8月24日(火) 悲恋の物語とコルクの林


○海岸の散歩・・・大西洋に触る

 今朝は5時に目を覚ました。ようやくポルトガル時間に慣れてきたと言うところか。6時を回ってから外が明るくなってきたので、散歩に行くことにした。海岸まで行って、大西洋が造る砂浜とその塩水に触ってきた。水はきれいで、浜も昨晩の喧騒はなく所々砂浜には三角形の水鳥たちの足跡が残っていた。散歩のときに二匹の犬がいつもづっとつかれはなれずでついてきていた。
 ホテルに戻り、暫くして朝食になった。朝食の場所は昨日よりも高い5階。昨日の夕焼け同様眺望が素晴らしく、しばし感慨にふける。と、則がワインのボトルを抱えてきた。昨日のラベル剥がしを見ていた店員さんがくれたのだという。感謝しながら部屋で剥がそうとしたがあえなく失敗。残念。

○出発は芸術的(9:00)
  さて、バスが早めに来たので早く出発できるかと思ったら、狭い道なのに所構わず車が止まっているので、大型バスは身動きできなくなってしまった。後ろにも車が続いていてどうするのだろうと思っていたら、通りがかりの人たちが止まっている車を動かしてくれたり交通整理をしてくれたりして無事に抜け出すことができた。それにしてもこの間30分ほど、運転手のアントニオさんは何度も切り替え資をして、そのテクニックたるや素晴らしかった。みんなで拍手をしたが、応援してくれたポルトガルの人たちにも拍手と感謝。それにしても、道の両側に止めるし二重駐車も当たり前と言うお国柄、もう少し整理できないのかなあ。

○アルコバサ サンタマリア修道院(9:35から10:35)
 本日のはじめの訪問地は文化遺産。(注釈5)悲恋物語の主役がいるという女性好みの話のある修道院だ。内部の空間はポルトガル最大のものというだけあって広い。ただ、装飾は今までに無く質素なもの(ゴシック様式)で、彫刻もあまり見られなかった。(注釈6)すべて修復されている。
 悲恋の物語はともかくも、墓から掘り起こして結婚式を行い、家来にその骨となった手に祝福のキスをさせてという壮絶な話は壮絶さを通り越して狂気さえ感じる。そのペドロとイネスの石棺は目覚めたときにお互いが顔を見合わせられるようにと足をそれぞれ向けて永久の眠りについている。石棺の所々壊れている彫刻はナポレオン軍が侵略してきたときに壊したもの。そのほか細部にこまかな彫刻があり、たとえばイネスの首が切られた場面なども表現されていると言うことだが、あまり良くは分からなかった。
 沈黙の回廊。ここに居を構えていたキリスト教の一派であるシトー派は、普段話すことを禁じていた。最大勢力時は1000名前後も暮らしたということで、調理場の一つは大きな煙突を持っていた。ところで食事のときも勿論しゃべることは禁止。それでは食堂ではどうするのか。お代わりするときには手でサインを送る。魚がほしければ魚の形を手で造ると言う具合に。このように戒律きびしきシトーではあったが、時とともに堕落してきて、その戒めのために、食堂から厨房に続く細いドアがあるが、太り過ぎ検査のドアとも言われる。
 しゃべってもよい部屋と言うのもいくつかはあった。そのうちの一つは今では土産物屋になっていて、本を買った。2750$。

○オビドス 街巡り(11:15から12:30)
 オビドスは中世の城郭都市の一つ。我々のバスは西門の下の公共駐車場に着く。最初に西門(ポルタ・ダ・ヴィラ)の見学。門の構造はほぼ正方形の天井の名い部屋と言う感じのもので、その対角線上に門が開いている。侵入してきた敵は二重のジグザグ構造になっているので、ここで先ず防御側の攻撃を受ける仕掛け。この門の中の空間を利用したアスレージョはきれいだった。
 それから街の中心部へと向かった。この町は白壁に青と黄色で装飾をするようになっているらしく、それまで曇ってきた空が晴れ渡り、紺碧の空に浮かび上がるそれらの色は目にまぶしかった。馬鹿は高いところが好きと言われるが、我々は城壁の一部に上って歩いた。町全体が俯瞰でき、また町の外の田園風景も一望できて満足した。城壁を歩けば一周できるようであったが、お目当てのジンジャー(この地方の名物のお酒で、さくらんぼを使って作る。)を買いたかったので、目当ての店の付近で城壁を降りた。。予め調べていた銘柄のお酒と、さくらんぼが瓶に入っている観光用と思われるそれとの二つを買ったが、それぞれ1750$とややお高めだった。もっとも後で昼食のレストランに入ったら、1本3000$と言うことだから、まあそんなものなのだろう。

