6 7月22日(木)
起床(0540)朝食(0700)スズタリ・ホテル発(0913)スズタリ(0922~1149)昼食(1135~1315)スーパーマーケット(1348~1500)夕食(1730~2030)モスクワ・ホテル着(2045)就寝(2316)
6-2 スズタリ(0922~1149)
バスが走って程なく観光するスズタリの町へ着いた。
まっすぐな道はメーンストリートで、3.5kmしかないが、まっすぐな道はここだけで、他は昔のままの曲がりくねった道になっていると言うことだ。
人口は1万1千人とあまり多くはないが、土・日は観光客が多く訪れて賑やかになるそうだ。なにしろ町の70%の人が観光で生計を立てているというほどだ。
ここには60もの教会がある。修道院は5つ、鐘楼は16ある。
昔鍛冶屋や道具を作っている人など、それぞれ独自の神がいて、それぞれで教会を造ったためだという。これってロシア正教ではなかったのか?キリストは一神教だと思うのだが。聞いているときには、ふーんそうなのか、としか思わなかったが、考えてみれば疑問符がつく。
町は大きく、クレムリン、市場の広場、教会の3つに分けられる。
この中で、クレムリンのロジュジェーストヴェンスキー聖堂、スパソ・エフフィミエフスキー男子修道院、ポクロフスキー女子修道院、ボリスとクレーブ教会の4つがユネスコの世界遺産に登録されている。
6-2-3 スパソ・エフフィミエフ修道院(0948~1035)
カーメンカ川に面し、まるで砦のような城壁を巡らした修道院。創設は1352年、貴族や商人らの信仰を集めて成長した。スパソとは救世主、つまりはキリストのこと、エフフィミエフとはこの修道院を創設した人。
17世紀にリトアニア・ポーランド軍に破壊された後、12の塔をもつ城壁が建設された。この修道院には、1つの聖堂と3つの教会があるが、今は博物館になっている。
カーメンカ川は、昔は船の行き来ができるほどだったが、今は、浅く狭くなってしまったために交通路としては廃れてしまった。
この修道院にドミトリー・ポジャルスキーの墓がある。彼は1612年にポーランドからロシアを解放した人で、モスクワの赤の広場に、友人とともに像が造られている。
6-2-3-1 城壁の横から全体を見る
中に入る前に、まずはこの町の様子が見渡せるところへ行った。
眼下にはカーメンカ川が、右奥には、撮影のために造られたという昔の村が、そして対岸にはいくつかの教会が見えた。
その中で、一際目立つ白い教会が、ポクロフスキー修道院。ここは女子の修道院で、上流社会の女性のためのもの。昔、離婚ができなかったために、王は強制的に奥さんをここに入れたのだそうだ。一人目がイヴァン雷帝の父のワシリー三世の一人目の奥さんだった。嫌いになったわけではなく、子供が生まれなかったためにそうせざるを得なかったとか。その代わりにここへは多額の寄付をしたそうだ。その後、ワシリー三世は再婚した。要するに尼寺だ。
ピョートル大帝の一人目の奥さんもここに入れられ、そのときに5つのドームが造られた。このピョートル大帝、後にエカテリーナ一世と結婚した。
周りは城壁で囲まれているが、かつてはそこに200人もの人が住んでいたという。
6-2-3-2 いよいよ中へ
入り口でカメラ券を100ルーブルで購入。これは後の木造博物館との共通券になる。
城門を入る。この中央の門の塔のレリーフが素晴らしい。
城壁の中に入ると、まずブラゴヴェシチェンスカヤ教会の前に出る。これが内門になる。
ここがメーンストリートで、突き当たりまで行くと主な聖堂がある。これは、昨日のトロイツェ・セルギエフ大修道院と同じだ。
ここではそれが、16世紀に建てられたスパソ・ブレオブラジェーンスキー聖堂で、7つの立派なドームがあるのですぐにわかる。
ブラゴヴェシチェンスカヤ教会を抜けると食堂の教会がある。これがウスペンスカヤ教会。
