ブルガリア旅行記表紙

1.ブルガリアは観光資源豊かな国

 最初に今回の旅行期間を書いておきたい。2012年(平成24年)5月28日(月)に出発し、6月7日(木)に帰国している。旅程上の日数は11日間であるが、往路一日と帰路二日は移動に時間を取られているので、正味8日間のブルガリア旅行であった。北海道を少し大きくした国土であり、北海道周遊を考えれば、8日間の旅は概略に触れるにはまぁ適切な日程であったと思う。
 さてブルガリアの国は観光面において、日本に対してかなりの努力を払っている国だ。この国の観光のメインのページ「オフィシャル観光サイト」は、ブルガリア語・英語・ドイツ語・ロシア語・フランス語・スペイン語・アラビア語・ヘブライ語とともに遠い極東の国日本語のページを解説している。この国の外国人観光客数は日本のそれとほぼ遜色ない数を誇る観光立国であるという点を考慮しても、これは格別な努力をしていると言うほかはない。
 それだけ逆に日本人が押し寄せていると言うことでもあろうが、有名ではあるが小さな教会などでも、日本語のパンフレットなどが置かれているのには驚かされた。
 上記のページを見ているだけでも、ブルガリアに行った気分になる。そして、地球の歩き方顔負けの詳細さを持っている。
 そうした努力をすべきほどにこの国は観光資源が豊かだ。残念ながらこの国の森と湖といった側面については、今回はあまり見ることはできなかったが、歴史と文化という面では十分に堪能できた。紀元前7世紀にまでさかのぼれる歴史を持つ国土と、黄金文化という面ではおそらくは世界屈指の黎明期の歴史的位置を占めるという点で、トラキアおよびそれに先んずる歴史は、今なお発掘途中の部分が多く、今後また更に驚くべき発見を秘めている。
 トラキアに次ぐ時代からは歴史的な記述が内外に残されており、それらによれば、様々な民族が現在のブルガリアを支配したことが分かるという。このことはブルガリアが古代から、地理的に重要な部分をヨーロッパ大陸の中に占めていたことを意味していると思われる。
 第一次ブルガリア帝国の時代にキリスト教(ギリシャ正教)を受け入れ、今日にまで残されてみることの出来るイコンやフレスコ画はそもそもはここに由来するわけである。第二次ブルガリア帝国の時代にそれは開花する。
 今ひとつの文化的な要所は、オスマントルコに支配されていた時代にあっても、ブルガリアの母文化は細々とではあるが、リラの修道院などで絶やされることなく受けつがれてきたことだろう。こうした寛容さがオスマントルコ側にあったからこそ、今日我々はブルガリア正教の美を堪能できる。ここのところは何処かに解説が欲しいところだが、今日ブルガリアに生きている文化、残存する宗教美術の多くはこのオスマントルコの寛容性に追うところが大きい。

2.何故にブルガリ

 さておき、なぜブルガリアかと言えば、ここのところかなり中心的に回っている旧東方諸国への旅の一環。そして時期的なものを言えば、ここ何年かは、この時期は日が長く観光もしやすい点からヨーロッパにで出かけるようにしている。そしてこの時期ブルガリアに行くとなれば、「バラ祭」を見たいものではある。と言うわけでバラ祭に合わせたツアーに参加した。
 もちろん、我々のことであるから、祭も好きだが、より重要なのは世界遺産を巡ること。この時期あまた出ている、バラ祭ツアーのなかからなるべく沢山の世界遺産を訪問するツアーを物色した。そして旅行日現在、ブルガリアの文化遺産をすべて回るツアーを見つけて参加した。その意味では、7つもの世界遺産に触れることが出来たわけだから、一定の満足感ある旅になった。勿論バラ祭も楽しんだことは言うまでもない。

