第十三日目:2003年1月6日(月)


 今日から実際は仕事始めなのだが、まだ我々はのんびりと旅行中。・・・で最後にしっぺ返しが。

○朝のこと
 出発が遅めなので、朝は少し遅く5時少し前に起床。それでも6時の朝食には間に合うように支度をする。
 朝食を食べて、部屋に戻り最後のチェック。荷物の量が少なくて(重いが)、スーツケースの隙間を埋めるのに苦労する。8時にはそれも終了。9時30分出発だからだいぶ時間がある。8時45分になって荷物を外に出すと、50分頃早くも取りに来る。その前後に二回ノックの音。掃除を早くしたいのだろうか。
 ともかく今のところは天気は晴れているようだ。一昨日および昨日、ガイド氏や添乗員氏からカルタゴは雨という予報を聞いていたので、空模様が気になるところだ。11階の自室のベランダに出ると風が冷たい。ともかく出発30分前の9時になったところで、最後の栄養ドリンク(実に11日分〜2.2リットル〜持ってきていた)を飲んで出発の体制を整える。

○出発 09時35分
 ミニバーチェックに時間がかかり、定刻を少し遅れて出発。幸いにして天気は持ち直したようで、この時点では天気の神に感謝をしていた。そう天気の神に感謝を・・・。

○ビュルサの丘・カルタゴ博物館 09時50分から11時00分
 バスはほんの少し走って、丘の上にたどり着いた。そこにはフランス統治時代に建てられたキリスト教の教会があったが、今は教会としては使われていないそうだ。見学することはなかったが、これまでとは違う建物だけに、外観だけだったがひときは映えて見えた。またこの建物は、この後見に行った軍港・商業港のつながっている部分(昔は水路・・今は橋が架かっている)のあたりからも見え、そこがピュルサの丘であることがわかった。
 ところで、着いたビュルサの丘の意味は、牛の皮?とか。そのいわれは、カルタゴ建国神話?に基づくものだ。簡単に言えば、今のレバノンから事情があって逃れてきた女王が、この地を治めている者に牛の皮一枚分の都市を貰う約束をするが、彼女は牛の皮を裂きそれを繋げて円形にしてこの丘ごと手に入れてしまったらしい。(もっともこの神話はたぶんローマ側の記録だろうから、実際の話は違っていたのかもしれない。聡明な女王に率いられた人たちが移り住んだと言うことは事実だろう。)
 最初にローマ時代の遺跡とそのしたからほんの少し出土しているカルタゴの遺跡を見学する。いわゆる三度のポエニ戦争で、カルタゴはローマに滅ぼされてしまう。ローマはカルタゴの遺跡の上に覆土して新たな都市を建設したので、カルタゴは足下よりずっと下に位置している。つまりカルタゴ時代よりも頂上に広い平地をかさ上げして作った訳。一通りそんな説明を聞いてから、まずは博物館へ行って当時の様子を偲ぶことにする。博物館には、カルタゴ当時の町の様子やモザイク画、発掘されたと見られる装飾品や日用品などが展示されていた。
 それから、外へ出て実際にカルタゴ時代の家の跡に足を踏み入れた(写真)。消えかかったモザイクがうっすらと見えたが、あまり細かいものではなさそうだった。ただ、やはり比較的降雨があるとしても、山上であるから、貯水と排水の設備はよく整えられていて、いかに水を大事にしていたかが伺えた。
 おもしろかったのは、その頃ローマ軍が使ったという戦闘用の丸い石が山と積まれていたことだ。大人の頭くらいの石を、敵地に投げ込んだそうだが、確かにこれに当たったらひとたまりもないだろう。一方大人の握り拳より一回り大きなものも見ることが出来たが、それはカルタゴ側の同様の投石の石だったようで、ここいらあたりの技術力の違いが敗戦につながったのか?

○貯水池 11時05分から11時15分
 そのあと、貯水池へ行った。長い水道橋からどんな風に水が溜め込まれているのかがよくわかる所だった。今まで水道橋は下から見上げるのが殆どだったので、どのように水が送られてきてどう使うのかはこれで二度目の見学。ここでは上から見ることができるのでその様子がよくわかった。
 いわゆる水道橋から引かれてきた水は、今のようなプールのような貯水池ではなくて、蛇のように曲がりくねって連なっている土管へ水を送る(写真ではその土管が手前から奥へ並んでいるのがわかる)。そこは緩やかな傾斜になっているので、上の土管から下の土管へ水が流れ落ちるようになっている。その一番下の所で人は水を汲むのだそうだ。なるほどよく考えてある。(少し見にくいが青色の線でその道筋を示した。)これで、水道橋が必ずしも引くだけであればあんなに高い位置を通過する必要はないと思っていた疑問が解決した。最後の濾過システムに必要な高低差をも確保していた訳だ。

○トフェ 11時25分から11時40分
 次に行ったのは、トフェ。墓場だ。それも幼い子どもたちの。
 カルタゴでは、幼児を神に生け贄として捧げる風習があったのだそうだ。それも身分の高い人の長子(男児)が一番よかったのだそうだ。メキシコでもそうだが、古代人は、神の怒りを収めるためには血をもって購うということをどうも考えるらしい。生け贄台というのもあった。(ただし、物の本に依ればそうではなくて、幼児は亡くなることが多かったのだという。)

