛や太鼓に合わせて歌が聞こえてきた。神へ捧げるバジヤン(宗教歌)だろうか。
 それから若者達がいくつもの固まりで、たむろしていた。これで屋台が出ていれば、全く日本の祭と変わることは無い。
 堪能して、ホテルへ戻った。ガイドが心配するようなことは全くなかった。不安を感じるような出来事も人もいなかったということだ。まだ「長い」夜が始まったばかりなのか、酔っ払いのような人も殆どいなかった。もう少し自分の国と、自分の国の人々を信頼してもよいかと思う(職業的な安全を優先しているのかも知れないが、それが面倒くさいことに巻き込まれたくないという風に聞こえてしまう)。

nepal3343 20 23-25.jpgバジヤン(宗教歌)の声が響く
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8-13 就寝(2130)

 バスタブがあって、お湯も出たので、noriは身体を温めてから寝ることにしたが、junは疲れていたのですぐにダウン。
 窓は元々の木の窓に加えて新しくガラス窓を造っていて二重になっていたので、外の音は殆ど入ってこなかった。ただ部屋が小さいのは仕方が無いが、二重窓を作ったせいでクローゼットが使えない状態になっており、また荷物を広げる場所も無かった。そのこととトイレが汚かった点だけが不満だった。