2005年12月24日(土)

ホテル(0500)(0515)ドバイ(0720)EK 961・−1時間(0900)サナア(1045)(1220)アルラギーラ峠(1225)(1300)昼食、ルサバ村(1345)(1625)イブ(1655)(1725)ジブラ(1800)(1925)タイズのホテル

3.1 サナアへ EK 961便 14AB (06:55発08:55着予定便)

 朝4時30分に朝食をとって、5時にホテルのバスで空港まで送ってもらった。そこで関西組と合流。本当なら昨日乗るはずだった便に乗ってサナアに向かうことになった。丸1日遅れの行程になる。昨日観光するはずの所は、日を改めて行うことになった。気を取り直して機内に入る。
 出発にだいぶ待たされたが、添乗員曰く「一つ一つチェックをしているので今しばらくお待ちください」といってどこかへ行ってしまったためだ。でもこの過程が全くの無駄になったのは直にに判明することとなる。
 7時20分に離陸すると、すぐに朝食が配られた。ホテルでは殆ど食べるものがなかったので、結構お腹に入った。
 この飛行機不思議だったのは、昨日添乗員氏が「満席のところを無理矢理に・・・」といったが、ガラガラだった。実際現地ガイドのシャミ氏もいつも空いていると話していた。
 イエメンは更に時差が−1時間となるので、機内で時間を合わせた。
 9時にサナアへ無事に到着した。

3.2 スーツケース届かず<2−1>

 荷物が出てくるまでの時間を利用して順さんがトイレへ行って戻ってくると、則さんが、「スーツケースがない」という。また冗談でからかっているのかと思っていたが、どうやら事実らしいとわかって順さんも落ち着かなくなった。結局最後まで待ってみたが、二つとも出てこなかった。他にもそういう人がいて結局計9つがロストバゲージとなった16のうちの9つだから驚くべき確率の数だ。他社(同じように今日に回されたE 旅行社の人たち)は全て出てきていたのに、昨日のホテルといい、何が違うのだと怒りが湧き上がってきた。しばらくエミレーツと交渉した後、まだドバイにあるらしいということになったようで、ロストバゲージの手続きをすることになった。
 「エミレーツと交渉して、一人50ドル出させるようにしました。荷物は後で届けてもらうようにします。」という説明で、とにかく次の目的地へ向けて出発した。その時既に10時45分。飛行機が着陸してから2時間近く経っていた。(でも50ドルは交渉と言うには手際よく用意支給されていた。「出させた」と言うのとは違う感じがした。)

3.3 四輪駆動車で出発 10:45〜 1号車

 6台の四駆に分乗してタイズへ向かうことになった。我が家は1号車。ガイドのシャミさんと添乗員と計4人が乗るので、やや窮屈だ。
 サナアの町は車が多くて、皆運転が乱暴だ。クラクションを鳴らしっぱなしで右に行ったり左に行ったり、メチャクチャに路線変更ながら走る。まるで暴走族だ。その殆どが驚くことに日本車。日本以外の車を探す方が難しいくらい日本車であふれている。もちろん、中古とおぼしき車の洪水だ。
 今日は始めの計画通り、イブ、ジブラを観光してから宿泊地のタイズへと向かう。出発時刻が遅れているので、焦る気持ちもあるのかも知れないが、それにしてもすごい。
 1時間ほど走ると、道ばたに大きな黄色い物がたくさん転がっていた。カボチャだという。この辺りが産地なのだそうだ。珍しいのでそこで写真ストップ。遠くに畑で働いている女性らしき人を見つけた。
 12時15分に初めての検問所。イエメンでは国内の至る所に検問所があり、検問所ごとに許可証の提示を求められるそうだ。撮影は禁止。
 12時20分に峠でまたもや写真ストップ。アルラギーラ・ヤスラ山(標高2700m)だそうだ。見下ろすと荒涼とした中に村らしき集落が見えた。

3.4 昼食  1300〜1345

 13時からルサバ村にて昼食。地元の人たちのレストランだ。初めてのイエメン料理、入り口を入るとたくさんの料理が並んでいる。そこで希望の物を言って皿に盛りつけてもらった。ゴッチャ煮が多い。香辛料も気にならず,普通に食べることができた。則さんは全てがえらく気に入ったようだ。順さんはジャガイモが気に入った。ただし、最後に出されたチャイは甘すぎて口を付けただけで残してしまった。

3.5 カート畑

 しばらく走ると道の両側に緑の木が見られるようになった。カートだという。これはイエメンの男性が毎日噛むのを習慣にしている一種の覚醒剤のようなものだ。頭が冴えて元気が出るのだという。サウジアラビアでは禁止されているという代物だ。
 葉っぱを次から次に口に含んで、つばが出ると水で飲み込むらしい。葉っぱは最後まで捨てずにいるので、口はどんどんと膨らんでくる。そのカートで財産を築いた人がたくさんいるというから、今更禁止というわけにはいかないのだろう。
 そのカートの畑がずっと続いている。これはこれからも多く目にすることになる。中には、寒さ避けにビニールをかけている畑もある。また泥棒を監視するための見張り塔もある。

