9.2012(平成24)年2月21日(火)
バクタプル、チャングナラヤン、パタン、カトマンズ 晴れ
起床(0430)散策(0630~0718)朝食(0740~0800)散策(0822~0930)ホテル発(0955)チャングナラヤン(1032~1127)パタン(1508)ホテル着(1600)散策(1630~1730)夕食(1900~2145)就寝(2230)
9-1 朝
起床(0430)
朝は静かな中に起きた。
ホテルの前にあるバイラブナート寺院の鐘の音がうるさくて・・・という旅行記を読んだが、そんなことはなかった。未明からそれは何度かかき鳴らされてはいたが、気になるというという程度のものではなかった。
起きてからまず身支度。いつでも出発できるように荷物の整理もした。
9-2 散策(0630~0718)
それからまた町へ出た。一晩中大騒ぎをするらしい、と聞いていたが、この町は至って静かなものだった。昨日と同じ道を通って、ダッタトラヤ広場へ向かった。道には昨日の名残のたき火の残骸があった。
途中、何カ所かで朝市が開かれていた。自転車の後ろにものすごく大量のカリフラワーを積んでいる人たちが沢山いて、これって処理できるの?と心配になるほどだった。また、お祈りのパーツを売っている店もあった。とにかくここの人たちはよくお参りをしている。神様は寺院だけではなく道路にも壁にもいる。それらに、祈りを捧げている。
ダッタトラヤ広場に着くと、水場では数人の女性が水をくみに来ておしゃべりをしていた。そういえば、水坪を持っている女性に沢山すれ違った。朝こうして水を汲むのはどうやら女性の仕事らしい。ダッタトラヤ広場は、昨日とは打って変わって静かな朝を迎えていた。人々はもう日常の生活に戻っていた。勿論朝のお勤めをする敬虔な信者もいた。ゴミの収集車も来て、昨日のゴミを片付けていた。
写真中断左側、オレンジ色の箱に赤と青のペイントがある白い固まりの中味は牛乳。かなり衛生的に売られているのが分かる。
広場横の路地では朝市が開かれていた。ここのはこれまでのより大きい。野菜類が多かったようだ。ここにも大量の野菜を積んだ自転車やらトラックが並んでいて、毎日こうして新鮮な野菜を手に入れているのだと改めて感じ入った。
最後にホテル前のトゥマディー広場に行った。バイラブナート寺院には沢山の参拝者が来ていた。その前ではやはり朝市が開かれていた。あまり時間がないので、さっと写真だけ撮った。そこを見て朝の散歩は終わり。
9-3 朝食(0740~0800)
ホテルへ戻って朝食を取った。
7時半からだというので行ったのだが、まだ昨日の食べかすが残っている状態。外人はのんびりと(遠慮しがちに?)」待っていたが、時間がもったいない我々は、後から行ったがずかずか入っていって、注文をした。一番に食べることが出来た。
昨日朝ご飯をどうするかという話があって、ガイドはトーストとコーヒーくらいを期待していたらしいが、noriがセットメニューがあるはずだからそれにするというと、ガイドは渋々OKをして、二つの中から選べという話になった。
と言う経過があって、朝食はメニューから選べるようになっていたので、AとBを頼んだ。Aはサンドイッチセットで400ルピー、Bはトーストセットで350ルピー。ケチなガイドが渋るのも分かるような値段。おかげで、昨日の夕食より格段に上等だった。Aセットにはヨーグルトが付いていた。
そういえばこの町はヨーグルトが売り物の一つらしい。確かに美味しかった。こうしたこともこのガイドはしらないのだろうか。一応シティーガイドと言うが、どういうライセンスを持っているのだろうか。
9-4-1 ダルバール広場
今度はダルバール広場へ行ってみた。旧王宮広場だ。昨日は開いていたパシュパティナート寺院の入り口は閉ざされていた。また、昨日は入り口の門を見ていなかったので、そちらへ行ってみた。
そこで写真を撮っていると現地の人がどんどん横を通り過ぎていく。みんな仕事に行くのだろう。観光客はあまり見かけない。