他にも修道士たちの住んでいた建物がある。ここは、病院や刑務所として使われたとか。エカテリーナ二世の時には無神論者を犯罪者として捕らえ、大戦時には、ドイツ軍の捕虜を収容した。1986年からは博物館となっている。病院時代にハーブなど薬草を育てていたという庭もある。
6-2-3-3 屋根のつくり
昔外国人が来て、ロシアは皆銀色の屋根を持っているほど金持ちだと記したそうだ。
が、実はこれはヤマナラシという木だそうだ。城壁の屋根も同じで、色が違うように見えるのは、まだ新しくて自然の色が残っているためだ。伐採してから2年間ほど完全に乾燥させてから使用する。その際ニスなどは一切塗らず、そのままを使用する。5年もたてば銀色になってくる。雨に濡れても40年くらいは大丈夫で、そのくらいおきに葺き替えるそうだ。井戸もヤマナラシを使っている。
ところでヤマナラシの木とはどういうものなのか、帰国してから調べてみた。あるにはあるが、ヤマナラシとは日本の固有種だ。そんなにロシアにあるとは思えないが、ポプラの一種とあるから、似たような物なのかもしれない。
6-2-3-6 番外
見学を終えて外へ出ると、また教会があった。
夏の教会、冬の教会、鐘楼の3点セットの建物だ。スモレンスカヤ教会という名らしい。
夏用は大きく、冬用は小さくなっている。
そこから駐車場へ行く途中に、キュウリ売りのおばさんが店を開こうとしていた。ここは世界一のキュウリの町で、浅漬けのキュウリを売っている。他にもキュウリ売りのおばさんがいた。
おいしいですよと言うガイドさんの勧めに従って買って食べてみると確かにおいしかった。1本5ルーブル。その後他の人も買い込んでいた。
明後日は世界キュウリ祭りが行われるとか。大勢人が集まって民族舞踊なども披露されるそうだ。
地球の歩き方で紹介されていた「パサードの家」というのもあった。住宅が木造から石造りへと変わるちょうど端境期の建物で、ロシアにも殆ど残っていない貴重な建築だとある。が、実際のところ良くは分からなかった。
6-2-5-2 民家
民家はログハウス。これが伝統的な建て方で、太い丸太の間には巻き肌を入れる。造るときは村の人がみんな協力してだいたい1週間で作り上げる。ただ、レリーフなどの飾りは、持ち主がやる。
その中の一つ、農家に入ってみる。
1階は倉庫になっている。いろいろな物が置いてある。次に中に入ってみる。天井が低かったが、これは、暖かさを保つためだとか。やはりこの地に住む人にとって寒さとの戦いは半端じゃなかったのだろう。
右側が赤い色の壁になっているが、そこは客用の場所。奥には、キリストのイコンが飾ってある。
これが一般的だったそうだ。
狭い部屋だが、ここに家族全員で住んでいた。老人や病人はペチカの上、両親は長持ちの上、子供たちはほんとに狭い隙間に寝たそうだ。ここには特にベッドという物はないが、向かい側にあるもっと狭い部屋にはベッドがある。こちらは夏用になるそうだ。
6-2-6-1 ラジヂェストヴェンスキー聖堂
現存するスズダリで最も古い建築で、13世紀末の物。タタールモンゴルの征服の前の建物で、白い石灰岩でできた浮き彫りのある1階のみだが、こうして残っているのは珍しい。2階3階は、16世紀に再建された物。
「ここのドームも青色に星、ということはマリア様に捧げられた物です。もう皆さんおわかりですね。」とガイドさんに確認させられた。
門も当時のまま。これは黄金の門と言って、扉には聖書物語が金メッキで描かれている。ただし、現在は聖堂内に展示されているので、見ることはできない。また、聖堂内部はフレスコ画で覆われ、17世紀の巨大なイコノスタスも残っている。
外観のみ見学。それもあまりの暑さに、向かい側にある鐘楼の日陰の部分で説明が行われ、誰も建物に近づいて見るようなことはしなかった。