第十日目 カトマンズ市内

10.2012(平成24)年2月22日(水) カトマンズ市内     晴れ

起床(0600)朝食(0640)散策(0845~0940)ホテル発(1000)パシュパティナート(1022~1105)ボダナート(1129~1202)昼食(1232~1320)ダルバール広場(1334~1510)スワヤンブナート(1555~1620)ホテル着(1635)ホテル発(1830)夕食(1900~2020)カトマンズ空港着(2033)搭乗(2342)


10-1 朝

起床(0600)朝食(0640)

 朝食に早く行きすぎるとまだ用意が十分ではないので、少しゆっくり目に行った。今日は卵を焼く人はいなかったので、お茶だけ頼んで、後は好きなものをピックアップした。と言っても種類がそうあるわけではないが、まあ、朝食だからこのくらいでいいだろう。パンが食いちぎってあるのはごめんなさい。

nepal4153 22 09-59.jpg朝食チケット?
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10-2 散策(0845~0940)

 その後また出かけた。
 今まで行っていない道を行こうということで、noriは知っているようにどんどん進んでいく。どうやらダルバール広場を目指しているらしい。地図を持ってこなかったので、記憶にたよっているようだ。
 最初大通まで出るまでは、くねくね通り曲がった道で、まるで敵の攻撃から町を守ろうとする城下町の様に感じた。が、ここには城はない。あるとすれば王宮か。とにかくそのくねくね道、クランク続きを歩いて行く。その道でもとにかく車や自転車タクシーやオートバイがすさまじい。それにぶつからないように歩くのも大分うまくはなったが、それでもクラクションを鳴らされっぱなしだ。
 歩く道には寺院がいくつも並んでいる。それらはすべてが今でも信仰の対象になっていてお参りする人を大勢見かけた。朝だから特にそうなのかも知れない。こうした祈りの場面とかがネパール的だと思う。こうした側面を見ないで、ネパールの観光とは言えないだろう。人々は、祠や塔の前を通り過ぎるときに必ず手を合わせていく。もちろん、お供えをする人もいる。
 大通りに出てしばらく歩くと、肉屋が多い一角を通過した。自転車屋や散髪屋、雑貨屋などの店もあった。商店街らしい。大きな花屋もあった。自転車タクシー(リキシャ)にしつこく声をかけられたりもした。大きな病院もあって、人の行列ができていた。さすがに首都だけのことはある。大都会なのだ。しつこいが、それでもやはり寺院などが沢山ある。そしてそれらは祈りに包まれている。
 またやはり朝市なのか、道ばたに野菜を広げている人たちも沢山いた。生活感にあふれた町だ。が、何が違うのかはっきりとは分からないが、インドほどの勢いは感じられなかった。
 途中の分かれ道で、警官に道を聞きながら進んでいったが、どうも時間までに目的の地に到着できそうにないので、時間を見計らってホテルへ戻った。でも楽しいまち巡りだった。

nepal4159 22 12-07.jpgクランクだらけの道
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10-3 ホテル発(1000)

 今日は帰国日なのだが、出発便が夜なので、それまで観光がある。泊まってはいたが、まだ観光していなかったカトマンズ市内になる。
 出発前に、運転手に持ってきた飴を渡した。彼はガイドに分からないように、素早く後ろのトランクに仕舞った。
 我々の感は当たっていたように思う。ガイドに運転手さんにもと言って渡したものは、渡っていなかったことだろう。そういう関係の二人なのか、そもそもこの国はそういう国なのか、判然としないが、しかしややこしい関係に二人があったことは事実だと思われた。そしてその原因はガイド側に有るように思われた。勿論これは誤解かも知れないが。(個人的にはガイドの問題のように思うが、あくまでも推測でしか無い。)

10-4 パシュパティナート(1022~1105)

 初めに訪れたのは、カトマンズにあるシヴァ神を祭るネパール最大のヒンドゥー教寺院。シバが滞在したとの言い伝えのあるこの地は、はるか1500年以上も昔から巡礼の地で、ネパールでは最高の聖なる地となっている。
 ここのシヴァラートリーはインドからも多くの人が集まって大変な騒ぎになるようなので、あえて避けたのだが、車を降りてそちらへ向かうと、その名残がまだ残っていた。それが鉄柵。行列を捌くために造られ、横入り等できないようにしているとのことだ。二列有るのは男女別と言うことらしい。この国では確かに男同士で手を繋いでいる光景も見たが、それはまれなことで、さすがに西洋人のように男女がくっついてはいないが、街で見る限り男女の厳格な区別は無いものの、こうした信仰の対象の場では旧来の風習がきちんと生きているのだろう。
 また入口手前には大きな広場があり、シヴァラートリーの時にここにおそらく人々が押し寄せ、露天やテントなどがあったと想像される。この場所はもともと伝統的な民家が建っていたらしいが、去年辺り撤去された模様で、ゆくゆくは公園に整備されることになるとのことだ。

nepal4226 22 13-30.jpg雑然とある空間が、その時のすごさを物語る
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10-4-1 バグマティ川

