2006年1月1日(日) 元旦

ホテル(0745)(0840)ロックパレス(1005)(1119)トゥーラ(1200)(1220)昼食(1310)(1350)コーカバン(1430)徒歩(1517)シバーム(1530)(1620頃)スーパー(1708)旧市街スーク(1810)(1830)ホテルホテル(0745)(0840)ロックパレス(1005)(1119)トゥーラ(1200)(1220)昼食(1310)(1350)コーカバン(1430)徒歩(1517)シバーム(1530)(1620頃)スーパー(1708)旧市街スーク(1810)(1830)ホテル

11.1 今日の四駆  3号車

   昨日の運転手達の技術が朝から誰が3号車に乗るかと話題になっていたが、バッチリ我が家に当たった。昨日に引き続き今日も運転手が遅刻してきて出発が遅れた。というより見切り発車をして途中で遅れた運転手と合流したという有様だ。
 さて、3号車の運転手、いつもは陽気なのに今日は朝から何かわからないが不機嫌だった。運転も乱暴で、ギアチェンジもスムーズにできないので、乗っていても心中穏やかではなかった。この不安が後で的中してしまうことになるとは・・・。

11.2 アル・ガビル村 8:15〜8:20

 遠くにロックパレスが見える所で写真タイム。
 そこに学生の集団がいて、実地学習でもしているような様子だった。こちらに関心を持って近づいてきたので則さんが話かけてその教科書を見せてもらった。科学系の学習らしい。身なりからして、生活レベルの高い子供のように思えた。

11.3 ロックパレス 8:40〜10:05

 文字通り岩山の上の宮殿。岩を上手に利用して造っているというより、どうしてこんな所に造ったんだろうと思うのが先に立った。これも防衛のためなのだろう。常駐していたのではなく、夏の離宮として使っていたようだ。世界遺産ではないが、イエメンを代表する風景の一つだ。
 中を見学することになったが、やはり狭い階段を上っていくことになる。その階段の途中で、大発見。今年、順さんが子供向けの年賀状に使った写真があったのだ。順さんが気に入って使ったのだが、まさかここでお目にかかれるとは、ある種の感激だ。
 さて、ロックパレスは観光に慣れているので各部屋に説明板があったので、わかりやすかった。当時もガードは固く、見張り番の部屋もあったが、今も係員が大きな鍵を持ってあちこちに鍵がかけられている。
 ここは展示物などがあるわけではなく、建物の内部を楽しむというより、建物自体を楽しむところだ。屋上からの展望も素晴らしい。
 そこから5分ほどまた車で走って、丘の上からこの建物を含む風景を一望した。
 ところで、ロックパレスを見学するために降りた直後、見学時間が45分、50分嫌1時間とめまぐるしく変わった。添乗員とガイドとの意見調整ができていなかったからだ。それでまた無駄な時間を費やした。到着前にいくらでも車の中で調整ができたはず。そのやりとりを聞かされる方のみにもなってもらいたい。

11.4 四駆の事故 11:00頃(デジカメのタイムでは10時56分)

 3号車の運転手は相変わらず不機嫌で、クラクションを鳴らし続け、何事かわからないが1号車の所まで追いついて怒鳴り立てていた。
 大丈夫かな、と思った矢先、あっという間に女性をはねとばしていた。駐車している車を追い越そうとしたところにその車の蔭から女性が出てきたのだ。
 女性の姿が見えて危ないと思った瞬間に女性の姿はなかった。少し走って車は止まり、運転手は真っ青な顔をして車から降りて現場へ戻っていった。フロントガラスには大きくひびが入り、ドアミラーは完全に壊れていた。ただ、フロントガラスが飛び散らなかったのでこちらに怪我はなかったのが幸いだった。
 近くの人々が集まってきて大声で怒鳴り散らしたりしていた。5号車の運転手がきて、すぐに車を降りろというのでその指示に従い、とりあえず5号車に乗せてもらって移動した。
 後続車の人は女性が倒れるところがよく見えたそうで、女性は痙攣を繰り返し意識がないような状態だったそうだ。
 この事件については、またふれたいと思うが、重大な事故を起こしたにもかかわらず、そしてその事故は、たとえばドライバーのハンドルさばき一つではわれわれも巻き込まれたであろう事故であったにもかかわらず、そのときも含めいまもって、会社側から謝罪がないと言うことだ。彼らには、ふたをしたい事実かも知れないが、それは不可能なことは、この会社が既に起こした事故の内容ガネットの二つのサイトから報告されていることを見てもわかるだろう。この会社の姿勢は、今後の利用者のこともあり、大いに問われてしかるべきであろう。少なくとも、この会社には前例に対する対応能力がない。

