平成22年7月19日(月) エカテリーナ宮殿前半

3 7月19日(月)


起床(0510)朝食(0700)ホテル発(0800)エカテリーナ宮殿(0830~1040)民族博物館(1133~1208)昼食(1220~1330)夏の宮殿の庭園(1345~1630)夕食(1740~)ホテル着(1920頃?)就寝(2150)

3-1 朝

 目を覚ますときにはもうすっかり明るくなっている。眠るときにも明るいから、一帯いつ暗くなっているのだろうかと思ってしまう。
 いつものように健康チェックをしてから、やや早めに朝食会場へ行く。
 朝食会場は、5分前に開くも大混雑だ。今日は前回の上海の時に利用したやはり大手の格安パックを出しているH社の団体も来ていた。ふと見ると周りは日本人であふれかえっていた。
 日本人団体の利用ホテルとは聞いていたが、これほどとは。しかし、だからといってホテルの従業員が日本人慣れしているとは決して思えない無愛想な態度だった。
 もっとも中国人もいたので、区別が出来なかったのかも知れない。いつものことだが、中国の人の皿の盛りつけはものすごい。
 出発は予定通り、8時にはホテルを出た。



201008russia1451.jpg連泊なので要領よく
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3-2 エカテリーナ宮殿 (0830~1040)

 今日は今回の旅の目的の一つでもあるエカテリーナ宮殿へ行く。本当は明日の予定だったのだが、今日予定されていたエルミタージュが休館日ということで順番が入れ替わったのだ。
 街を出かかった頃、レーニンの像があった。まだ残っているところもあるのだ。
 その先には、多分そうだと思うが、レニングラード攻防戦の記念碑があった。この戦いに関する記念碑は60余りもあるそうだ。それだけ被害が大きく、兵士・市民100万人が 死亡したと言われている。ちなみにこの数は、東京大空襲や、沖縄戦、2回の原爆投下の被害者も含めた日本本土における被害者の数を上回っているという。凄まじい戦いだったようだ。
 しばらく高速道路を走る。途中、車のメーカーがずらりと並んでいた。その中には、勿論日本のもあった。組み立て工場もあるという。
 それ以外に見る物もなかったが、エリザヴェータ女帝の「E」を表す横断幕が道路に目立つようになり、いよいよ近づいたことが知れた。この「E」は市の紋章にもなっている。昨日、イサク聖堂前の広場の「E」の時にはエカテリーナの「E」と言っていたのだが、こちらはエリザヴェータの「E」だとか。どちらかが言い間違えているのか?気がついたのが帰国してからなので、確かめようがない。
 エカテリーナ宮殿は、1724年エカテリーナ一世の為に夏の別荘を建てたことに始まる。宮殿の名は、彼女に由来する。
 後に皇位に就いたエリザヴェータ女帝が豪奢な宮殿に建て替えた。建設を指揮した天才建築家ラストレッリは、宮殿と庭園にバロック様式の壮麗さを与えた。
 更に、エカテリーナ二世は、宮殿の模様替えと同時に庭園造りに熱中。敷地を拡大して、今に残る広大な庭園を完成させた。
 宮殿は、第二次世界大戦の折、ドイツ軍によって破壊されたが、修復されている。



201008russia1457.jpg逆光だがレーニン像
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3-2-1 入口

 バスを降りて少し歩くことになる。
 途中の公園にプーシキンの像があった。エカテリーナ宮殿にある学校で学んだプーシキンは、この公園で詩を書いたりしたそうだ。
 更に行くと金色に輝く寺院が見え、いやが上にも気分が高揚してくるのがわかる。
 胸像は、設計者ラストレッリ。装飾の天才といわれた人だ。
 この辺りの青い建物は、使用人の住居だった。今は研究者のオフィスなどが置かれているとか。この色は昔からの色だそうだ。
 ようやく門に着いた。
 我々の予約は、8時45分だったのだが、門番とガイドさんは顔なじみということもあって、すぐに入れてくれた。
 どうぞ写真を撮ってくださいと言ったが、言われるまでもなくもうシャッターを切っていた。まずは入ってきた門を1枚。それから全体を数枚。
 アールヌーボーのような装飾は、頭を抱えてうつむく男性の像だった。このスタイルの像はこれから何度も目にすることとなる。
 建物の入口では楽団がいて演奏をしていた。我々が日本人と知ってか、「荒城の月」の演奏をしてくれた。「ガイドを見て判断してるんです。」とのことだ。
 荷物は大きいのは駄目と言うこととミネラルウォーターは見つからないように隠すことを注意された。それから一人一人チケットをタッチするいつものタイプで中に入る。
 入るとすぐに靴カバーを付ける。床を痛めたり汚したりしないためだ。
 一つ一つの部屋がそう広いわけではないので、グループごとに調整しながら入るそうだ。前のグループを追い越してはいけないと言うことで、階段下で少し待たされた。
 そのときに庭園が見えた。中央の奥の方に見えるのがエルミタージュですと言われたが、目もレンズもギリギリまで大きくしてみたが、はっきりとその姿をとらえることが出来なかった。
 この宮殿は、第二次大戦の時一時期ドイツに占領された。そして、ドイツ軍が逃げるときに爆薬を仕掛け、火災が起きて大きな被害を受けてしまった。まだ全てが修復されたわけではなく今も続いているので、修復が終わった部屋を見学することになる。ただし、幸いなことに、家具類はドイツが占領する前にウラル山脈の方へ疎開させることが出来て無事に残ったのだそうだ。



201008russia1484.jpgプーシキン像
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3-2-2 階段

