3日目 8月21日(木)
 
 サマルカンド市内  ○シャーヒ・ジンダ廟  ○レギスタン広場  ○グルエミル廟  ○ウルグベグ天文台
   サマルカンド泊         hotel AFROSIAB(ホテル アフロシアブ)
                
 5:30に起床。6時過ぎに散歩に出る。ホテルの前を走っている道路の向こうにモスクが見えるので横断しようと思うのだが、なかなか車の切れ目が旨くつかめなくてしばらく立ち往生。なのに、地元の人は悠然と渡っていく。慣れというのはすごいなあと感心しながら、やっとの事で無事横断。
 モスクは2つあった。1つは日干し煉瓦でてっぺんに雑草が生えていた。廃墟かなと思ったら、中には真新しい棺が入っていた。もう1つは、青の色のとても彩やかなきれいなもの。こちらは周りもきちんと整備されていて見るに値するものだ。

 9:00になって今日の観光へ出発。初めにグルエミル廟へ行くことになる。そこは王家の墓という意味でチムール一族を祀ってある所だとのこと。ところが、行って見てびっくり。何と、そこは今朝行った所ではないか。それならばきちんと整備されているはずだ。
 朝は誰もいなかったが、この頃になると近所の子どもや青年が集まってたむろしていた。青年達は車座に座ってこちらを見ているだけだが、子ども達は口々に「こんにちは」「さようなら」と言って寄ってくるのには驚いた。1人の子に誰かが飴をあげると更に多くの子が寄ってきて「ボンボン」「ボールペン」と言って離れない。日本人がここまで影響を与えているとは。中に入るときに管理人が怒鳴って追い返すまでつきまとっていた。
 中はほぼ修理が終わった状態で、チムールや孫のウルグベグの墓があった。周りは見事な金で飾り付けられていた。写真代100スムを取られたが、入場料と思えば安い物だ。チムールの墓として紹介される写真によく写っている場所だ。ただ、実際の遺骨がそこにあるのではなく、その地下に安置してあるのだそうで、ここにはいるのに更に20$(一団体で)必要だ。ここも数年前から公開されるようになったところと言う。本来なら人々の信仰の対象となるところなのだが、ソ連は遠慮なく発掘している。おかげで災いが振りかかったそうだ。なにやらピラミッドの話と似ていないでもないが、チムールの墓を暴くとき災いがあると棺には書かれていたそうだ。ソ連の科学アカデミーの学者3人が開けたところ、その暴いた翌日ソ連はドイツに攻め込まれる。そして、その暴いた3人はその後不慮の死を遂げる・・・、ここまではソ連の科学もメスを入れなかったらしい。この発掘の結果、史実通り戦争で負傷したためにチムールの片足は不自由であったとのことだ。
 10:00に次の見学地、レギスタン広場へ行く。ここには、広場を囲むようにして3つのメドレセが建てられている。その広場では、25日に行われる独立記念の式典の練習をしていた。周りにはそれを見る地元の人や観光客で結構にぎわっている。ここも写真代100スムを支払った。
 初めにウルグベグのメドレセを見る。3つの中では1番古い建物だ。と言っても1420年だから歴史そのものがそう古いわけではない。広場を挟んでコの字状に3つ建っているメドレセの左に位置する。ちなみにウルグベグとは、先のモスクでチムールと一緒に祀られていたチムールの孫で、相当優秀で名を馳せた人らしい。為に暗殺されてしまったとのこと。メドレセとは神学校の意味だが、今は神学校としての役割を負え、商人達の出店になっている。メドレセに付属する以前のモスクの部分も現代芸術家の展示場となって、すっかり様変わりしている。ただ、このお店の人たちもとても控えめで、強引な押し売りなどはなく、お客が来るのをただ待っているだけという感じ。これで商売になるのかなとこちらが余計な心配をしてしまうほどだ。ここも青いタイルが見事だった。現在修復中の所もある。
 次に1番新しいというテイリヤカリのメドレセに行く。コの字の正面のメドレセ。こちらも修復中。モスクの部分はほぼ完成していて、金色の内装が見事に施されている。ウズベクは金の埋蔵量も多く、金がよくとれるようだ。修復には12s?の金を使ったそうだ。

 最後の一つ、ウルグベグのメドレセに対抗して1630年に建設されたシルドルのメドレセは夜に民族舞踊を見るためにまた来るというので外側からだけ見た。玄関には子鹿を追うライオンが描かれている。そのライオンの背に光り輝く人の顔があるという何とも摩訶不思議な図柄だ。
 この頃になるともう暑くて暑くて「水!水!」状態。覚悟はしていたが、こんなに暑いとは。ビーチサンダルや普通のサンダルの人もいたが、市内観光ならこの方が涼しくていいかもしれない。