11.5 トゥーラ 11:19〜12:00

 ここも石を積み重ねて造った家が印象的な町だ。まずは門をくぐって中に入る。丸く造られた門も勿論積み石で造られているのだが、とてもきれいな円柱となっている。ミナレットもてっぺんまで積み石だった。この地区の建物では窓に特徴がある。窓ガラスの代わりにアラバスターが使われているのだ。ここにも隣とつながっている渡り廊下が見られた。
 水道管で水は各家に送られているそうだが、昔ながらの貯水池もあって、そこは今でも使われていて数人の女性が仕事をしている姿があった。
 スークもあって、日本語で話しかけてきたり日本語を聞いてきたりと商売熱心だった。何かと思ったが、生憎と関心を引く物はなかったので、通過。
 われわれは、ここの観光はあまり頭に入っていない。なぜなら、先ほどの光景がまだ残っているからだ。ただルートに従って歩いたという印象しかない。こんな陰々滅々とした気持ちで観光をしたのは、初めての経験だ。

11.6 昼食 12:20〜13:10

 昼はいつも町のレストラン。ここもそういう物の一つで、一般の人と同じ料理になる。今日のメニューはサルタ。入り口の所で強火で鍋ごと煮込んでいる。卵やチーズ(?)が入っていて今までにない料理で美味しかった。イエメンの家庭料理「サルタ」もこの中にあったのだと思う(写真の黒い入れ物に入ったもの)。
 食事を終えて外へ出てみると、3号車の運転手も戻って来ていて食事をしていた。地べたに座って食べていた。被害者は既に自宅へ戻ったということだったが、本当に?時間的にもたいした検査などしないで、意識が戻ったので大丈夫と判断したのではないだろうか。後遺症の心配はないのだろうか。結局そういう知識も設備もないのだろうな、と思う。従って運転手も安堵したのかスッキリした顔をしていた。彼の気持ちは、現地人のそれなのだろうが、われわれにはその笑顔に対して怒りがこみ上げてきた。
 ところで事故があったために、われわれは別々の車に乗ることを余儀なくされた。これは昼食時を境に解消されるものと考えていたが、そのような考えは、われわれの添乗員には考えも及ばないことだったらしい。3人で一台に分乗とありながら、4人になり、かつ夫婦離ればなれで一日送るというのは、余りにも理不尽ではないか。

11.7 コーカバン 13:50〜1430

 車はシバームの町を通り過ぎ、右折し、コーカバンへ上り始めた。少し行ったところで、急に先頭車が止まった。運転手たちも少しあわてて車を駐めた。先月28日に崩落事故が起きた現場が見渡せる場所だった。この事故については、日本でも報じられている
 さてコーカバン。ここも岩山の上の町。こことシバームは姉妹都市で、下のシバームは農業と商業を担当し、上のコーカバンは軍事を担当していたそうだ。そのせいかどうか、難攻不落だったのであろう、あちこちに爆撃されたままの家が残っていた。これはイエメン内戦時に、反国王側の勢力が立てこもり、そこにアラブ連合のナセル側が空爆を行った、その爪痕。1960年代の爪痕が、痛々しく、なお今日にも残っている。
 まず車で町のはずれまで行く。といってもそれほど大きな町ではないのだが。そこは断崖になっていて、下にはシバームの町が広がっていた。その後町を散策したが、もうこの日くらいになると同じような光景になってくるので、ことさらの感激もなくなって、ただひたすら歩くことになっていた。

11.8 下り道 14:30〜15:17

 この後シバムまでは車で移動することになっていたのだが、以前来たことのある人がその時には歩いて下りたというので、急遽そのようになった。勿論歩けない人は四駆で先回りして待っていることになる。
 道はかなり急な下りだった。しかも足下には小石や砂があって足下が悪く、滑らないように気をつけながら歩かなければならなかった。が、目を下に向ければシバムの町が、立ち止まって上を振り返るとコーカバンの町が見え、悪くはなかった。
 かなりの急坂で足が疲れたので、途中平らなところで休憩をした。眼の前には先史時台のものという墓があった。アベックもいた。邪魔をしてしまったかも。
 その後また下り始めた。道路に出たのでこれで終わりかと思ったら、また道はずっと続いていた。