 玄関は宮殿の真ん中に位置する。ピョートル大帝が造ったが、飾りはエカテリーナ二世が造った。壁や天井は真っ白なので、窓に掛かるカーテンの真っ赤で色鮮やかに目に飛び込んでくる。
壁には磁器が飾られている。エカテリーナ二世がオランダで購入した有田焼の壺だという。まずは玄関で客を驚かせる趣向なのだそうだ。
 壺の他に丸い物があるが、これは一つは時計、一つは気圧を測るための物だという。
 それらを見ながら階段を上って行く。踊り場から、庭園がよく見える。また、エルミタージュが見えますよ、と言われたが、今回もよくわからない。ただ、現在は修復中とのことだ。
 また、ここに一対のキューピットがあった。東側には起きている像「目覚めるキューピット」、西側には寝ている像「まどろむキューピット」が置かれている。



201008russia1570.jpg階段室にはバロック調の飾りが
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3-2-3 大広間(舞踏の間/玉座の間)

 この宮殿で一番広い部屋で、17×47mもある。その全てがキンキラと輝いている。床は寄せ木の絵で、広間全体の装飾は、金箔された木造装飾だ。
 12×2段になった窓の間にはその金箔のレリーフが施されている。ヴェルサイユ宮殿の鏡の間をモデルにしたそうだ。
 天井は余り高くないが、高く見せるために青空が描かれている。
 奥の壁に続くあたりにバルコニーが描かれ、その両側には黒っぽい柱が描かれているが、入口の方の柱は横になっている。これは、1本ごとに立ち上がっていくように見えるだまし絵だ。
 ここへの初めての日本人訪問者、大黒屋光太夫は、ここでエカテリーナ二世と面会した。彼を描いた映画「おろしや国酔夢譚(井上靖原作)」は、実際にここで撮影されたのだそうだ。
 廊下を見ると金色がずっと続いている。まだ復元中だが、全てが完成すると300mもの廊下になるそうだ。この金色は扉の装飾。つまりいくつもの部屋がずうっと続いているのだ。



201008russia1595.jpg柱が一つもない
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3-2-4 帯勲者の食堂(騎士の食堂)

 この宮殿には食堂と名の付いた部屋が沢山ある。まず入ったのは、「帯勲者の食堂」。
 家具や食器類は全て当時の物だそうだ。攻撃前に女官達はこれら全てを避難させたと言うが、この部屋だけでもこんなにあるのに、本当にそうだったのだろうか、と思った。
 黒の勲章が一番上位。ただ、リボンは青色になっている。その真ん中のテーブルの中央に皇帝が座る。テーブルがエリザヴェータ女帝の[E]の形になっているとのことだが、よく分からなかった。
 この色はリボンだけではなく、食器にも全てそれが使われて区別されている。二番目は入口の近く。三番目には司令官が座った。



201008russia1644.jpg全景
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3-2-5 白の食堂

 大貴族達を接待したときに使う食堂。狩りなどを行ったので、飾ってある絵も狩りの絵になっているとか。写真を取り損ねた。
 祝賀用として豪華な食事をしたところで、テーブルや食器セットなども豪華である。食事の品数は、40から60品目あったそうだ。ただし、一品一口程度の量で、全体としては少ない。皿はマイセンの物。家具もフランス製だとか。



201008russia1671.jpg大貴族達を接待
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3-2-6 赤柱の間

 家族の食堂と説明された。食事の後、父が子にチェスを教えたそうだ。このチェス、赤いのは珊瑚、白いのは象牙、やはりただのものではなかった。子供が学習するのは他にも武術や語学など多種多様に渡ったそうだ。いつの世も子供はつらい物と決まっている。
 その時、誰かがロープに触ったらしくブザーが鳴った。なかなかに厳しい警戒だ。
 この部屋には陶器も置いてあった。中国の物だという。
 また、全ての部屋に置いてあるペチカはオランダのタイルを使っている。誰かが、しつこく「アズレージョですか?アズレージョですか?」と繰り返し聞いていたが、ガイドさんは良くわからなかったようだ。が、アズレージョは元々ポルトガルの装飾タイルで、スペインでは使っていたが、オランダではどうか?



201008russia1697.jpgチェスも並べられていた
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3-2-7 緑柱の食堂

 柱が緑色なので緑柱の間という。単純と言えば単純だが、実際に他の名はなかったのだろうか。
 実際に食堂として使われることは殆ど無かったそうだ。シャンパンなどを飲みながら音楽を聞いた部屋なのだそうだ。その頃ピアノはなかったので、それに変わる楽器が緑色をした机のような形の物。中央にあるドレスは、エカテリーナの物とか。ただし、一世なのか二世なのか説明がなかったので分からない。



201008russia1707.jpgここにも暖炉
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3-2-8 肖像の間

 女王の間と説明された。エカテリーナ一世やエリザベータの肖像画がある。
 中央にある戴冠式の服装をしているのもエリザヴェータ?
 ところで、エカテリーナ一世は裕福な生まれの女性かと思ったら、結構数奇な運命をたどっている。彼女は、貧しい農家に生まれで、最初、スウェーデンの兵士と結婚するが、スウェーデンがロシアに敗北して夫は戦死、彼女自身はロシア軍の捕虜となた。しかし、彼女はピョートル一世に気に入られて側近くに仕え、やがて結婚し、皇后となる。そして、ピョートル一世の死後は、ロシア初の女帝として即位ということになる。在位1725~27年。ピョートル一世はエカテリーナ一世のためにエカテリーナ宮殿を建てた。
 一方、エリザヴェータはピョートル一世とエカテリーナ一世の間に生まれた生粋の皇女。在位1741~62年。エカテリーナ宮殿の改築を開始したのも彼女だ。



201008russia1721.jpgエカテリーナ一世
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