昨日はあまり撮れなかった所の写真を撮った。noriはゴールデンゲートの正面にあるマッラ王の姿を、あちこち方向を変え、高さを変えて捉えていた。junはnoriが足台にしていた中央にある寺院の彫り物が面白いので、そちらを撮っていた。
それから広場の隅の方にあるファシデカ寺院を見た。ここもニャタポラ寺院と同じように正面に階段があり、その両側に、下から、象、ライオン、牛が一対ずつ置かれていた。その左側にも同じようなバクバティ寺があるのだが、こちらの階段の両側にあるのは、犬やサイなどがいて、面白いが、これも下から10倍の力というのは同じなのだろうと勝手に解釈した。
二体の大きな獅子の像は、どこか他の寺院から持ってきたものだそうだ。
それから路地を抜けていこうと思ったが、時間に限りがあるので安全策をとって知っている道を行くことにした。ということはまた、ダッタトラヤ広場へ向かった。というか、やはりこの町は王宮よりは、道のネットワ-クという点では、ダッタトラヤ広場が中心のように思える。
9-4-2 朝の町
そろそろ店が開く準備をし始めていた。朝市はまだ商売をしていた。もしかしたら朝市ではなく、一日商売をしている露天なのかも知れない。そうそう保存はできないだろうから、売れるまでこうして売っているのか。
歩いているといろいろなものが目に飛びこんで来る。登校前に新しい靴を買ってもらっている男の子、通学途中の女子学生、そしてやはり沢山の祈りの場。
最初の写真は、道ばたの神?こうしたお供え物は時に鳥たちの、時に貧しい人達のもとへと巡ってゆくようだ。コインまであるが、一般の人は拾うことは無い。
ダッタトラヤ広場はもうすっかり元の静けさに戻っていた。水場の人たちも戻っていったようだ。
9-4-3 路地
それからまた「孔雀の窓」の通りに入っていった。その曲がり角の所に、集会所がある。よく旅行会社のパンフレットに載っているのがここの集会所だという。
孔雀の窓を見ながらどんどん進んでいった。昨日、ガイドさんと歩いて道を思い出しながら、裏道を歩いて行った。この道はあまり見るところはないが、飾りもないこの地の人の生活の様子が見える道だ。
こっちの方かなと見当を付けながらも、迷うことなくホテルの近くへ戻ることができた。昨日の燃え残りは綺麗に片付けられていた。残骸はそのままにして風任せにするのかと思っていたのだが、こうしてきちんと後始末をしてあったので、ネパールの人に申し訳ない見方をしていたと思った。
9-4-4 トゥマディー広場
最後はホテル横のトゥマディー広場に行った。ニャタポラ寺院の上まで行っていなかったからだ。夕べは、この上に数組のアベックがいた。
このニャタポラ寺院は、1702年にプパティンドラ・マッラ王により建立されたカトマンズ盆地で一番高い30mの寺院だ。「ニャタポラ」とは「五重の屋根」という意味で、この寺院は5段の基壇と五層の塔で成り立っている。正面の石段の両側には、下から順に伝説の戦士(ジャヤ・マッラとパッタ・マッラ)・象・獅子・グリフィン・女神の石像が守護神として1対ずつ置かれている。普通の人間の10倍の力を持つといわれる伝説の戦士から順に上に行くにつれて力がさらに10倍ずつアップするといわれている。(しかしこの寺院の説明をしないガイドというのはいるのだろうか?改めて怒りがわいてくる。)
その正面の階段をnoriは上って行った。junはもう疲れたと言って下でnoriを被写体にしていた。
noriが最上段をぐるっと一周して、丁度いい時間になったので部屋へ戻って荷物を片付け最終確認をした頃、ガイドが迎えに来た。
9-5 バクタプル出発
ホテル発(0955)
自由散策の時間がたっぷりあって、この町を十分に楽しむことができた気がする。まだまだいたい気持ちも残るが、それでも次の観光地へ向けて出発だ。広場には黄色いスクールバス(GENUINE SECODARY SCHHOL)が子供たちを迎えに来ていた。
