第六日目:2002年12月30日(月)


○起床・朝食
 今日の起床は則4時、順5時。寝るのが早いのだから起床時間は勢い早くなる。日記を書き、荷物の整理をし、6時になるのを待つ。6時のモーニングコール受けた後、食堂へ。連泊だったわけだが、今日は開いていた。実は昨日、そのことを添乗員氏に言うと、ホテルの人に明日は何時から開いているかを聞いてくれた。午前3時からということだったので、大丈夫と踏んでいったわけだ。多分そのころに深夜便が到着するのだろう。食事の内容は昨日と殆ど変わらず、ヨーロピアンスタイル。

○出発(08時10分)
 今日は再びバスでの移動となる。今日も比較的行程は長い。およそ250kmくらいの走行か。しかし出発は8時と、少しのんびりだ。おかげで、少し体を休めることが出来た。
 今日も出がけに少しトラブルがあり、出発がやや遅れる。

○馬車でのオアシス探訪
 バスはネフタのまちから隣町の、ここは相当観光化されてしまったわけだが、トズールまで走った。この町の家の壁はテラコッタを並べて幾何学模様を出して、綺麗なことで有名だ。バスは30分ほどで、駐車場に停まる。そこで一人10TDで4人乗りの観光用馬車に乗る。08時35分出発。馬車はオアシスの農園群の中にある道を走っていく。このオアシスには、800人くらいが住んでいるそうだ。

 途中で農園の一つに入る。ナツメヤシの木に登り、ナツメヤシを採るカッコウを実演してくれた。ここもかつては砂地であったというのが不思議なくらいに、下草まで生えており、長い間の努力のたまものなのだろう。一般にナツメヤシが実を収穫できるようになるには7年かかる(オリーブは10年)。それからその林が形成され、その下に柑橘系やバナナなどやや背の低いもの、その下に野菜類、そして下草・・・といった努力である。左の写真でもナツメヤシの林の下が緑で覆われているのがわかるだろう。ここもかつては砂地だった訳だ。

○動植物園見学(09時10分から10時まで)
 馬車が到着したところが動植物園。馬車のオプションを選択しなかった人たちとここで合流した。ここではサハラ砂漠に現在、そして過去住んでいた動物を飼っているという所だ。植物園も兼ねており、まずその説明をそこのガイドさんがしてくれた。時折怪しげな日本語を交えながらのガイドは、楽しく、笑いを誘ったが、それほど日本人が訪れると言うことか。
 動物園の方が施設的には大きく勝つ充実している。特に珍しいという動物はいなかったが、コーラを飲むラクダというガイドブック通りの実演などで、客を楽しませるサービスはたっぷりだった。寝ている動物がいれば、たたき起こしてみせるなど、ふつうの動物園では考えられない、動物愛護団体からはおしかりを頂戴しかねない、サービスを発揮したガイドだった。右の写真はサソリで、これとてたばこの好きな人はいないかとマルボロの箱から取り出す演出を見せてくれた。またかつてはチュニジアにいたということでライオンなどもいた。サハラ砂漠が後退していった歴史がわかる。

○市場の見学(10時10分からメディア散策・11時まで)
 再びバスに乗って、メディナに向かった。ここで自由時間約1時間。
 ここでは最初、体育館のような大きさの建物に入った。そこでは肉や魚(氷付けになっていた)、野菜や果物などの日常食べるものが売られており、公設市場といった雰囲気の所だった。そこを通り抜けて外に出て、ミナレットを目指して歩いた。街は喧噪にあふれており、(外国の)観光客相手の店も多かったが、おしなべてしつこくはないことは、ここも同様だ。またいわゆる砂漠のバラも、ここでは山積みにされていて、珍しくもない商品になっていた。
 また街の広場の一方では男たちが例によって、何を話しているのだろうか、のんびり椅子に座っていたが、反対側では着ぐるみのウサギなどがいたりしてショーをやっていて、子供たちと、それを取り巻く大人たちが大勢いた。私たちが見ていたときは、壇上で子供がおそらくは暗唱しているコーランの一節を話していたのではないだろうか、終わるとなにがしかの商品をもらっていた。左写真はミナレットと、たむろしている男たち。右は偶然この町で見つけた郵便局前のポストで、自分たち宛の葉書を投函する順さん。(後で聞いたら、ウサギの着ぐるみと思っていたのはレビープという砂漠に住む狐の一種でチュニジアの自然保護のシンボルなのだそうだ。訂正。)