3.6 段々畑

 15時にまた写真ストップ。見事な段々畑が目の前に広がる。平地が無い分、山を上手に切り崩して畑にしているのだ。ここで、穀類や豆、カートなども栽培している。一つは狭い畑だが、それが山の上まで続いている様は見た目にはきれいで格好の被写体になる。だが、生活している人たちにとっては重労働を強いられるものに他なるまい。
 5分ほどして出発したが、そう走らずにまたもや写真ストップ。スマラ峠(2300m)というところだ。向こうの山頂にオスマントルコ時代の城が見えた。

3.7 イブ  16:25〜16:55

 始めの見学場所はイブという町。坂道の多い町だ。もっとも後でわかってくるのだが、イエメンの町はどこも坂や階段が多い。これも畑と同じく山を削るようにして造っているためだろう。
 ここで初めて、カマリラという半円形の窓を教えてもらった。イエメン独特の物だそうだ。そして勿論モスク。どんな町にも必ずあった。それから黒ずくめの女性達。写真を撮ってはいけないと知っていながらカメラを持つ手がウズウズしていた。
 町にはサッカーをする少年がいた。

3.8 ジブラ  17:25〜18:00

 次はジブラの町。どこからかの帰路についているのか黒い女性がたくさんいた。珍しく案内人もその黒い女性だった。この人は顔を出しているが、他の女性は目だけしか見られない。手も殆どの人が手袋で隠している。
 薄暗くなった中で、子どもたちがやはりサッカーをして遊んでいた。それを横目にのっけから坂道。町中を歩きながら、古いモスクも見学した。子どもたちが付いて来たりカメラの前に出たりと邪魔な場面もあったが、興味があるのだろう。我々はよそ者なのだから仕方ないだろう。

3.9 ホテル着(19:25)も スーツケース届かず<2−2>

 さて、スーツケースが今日は届かないということで、我々は当座必要な物を購入したいと思ったが、そのような機会がないまま、暗くなった中をホテル到着。このホテルは町から離れた山の上にあるため、買い物はできない。ガイドはホテルに店があるから大丈夫といったので、途中の町も通過。が、ホテルの店には、結局何もなかった。この辺の詰めが甘い。だいたい日本にいたとしても、下着類を売っているとしても(新宿京王プラザにはコンビニもあるけれども)、ホテルで買う人はまずいない。常識がないのか、既に頭が働かなくなっているのか?ともかく、参加者の中の最高齢のご婦人は、既に帰りたいと言い出している。
 スーツケースもなく、代替の衣類を購入するすべもない・・・ということは明日の分は洗濯をしてまかなわなくてはならないということだ。この事実を一団が知るのは夕食後になる。添乗員の独りよがりの行動によって。
 今朝は早起きしたのにつらいことだが、仕方ない。

3.10 夕食時の不満  19:30〜

 ホテルに入るとすぐに夕食。一通り終わって、早く部屋に戻りたいと思った頃、添乗員が来て、「皆さんを驚かせることがあります。今、クリスマスケーキを作ってもらってますので、しばらく待ってください。紅茶も付きます。それを食べながら自己紹介をしましょう。」と宣わく。皆エエッという顔をした。そんなこと知らないから、デザートのケーキをたくさん食べていたし、紅茶も自腹で頼んでいたからだ。
 我慢できずに順さんが、「今日は自己紹介は辞めてください。すぐにでも洗濯をしないといけないから。」と注文を付けて、結果先延ばしにしてもらった。ケーキが出てきたのを潮時に部屋に行った。
 今日は朝も4時前には起きているのだから、その辺の配慮があってしかるべきだろう。しかも、われわれは少し早く知ったのだけれども、このときに添乗員もこのホテルには何もないことを知っていた。それを一刻も早く伝え謝罪すべきであった。それをクリスマスケーキのパフォーマンスを優先する道を選んだ。全く持ってあきれるばかりである。
 このときに知ったのは、添乗員氏は自分の頭の中にあることだけしか考えられない種類の人だと言うことだ。スーツケースがどうなっているかもわからないという、不自由さと不安を、全く自分のものとしていない。私たちツアー客は、旅行を楽しみにしてきたのであって、難行苦行をしに来たわけではない。

3.11 洗濯 21:00〜23:30

 洗濯は大変だった。上から下まで全て二人×2日分を洗い、乾かさなくてはならない。ドライヤーを借りて乾かすことにしたが、たっぷりと時間がかかってようやく終わったときには既に11時30分になっていた。やっと寝られる。疲れた一日だった。

★ホテル ソフィテル  305号室