車はこの町を抜け出る道が分からなくてうろうろして、結局またホテルの前まで戻ってしまった。そうこうしているうちに、宗教団体のデモの列にぶつかってしまった。道いっぱいに広がっているので追い越すわけにも行かず、その後についてのろのろ運転だ。そして道を聞きながらの、この町からの脱出。オイオイという感じがした。
ヒンズーや仏教の話ばかり聞いていたが、こうして亜流とも言える信仰もあるのだそうだ。そういえば、共産党の旗やポスターも多かったが、このでもの宗教の宗祖と言える人の写真もあちこちで目にした。
町を抜けるまでこれはと思った風景を写真に撮った。
9-6-1 寺域
寺院の開基は、リッチャヴィ王朝期の323年とされ、カトマンズ盆地でも最も古い寺院として知られている。ネパールで発見されたものとしては一番古い5世紀の石碑があり、リッチャヴィ時代のマンデーヴ王の勝利を伝えている。そのことは石柱に書かれていると言うことで、何と書いてあるのかとガイドに聞くと、今は読めない文字で書いてあるというので、それはサンスクリット語のことかと聞くと、そうだと答えた。たぶんそれでよいとは思うが、全く頼りないガイドだ。読めるかどうかが重要なのでは無く、どういう文字で書かれているのかが重要なのだ。
境内中央の本殿は、ヴィシュヌ神の化身であるナラヤン神を本尊とする。ヒンズー教徒にとってナラヤンは、創造の保護者としての意味を持っている。
ネワール様式の繊細な木彫りで装飾された伽藍は見応えがあり、その一つ一つを見ていると、いつまでも見飽きないほどだ。しかし、リッチャヴィ時代の建物はカトマンドゥ盆地に侵入したムガル帝国軍に破壊されてしまい、現在あるのは1702年に再建されたもの。時代を重ねるうち境内にさまざまな祠や石像が加えられ、今日ある複合寺院となった。これまで見てきた寺院の中では彩色がかなり保存されている。
本殿正面には、ナラヤン神に向かって合掌するマッラ時代の王ブパティンドラと王妃の像がある。その隣のガルーダ像は、マンデーブ1世が化身したものといわれている。
本殿に向かって境内左側のガルーダに乗るヴィシュヌ像は、旧10ルピー札の図案のもとになったものだ。
本堂の周りをぐるりと一周してから少し自由時間となったので、もう一度見て回った。欧米人他に地元の学生らしい集団も来ていて、熱心にメモとったりしていた。それだけ歴史的にも大きな位置を占めているのかも知れない。
一部修理中だった。なかなかこういう職人さんもいなくて、大変なのだそうだ。ちなみにこの人の息子は後を継いでいないそうだ。というのも、今や彼らの働けるところはこうした寺院建築などのほか、世界遺産に登録された街並み保存地域での家屋新築修繕といった場所しか、活躍の場が無いからだとガイドは言っていた。ネパール版宮大工といったところの彼らの保護政策も必要だろう。若い人を育てないと、皆土産物を作る職人と化してしまう。
9-7 パタン市内1(1208~1228)
15世紀にはマッラ王朝は三人の王子の元に3つに分裂し、それぞれ、カトマンズ、バクタブル、パタンに王国を作り、並立してカトマンズ盆地を統治した。この時代には、3国が相互に競い合ったため、美しい彫刻を施した寺院や王宮の建築が現在沢山残っている。その競い合った名残がここパタンにも従って残っていて、王宮の前にある像がそれだそうだ。
建物の多くは17~18世紀のネワール建築で、石畳の路をはさんで、ほとんど軒を接するようにびっしりと建てられている。さすがに人が多い。
そういった素晴らし建物が建ち並んでいるダルバール広場に入るにも料金が取られる。ここはその証拠としてシールを見えるところに張るようにと手渡された。我々はオレンジだったが、他の色もあったので、ガイドさんに聞いてみると「アジアの人はオレンジなのです」などと答えていたが、実際にはそうではなかった。どうもこの人適当に返事することが多い。直ぐ分かる嘘を平気でつくのは、こちらを馬鹿にしている証拠だ。表向きはにこにこしてはいたが、腹の中ではこの嘘つきめと思っていた。
写真は後で、ということでまず昼食をということになった。地元のレストランでいいですか?というので、どんなものを食べさせてくれるのかと思って楽しみに付いて行った。昨日の焼き飯ヤキソバの二の舞にはならないか少し心配ではあったが。
