第四日目:2002年12月28日(土)


○起床(04時30分)
 朝はまだ元気が残っているのか、早かった。実はホテルを予定では7時45分に出るからだ。渡されている予定表では、8時出発だが、添乗員氏は時間的な問題を結構気にするタイプ(というか夕日に間に合わなかった・・・でもあれはトランシーバー事件のせいもある)なのだろう。昨日のうちに荷物の一つは作ってあったので、荷造りも簡単。日記を書いたりしながら朝食の時間を待つ。

○朝食(06時00分)
 6時少し前に朝食を食べに下りていく。朝食はビュッフェスタイルで、品数も結構あった。

○ホテル発(7時50分)
 それなりにトラブルというものはあるものだ。今日もみんなが集まったのは結構早かったけれども、時間がかかった。どうもスンナリとは出発しない。こういうのが続くとまた出発時間が更に早まることになるのではないかと心配だ。荷物を積み込むのに時間がかかるというサービス側のトラブルではなく、ツアー客側の心配りがあまりな移転先行き不安。

○貯水池見学(07時55分〜08時10分)
 あっという間に貯水池の見学場所に到着。
 乾燥帯の人々にとっては我々以上に水の確保が重要だ。かつて水の確保をするために作られた貯水池を見に行く。見学する場所に建物が建っていてそこを上って上から見る形だ。大きな直径の水溜と、小さな直径のものがセットになって二組あった。小さい方と大きい方は結ばれていて、近くの山から引かれてきた(やはり水道橋があったようだが今はない)水は一旦小さな方へたまり、その上澄みだけが大きな超水槽の方に流れる仕組みになっている。
 この貯水池は今は観光用に存在しているか歴史的に存在しているかで、使われてはいない模様。ともかく、まずこうした灌漑施設が、その町の運命を決めていたのだろう。水の重要性は日本だって変わることはないが、乾燥地帯はひとしおだと改めて思った次第。水の浄化のシステムなど、もう少し詳しい説明を聞きたかった。
 見学している塔の脇を、装飾された天蓋が着いたラクダがゆっくりと通っていった。花嫁が乗るものとのことだが、実際にそれがその役目のために通ったのか、あるいは観光用に用意されたもので朝早いので丁度出勤時間だったのかは聞きそびれた。

○シディ・サハブ霊廟(08時15分〜08時40分)
 それにしても今朝は立て続けに見学する日だ。バスに乗ったかと思うと、もう降りる感じ。さてシディ・サハブというのは、イスラム教の開祖のモハメッドと行動を一時期ともにした人間らしく、それ故にあがめられているらしい。ここは、霊廟部分とモスクが合体したものだとの説明があった。モスクの要素は、ミナレット(アザーンを呼びかける塔)とミハラブ(説教台?)を持つということで、そこがイスラム教徒としての日常的なあるいは義務的な祈りの場所であるのに対して、霊廟は、たとえばここでは男子出産が祈願されるということだが、イスラム教にとって重要人物を祭祀し願いを聞き届けてもらうところのようだ。日本でいえば、神社といったところか。ここには、彼とともにこの廟を建築した建築家も一緒に祭られていると言うことだ。
 またここは割礼で有名なところらしく、ガイド氏は日本語で盛んに「カツレイ」を連発していた。則にもどうかと訪ねていたのには参ったが、イスラム教徒になるためには男子は必須のものであるらしく、モハメッド・アリも回教徒に改宗する際に行ったとか。なお、現在では割礼もその多くは衛生的な病院で行うということだ。

○グランドモスク(08時45分〜09時15分)
 バスはまた少し走って止まった。今度は大きな駐車場だった。門前といってよいのだろうか、観光客めあての露天も並んでいた。シディ・サハブ霊廟もそうであったが、また貯水池についてもまさにそういう意味があるわけだが、水は貴重である。にもかかわらず、その水を使いモスレムは祈りの前には清める必要がある。そこでミナレット祈祷所を囲む庭の下は巨大な水槽になっていて、降雨があればそれを不純物を除きつつ地下水槽に貯蔵するシステムが出来上がっている。左の写真は水を集めるシステムの部分で、中央に落ちるまでに、周りの「C」字型の部分に不純物を沈澱させる工夫がされている。我々が見学中にもバケツでくみ上げられているのを見ることが出来、このシステムが今も使われていることを知った。
 広場の端には当然ミナレットがあるのだが、この基壇部はもっとも古い時代のものとされており、実際に基壇部とその丈夫は少し色が違っていた(順さんの丁度肩のあたりから下が色が違うのがわかるだろう)。
 また広場には日時計がおかれていて、かつてはそれによって祈りの時間を決めていたのであろう。現在ではどうなっているのか・・・彼らが祈りを捧げる場所に5つの時計が、つまりイスラム教徒が必ず行うこととされている1日5回の祈りの時間が示されている時計があった。面白いのは、アラビア文字と同様に、昔の日本と同様に、右から左へと読む。しかしこの時計、長針と短針の関係が奇妙なのが気になる。かつてのイスラムの数学はもっと精密なものであっただろうに、少し嘆かわしいと思った。ところでこれは後日聞いた話ではあるが、たとえばガイド氏、ガイド中には祈ることはなかったのだが、どうしているのかという当然の疑問がわく。病人や妊婦は免除される問いことだが、仕事などでどうしてもかなわないときには、後でまとめて祈るのだそうだ。パキスタン航空の乗務員が、北京空港で出発する時間になっても祈っていて出発が遅れた経験があるが、こうした手法があるとするのはこの国独自なのだろうか。