○塩湖
 バスはトズールの町を後にして、11時25分にジェリド湖という塩湖の中を横断する道路に入る。
 塩湖といっても、そこに水があるというよりは、塩水の沼のようなものなのだろう。道路脇に道路を補修するために左右に掘られた側溝のような穴に水がたまっている。
 11時40分、撮影タイム。12時まで。
 撮影タイムになって、そこに近づくと塩の結晶が見て取れた。皆がそこに出ている店(この塩湖の回りは良質のナツメヤシが生育する場所とのことだ)でナツメヤシを買っている時に、そこまで降りていって結晶を拾った。しかし日本に帰るまでにそれは溶けてしまった。
 この塩湖の見学ポイントで、そこに農園の人が出店を出しているという店で、多くの人が現地ガイドの進めるままにナツメヤシのみを買ったが、後日これから虫がわいて一騒ぎとなった。でもなんと言ったって自己責任ですよねぇ(って幸い買わなかったから言うのだけれども・・・)。
 更にバスは塩湖の中を進み、ようやく12時25分に塩湖を出る。
 このころになると遠くに、白煙の上がった建物が見えてくる。これは地下水をくみ上げ、多分それは相当地下深くまで掘る(2000メートルくらい?)ので高温なので、それを一旦ラジュエターのようなもので冷やして、灌漑(ナツメ椰子用)に用いているのだそうだ。

○昼食 13時20分 昼食(ビュッフェスタイル。赤ワイン 12D)
 昼食は砂漠の端にあるレストランにて。ホテルにバスが入るためにカーブを切った所で、おびただしいラクダの群?が見えた。午後の一番はラクダに乗って砂漠を1時間くらい散策することになっているが、そのラクダだろうと容易にしれた。さて昼食はドゥーズのホテルのビュッフェスタイル。中身は似たり寄ったりだったが、品数は豊富だった。ここも著名なホテルらしく、ロビーもゆったりしていて、好感が持てた。我々がラクダに乗って帰ってきた後、JTBの団体が入ってきた。今日彼らはここへ泊まるのだという。彼らとは抜きつ抜かれつの日程だ。
 昼食を終えると、ひとり2TDで我々は即席ベルベル人になった。一枚の布を頭の部分に穴を開け、手が出る部分を残して両脇をぬったような簡易な衣装に、ターバンを巻くスタイル。この格好でラクダに乗る。順さんは鞄を腹の前に持っているから、即席ベルベル妊婦のようだ。写真はその順さんの姿。

○ラクダ試乗(14時35分から15時35分まで)
 ラクダに乗るのはこれで2度目だ。前回は順則で一緒に乗ったわけだが、今回は一人ずつだ。どういうわけか、我々が先頭になった。最初一番の高齢のご婦人(彼女は80を超えていた)が乗ろうとしたが、どうもそのラクダは癖があるようで、則に順番が回ってきた。つまりはまだ訓練中の身のラクダのようで、2頭ロープでつながれていて、先頭を行く方に順が乗った。
 だからだろうか、前回よりもさらに居心地の良い乗り物ではなかった。特に則のは鞍が右に偏っていて、落ちないようにするので必死だった。則は運動神経がよい方でないので、特にこうした場面では勢い騒ぐことになる。そうしたことがラクダにも伝わるのか、結構揺れる。さらにこの勢子は先頭を行くだけのことはあって、他のラクダの通らないような小さな砂山をわざと越えたりするものだから、たまったものではない。
 ようやくUターン場所に来たところで、則は一旦ラクダを下りて鞍をなおしてもらったが、その後もそう安定することはなかった。則の体が右に傾いているからだろうか?ただ、後半馬と同様に、足でラクダの体を挟むようにすると少しおとなしくなることがわかったので、必死に締め付けていたことが功を奏したのか、こちらが慣れてきたのか、帰りは往路のような恐怖感はなかった。まぁ約1時間のラクダ試乗体験はこうして終わったが、降りたらがに股で歩くしか方法はなかった。終わってみれば、昼間のワインのアルコールはどこかに吹っ飛んでいた。即席ベルベル人の格好を終えて、再びバスの人となった。