 寺が面しているバグマティ川には、火葬台を複数備える火葬場があり、灰は川に流される。バグマティ川は、ヒンズーの聖地である、インドのバラナシを流れるガンジス河に通ずる支流にあたるため、ここのガートで荼毘に付せば母なる大河ガンガーへと戻ってゆくと考えられているとのこと。それでも今では遠くの地からわざわざここまで運んで荼毘に付すことはあまりなく、皆近くで済ませているとのことだ。訪れた時間、1件だけ荼毘が行われていた。それを写真に撮るのははばかられたが、遠目で一枚。
 しかしながら、ガイドは止める風は無かった。まぁ我々は常に遠慮がちにシャッターを押しているのを理解していたからかも知れないが、インド(バナラシ・・・旧ベナレス)では、それはエチケット違反と言われた(絶対にカメラを向けないで!)。この辺りの感覚が、少しインドとは違うのかも知れない。
 注意されたのは、ここにはシヴァラートリーの時に大勢のサドゥ(行者)と呼ばれる人たちが集まるが、その人たちをうっかり写してしまうとお金を要求されたりトラブルになるので注意するようにとのことだが、これも遠目に一枚。確かにそこにいたサドゥの一人は「オレの写真を写せ!1$だ!」と言っていた。どうも商売(生活の糧)にしているらしい。これも宗教行為なのか? あまりにもガイドブックにあるとおりだったので、同じ人間がやっているのかも知れないとさえ思った。
 またこうして集まってきたサドゥは、シヴァラートリーが終わって一週間後には立ち去らなければならないことになっているとも聞いた。ところで、多くのサドゥが身体に灰を塗っている。現在は娑羅双樹の木を燃やした灰を塗っていることが多いということだが、元々は荼毘の灰を塗っているのだそうだ。これは死者との同一性を表現しているという。

nepal4242 22 13-38.jpgバグマティ川にある火葬場
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10-4-2 対岸から

 この寺院にはヒンズー教徒でないと入れないため、川を挟んで向かい側にある小高い丘に登ることにした。ここが観光客の眺望ポイントになっている。
 川を渡って階段を上って行くと、沢山の小さな塔が並んでいる。それぞれに、シバ信仰の象徴であるリンガが祀られている。この辺りに件の行者サドゥも多く集まっていた。さすがにこれは近すぎて写真に撮れなかったが、皆おとなしく集っている様子だったが、不気味さはある。
 鹿園の横を通り過ぎて、対岸から寺院を見る。金箔の屋根を持つシバ寺院だけではなく沢山の寺院が集まっている。その全体像がここからは見渡すことができた。また茶色の建物とその前は皇室専用の火葬場だったが、例の事件の時にはここでは足らず外の部分も使ったそうだ(一番最後の写真)。今は王制が倒されたので、ガイドが言うには使っていないという。それにしても上流から下流へと、この世と生を分かつまでカースト制度が生きている世界を見る思いがした。
 また3枚目の写真(2段目の右)は、解釈するに「死を待つ家」。今なら車があるが、往事はそうした手段が無かったので、最後の力を振り絞り、あるいは負ぶわれて、ここに来て、ガンジスに続くバグマティ川のほとりで荼毘に付されたいと願がう多くの人々が利用した建物だという。遠目だが、立派な建物だ。お金のあるものはここで最後の日を家族に看取られながら過ごしたのであろうか。
 と、突然猿の集団が我々の背中の鹿園の方から現れて、川を渡り寺院の方へ向かい始めた。ものすごい数の猿だが、人に対してどうこうすると言うことはなかった。逆に小さな猿が必死に石を飛び伝って向こう岸に渡る様子が面白かった。屋根に上ったり電線を伝い歩いたり、何をしているのだろう。
 そのうち、ガイドが頭を丸めた人の様子を説明してくれた。対岸にいる人は今年親族を亡くした人。これから喪に服すのだという。こちら側にいる人は、親族を亡くして一年がたち喪が明ける人だという。その区別が判然とはしなかったが、ここではそうした儀式も行われるようだ。こうした場面は男の世界だ。女性は火葬台や、あるいは一周忌のような儀式の場面でも見ることはなかった。
 また、川に入って手に持った長い紐を投げている人がいたが、この紐の先には磁石が付いていて川に投げ込まれたコインを集めているのだそうだ。集められたコインはまた両替に使われるそうだ。ほんの一角なのだが、目の前の川ではいろいろなことが行われている。
 全体を見てから川岸に下りていった。そこにも塔が沢山並んでいるのだが、その並び方が整然としていて、一方から見ると向こうまで見通すことができる。つまりはリンガの行列だ。順番を待って写真を撮った。
 また橋を渡って帰ったのだが、その際にガイドに聞いた。ガイドはカトマンズの人なので、当然一生を終えればここに来て荼毘に付され、その灰は川に流される。そこで、「貴方はここに観光客を連れてくる度に複雑な思いに至りませんか?」と。ガイドの答えは予想に反していた。「いや、ここに来ると身の引き締まる思いだ。一生を功徳を積んで終わりたい。」かような趣旨を話してくれた。これがネパール人の平均的な考えかどうかは分からないが、対岸の人々の姿を見ていても、死は生とともに日常の中にある感じがした。どう見ても、日本で言う不信心ものの彼がそう言うのだから、この国の人の底辺に流れているものの一端を垣間見た感じがした。祈りの中に生活があるという、外からこれまで眺めてきたネパールの人々の、ごくごくほんの少しだがその内面のに触れた感じがした。
 橋を渡りながら、ふと先ほど燃えていた場所を見ると、火葬台は既に清められ、喪主(普通長男が勤めるという)と思われる丸坊主の男が座っていた。そしてその周りには、彼を囲む人々がいた。そして更にその次の火葬台には新しい薪が積み上げられていた。言い表せない感情がこみ上げた。