○昼(12:40から14:05)
 昼食はオビドスが遠望できるレストラン。スープはお決まりの人参のスープだが、じゃが芋のすりつぶした成分が少なくなってきて、どろっとした感じが無くなってきた。その分具が多くなったきた。また塩辛さも増してきた感じ。メインはイカのブイヤベース。イカと言うものの、じっさいに足の数を数えると10本だが、イイダコのようなかんじのイカであり、味としては日本人語のみの味つけだった。デザートはメロンと練乳味のするケーキをチョイスできた。メロンと言うが瓜に近い形状だったが、ほんのり甘かった。
 お酒はここの名物のジンジャーをグラスでのんだ。350$。どろっとした感じで、酒精強化ワインと同じような感じ。あとワインが800$と安かった。

○偉大なテージョ河
 エボラへの道はほとんど1998年に行われたリスボン万国博覧会に間に合わせた新しい高速道路で快適な道であった。そのリスボン万国博覧会の会場は、テージョ河下流の所で行われたが未だそのときのシンボルタワーやいくつかのパビリオンに使ったであろう建物が残っていた。その脇を高速道路のバスコ・ダ・ガマ橋が架けられている。延長は17.2キロで、いけどもいけども橋であった。ただし河なので深さはそう無いので、橋は延々橋げたを連ねた形式のもの。

○休憩(15:10から15:35)
 バスコ・ダ・ガマ橋を渡ったところにサービスエリアがありしばし休憩。ファンタのような少し炭酸のはっいったパインジュースを買う。270$。ここでバスもガソリンを入れた。

○コルク林
 それからバスは今までは南下してきたわけだが向きを替えて、東へ走りはじめる。15:50頃からコルク林が見えはじめ、16:20頃にはもう見渡す限りコルク、コルク、コルク。コルクの木は樹形としてはオリーブの木に焼やにているので、ポルトガルに木たときにはどうも両者の判断をつけにくかった。コルクは10年周期くらいで成木はその樹皮を剥がされる。だいたい根元から葉の茂る部分までの部分で、その剥がされた後には採取から時間が経過していると思われる木だと黒色の、時間があまり経過していないと思われる木だと茶色になっているので、ああこれがコルクの木なのだと知れる。

ホテル着
 バスは16時40分にエボラ出口から高速を抜け出し、その10分後にホテルへつく。ここはまだエボラの入り口近くで、遠くに教会とおぼしき尖塔が見える場所。3つ星と言うが、昨日のナザレのホテルとは大違いだ。
 夕食の時間は19時45分と刻まれたのでおもしろい。実際その時間にならないとホテルの食道は開かなかった。我々は自室にこもっていたが、同行者の多くは近くのスーパーに出かけるなど皆元気だ。プールで泳いだ人もいる。自室でインターネットが上手くつながらないのでしかたなくラジオジャパンを聞くと、キルギスで邦人の誘拐事件があった模様。日本人4人を含む7人が拉致されたらしい。花連(かれん)で着陸時に飛行機が炎上して、それがどうも爆発だった模様とも報じていた。また東京では大雨と落雷で中央線などが止まっているらしい。中日にマジック27が点灯したことも報じていた。
 夕食のスープはお決まりのもの。メインはこの地方は牛肉が名物ということで、魚貝類の煮込みから牛肉の煮込みに変わった。かなり筋っぽい肉であったが久しぶりの肉の固まりで、皆食べた。デザートはお菓子。
 ワインはテーブルに一つ赤がついていたが、そのほかにひとつとった。このワインはことのほかおいしかった。食後の飲み物は食堂脇のバーで飲むスタイルで、順さんが帰ろうかと言うので、てっきり則はオプションかと思っていたら、それも含まれていた。ここでまたジンジャーをたのむ。350$。紅茶やコーヒーを飲み終わる頃、ギターの演奏に合わせてこの国の人たちだろうか、陽気に踊り出して、その輪の中にグループの人々の何人かも加わり、楽しいひとときを過ごした。
注釈5・・・ツアー同行のKA様からのご指摘):今回の旅では,多くのユネスコの世界文化遺産を訪れました。
ポルト:歴史地区 トマール:キリスト修道院 バターリャ:サンタ・マリア・ダ・ヴィトリア修道院 アルコバッサ:サンタ・マリア修道院 エヴォラ:歴史地区 シントラ:王宮(文化的景観) リスボン:ジェロニモス修道院とベレンの塔
 (本川追記):我々もこれを目的に今回の旅行を選んだのは表紙に書いてあるとおり。