9-8 昼食(1228~1254)
連れて行ってもらったところは、間口が1mほどの、まあ言ってみれば小汚い店。テーブルが5卓くらいしかない小さな店で、一番奥のテーブルがあったので、そこへ座った。前客がいたが、当然のように相席にした。
適当に注文していいですか?というので任せたところ、卵料理が2皿も出てきたのにはあきれた(事前に医者から止められているので卵は一日一個までしか食べられないと言っていたのに)。が、他に辛い鳥肉も出てきたのでよしとするか。ただ、我々があまり食べないというのはこれまでにも何度も言ってきたのだが、彼は自分が食べたいと思うものをまず人数分注文し、そのほかに我々用に肉類を注文した。つまり彼は菜食主義だというので肉は食べないので、肉なしで満腹になる量と、他に肉を追加というわけだ。彼は全部食べたが、我々は彼と同じ量を二人で食べてなお半分くらい残してしまった。それでもその量たるやすごかったので、相席になっていた二人は多分あきれていた、というよりびっくりしていたのではないか。そのくらいの量を頼んでいた。かわいそうなのはその旦那。その勢いに負けて。追加注文をしていた。散在させてしまった。自己中心的なガイドのせいだ。
ただこの間カトマンズで食べた「チャタモリ」(写真三段目左)は彩りよく野菜が載っているなど工夫が見られ、nepal水準からいっても高級ではあったが、ここのはかなり庶民的。この間のが50ルピーもしなかっただろうから、ここのチャタモリはいくらなんだろう。彼に聞くと、よくここに家族と来るという話だ。「よく」と言うのはたぶん嘘だろうが、彼の家族の水準ではたまに郊外(パタンはカトマンズ盆地の中カトマンズの近郊)に出て、家族とのごちそうをする場所なんだろう。金額も分かっているので、心置きなく注文できたことだろう。
同じくその右の写真のチウラセットも、カトマンズのものと比べたらかなり貧弱だ。おそらくは、彼が親を誘っても、ここの程度に来るのだろう。カトマンズの店には連れて行かないだろう。わざわざ彼としては例外的に親切に店まで連れて行ってくれたのは、一緒にどうですかという言葉を聞きたかったからなのだろうか?とまでその時思った。
お客がネパール料理を食べたかったからと言うが、ネワール料理ばかりを食べさせられるのも苦痛だ。外にも民族はいるのだから、そうした料理も味わいたかったが、たぶん彼の経験値というものが不足しているのだろう。ガイドの外れを引いた感じだ。インドに最初に行った時のガイドは、いいとこのお坊ちゃん風の人で、生活水準がそれなりだったので、それなりの店をわきまえていた。このガイドは東京に研修に行ったこともあるということだが、この会社の東京の同族会社は、彼らにどういう「研修」をさせたのか。ともかく、旅行経験がまずまずの我々は、こうした料理にも動じないが、そしてnoriはそれなりに喜んでいたが、おそらくは日本の会社はこの店に入ったと言えば、驚くに違いないとjunは思った。何しろ日本の旅行社では、水道を沸かしたあとの湯冷ましも飲むなと忠告をした位なのだから。
9-9 パタン市内2(1310~1340)
パタンは、wikipediaによれば、その成立はかなり古い年代、つまり紀元前に遡るという。実際アショカ王が作ったとされる4つの塚が今も残っているという。かような経緯もあり、この町は仏教の町と言われるくらい、仏教寺院が多いそうだ。パタンにはさまざまな規模や形の歴史的建造物の記念物が1200以上存在する。犬も歩けば、と言う代わりに、ちょっと歩けば・・という感じで寺院やそれに類するものにぶつかる。
勿論ヒンズー文化も見られる。
9-9-1 クンベシュワール寺院