11.9 シバム 1517〜15:30

 ようやく終着点に着くとそこはもうシバムの中だった。すぐに子どもたちが寄ってきた。何かをいいながらしつこくまとわりついてきたが、適当にあしらった。ここはただ歩いて車の所へ行くだけだった。
 車が止まっていた所には、日本の中古車が2台止まっていた。こんな所にまであるのかと驚きだった。日本車の市場はイエメン全体に広がっているようだ。

11.10 スーパー 16:30頃〜17:08

 サナアに戻ってスーパーに行くことになった。が、市内はものすごい混雑で車は思うように走れない。行ったり来たりを繰り返しながらようやく着いたら、先に着いた6号車が焼きトウモロコシを買って食べていたのでお裾分けしてもらった。実が堅くてちょっと口には合わなかった。
 イエメンにもスーパーがあった。コーヒーを買いたいという人がいたので行くことになったのだ。(モカコーヒーの由来になったモカ港がイエメンにはある。実際はエチオピア種なので、エチオピアが本場?なのだと思う。)
 スーパーは西洋風で、買い物籠を持って品物を選び、最後に会計をするというやり方だ。我が家は何も買う物がなかったので、中を見学して時を過ごした。隣にもスーパーがあった。この辺りがサナアの中心地らしい。スーパーの中に、日本の着物を着た黒髪の長い女の人のパッケージを発見。インド製のヘヤークリームだそうだ。

11.11 スーク 17:15〜18:10

 希望者だけまたスークへ行くことになった。イエメン門で解散集合となったので、まずはイエメン門に上った。
そこからは旧市街が見回せてとてもきれいだった。スークの賑わいも人の流れもよくわかる。スーパーに行くときには車の数の多さに辟易したが、ここには溢れんばかりの人がいる。
 下へ降りると売店があったので、イエメンの説明書を買い込んだ。
 一通りスークを回って歩いていたが、人にぶつかるばかりで面白くないので、ちょっと本道から外れた道に入り込んだ。そこはちょっとジャンキーな感じの道で、麻薬の巣窟のような店が並んでいた。外国の人が面白い店だと指さして教えてくれた所も覗いてみたが、怖い感じがして写真を撮ることはできなかった。

11.12 サヨナラパーティー 19:30〜

 サ18時30分にホテルへ戻ってきて約1時間後に夕食。今日は最後の夕食ということで、シェラトンの中の中華料理店へ行った。あれ?ここは確か5月に事故を起こしたときに、お詫びの気持ちで変更したと書かれていた店ではないの。我々にはそんな話はなかったから、初めから予定されていた店なのか。ということは5月の事故のグループはどうだったんだろう。「今日は事故のお詫びを兼ねてビュッフェの夕食からホテルのチャイニーズレストランに変更になっていた。なんと飲み物も旅行社で払ってくれた。」と書かれていたのだが。いい加減な説明は彼女だけではないのかもしれない。会社の資質なのかも。
 さて、飲み物は我々にも出るということだったが、ケチな話して2人でハイネケン350ml1本だという。とりあえずそれをもらった。繰り返すが、それも旅行代金に入っているとは承知しているが、「さよならパーティーの時には弊社から飲み物一杯をサービスさせていただく」と繰り返し述べていた、そのサービスがこれだ。あきれる。ひとりせいぜい4$程度を何故けちるのか。個人人できていた人は、相手を探さない限り、ビールは飲めない。いったい、今回のアクシデントだらけの旅行の締めくくりを、どう盛り上げるかこの添乗員は考えているのだろうか。いやいないに違いない。みな、あきれるだけで、既にあきらめの境地と見た。現地旅行社の代表が挨拶に来たが、もちろん事故への言及はなかった。
 料理は悪くなかった。久しぶりに慣れた味を満喫した。 

11.13 事件発覚<3>

 (海外安全ホームページより)
(1)渡航者全般向けの注意事項
(ロ)イエメンの交通事情は劣悪で、交通事故が頻発しているため、特に渋滞の激しい首都サヌア市内については、乗車中はもとより道路を横断する際にも十分に注意してください。また、市郊外には街灯が設置されておらず、山岳地帯も多いことから、夜間の移動は避けてください。
 1月1日(現地時間)、首都サヌアの東方約100キロメートルのマアリブ州スィルワーハ地区で、イタリア人旅行者人が武装した部族集団により誘拐される事件が発生しました。同集団は刑務所に収監されている仲間の釈放を求めて、イタリア人旅行者を人質に取っている模様です。

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