nepal4261 22 13-42.jpgこれらの祠にはすべてシバリンガが奉られている
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10-4-3 後始末

 それからまた川を渡って駐車場へ向かう。シヴァラートリーに使った鉄柵が、軍によって撤去され始めていた。「こんな事も軍がやるんですか?」と聞くと、「どうせ暇なんですからこのくらいのことは当たり前です」、とガイドは答えた。徴兵制はないので、日本の自衛隊と同じく募集で集めているらしいから、こんな見方をされているのか。ちょっとかわいそうになった。
 グルカ兵など、傭兵制度がこの国には根付いているからなのか、軍隊も一つの職業と見なされることがおおいのかも知れない。日本なら、ご苦労様という所なのだと思うのだが、一観光客に日本語で言った言葉は、率直な意見なのだろう。

nepal4356 22 14-12.jpg設置も彼らの手によるのだろう
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10-5 ボダナート(1129~1202)

 次は、ボダナート。高さ約36mのネパール最大のチベット仏教の巨大仏塔がある。ストゥーパなので、中心にはブッダの骨が納められている。・・・こう物の本には書いてあるのが一般的だが、そしてもちろんあのオレンジっぽい茶色の袈裟を着たラマ僧も沢山来ていたが、ガイドはこれはチベット仏教のものではなく、ネパール独自のもので有るという説明をした。彼にしては力のこもった説明だった。この時だけ、彼のナショナリズムを感じた。同時にチベットへの幾分かの蔑視、保護しているという感情かも知れないが、そうした感じも受け取られた。
 ボダナートの「ボダ」は「仏陀の」「仏教の」「知恵の」を意味し、「ナート」は「主人」「神」などを意味する。三重の基壇と直径27mの石造りドームからなり、その上には四方を見渡すブッダの知恵の目が描かれている。この目が特徴的だ。どこにいても見られているという感じになる。
 塔頂からはタルチョが八方に掛かっているが、丁度掛け替えをしていた。塔に結びついていたタルチョが解き放たれると、一瞬重力に逆らい空にひらひらと舞い上がった。次の瞬間には落ち始めたが、その瞬間が美しかった。こうした古いものは丸められて一カ所に集められていたが、この後どうするのか興味があるところだ。
 最初に塔の周りをぐるりと回った。その途中のお店に、太陽光で動くマニ車を売っていたので、即お買い上げ。前に目にしていて(「つきのいえ」に行くときのジープにあった)、欲しいと思っていたので即決した。ガイドに言わせれば、「これは中国製で、中国人は宗教を商売の道具にする、いやな国民だ」とのこと。あまり熱心じゃ無いヒンディーの彼のこの言葉は、中国を嫌っているということの表明なのだろう。中国人はここでも嫌われ者なのだろうか。そういえば最近、台湾でも本土人が、自らのテリトリーで経済を回すからなのだろうが、だいぶ嫌われているらしい。
 さて塔に上る前に、僧の読経が聞こえてきた。塔を遠巻きにするようにある商店街?の一角が寺院になっている。中に入ることができたので、そっと入ってみた。ダライラマの写真も飾ってあって、クマリ同様、この人も生き神様のように敬われているのだと思った。
 それから塔の後ろから中程に上った。登った塔の中段でも一周できる。見下ろすように下を見ると、周りには小さめの仏塔や五体投地をする板なども見られた。
 先にも書いたが、タルチョの丁度掛け替えをしており、垂れ下がったそれが時計回りに周回する人の行く手を阻んだ。すると先頭の人は、持ち上げて潜り、次の人を待った。次の人もそうした。我々もそれに続いた。神仏がそこにいると感じた。
 また白い色で綺麗だと思っていたが、ちゃんと掃除したり、塗り直したりする人たちがいた。こうした功徳が、つらい浮き世を耐えさせ来世に望みを与えるのであろう。

