第十二日目:2003年1月5日(日)


○起床と朝食
 起床は今日はぬかって則でさえ4時30分くらいだった。これは多分一番遅い起床の記録だろうか。ともかく日記を書き始めたところで、5時の目覚ましが鳴ってしまった。しばらく日記を書いてから、朝の支度をして6時のモーニングコールを聞いて、食事へ。ここのホテルのこのレストランの朝食はチュニジアに着いた翌朝に利用したからこれで二度目で、明日もここになる。品数豊富。今朝は昨日とは違い朝食をあまり食べられないと言うこともなかった。

○出発 07時35分
 チュニス郊外を抜けて8時30分、1年中水があるというメジャルダ川を渡る。チュニジアで一年中水の流れがとぎれない川は二本しかないそうだ。9時43分チュニスの水瓶ウェルサルガ湖、09時10分から09時25分ベジャでトイレ休憩、09時55分ボウサラムで貨車を見る、10時フランス軍の造った橋を渡る。
 今日は連泊なので荷物をそのままでよいわけだが、それでも一応荷造りをしてみた。ある程度予想していたが、荷物のスペースが大分できてしまった。さて出発は7時30分と早い。今日も走行距離は300キロを超える。出発時間を待つ間にガイドのカイサ氏が指さす方を見ると、ラリー仕様の日産の車が走っていくのが見えた。何故日産とわかったかと言えば、後ろにサポートの赤く塗られたトラックが大きくNISSANと書いて走っていたからだが、パリダカの車という。もうじきチュニスをスタートすると言うことだ(日本に帰ってから篠塚建次郎の事故を我々は知った)。
 バスが出発し海岸に出ると丁度日の出を迎えた低い位置の太陽の光がバスに差し込みまぶしかった。バスがメインの通りに出ると、今度は三菱のラリー車にあった。バスはしばらくすると電車(トラム)と少しだけ併走した。現在こうした路線は郊外に4路線の延長約20キロに渡り延びていて、現在も建設中ということで、0.03〜0.05TD(40円程度)くらいで乗れるという。そこからチュニジアの最初の朝にも見た塩湖を左に見ながら国道5号線から6号線を走る。途中2時間弱走ったところでトイレ休憩。

○ブラ・レジア 10時20分から11時45分
 ブラ・レジアには田舎道を抜けてやがて到着した。ここは古代ローマ遺跡の一つ。最初に迎えてくれたのは、まるでシティー・ゲートのように力強くそそり立つ共同浴場の門だ。(則は説明を受けたにもかかわらず、後で現地ガイド氏にシティー・ゲートかと聞いていた。注意力散漫になってきているのだろうか。)また歩き出すとすぐにキリスト教の教会跡という所を通った。そうここもローマ遺跡だ。
 ここでの見所の中心は一般の個人の住居跡だ(左写真は個人宅の地上部分を見たもの)。この地方は特に夏は日射がきつく気温はゆうに40度を超えるという。マァチュニジア全体がそうなんだけれども。そこで、多分それはベルベル人の文化をも取り入れたためだろう、地下住居を持っており、それらのいくつかを中心に見学をする。
 これら個人住居の特徴は、地下に居住スペースを持つと言うことだが、地下といっても山を掘るというのではなく、現代風の地下一階という感じだ。もちろん今日のような電気設備があるわけではないので、採光や暖まった空気を逃がすシステム(素焼きの管を部屋の中に通して暖まった空気を地上へ逃がす)などの工夫がされている。こうして全く地上階と同じスペースが確保されている。
 元来遺跡はそこに覆土があって保護されていて後に発見されるわけだが、この部分は更に地下に埋まっていたという点で、階下の床を往時飾っていたモザイクやモチーフを持ったタイルが多数発見されている。上の写真でも、柱と柱の間に黒く移っている部分がまだ残存しているモザイク部分。
 そしてその保存状態も今日なお観光客が足で踏みしめる(そこまでの配慮が行き届いていない要素も多いだろうが)部分に残されている。特にモザイク画などはこれまでも素晴らしいものを、たとえばバルドー美術館などで見てきたわけだが、ここのものは幾分かモザイクが細かくなっているようでもあり、また大きな描画部分がアラブ侵入後も残されており貴重なものだ。我々が見たのは、バルドー博物館などにめぼしいものは移されてしまったその残りのものではあろう、やはりモザイク画はそこにあってこそのものだという認識を持った。そしてそこで繰り広げられたであろう、高い階層の人たちの生活を思い浮かべた。
 左の写真はその中でも比較的大きな絵柄のもの。実際はこの上に天使のようなものが飛んでいるし、下部にも絵が続く。写真が鮮明に写っているのは、水をかけてスポンジで磨いてくれたからで、みなツアー客はそうして見せてくれるのだろうが、普段はほこりにまみれている。

