8月26日(木) 地果て海始まる・・・


○出発(9:00)
 朝は7時少し前に朝食へいく。昨日までとは違い、結構食べ物が並ぶが、それでも野菜類はほとんど相変わらずない。豆腐と言うのがあったので、醤油をくれと恃んだらそれなりにわかった風な顔をしてとうとう何も持ってはこなかった。まぁそれでも植字は悪くはなかった。
 9時に集合してすぐに出発。今日一日は日本人ガイド。この旅行社にしては珍しい。ポルトガルに来て7年で、ポルトガルののんびりした生活に慣れたと言っていたがどうぢてどうして良くしゃべる。それから結果的にではあるが、旅行の内容てんこもり状態になった。

○ロカ岬(9:40から10:15)
 最初にポルトガルのそしてヨーロッパの、いやユーラシア大陸の最西端の地ロカ岬を訪れた。山脈(山地)のちょうど果てるところ、詰まり断崖絶壁になっている地にそれはある。風が強く霧が発生しやすい場所(これは二律背反のような気がするが)という予めのお断りがああったものの、風弱く霧もなく眺望絶佳であった。灯台も岬からたいして離れていないとはいえちゃんと見えたし、例の国民的な詩人の広大な叙事詩の一説「ここに地はて海はじまる」という一節が刻まれたモニュメントが建つ。
 観光客は我々のほかに1組だけだったので静かに、草原の黄色い花々、透き通った大西洋と、独占するにはもったいないような周りの景色を楽しめた。帰りにここを訪問したという証明書をもらって帰った。これもまた素晴らしい。いい記念になった。

○シントラ王宮(10:55から12:00)
 ロカ岬からの山地を降りていくとシントラの街に出る。ここは全世紀末ごろまで王族の避暑地となっていた場所であり、貴族のそれらも集中していた場所。ただ最終的には王族は別の避暑地を選んだために、現在は王宮に調度品類の古いものはあまり無い。
 シントラの地から見える山の頂には城壁が築かれているがこれはイスラム時代の城跡で個々をレコンキスタで攻め落とした後、首都としたリシュボアに近くでありながら山間の地で避暑に適したこの地に、もともとイスラムの館があった地に王宮(夏の離宮)を築いたとのこと。
 ここはかく王族が増築に増築を重ねた館で、全体の統一にはそのぶん欠ける。ここのシンボルは何と要っても2つのとんがりコーン。その白い三角コーンはシントラ宮殿の全景写真を特徴づけている。このコーンは厨房の薪を燃やす際に出る煙の煙突で、厨房全体を覆っている。
 アラブの間はアラベスク模様の比較的古い時代のアズレージョでおおわれた部屋でそれは見事。中央に小さな噴水(手洗い所)があって、沢山のドアがある部屋。これは食堂に使われていたものだそうで、様々な部屋から食事時に集まれるようになっていると言う説明。
 礼拝堂はかつてのイスラム時代のモスク跡(おお!ここではじめてモスクと言うことばを聞いた!)を礼拝堂に作り替えたもの。したがってその床にある絨毯状のものが細かく砕いて敷き詰めたアズレージョでもっともこの館で古くて価値のあるものだとのこと。  幽閉の間というのもあった。権力闘争に負けた王が9年間幽閉されていたので床が傷だらけ。
 それからかささぎの間というかささぎが136羽描かれた・・・王が散歩の途中で会った女性に嫉妬した王妃への王の言い訳を言った数だけ描かれているという言い伝えがある・・・部屋や、その当時の貴族の紋章がすべてそろっている(正確には近来修復した際に忽然と一つ消えた)部屋や白鳥が沢山描かれた部屋(ここは接待の間として現在でも使われている。かの少年使節もここで接待された)などを見た。。