○軍港・商業港 11時40分から11時50分
 そこから歩いて昔の港を見に行った。カルタゴの港が、軍港も商港も水をたたえて残っている。そしてこの港はローマに受け継がれた。軍港の丸い形ははっきりとわかる。こんなに長い間開発もされないで残っているというのは、日本ではとても考えられない。驚きだ。しばし、遙か遠い時代に思いをはせる。

○アントニウス共同浴場 12時00分から13時00分
 この辺りになると高級住宅街ということで、きれいな家が目立つようになった。それもそのはずで、この遺跡に面して大統領官邸がある。ために、写真撮影はひどく制限を受けることになる。つまり、官邸を撮影するとカメラの没収、よくてもフィルムは取られるということであった。ここは今日一番の楽しみなのに、何ということ。きっと、大統領もこの景色を自分の庭先へおいておきたかったのだろう、という話にもなったが、迷惑なことだ。確かに、銃を持った監視員がたくさん配置されていた。
 ここも、ローマ遺跡の一つだが、どうしてこんなに保存されているのだろうと思う。といっても結構広い敷地に柱がたくさん残されているだけだが。その柱、きれいな円柱で、中には飾りを施されているものもある。昔の人の建築技術には感心する。
 それと、ここは男女用に別々に同じ形の浴場が造られていて(左右対称になっている)、女性も男性と同様に入浴を楽しんでいたことがわかるが、運動場ではどんなことをしたのだろうと不思議。女性はおしとやかになどということはなかったのだろうか。

○昼食 13時10分から14時20分
 (シーフードサラダ、ファティマの手、魚のグリル、チョコムース。ハーフボトル8D)

 昼食は近くのホテルで。シーフードサラダは美味しかった。ファティマの手とはつまりは大きな春巻きのようなもの。チュニジア人の言えでも同じ名前のものを食べた。さて、ここでの飲み物、ワインのハーフボトル。何故って?つまりはお金がなくなってしまったという悲しい理由。たぶんドルでも払えただろうが、まぁよしとしよう。

○シティ・ブ・サイド 14時30分から15時30分
 チュニジア最後の見学地は雲も多くなってきたせいもあって、また、観光する地域が狭いこともあって、あまり面白くはなかった。ここは、観光化が進んで、おみやげ屋はたくさんあるので、買い物を楽しむ人にはいいのかもしれないが、我々のように、歴史や風景を楽しみたい者にとってはつまらない街だ。1時間という時間をもてあまして、そうそうにバスの所へ戻った。写真は有名なカフェというので、撮った。この町は水色と白で町が塗られている。かなり頑張って塗っているので、マァマァの一体感はあるが、夏の暑さがあるせいか窓類が少ないから、白が勝って水色のコントラストがさえない。写真でもマァ雰囲気は味わえるだろう。

○買い物 15時40分から16時30分
 今回のツアーは、何というか買い物をしたいという人が多いのか、よく店に連れて行ってくれる。ここもそうだ。最後の買い物ですから、チュニジアディナール全部使ってくださいといわれて、店に繰り込んだ。と、順が、背の高い黒人の人にストップをかけられた。首からぶら下げていたカメラは持ち込み禁止ということで、ビニールでカバーをされた。そこでチョコレートを買った。(日本に帰ってそのチョコを食べたがとてもうまかった。)

○空港にて  16時45分着 18時30分チェックイン
 実は添乗員氏とガイド氏の声を空港に入る時に聞いたのだ。正確には添乗員氏の「リアリー」だけ。何のことだろうと思っていると、先についていた日本のやはり団体の添乗員から飛行機がキャンセルになったという話が伝わってきて、これは困ったという事態になった。我々はこれまでにこのような経験が全くない故に、今回はぎりぎりの日程を選んでいるので、非常にまずいことになったわけだ。
 ・・・やがて事態がはっきりしてきた。パリのCDGが昨日一日閉鎖されていたとかで、パリからの飛行機がチュニジアに来ていないために、結果的にキャンセルになった模様だ。もちろん昨日は成田便も出ていないのだろう。おそらくはCDGは大混乱なのだろう。
 で、結局(この書いている時点では・・・チェニスの空港待合室にて)パリまでの後発のチュニジアンエアー21時発TU2000便への振り替えとなった。2団体がいたものの、この時点でのチェンジが出来たのはここでは幸いと言うしかない。ともかく、我々はせかされるように搭乗手続きをとる。則の鞄が28キロもあり、かなりやばかったが何とか通過。二人でパリに着いたら少し減量する方向で話あう。ただパリへ着いてからどうなるかは全く不明だ。成田へ定刻に着かない、しかもかなりの遅れになることだけは確かだろう。

○TU2000 21時50分離陸
 21時発のチュニスエアの飛行機は、どうやら搭乗員を捜すことから始まった全くの臨時便のようで、なかなか搭乗手続きも開始されない状況だったが、この間にワインなどを購入して時間を過ごし、出発予定時刻になるころにようやく搭乗手続きとなる。エプロンを離れたのは21時40分、飛び立ったのは50分。それでも急遽あつらえた臨時便にしては、機内食もしっかり出た。最後のチュニジアのワインを味わう。これはマゴンのチュニスエアーのマーク入りの瓶だった。
 パリ到着は日にちが変わって0時9分。なるほどCDGには雪があったが、これくらいで?と思う量で、おそらくは吹雪いた天気だったのだろう。


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