○カーペット屋(09時20分〜)
 カーペットの作り方を見て、その後にカーペットを買うというお店。この会社では原則立ち寄らないタイプの店だが、トイレのこともあり立ち寄ったのあろう。それにしても一度カーペットの起源を調べてみる必要があると思った。アラジンと魔法のランプにも絨毯は重要な役割を担っており、それ故にこの地域の発祥と見ることは類推も可能だが、旅をしていると、そこいら中でカーペットが作られている。興味を持った。
 ここでは女性が働いていたが、この地方におけるカーペット産業というのは、家内工業であり、おしなべて女性の手によるものだそうだ。
 トイレが一つしかなく、日本人の団体が一緒になったので、トイレは早々と切り上げてメディナで使うことにして出発した。ちなみに誰もカーペットはさすがに買わなかったようだ。

○メディナ散策(09時45分〜10時25分)
 トイレの後(順さんのみ・・・0.2D必要だったとか)、メディナを散策した。ここのメディナも世界遺産である。観光バスが止まる門の所には、しっかりとそのマークがある。ここはさらに規模が小さいのだが、それ故に今も人々の生活の中心になっている部分も多い。南米風にいえばインディオ(おそらくはベルベル人か)の母娘がわずかなお金でパンを買い求めている姿を見た。我々にとっては100円に満たない金額で粘っているのが見えた。
 則はお菓子を買いたがったが、順に止められて果たせなかった。

○スフェチュラ遺跡(11時50分〜12時55分)
 さてメディナの見学を最後にケロアンを後にしなければならない。今日は300キロ近くをこれから走らなければならないからだ。出発して、1時間あまりで飛行場が見えてきた。国際空港ということだ。やがてスベイトラに着く。
 ここでは、スフェチュラ遺跡を見学する。スフェチュラ遺跡というのは、ローマからビザンチンにかけての時代の遺跡で、ギリシャ神話の3神をそれそれ奉る神殿や、その広場の手前にあるフォーラムと呼ばれるところや、十字架の残る教会跡、半円形の劇場などを見学した。劇場は舞台とその横にある舞台袖部分だけがオリジナルをとどめているだけで、後は完全に現在になっての再建である。ここでは夏に、他の都市のように、ここで演劇などのフェスティバルが模様されるということだ。

○昼食(13時00分〜14時25分)
 昼食は、街に入ったところで見えたホテルでの昼食となった。つまり遺跡から少しもどっの昼食。ここでも日本人の団体とあう。既に昼食時で、他の国の団体などでごった返しているレストラン。我々はここでまたもやワイン。ロゼしかないというので、まぁ贅沢は言えないので、それを所望すると、昨晩飲んだそれと同じブランドのもの。ラベルが赤かロゼかの表示が違うだけ。軽めのもの。内容は、マカロニ・カモウニア(スパイスに効いた肉の煮込み料理)・ヨーグルト。マカロニは少しパンチがなかったのと、肉料理はスパイスがきつかったので、どこへ行っても魔法の調味料の醤油をまたまた大量にかけて食べた。料理人が見ていたら叩かれるところだろう。

○だんだんと砂漠地帯へ
 スベイトラを出てまたバスは更に南進する。だんだんあたりは荒涼として、ブッシュの部分が多くなる。砂漠に近い状態だ。途中の街のホテルで15分の休憩をとる(15時45分〜16時)。写真左は、そのホテルの大晦日の食事会の宣伝(だと思う)。一人12Dだから、1300円くらいだろうか。
 そこからまた一路バスは今日の宿泊地であるネフタを目指す。再び走り出してからすぐに、線路が道路と併走するようになった。程なくして貨物列車が通過。リン鉱石をはこぶ列車だ。客車は週に4回ほどしか走らないという。まぁリン鉱石のための鉄道だ。チュニジアの鉱物資源はなんと言ってもリン鉱石らしく、これでかなり輸出で稼いでいるらしい。ただ、海岸へこれを持ってゆき、精錬をしてから輸出するので、そうした町では公害問題が起きているという。何事もうまくいくだけではない。

○メトラウイ通過(16時30分)
 メトラウイは鉱山の街だ。世界第4位のリン生産高をチュニジアは誇るという。砂漠に出来た大きな街だ。先ほどの貨物列車もここを経由したものだろう。ここは完全にリン鉱石のための都市で、オアシスではない。明日はこの近くまで戻ってきて列車に乗る。

○ホテル
 こうして長い旅を経て、ようやく17時30分にホテルへ着く。ここは砂漠の前線基地であるネフタというオアシスの町の高台にあるホテルで、前大統領が毎年2ヶ月も過ごしたところということで、そのオアシスが全室から眺望できる。渡したhcいの部屋からも見ることが出来たが、その感動は暗くなっており明日までお預けであった。

○夕食へ
 夕食は途中通過したメトラウイ近くまで戻って、チュニジア人宅で夕食を摂るという。
 19時00分にホテル発、19時35分到着。暗かったので道路の状況などはよくわからなかった。ここで21時20分まで夕食。赤ワイン12D。
 家はどんな感じなのだろうかと思って興味があったが、大きいことは大きいが、まぁ普通の家に近い。ファティマの手と名付けられている、チュニジア風の春巻きなどが出た。それやチュニジアサラダなど、日本風の味付けになっていて美味しかった。これが地元の人たちが普段食べているものを客用にアレンジしたものかどうかは聞きそびれた。
 ここはナツメヤシの事業で成功した篤志家が外国の客をこうして招いているのだそうだ。といってもしっかりワインだってホテル並みの料金を取るのだから、家族経営のレストランと言うところだろうか。
 22時00分にホテル帰着。
 明日の予習をして、22時30分就寝。


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