○昼食 SANTA MARTA(12:45から14:00)
 昼の食事はリシュボアの町中の小さなレストラン。陽気なおにいちゃんのいたみせ。
 野菜のスープ・太刀魚の焼いたものに沢山の野菜、デザートはフルーツサラダ。太刀魚はうまかった。もっと食べたかった。フルーツサラダはあまりいける味ではなかった。ここで緑のワイン(これは緑色したと言う意味ではなく若いと言う意味。未だ甘味の十分行き渡らない若い葡萄から作った主に白ワイン。当然甘味の少ない分アルコールになる成分も少ないから度数も低く、我々の飲んだのは9%。)を飲んだ。弱発泡性があると言うことだが、我々が飲んだそれはあまり感じなかったが、隣の人はシャンパンみたいと言っていたので、発泡性を感じたのだろう。1600$。

○ジェロニモス修道院(14:25から15:10)
 全体の半分近く(主に右の部分)はリシュボアの大地震によって倒壊し建て直されているが、肝心の礼拝堂部分は見応えを感じるだけ残っている。ファサード部分は十分に見応えがあるほどに残っている(多分修復したのだと思われる)(写真左)。
 中に入ると先ず出迎えてくれるのがバスコダガマの棺。その反対には国民的大詩人カモンエスの棺が納められている。ここの今一つの見どころは回廊である。マヌエル様式の最高傑作の一つとされている。

○ベレンの塔(15:13から15:30)
 リシュボアの大地震の跡地表の隆起等の影響でこの塔は現在は川辺に位置するようになったがかつてはテージョ河の中にあったもの。この四角い女性的な形をした塔は、実は本来の役割はテージョ河に入港する豊かな荷を積んだ船を襲う海賊からそれらの船を守るための見張りの塔であった。以降水牢等に使われたこともあるが、現在はそのふぉるむが得をして、またしばりょう太郎がテイジョ河の貴婦人?とかたたえたことで、とくに日本人には人気があるらしい。

○発見のモニュメント(15:35から15:50)
 ジェロニモ修道院はテイジョ河を向いて、河から数百メートルのところに建ている。その河のそばにあるのが発見のモニュメント。我々からすれば発見されたモニュメントか。それからその前庭部分には世界地図があり、発見した年数が、たとえば日本なら1541年に大分に漂着した年度が記入されている。発見のモニュメントはエンリケ航海王子を先頭に船の舳先に見立ててその左右に航海関係の著名人が並ぶ。舳先からみて左側の後ろから二番目はフランシスコザビエルだそうだ。

○国立古美術館(16:00から17:00)
 次に国立考古学博物館へいく。日本だとその歴史と言うと縄文あるいは最近では石器時代から歴史上存在が確定している天皇家が成立するくらいを古代と呼んでいるように思うが、この国の歴史感は大きく違うようだ。この国の歴史と言うのは、ポルトガル王が成立してからを言うようで、それ以前は先史扱(?)なのだろうか。つまりそのほとんどは古くても15世紀程度のものだった。
 だからといって見応えが無いわけではない。日本から持ち帰った屏風類などは、当時の風俗を詩る上で多分国宝級のものであろう。中心はしかしながらそうした彼らの航海での獲得品ではなく、宗教画のコレクションである。おびただしいものが納められており、教会から持ち出してきたのであろうか?保存状態はおしなべて良い。これはそれらの年代が比較的新しい時代であると言う先ほど言及した事情によるところも大だと思う。

○アルファマ地区散策(17:10から17:40)
 次に現代の庶民の生活をかいま見ようと言うことで、リシュボアの大地震の震災をおおむね免れそれ以前の年代の建物がおおく残るアルファマ地区を訪れた。迷路のような路地裏を少しだけ散策したが、教会の後ろを少し頂戴して40人ばかりの生徒のいる小学校(こちらでは1年生から4年生までにあたる子どもたちがかよう)、そしてその教会の壁を物干しに利用しているところなど、興味深くみてあるいた。(写真はくちばしの家)
 ホテルには17:50に到着。

○夕食
 夕食は魚(いわし)の前菜で、メインは豚のひれ肉のにたもの。焼きリンゴとアイスクリームのデザートだった。
 Daoのワイン(5200$)をのんだが、ちょうど日本で自分たちがのんでいるのと同じだった。ホテルのボーイが昨日も別の客に同じせりふ(これはよいワインだ。よい選択だ。)を言っていたので、日本でも我々は同じものを飲んでいると言ったら、何年ものかと聞いてきたので、あまり記憶がなかったが1995年と答えた。


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