最初にそんな寺の一つを見た。シヴァ神を祀るクンベシュワール寺院で、パタンでは最古の寺院とされる。五重塔の形はパタンではこの寺だけである(この塔を模してバグタプルのそれは作られたとも言われている)。やはり木彫りの彫刻が素晴らしい。緻密に、しかも立体的にできている。そういえば、この国の五重塔は下層と上層の幅の減衰量が日本のそれよりも多い。日本の五重塔の宝林に当たる先端まできれいな三角形を形成している。ただ惜しむらくは、過去はどうだったか不明だが現在では建物が建て込んでいる中に寺域があるので、その優美な姿を完全には眺めることが困難だ。
五重塔の周りにはヒンズー教の坊さん(占い師?)がいて、信者の願いに対してアドバイスを与えているという。これはたまたまここに来て暇そうな坊さんに聞くのか、日本の檀家制度のような固定的な信者・坊さんの関係があるのか、などを聞いたが、ガイドの答えははっきりしない。われわれはこうしたヒンズー教の習慣も見聞きしたいところだが、相手が悪い。
ところで、二段目の写真は左が坊さんで右が信者だが、左はアジア人の右は西洋人の顔をしている。ネパールはかようにいくつもの民族を抱える国家でもある。ちなみに、ヒンズー教では仏教のような法衣は無いらしい。
正面に向かって五重塔の右側の建物では、丁度日本でいう法事のようなことが行われていた。祈りが終わったのだろうか、しばらくすると記念写真を撮っていた。一族団らんの場でもあるのだろうか。悲しみの姿は、参加者からはうかがえなかった。
9-9-2 ゴールデンテンプル
次にゴールデンテンプル、つまり黄金の寺院といわれる寺に行った。仏教寺院。
ここは革靴を履き替えなくてはいけないが、我々はそのまま入ることができた。どうも革靴が駄目らしい。
ここは12世紀にバスカル・バルマ王によって建てられたとされる。ただ、今のネパールのパゴダ様式の建物は19世紀に造られたものだ。貿易に成功したパタンの商人によって建てられたそうだ。正式名はヒラニャ・ヴァナル・マハヴィハール寺院というが、一般的にはゴールデン・テンプルと呼ばれている。
本堂は金箔で覆われ、仏像も金色に輝いているからだ。この寺院は、ネワール族の僧院で、マンダラや仏像、経典などが収められている。また、入り口の門の天井には精巧な石のマンダラが描かれていて、見事だった。周りにはマニ車があり、チベット人にとっても大事な寺であることが窺えた。
ただ、現在修復中で、金色の輝きは、建物に前置する拝殿のような所にその面影を見るだけで、黄金に輝く様を見られなくて残念だった。修復後は、さぞやまぶしいばかりのかがやきになるのであろう。
仏像くらい拝みたいものだと思ったが(我々は仏教徒)、関心の無いガイドは何の説明もせず通過(通り抜け)していった。トイレに行くからと言って、ちょっと待ってもらった。ただこの時彼が言うには、かなりの高僧が訪れていたということで、仕方が無かったのかも知れない(でもその人は法衣をまとってはいなかった)。
最後に寺を通り越して背面から眺めた。一部出来上がっている感じで、少し雰囲気を味わえた。なおこの外にも、この町はあちこちで修復作業も行われていた。情勢が不安定と言われる中にあっても、また財政的な困難さがかなりあるとは思うのだが、こうした文化財(ネパールは改革以来一応国教ではヒンズー教は無くなっている)の保護に努めている姿には感心させられた。ひょっとしたら、特にパタンで目立ったので、町としての保存の取り組みが真摯なのだろうか。そして観光客が多くて、他よりは少しは裕福なのかも知れないとも思った。
つまり、もちろん観光収入も重要な国家の財源だが、こうしたことに気を配れるというのは、それを民衆が支持しているというのは、心の豊かさのようなものを同時に感じた。文化財の保護については、経済的に厳しいこの間の日本にあっても、次世代に残す為にやり抜かなければならない事業だとも反省した。
9-9-3 町通り
それからまたダルバール(旧王宮)広場の方へ向かった。
向かう途中にもいろいろな形の祈りの場を見た。写真を撮っていると、多すぎて、後からの整理がたまらない、という感じだ。でもそれらは多くあっても、そのそれぞれがうち捨てられた感じではなく、しっかりと人々の祈りの場として存在している。