nepal4393 22 14-49.jpgここも世界遺産になっている
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10-6 昼食(1232~1320)

 昼食はいいレストランですよ、と言ったとおり、メーン通りに面した小洒落たレストランだった。
 ダルバートというのを注文してくれた。これはこちらの料理で、ご飯の周りにいろいろなものが置かれているというものだ。かなりの量があるので、食べきれなかったくらいだ。ともかく、このガイドの頭には、「ネパール料理=ダルバート」という図式しか無い。もちろん刺身にいろいろあるように、ダルバートにも変化はあるだろうが、我々は刺身だけで無く、天ぷらや煮物も食べたいのだ。
 ところがガイドは、自分は同じようなものを朝食べたので別のものを食べると言って、パン二皿にスープとパスタと何とデザートにチョコレートケーキまで食べた。この人ほんとによく食べる。noriが聞いた。「ここはずいぶんと洒落ていますが、我々のは一皿500ルピーくらいしますか?」、その答えはそうですね、と言うことだった。おそらくはそれ以下だろう。実は我々はパスタの値段が370ルピー位したのを彼が注文しているのを横目で見て知っていた。つまりはお客を出汁に、高級な店で、自分が食べたいものを食べている構造だ。だいたい、生クリームのあるケーキを観光客はなるべくなら避ける。それもいいことに、「ケーキ食べますか」と聞くので、いやけっこうと言うと、じゃぁ私だけと宣った。ふざけたやつだ。自分たちが旅行社選択を誤ったことを後悔した。
 まあそれはそれとして、隣にチベット僧が3人食事をしていたのだが、その態度の横柄なこと。座り方も食べ方も小汚い。noriに言わせるとそんなもんだ、と言うことだ。日本にも生臭坊主という言葉があるが、どうも謙虚さに欠けるとjunは思った。

nepal4487 22 15-44.jpg昼食のレストラン(選べばこういう店もある)
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10-7 ダルバール広場(1334~1510)

 入り口で切符を買うと、日本語のパンフレットをくれた。かつて日本人の観光客が多かったというからその名残なのだろう。
 この広場の周りには素晴らしい建物が並んでいる。これらはカトマンズ盆地の三つの王国がその勢力を競い合っていたマッラ王朝の時代のもの。三人の子どもとその子孫たちがお互いに他の国よりももっと素晴らしいものを作ろうとして、それぞれの町の広場に美しい建物を建てた賜であるという。

nepal4522 22 16-48.jpg広場へ向かう道 この手前に入場券売り場がある

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10-7-1 王宮

 入り口の方から旧王宮の建物が並んでいる。一番小さいのが一番古く12世紀のものだとのこと。
 その次の高い建物は、パサンタプール王宮といって、サッハ時代のプリティビ・ナラヤン王が建てたもの。9層の王宮(ナウタレダルバール)とも呼ばれる。1770年頃に建てられて、カトマンズタワーとも呼ばれているそうだ。
 ヨーロッパスタイルの白い建物も王宮の一部で、1908年にプリティビ・ビル・ビクラムサッハ王の統治下でチャンドラ・サムセルが建てたもの。
 時代が移るにつれ、どんどん増築されていったようだ。
 その前の広場には沢山のお土産品が並べられていた。殆どが仏像やその関係のものだ。こんなもの、と思うが、やはりここへ来た観光客は買っていくのだろう。

nepal4533 22 16-53.jpg王宮
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10-7-2 クマリの館