注釈6・・・ツアー同行のKA様からのご指摘):アルコバッサのサンタ・マリア修道院が質素なのは,シトー会の修道院であったためです。(下記の資料参照)

シトー修道会

シトー修道会(Ordo Cisterciensis)は,1098年に,ベネディクト会のモレーム修道院長ロベール(Robert de oo1esme,1027頃一1111年)たちによって,フランスのブルゴーニュ地方のシトー(Citeaux)に開かれたベネディクト会の戒律厳守派(原始会則派)である。
 修道院(乃至は修道制度)の起源は,エジプト,パレスチナ,小アジアにおける隠者の禁欲的集団生活形態に遡る。5世紀に,これが南フランスとアイルランドに伝わって,修道院運動が西方に根付いた。しかし,組織としての修道院が成立したのは,529年,ローマ南方のモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)にベネディクトゥス(Benedictus,480頃〜543年)が開いた修道院に始まる。ベネディクトゥスが定めた会則(戒律)は,「祈り,働け」の二語に要約され,修道院の信仰に労働の規律を加え,世俗勢力ヘの経済的依存から脱却し,修道士が定住,清貧,貞潔,服従を旨として祈祷,労働,学問に励むことを定め,古代東方修道制の極端な禁欲主義や隠遁,瞑想の生活とは異なり,積極的な伝道活動を勧める点に特色があった。会則は,極端な行き過ぎを排し,個々の規定の適用に弾力性を持たせたので,広く普及し,修道士たちは,布教や信者の精神指導の面のみでなく,開墾事業,学芸研究,古典の書物の筆写などの分野でも精力的に活動した。そして,修道院は,社会教化や古典文化の中心となった。
 西方の修道院は,その殆どがベネディクト修道会に組織され,ローマ教会の教区教会組織と協調してカトリック宣教に当たったが,教区教会と同様,修道院もまた,領地の寄進を受け,領地経営の収益を基礎に,世俗的権力として性格を強め,特に,9-10世紀の混乱期に修道会にもまた組織の崩壊,堕落の傾向が見られた。このような流れを憂えて,修道院の内部から起きた革新の動きが,10世紀初頭に成立したクリュニー修道会,11世紀末に組織されたシトー修道会などである。
 更に13世紀初頭には,フランシスコ修道会やドミニコ修道会などが結成され,修道院の財産所有を否定し,修道士の生活の基礎を托鉢行為に求めて,托鉢修道会と呼ばれた。
 シトー修道会は,原始修道制への復帰を念願して,修道士の規律の刷新,ベネディクトゥスの戒律の遵守を謳い,清貧,質素な隠修士的生活の中で,祈りと労働によって神に仕え,特に,農村地区に入って,12世紀の荒れ地の開墾運動に大きな役割を果たした。
 ロベール自身は1年後にベネディクト会へ戻り,その後,シャンパーニュ地方のクレルボー修道院長のベルナール(Bemard de C1airvaux,1090-1153年)によって会勢は急適な発展を遂げ,フランスから西ヨーロッパ諸国に広まり,13世紀にかけて全盛期を迎えたが,14世紀以降,托鉢修道会の隆盛な活動に押されて衰退期に入る。
 ポルトガルヘは1143年に伝来し,以来,数世紀に亙ってポルトガルの社会,経済に影響を及ぼし,祈りと労働を自らに課す修道士たちは,アルコバッサ(A1cobaca)(本川註:cの字は当て字)を中心に,農業や手工業を広めた。
 国の発展にシトー修道会の存在が不可欠と認めた歴代の国王は,次々と土地を寄進し,やがて修道会は,アルコバッサとその近隣地方を領有するまでに力を付けた。しかし,そのために却って厳しい禁欲生活を旨とするシトー修道会も次第に堕落し,1834年に廃止された。
 1664年,フランスの神学者ランセ(A.J.Le Bouthi11ier de Rate,1626-1700年)を中心として,ノルマンディーのラ・トラップ(La Trappe)大修道院に,厳格な戒律を守り,より禁欲的で荘厳な典礼や修道士の労働を重視するトラピスト(Trapists)修道会が起こり,後に厳律シトー会として独立した。
 このトラピスト修道会は,日本にも1896年(明治29年)に伝えられ,北海道当別の男子修道院,函館や那須の女子修道院が有名である。

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