例えば、ブッダの目のついた塔にしても、失礼な言い方になるが、これだけゴミゴミとした町中にあってもなおいつも白く輝いているのは、信仰の力以外の無いものでも無いだろうと感心した。
最後の写真は、ダルバール広場の奥の方の広場になっているところに出ている露天商。ガイドの言うには、自分の子供の頃には既にこうした露天が出ていたと言うことだ。聞き逃したが、この街の出身か、あるいはかつて住んでいたと言うことだろう。これで例の昼食場所に連れて行った理由の一端が分かったような気がした。何時も来ているかどうかは別として(店の人と顔見知りでは無かった)、少なくとも知っている(入ったことがある)店には違いないと思った。
9-10 パタン博物館(1341~1435)
ダルバール広場にある博物館へ行った。
王宮の中の建物では一番新しいもので、1734年に完成したものだ。一時かなり荒廃したようだが、オーストリアの援助の下に修復され、1997年から博物館として一般公開されている。(ついでに言えば、ガイドはオーストリアの援助があったことさえも説明できなかった。)
ここの門は金色の装飾を持つので「スン・ドカ」(黄金の門)と呼ばれており、この上にある金の窓から王は、広場に集まった民衆に姿を見せていたそうだ。
博物館としては、ヒンドゥー教の神像と仏教の仏像などが展示されて内容が充実しているようなので、入るのを楽しみにしていたのだが、ガイドは予定にないということで、素通りしようとしたのだが、交渉して入ってもらうことにした。旅程表には書いてあるので、当然入るものと思っていたのだ。結局自腹で入ることにした。この件に関しては帰ってから旅行会社に確認してみようと思う。(博物館を訪れると言うことは、概観を見ると言うことをこの旅行社では意味しているのか?)
入ってみると、シヴァ、ヴィシュヌ、ヒンドゥー教とそれぞれに関したもの、また仏教に関したもの、最後に金属加工技術の紹介というようにきちんと分けて見やすいように工夫された展示だった。ただ途中で、またもや停電になり、それらが見づらくなってしまったのにはがっかりした。こんな所もそうなってしまうのか。ただ、しばらくすると復旧したのでよかった。
写真撮影がOKなので、印象に残ったものをどんどん写していった。が、すべては写しきれない。と言うことで、ここには所蔵品を納めた本があるというので購入した。立派なものは分厚くてお値段も結構するので、コンパクトになっている方にした。1000ルピー。買うときに展示してあったのを売ろうとしたので、係員に新しいのをちょうだいと言って、交換してもらった。このガイドブックは例えば「印」の結び方なども解説されたちょっとした宗教芸術入門書で、ネットなどで見ても非常に評価の高いものだ。たびたびガイドの話になって恐縮だが、その存在すらしらないのにも困り果てた。
最後の写真は19世紀のダルバール広場付近の写真。解説には1899年とある。今も殆ど変わらぬ姿を見ることができる。
かなり広い建物なのだが、疲れたらちゃんと休めるように窓際にソファーが並べられているのは、何とも心憎い。ただ時々停電する。それから展示場にいる係員も椅子にもたれて、時にスマートフォンを手繰っている。自分たちが守っている文化財のすばらしいことをもっと教えるべきだろう。
期待にそぐわず見応えのある博物館であった。お金を払ってもみるべき博物館で、ネパール人としても、あるいはネパールに送り出す日本人としても、必見とすべき博物館だと思う。
9-11 再びダルバール広場(1435~)
ゆっくりとここの写真を撮っていなかったので、しばらく撮影タイム。
競い合って建てたというとおり、それぞれの建物に特徴があって素晴らしい。
彫刻などもしっかりと力を入れて作ってある感じだ。
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9-11-1 クリシュナ寺院
17世紀のシディナラシン王の時代に建てられたと言われるこの寺院には、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが祀られている。クリシュナとは、マハーバーラタ戦争の際に正義のために戦ったとして、ヒンズー教徒に広く人気のある神様。