 この広場に面している中で特筆すべきはクマリの館。入り口を入ると中庭がありそれを取り囲むように建物が立っている。
 クマリはネパールに住む生きた女神である。国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女がなる。現在のクマリは3歳の時に選ばれたそうだ。それにしても、ヒンズー教の生き神様が仏教徒から選ばれるというのがネパール流?(クマリについては「カトマンドゥの谷のクマリ」「クマリ信仰」が良い資料だ。)ちなみに、このクマリに支払われる月給?は2010年で7500ルピーだという報道がある。
 クマリは侍従達に囲まれて暮らす。特別な儀式以外には外出はせず、クマリの館の中で生活をする。学校に行く事も不可能なために勉強は館の中で行いう。観光客などは、拝観料を支払うことで、中庭から窓から顔を出すクマリを数秒間拝顔できるそうだが、そんなことはしなかった。というか、ガイド曰く、「観光客が多いと顔を出すんですがねぇ・・・」。君の言うことなど信じてはいないと、心の中で言ってみた。ただ、正面にあるあそこがクマリの顔を出す窓です、と教えられたところをアップで映し出すと、わずかに人の動く様子が窺えた。(クマリの「出演料」は最低でも500ルピーするらしい←出典はここ
 ところで、Wikipediaでは、『9月に行われるインドラ・ジャトラの大祭ではクマリが主役となり、ネパール国王がクマリの元を訪ね跪き祝福のティカを受ける。』とある。今は王制が廃止されているので、この点をガイドに尋ねると、「国の偉い人=大統領か?=が国王に変わって行っている」と言うことだった。そして「私としては誰がやっても良いのでは無いかと思っている」とも。この意味は不明だが、要は「単なる祭じゃないですか」ということなのではないだろうか。

nepal4594 22 17-11.jpgクマリの館(中庭はそう大きくない)
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10-7-3 ティルロキャ モホン ナラヤン

 その前の寺院では大きく韓国の文字が書かれた横断幕が掲げられていた。韓国との何か記念集会があるとのことで大音量で音楽を流していた。めでたいことなのだろうが、観光客にとっては迷惑この上ない。写真も撮れない。
 この寺院、1690年にリディ・ラクシミ女王が建てたもので、屋根を支えている支柱の彫刻が素晴らしいのだそうだが、近づける雰囲気ではなかった。

nepal4546 22 16-57.jpgティルロキャ モホン ナラヤン

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10-7-4 ガスタマンダブ寺院

 更に進んでガスタマンダブ寺院へ行った。この寺院もネパール最古の寺院の一つで、1本の大木から建てられた大きな吹き抜けの建物だ。またもう一つ重要な点は、この寺院の名前を取って、カトマンズという都市の名のゆらいになったということ。12世紀に建てられたが、何度も修復されている。三階建てで、一階部分は解放されている。内部に入ってみても、伝説の「大木一本」の雰囲気はうかがい知れなかった。
 階段もあったが、登れなかった。中央にはリンガが真っ赤になってあった。
 ここがダルバール広場の端になるので、ここからまた引き返すように折り返す。

nepal4576 22 17-06.jpgガスタマンダブ寺院
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10-7-5 マジュデガ寺院

 次は階段の上にある寺院。その前には傘を広げた祈りのためのマリーゴールドの花を売っている人たちがいた。ここは、マジュデガ寺院、通称ヒッピー・テンプル。かつてヒッピーがブームだった頃、ここの階段に沢山のヒッピーが集まったのだそうだ。この建物自体は17世紀に建てられたもので、9層になる階段基礎の上に立っているのでこの広場では高いところにあり、見晴らしもよいところから集まってきたのか。ヒンズー教の女神が安置されている。

nepal4589 22 17-10.jpgマジュデガ寺院

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10-7-6 シバ・パールバティ寺院

 ラナ・バハドール・サッハ王が建てたというこの寺院では、是非見ておかなければならないものがある。どの解説書にも載せてる写真の元がここにあるからだ。
 この窓から木彫りのシバとパールバティ神の夫婦が寄り添って人間の町を見下ろしている姿が見られるのだ。正面から見ている限りそうでも無いが、横から見るとかなり立体的な彫刻であることが分かる。
 建物自体は三階建てでそう魅力的ではないが、基礎が三層の煉瓦作りとなっているのが珍しいのだそうだ。

nepal4596 22 17-11.jpgシバ・パールバティ寺院
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10-7-7 ジャガンナート寺院

 この広場で一番古い建物で、マヘンドラ・マッラ王朝期の1563年に建立された。天蓋を支える柱の色鮮やかな彫刻がとても美しいそうだ。というのも、先を急ぐあまり、その細かい部分までは写真に納めなかったからだ。この点でも、ガイドはネワール文化を見せたいという気持ちが殆ど無かったように思う。

nepal4622 22 17-15.jpgジャガンナート寺院

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10-8 王宮博物館(1405~1508)