○ベルベル砂漠
 本当にラクダ体験はぐったりした。後で聞いたら、往復約2キロも乗ったのだそうだ。くたびれた。発車したバスはやがてベルベル砂漠と現地のガイドが言う砂漠地帯に入った。おそらくはアトラス山脈の山の端に住む彼らの所へ通じる砂漠なのでそういうのだろう。則はラクダ疲れで、シートを横に使って午睡に入ってしまった。そうしているうちにバスはブッシュのある乾燥地帯を抜け、少しずつ高度を上げていった。

○小さな峠での小休止(17時00分から17時15分まで)
 ベルベル人は昔は地中海沿岸に住んでいた、インディアン(土着民)であることは書いた。彼らはアラブ系の人種と言うことだが、多分その後のチュニジアなどの国家の覇者になったりまた現在の住民である他民族の迫害に会い、どんどんサハラ方面に追いやられることとなる。好戦的でない民族なのだろうか、あるいは自身で積極的にそれらをさけたのかもしれない。そうして彼らは様々な工夫をして住むようになる。そうしたものの一つの形として、高台に家を造り、耕作には麓に下りていくというスタイルを選んだ人々がいた。そうした人々の住居を眺められる高台でバスは小休止。ミントティーをまた飲む。1TDと高かった。アーモンド入りで高いのだと言うが、アーモンドの味は殆どしなかった。勿論ミントも入ってはいない。
 高台から眺めると少し人の動きなどもあり、そこが現在もなお使われていることがわかる。聞けば、半分くらいは現代的な家に移ってしまっていて、人が居住しているのは半分くらいだという。確かに壊れかかったいる家も見える。居住している家は、壁は煉瓦だが、ドアにペンキが塗られているので容易に判断が可能だ。写真は夕日に映えるその村の様子。

○ベルベル人の洞窟住居の見学(17時25分から17時45分まで)
 再び走り出したバスはその村を通り、さらに進む。もう少しで日が落ちてしまうなぁと思っていると、バスは正確には土の山のようなところだろうか、そこに停まった。ベルベル人のあるものは、縦穴を掘り、そこを木などでカモフラージュし、その穴から横にさらに穴を掘り、そこで暮らすというスタイルを選んだ。そうした住居も既にかなり放棄されているわけだが、夏の40度にもなる暑さを凌ぎ、また冬場の夜の0度近くになる寒さをも凌げるそれらは、一方で快適な生活を保障しており、不便さ故に縦の穴の一方を崩して、上からおそらくは縄ばしごのようなもので下りていたことはやめにして、横からの出入りにした上で暮らしている人々が今でもいる。
 そうした家の一軒を見た。観光客を沢山迎え入れているのだろう、石臼を引いて見せたり、焼いたパンを配ってくれたりした。ツアー客の中には、ボールペンやあめ玉を子供にあげたり、インスタント写真で撮影したりで、ここでもしばしの休憩タイムとなる。穴蔵の生活だが、ここでは現在4つが使われており、一つは倉庫(貯蔵庫)であり、一つは台所であり、一つは子供の、一つは親の寝室(写真)のようだった。子供の部屋にはピカチュウのミニチュアがあった。家を後にする頃には日が暮れていた。
 イラストは他と同様に守屋寿人氏の描いたそのあたりの関係の図。上が断面図で、下が平面図。今はこの図の上からの出入りは外敵の脅威はなくなったのでしていないで、おしなべて穴の一方を崩して横から出入りしている。

○ホテル 18時10分
 そこからバスは20分ほどでもうホテルに着いた。

○夕食 19時30分から21時00分まで
 夕食には利用した旅行会社恒例の「そうめん」が出た。異国の地にて食べるそれはいつも美味しい。
 そうめん以外というか、ホテル側の本来のメニューは、春巻き、クスクス。ロゼワイン12D。我々はここで初めて(ビュッフェメニューの時は除く)クスクスを食べたが、周りの人たちも言っていたが、モロッコで食べたそれより美味しい感じがしたのは何故だろうか。


飛んできた直前のページへ戻る