この寺院は、ネパールでは珍しい石造りで、石造建築の傑作であるといわれている。寺院の前には、ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダの像がある。
9-12 パタン市内3(1451~)
広場を抜けて町中を少し歩いた。
とにかく賑やかだ。人が多い。そのせいか、本来なら大事にされるはずの記念像などに、商品や洋服が掛けられていたりもした。まあ、生活のためにそれらとうまく調合できているのだろう。
最後の写真であるが、現在の地面よりも1メートル前後低い位置に祠がある。これは掘ったものでは無く、過去はその位置がグランドであったが、その後現在に至るまで土が被さってきた為にこのような形になっているらしい。遺丘とまで言う段階ではないかもしれないが、町の発展の歴史を物語っている証拠でもある。こうしたものも、我々がキョロキョロして発見して、ガイドに説明を求めなければならない。ストレスを感じた。
9-13 マハボーダ寺院
その後、マハボーダ寺院へ行った。門をくぐると、狭い路地になっていた。そこを抜けたところにこの寺院はあった。それも周りをすっかり囲まれて窮屈そうな場所だ。事情が分かっていなかったら、あるいは通り過ぎてしまいそうな場所にあった。
1564年~1600年にかけて、インドのブッダガヤの大塔を真似て、建築職人のアヴァイ・ラージとその子孫によって建立されたもので、三世代かけて完成を見た。ブッダガヤで見て感激したのだそうだ。高さ約30mの石の塔には無数の仏像が彫られており、別名を三千仏寺院と言う。が、その数は「三千仏」よりはるかに多く、約9000あると言われている。
ブッダガヤのマハボーダ寺院をまねたということで、当然仏教なのだが、ガルーダの像も彫られていて、ネパールらしかった。
隣にある小さな仏塔はマヤ夫人のためのものだとか。(最後の写真)
9-14 パタン市内4 (~1508)
これで一応めぼしい寺院は観光したというので、駐車場までふらふら歩いて行ったが、その途中、道の両側には仏像をずらりと並べた店が続いている。こんなに同じようなものが並んでいて商売になるのかと思うが、結構チベット辺りから来た人が買っていくということだ。
確かに仏教の町という名にふさわしい。(写真は無い)
9-15 カトマンズ <マーシャンディ 108号室>
ホテル着(1600)
今夜はまたカトマンズへ泊まる。ホテルは同じホテルだ。門で出迎えてくれる警備員さんともすっかり顔なじみになった。
今夜はカトマンズ最後の夜なので、ガイドや運転手と一緒にと考えていたのだが、これまで同行していたガイドの仕事ぶりを見ていて、とてもそんな気持ちもなくなった。それで「どこかいい店を教えて」と言ったら、noriがあらかじめ調べてあるリストの中から選んだ。要はそうした才能の無いガイドなのだ。全くもって、いやはや・・とほほ・・・である。更に彼は、日本でnoriが調べた観光地のガイドやレストランなどのリストを必要ないなら欲しいと言った。こうなると、どっちがガイドか分からない。
さてホテル。部屋は下がいいと思っていたら、頑張って下を取りました、とガイドが渡してくれたキーは、確かに一つ上の階だった。我々の感情が伝わったのだろう。これで停電になっても大騒ぎしなくて階下に降りられる。大丈夫だ。
預けて置いたスーツケースと例の赤バッグをベルボーイに部屋まで運んでもらった。ベルボーイはガイドが頼んだが、おそらくはチップなど渡さないだろうから、こちらでチップを渡した。というか、下の階なので、自分たちで十分に運べたのだが。
それからお金を数えてみると結構残っていたので、またまた買い物に出た。
9-16 散策(1630~1730)
どこへ行くか迷いながら、夕食の店にしようとした店を確認する方へいってみることにした。