 王宮の入り口の方に向かってここにもパルタブ・マッラ王の石柱があった。これも張り合っているうちの一つだという。両脇に控えているのは王子かと思ったら、婦人だそうだ。一夫多妻制で沢山の婦人がいたらしいが、そのうちの第一と第二婦人と言うことなのだろうか。
 王宮の入り口には、ハヌマン像があった。仮想の動物だが、ヒンズー教の神として人気がある。この像は、マッラ王の時代、1672年ごろ安置された。これがあるところが王宮のハムマン門。
 そこから今は博物館になっている王宮に入ろうとしたら、警備員に止められて横の入り口から入るように言われた。(後から分かったが、どうも出口から入ろうとガイドはしていたようだ。)
 入り口ではすべての荷物を預けなければならない。勿論カメラも。そのために鍵付きのロッカーがあった。この博物館には入ると思っていなかったのだが、何故か入った。不思議だった。昨日は入ると思った博物館に入らなかったのに。noriに言わせれば、こっちは広場の入場料に含まれていて追加のコストがかからないからだろうと。
 ここはネパール現代史において、悲劇であり今もって謎である事件の舞台として重要だ。文化的な意味の外、2001年6月1日のネパール王族殺害事件の舞台となった場所でもある。ネパールでは2008年に王制が廃止され、王族も王宮を去ることとなったために、2009年2月から王宮博物館として一般公開された。
 中にはその王室に関する日用品や写真などが展示されていた。王様やその家族の写真や王様が行った行事などが沢山あった。王政が廃止されたのだが、それを見る人々の視線に嫌悪感は見られなかった。というより懐かしさもあるのでは無いかとさえ思った。
 また、ガイドは、何度も王族殺害事件の犯人が、息子ではあり得ないようなことを何度も説明していた。何故か彼は固執していたが、ネパール政府の歴史を語っているページでもこの点についてはぼやかしているので、国民多くの意見なのかも知れない。
 カトマンズ・タワーといわれる高い方にも上って行った。狭い階段を一番上まで行くと、周りが見られる展望台のようになっていた。ただ、柵があるので顔を出して、というわけにはいかないがそれでも景色を見るには十分だった。そこから中国風の建物が綺麗に見えた。そのうち、ポケットにカメラのあることに気がついたnoriがそっと映し出した。ガイドが見つからないようにしてください、と慌てたようだ。でも、外にも撮っていたし、またネパールの監視員は怠惰だから、この高い場所までは登ってこない。
 それからまた下りがてら展示物を見ていった。沢山ある写真の中に昭和天皇や今上天皇とのものもあった。
 外へ出て、次は庭を見て回った。下りたところの庭は撮影が許可されたのだが、その後の沐浴場のあるような所は監視員がいて撮影は禁止だった。どうしてなのか不可思議だったが(バグだプルでは建物は撮れなかったが沐浴場はとることが可能だった)、ガイドに聞いても仕方が無いと思いあきらめた。
 それから門の外へ出てみると、いろいろと面白い建物が見られた。中国風の円形の建物は、多分、パンチャ・ムキ・ハヌマン寺院ではないかと思う。西遊旅行社の資料によると、「円形の五重の屋根を持つ、ネパールでも2例しかない建築様式の寺院です。(もう一例はパシュパティナート)この寺院の中にはヒンドゥー僧しか入れません。中には5つの顔をもつハヌマーンの像があります。」とある。(西遊旅行社のページは外にも参考になるものがあった。←別に宣伝したいわけでは無い。)
 また他にも、屋根の形が布をかぶせたようなものなど、変わった形をしているのもあった。それについては分からない。

nepal4609 22 17-13.jpgパルタブ・マッラ王の石柱
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10-9 ハイラブ

 ここにもハイラブ像があった。カトマンズにある石像の中では最も大きいものの一つで、シヴァの化身であるカーラ・バイラブだ。シヴァの破壊神としての化身で、目を見開き、首に頭蓋骨のネックレスを巻き、人間の皮を羽織って、人々を恐れさせる外見をしている。この前でうそをつくと即座に死んでしまうと信じられており、17~18世紀には、政府はこの像の前に犯罪の容疑者を連れてきてその罪を白状させていたと言う。政府が国民に宣誓するときにもこの前で誓ったそうだ。この石像は、いつ造られたかは分からないが、パラタップ・マッラ王が建てたもので、とても人気がある。
 それを見てから、車の所へ戻った。

nepal4658 22 18-24.jpgカーラ・バイラブ
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10-10 スワヤンブナート(1555~1620)