 次に、ビビ・ハニム・モスクへ行く。これはチムールの1番年上の奥さんの名前を付けたモスクで、ここも修復中。ただ、まだ殆ど進んでいなかったので日干し煉瓦むき出しの状態だ。以前、モスクは別の名前だったが、その前に奥方の住まいがあったので、最終的には彼女の名前をとったモスクになった。巨大なモスクで、整備されればウズベキスタン最大のモスクになるようだ。工事中だったので、写真代100スムは支払わず。一通りの説明を聞いて、隣接するバザールへ行く。
 ここは大きいバザールで食料品を扱っている。種類が豊富で、こんなに?と驚くほど。売場は勝手気ままではなく、きちんと整理されていて、同じ種類ごとに分けられている。同じ物が何人もで売られているから、競争は結構厳しい物がありそうだ。
また、お店では袋はくれないので、急に思い立って買い物をする人のためにビニル袋を売る店もある。お米は日本と同じ短い物を売っていた。感心して見ていると、男の子がサフランのような物を2つくれた。お礼と言っては何だが、写真を撮ってやるととても喜んだ。こちらの人は、カメラを見ると撮せ撮せとうるさいくらいに言う。この後も何人かの男の子を撮してあげた。その写真が手に入るわけではないのに、どうしてかな。これだから、案内書にポラロイドを持っていくと喜ばれると書いてあったのだな。各観光地にはポラロイドの写真屋さんがいたが、地元の人は頼めないだろうな。バザールの屋根のある部分はソ連時代のコルホーズだったかソホーズだったかの時代からの地元の農家の利権があるのだろうか(添乗員氏の言)。市場での外のバザールの囲いの中で売る人々は旨に許可証のようなモノをつけて売っていた。それがない幾人かはバザールの出入り口付近で手にモノを持って売っていた。

 ここで午前の部はお終い。ホテルに帰って昼食休憩後再出発。うっかり寝過ごすところだった。やはり暑さはこたえているようで、疲れとして溜まっているらしい。まず行ったのがウルグベグ天文台。またしてもウルグベグだ。この辺で一番高い所に建てられていて、眼下に市街地が見渡せる。今は溝のような物の一部しか残っていないが、この時代で既に1年の時数計算がほぼ正確にできていたとはすごい。要するに巨大な六分儀の一部が今は遺跡として残っているのだ。
  次に民族博物館へ行った。昔のサマルカンドの遺跡から発掘された土器や装飾品などが展示してある。また、壁画(フレスコ画)もあったと言うことで、かすかにその後が残っている。その為か写真代は150スム也。払わず。
 それからシャーヒ・ジンダ廟に行く。ここはイスラムの聖地になっている。その証拠に、現在も信仰の対象になっているらしく老人のグループがいくつもお参りに来ていた。ここの写真代は100スム。もう見飽きたということもあって払わず。長い階段を上がっていくと、ここには2mほどの道の両側にほぼ20以上の霊廟が並んでいて壮観だ。いくつかは青いドーム(キューポラ)がきれいだったが、他は保存状態は完璧ではなく崩れ落ちている所が多い。でも、歴史の古さを感じさせる点ではこの方が雰囲気がある。欲望を抑えられずに隠れてシャッターを切る。「生ける王」と言われる墓の中でもパチリ。ただ、ちゃんと写っているかどうか・・・呪いがあるかもしれん。この墓の主は開祖のモハメッドの弟だったか叔父だったかで、布教に訪れたが反対に首を切られたという人物。つまり殉教の地でもあるわけだ。ここでもソ連の手は入っており、墓は暴かれていて、結果は中には何もなかったとのことだ。つまり首をはねられてもなお生きている・・・。どん詰まりの所にチムールの1番若い奥さんの墓がある。イスラム教では女性は蔑まれているのかと思ったら、そうでもないらしい。
 ここでやっと今日の見学も終わり。5:20にホテルへ帰る。夕食後、レギスタン広場の民族舞踊を見に行く。広場はまだ25日のリハーサルをしていた。照明などとてもきれいだった。我々はそこではなく、シルドルのメドレセの中の広場で見る。オペラ風の恋愛物語だった。現地語なので衣装がきれいということしか印象にない。日本人ガイドの説明によれば、現地の踊りが中心とはいえモスクワの影響が強いという。どことなくオペラのアリア風だったり、ダンスがコサックダンス風だったり、この考えは的を得ているだろう。
 ホテルに戻るとどっと疲れが出たが、今日も水騒ぎをしたため、則裕は水作りに燃えて、何と4.5Lもの水を作った。そこに液体の凝縮麦茶を入れて即席麦茶の出来上がり。これはヒット商品だ。おいしく飲める。