初めに途中でお土産になりそうな手漉きの店に入った。店頭にあるカレンダーが面白かったからだ。もうカレンダーは買わないと決めていたのだが、絵が面白かったので買うことにした(外国のカレンダーは買っても祝日が違い実用的には役に立たない)。中に入ると手漉き紙の灯籠が沢山あって、これまた面白そうだったので購入した。締めて720ルピー。一応値切ったが、ちょっと高いかなぁと思う。
それから切手を探しに行った。ガイドさんに購入したい旨を伝えたのだが、なかなか手に入らない。ちょっと郵便局に寄ってもらえばすむことなのだが、いつも素通り。この旅行会社の近くの店に売っているというので、そこへ行ってみた。分からないので、NKTに行った。運転手がいて直ぐに見つけて近寄ってきてくれた。彼は愛想がよい。中に入って聞いてみたが、やはり分からなかった。というか、ここでも東京とは違って、お茶を勧めるなどと言うことは無かった。そして、この国では、切手など売っていないと言わんばかりだった。郵便制度くらいあるだろう、現に絵はがきを売っているのだし、と思った。もう少し親身になって考えてくれてもいいのに、と思ったが、どうもやる気のない輩だった。日本的に見ればおかしな会社だ。
仕方ないのでフラフラしてホテルに戻ることにした。すると店頭でミシンをかけていた人がいたので、それにつられて店の中に入った。Tシャツに刺繍をしていたのだ。それを見て、買う気になった。どのサイズがいいかと思っていると店の店主が、あなたはこれ、あなたはこれ、と合わせてくれたので、ホントかなぁと思いながらも自分達それぞれの好みのものを購入した。ところがこれがドンピシャだった。ホテルに戻って着てみたらピッタリだった。さすがに商売人と二人で感激した。2枚で800ルピー。ほんの少し値切った結果。これは刺繍も入っているし、お金も余っていたしで、まぁまぁ折り合う値段となった(少し高いとは思ったが)。
9-17 夕食(1900~2145)
夕食は、noriのリストの中からこの店が良いのではと言われた、モモの店に行ってみたが、満席で入れなかった。チベット料理店で、モモなどがあるというので楽しみにしていたので残念だった。もう少し早めに出かけるべきだったのかもしれない。こうして、我々はカトマンズで夕食難民になった。
その次は考えていなかったので、仕方なく昨日歩いていたら看板のあった日本料理店へ行ってみた。が、既に移転していたので、そこに書かれている地図を頼りに、探していってみた。地図に書いてあるよりも遠かった。
かなり先の場所だったがすぐに分かった。「ふる里」というこの店も満席状態で、どうにか滑り込むことができた。
そこで隣り合わせになった二人は新婚旅行だという。ブータンからネパール、インドへ向かうという二週間の旅行のようだが、二人だけで組み立てながら切符の手配なども現地でしていると聞いて、すごいと思った。少し彼らとブータンの話をした。彼らも、ブータンの道路工事をインド人がやっている点は、おかしいと思っていたらしい。
この店で、結局は日本料理に舌鼓を打つ。店員は日本語の分かる現地の人。多分調理人もそうなのだろうと思うが、メニューも味も盛りつけも全く日本の居酒屋と遜色ない(一つだけ温野菜サラダという得体のしれない食べ物もあったが)。このほかに肉っぽいものも頼んだが、酔っ払っていたのか、写真を撮り損ねた。
提灯の明かりが消える頃まで飲んだり食べたりしていた。と言っても、こちらの夜は早い。お客がほとんどいなくなったので、腰を上げて、帰り道だったので、さっき断られたモモの店を目指すことにした。
しかしながら、寄ろうとしたその店の前まで来てみると、もうすっかり明かりが消えて門が閉ざされていた。とうとう、ネパールに来てモモさえ食べられないという、とんだネパール旅行になりそうだ。トホホと思いつつ、帰路を急ぐ。
9-18 就寝(2230)
明日はいよいよ帰国。昼間観光があり、戻ってきてからの出発となるが、スーツケースをそこでバタバタやるのも時間的に追われるとやなので、できるだけ荷物の整理をしてから就寝。明日の夜は飛行機の中だ。