○昼食 13時から14時まで
 (テブルスーク・ホテル トゥッガにて。スープ、ビーフストロガノフ、フルーツ。赤ワイン13D)

 そこからバスは少し来た道を引き返し、海抜500メートル程度の高地をひと超えする。途中でティバリンというナツメヤシのお酒の由来となった町を通った。峠越えの場所で遠望したが、日本で言えば阿蘇のような風景が広がっており、緑のチュニジアとアフリカでは呼ばれているそうだが、まさにそこには緑のチュニジアが広がっていた。峠を越えて昼食場所へ行く。
 昼食は田舎町の瀟洒なレストランという感じのところで、食事は少しからかったが美味しかった。昼食はここが今回のベストか。

○ドゥッガ 14時20分から15時45分まで
 ドゥッガはチュニジア最大のローマ遺跡だ。そしてチュニジアでは現在(2003年1月)一番最後に指定された世界遺産だ。我々が参考にした世界遺産の本にはまだ載っていなかった。
 一面に広がる緑の丘にそれはある。馬車だろうかあるいは戦闘用の鉄の輪を持つそれであろうか、その轍の跡がすり切れた石の溝として残るほどに長い間繁栄した町だったようだ。ひっきりなしにそこを通っていたであろう馬のいななきが聞こえてきそうに感じだ。
 最初に迎えてくれたのは、そこが初夏の頃から夏にかけて現在も利用されている、幾分か修復されている劇場跡だ。この町の繁栄と規模がわかる。勿論最上階は奴隷の立ち見席で、我々はそこまで登る。規模はそれほどには大きくないが、保存状態は比較的良い。修復の後も明白な形では施されていないのが特によい。つまり新しいか何下で修復が進んでいるということでもあるだろうか。
 それから奴隷たちが釜番をしていたという、共同浴場や、そこに併設されているプールや若者たちが利用した小さな運動広場、そしてその風呂の水を利用した半円形状に12人ほど座れる公衆トイレなどを見た。浴場の入り口はアーチになっており、これが西欧圏の建築技術によるものであることがわかる。(表紙のページを構成している門は共同浴場に併設されている運動場の門を利用した。外に見える風景は門とともに写した実写。)
 そしてイスラムになってからはモスクにも転用されていたというジュピター神殿を見た。本来は両脇にジュノとミネルバの神殿があるはずだが、まだ修復されていないのか修復が不可能なのか定かではないが、瓦礫の山状態のままになっている。可能ならば早急な修復を望みたい。
 ・・・書いてしまえばこんな所だが、その規模と物量とには圧倒させられた。チュニジアの中に数あるローマ遺跡の中のめぼしいところを選んでほんの少しを回っただけのだろうが、チュニジア最大の感動を与えてくれたのがこのドゥッガ遺跡だった。先にも書いたように比較的手をつけられたのが後だったためだろう、修復の状態が好ましい形で残っている。

○ホテルへ 17時40分着
 ここの土産物屋の横に黄色いポスト(以前書いたようにチュニジアのポストは黄色)に葉書を入れようと人がいたが、一週間に一度の集配とかで、ここにきてこの国ののんびりさが分かったような気がした。ちなみに我々の葉書は都合4通すべて無事日本に着いた。さてドゥッガの遺跡の感激を胸に、バスは一路ノンストップでチュニスに戻る。

○夕食 19時30分から21時まで
 (ミックスサラダ、タジン(チーズ入りオムレツ)、魚、アイスクリーム。白ワイン15D+1D)

 最後の夜であったので、一品多く出たが、それ以外に特別なことは無し。レストランの座席の配置も配置だっただけにしょうがないが。旅を終えようとしている感想のようなものを聞く会があってもよかったか。もっとも見な疲れているようで、あまり元気が無かったので、そうした配慮もあったとは思う。
 我々最後のチュニジア夜は静かに更けていった。


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