 スワヤンブナートは、ネパール仏教寺院だ。カトマンズの西の郊外にあり、丘の上にたっているので、400段弱の急な石階段を上ったところが寺院の中心になっている。普通はその石段がから上っていく。が、今回は、ぐるりと回って西側の車道から車でストゥーパの直下まで上っていった。そこからは少し階段を上れば目的の塔に着く。楽で有り難いが、御利益の点ではどうか?西洋人は皆階段を上がっているようだ。
 ここには塔が沢山あるので、それらにお賽銭を上げるため、小銭に両替してくれるという商売もあった。
 丘の上からはカトマンズ盆地を一望できる。ただ、霞があるいはスモッグだろうか、それが邪魔して、あまり見通しはよくなかった。しかしガイドの説明で、ようやく先ほどまでいた王宮近辺を確認できた。
 寺院中央には仏塔がそびえる。大きさではボダナートの仏塔よりも小さいが、ネパール仏教にとっては最も重要な仏塔である。そこにはボダナートと同じように仏陀の知恵の目が四面に描かれている。これが何とも言えずいいもんだ。というか、日本人のネパールを訪れる多くが、この姿を焼き付けて訪れているのでは無いか。仏塔の周囲には、マニ車が並んでいる。
 仏塔の西北隅にある堂は、その形からヒンドゥー教の寺と勘違いされることがあるが、実はこれは鬼子母神堂(ハリティ)である。ガイドは鬼子母神という言葉を知らなかったので、教えた。まったく、これで良く日本人ガイドをやっているものだ。
 帰り際にお土産屋さんで日本語の解説本を2冊買い込んだ。一冊1200ルピーだったが、二冊で2000に値切った上にタルチョをプレゼントと称して半ば強引に手に入れた。ガイドはあきれた顔をしていた。どこまでもしっかりしているのはnoriだ。我が家のタルチョは遠に古くなって取り外していたので、また新しいものが入手できた。

nepal4715 22 19-09.jpg本当はこの下から登る
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10-11 ホテルにて

ホテル着(1635)ホテル発(1830)

 今回出発は夜なので、それまでホテルの部屋を使える。これは有り難い。先ほど買い込んだものもスーツケースに入れることができるからだ。そのあと少し休憩できた。ほどよい時間配分だった。
 最終の荷作りをして、重さをそれぞれ20kg弱になる要に調整した。何とかクリアできそうだ。それらはベルボーイが下へ運んでくれた。何故かこの日はエレベーターは動いていた。
 迎えに来たガイドは重いのじゃないですか?と心配してくれたが、計ったから大丈夫と言うと、何でもあるんですねえと感心していた。
 それから、ホテルを出るときにjunさんお気に入りの警備員さんにチップを渡した。

nepal4791 22 19-50.jpg我々とガイドと運転手
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10-12 夕食(1900~2020)

 空港への途中で夕食を摂る。民族舞踊付きですというそこへ向かうまでの道は、すごい混雑ぶりだ。街頭も殆どないくらい道だが、ドライバーさんは上手に走って行く。
 どんどん暗い道に入って行くので、どこへ行くのかと思ったらようやく着いた。おそらくこの旅行社では、最終日はここにする(空港に近くて便利)のが通例なのでは無いか。
 ここにはいくつかの広間があるらしいが、そのうちの一つに通された。既に日本人団体客が座っていた。楽団がいて、今にも始まりそうだった。
 ここの料理は初めに歓迎の酒が出された。お代わりもできるようだったが、結構強い感じがしたので我が家はビールにした。当然ガイドもそれに付き合う。同席で食事をするのはいいのだが、結局いつもこうして我が家がおごることになってしまう。こう言うのってどうなんだろうと思う。この辺りが、最後の夕食に誘わなかった理由だ。この人の図々しい性格も、度を超えている。食事の途中、ガイド仲間が席を訪れる。まぁネパールは全体的にこんなものなのかも知れない。このガイドの分まで飲ませるほどにお金が残っては無かったので、無視した。あるいはこれがネパール流か?
 さて踊りは、数人の男女がする。いろいろな民族の踊りということで衣装も次から次に変わった。
 我々の前で一踊りすると休憩、と思っていたら、次の部屋に行ってまた踊っているのだそうだ。忙しいこと。というか、合理的でもある。隣は韓国人の団体だったようだ。
 南極か踊りを見ると、同じ部屋にいた日本人団体は、帰って行った。つまり、どこからが始まりでどこで終わりということはないようだ。我々も次々に運ばれてくる食事をし終わってから帰ることになった。ここで、今回初めてモモを食べた。ただし、ほんの一口。あやうく、「ネパールに来てモモ食べずに帰る初めての日本人」になるかと思っていた。
 最後の料理は満足だ。毎回ではないにしても、このような食事がしたかった。おそらくは、ここのようにもっぱら観光客相手だと高いかも知れないが、地元の裕福な人相手なら、金銭的に問題が無いレベルで食べられたろう。ちなみにここの酒代は、思っていたよりも安かった。

nepal4804 22 22-15.jpg地酒の度数はかなり高かった
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10-13 カトマンズ空港にて

カトマンズ空港着(2033)チェックイン(2100)出国(2115)ラウンジ(2120~2230)セキュリティチェック(2232)待合室(2240)ゲート通過(2320)

 空港に着いた。ガイドに分からないように、運転手にチップを渡した。何故なら、ガイドにたかられる心配があったからだ。
 さて空港に着くと建物の外でガイドと別れることになる。入国の時もそうだったが、飛行機に乗る者以外は建物の中には入れないからだ。
 その建物に入るのに行列ができていた。一人一人チェックされるのだが、それをする係員が一人しかいないので、時間がかかるのだ。しびれを切らしたガイドが何と交通整理を始めた。彼にしては珍しい行動で、よほど早く帰りたいのかなあ、と勘ぐった。実際問題、我々が屋内に入り、振り返ったときにはガイドはもはやいなかった。探せなかったわけは無い。それほどに小さな空港である。最後の最後まで後味悪い感じがした。ネパールの印象としてこのガイドが我々の頭の中に残るのは、ネパールとしても不幸なことだ。
 ようやく順番が来て建物に入った。が、そこはあくまでも入り口に過ぎなかった。本体に入るにはまたチェックがあった。なんとも厳重なことだ。
 そこからドラゴンエアーのカウンターへ行った。手続きはいたって簡単に済んだ。航空券も成田まで発券された。荷物は一つずつかと聞いたら、一緒にと言うことなので、二つ一緒に計量した。二つで39.8kg、ギリギリだがOKだ。出国審査も極簡単。前もって旅行記などで調べたときにはそれなりに大変だと書かれていたのだが、そんな心配は不要だった。
 それからカードラウンジへ行った。あらかじめ調べてあったから、そう迷うことは無かった。カトマンズのそれはどんなところだろうかと思ったが、他のラウンジと比べても遜色ない位の設備だった。ただ、飲み物や食べ物を勝手に持ち出せないので、その点が不自由だった。おまけにセキュリティチェックの前にあるので、せっかくあるペットボトルを持って行けない。
 出発時刻が近づいてきたので、少し早めに、そこを出た。セキュリティチェックはやはり男女別。これも簡単にすんだ。いつも引っかかる「計り」(荷物を計量する特別なもの)も簡単に通り過ぎた。
 その先に待合室があった。出発前に旅行会社から待合室は狭いですよ、と言われていたのだが、それなりにソファーなどが揃っていてまぁまぁの広さだった。停電でかなり暗かったが、ゆったりと待つことが出来た。ただ、表示がないので、いつどこから出発するのか分からない。奥にもう一つ待合室があるので、その入り口で、「中に入れるか?」と聞いてみると、我々の出発便はまだ先なのでダメだと言われた。
 その間に、ドラゴンエアーの飛行機が到着した。時間的に見ると、遅い気がした。遅れるのかと、心配がよぎる。
 不安に思いながら外の待合室で待っていると少し人の流れがあった。再度入り口へ行って聞いてみると、入れと言う。そんなもんかと思って中で待った。そういえば、先ほどよりは空いていた。それからしばらくして、我々の便が呼ばれたのでゲートをくぐった。が、そこもまた待合室。しかも椅子は殆ど無かった。まだ飛行機にはいけなかった。
 カーテンで仕切られていて、その前で待たされた。ようやくどうぞと言われた。ここも男女別の道を通る。junは一番に通り抜けた。飛行機は目の前に止まっていたので、歩いて乗り込んだ。これはほんの50分ほど前にここに着陸したばかりのものだ。

nepal4829 22 23-52.jpgここが入口
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nepal4838 23 01-45.jpgnepal4839 23 02-01.jpg

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10-14 機内にて<KA 191便 42A・C>

搭乗(2342)動く(2356)

 junは一番に乗り込んだが、noriは10番目くらいだった。それなのに乗客がいたのでびっくりした。が、よくよく考えてみればこれは香港からダッカ経由で飛んでいるのだった。つまり、我々はここから香港まで直行で行ける。来るときもそうだったが、ダッカに寄らない分、早く到着できるのだ。ここの航空路というのは、香港~ダッカ~カトマンズ~香港かその逆をラウンドトリップしているという寸法だ。
 この便には、なんと日本人乗務員が乗り込んでいた。といって日本語の案内があるわけではないが、何かあればこれは心強い。実際に日本人も団体を含めかなり乗っていた。人件費的にどうなのか分からないが、それだけこの便の日本人利用が多いと言うことだろう。
 2-4-2の座席なのでACという座席はゆったりしていた。また、乗客も少なく席が空いていたので、noriは中央の4人席に移動した。
 乗り込むとすぐに機体は動き出した。結局ここに逗留していたのは、1時間あまりのことだった。

nepal4842 23 02-57.jpgドラゴンエアーの機体
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