3.アエロフロートとモスクワ空港の変容

 旅行会社Tという会社で、今回二度目の利用となる会社。ネット上の宣伝も地味だし、送ってくるパンフレットもかなり簡略化されたものだ。ただし、正式のパンフレットを要求すれば、カラー刷りの分かりやすいものを送ってくる。一回利用したからといって、しつこく勧誘の電話がかかってくるわけではない。ということは、S社のように、かなり固定客をつかんでおり、かなり堅実な経営が出来ている会社なのかも知れない。実際に同じツアーの人々で初めてという人は圧倒的に少なかった。この会社専門という感じの人もいた。
 で、送ってもらったパンフレットにも明記されているように、今回はアエロフロートで、モスクワ経由で首都ソフィアに向かった。アエロフロートは3回目だ。最初は、かなり昔にスペインに行った時に乗った。この時の空席の椅子が降下時にばバタバタ倒れることや、着陸時の拍手は今も忘れられない。今回も機体はソ連(ロシア?)製ではなく、きれいだった。個人モニターもあるし、座席間隔や幅も日本人にはまぁまぁのものだった。リクライニング角度がやや浅いが、これは好みというか評価が分かれるところだろう。個人的には、あまり倒れない方が好ましいようにも思う。
 飲んだくれたロシア人が大声で騒いで宴会状態だった機内は、アルコール販売が有料となり、彼らの品性も上がったからだろうか、静かだった。ところで同行の人も勘違いしている人がいたが、アルコールの中にワインは含まれない。ワインは牛乳パックのようなものからつがれるが、まずまずのものが提供されるし、おかわりも出来る。ワインとジュースというような組み合わせで同時に頼んでも、愛想良く対応してくれる。
 さてスペイン旅行時、到着したモスクワ空港は薄暗く、座る場所は殆どなく、相当の数の人が長時間のトランジットの間床に寝ていた様は、まだまだ旅慣れていなかったこともあるが正直ショックだった。また開いている店の品物も、例えばマトリョーシカなどまともなものは少なく、数がなかったり欠けていたりしていた。そして印象的なのは、その金額表記が米ドルだったこと。なりふり構わず、対峙している国なのに、当時強かったドルが欲しかったのだろう。その次はコーカサス。この時はビジネスクラスだったので、当時としてもそれなりだったし、ラウンジも提供されるから、そう不自由はなかった。だからあまり語れないが、ビジネスラウンジも混雑していて、サービスは最低だったことを記憶している。
 で、今回。国際線のターミナルは以前の5倍以上にはなっていた。当時の古いターミナルはFターミナルと名前を変え、相変わらず手狭ではあったが、数段明るくなり、椅子なども少しは置かれるようになっていた。EとDは新しい空港でDEFと徒歩で自由に行き来が可能。EDはゆったりとしていて、昨今の設計であることがわかる。移動がF~Dと10分以上かかるものであったが、さほど問題はなかった。ただ動く歩道などなく、お客を乗せるミニカーもないので、同行の人のかなりは文句を言っていた。以前を知っていると、改善を思うが、他の空港を利用し慣れている人には、まだまだ不満の残る空港かも知れない。
 総じて言えば、料金が低く抑えられるアエロフロート利用も、「あり」と言うのが我々の結論である。

4.ブルガリアを初めての旅行先に選ぶ日本人は少ない

 ところで、今回の当たりか?と聞かれれば、やや外れの旅だったと答えざるを得ない。そう、今回の旅では、内容的にいささか不満の残る旅になった。
 要約すれば、現地ガイドと添乗員がしっくり来なかったと言うことだ。言い換えれば、こちらの(たぶんそれは他の客の反応から見ても大部分が旅に求めているものと現地ガイドの興味が違っていること、添乗の質の悪さということになろうか。 実際に今回旅した同行の人々は、かなり旅慣れた人々だった。少なくともヨーロッパの主要国に行ったことのない人などいなかった。食事の時などの会話で、皆の旅行歴がかなりのものだと知った。
 ここのとことが重要。しっかりと「予習」してきている人が多い。
 我々のガイドは我々とおつかつの年齢の女性だった。彼女は、「私の家族として、私の孫のように振る舞って」と最初バスで述べたが、おばあちゃんの域を出ない人だった。教会の教えなどには詳しかったが、それ以外は系統だった知識のあまり感じられない人だった。だから、寛容だったので、写真撮影禁止の場所でも、監視がいなければ撮っちゃっていいよって言うくらいの人だった。それはそれで、うれしかった。
 だが、特に古代史に関する、つまりはトラキア人およびトラキアに繋がるであろうそれ以前の人々の歴史に関しての解説は貧弱というか、ややはしょり気味だった。首都ソフィアの国立歴史博物館や、バラの谷(最近ではトラキア王家の谷とも呼ばれるらしい)のカザンラクにあるイスクラ博物館の黄金等出土品の解説もそう突っ込んだものは無かったと思う。黄金のマスクは多くのコピーが存在するらしいが、カザンラクのイスクラ博物館ではガラスケースに「レプリカ」と書かれていたにもかかわらず、昨年ソフィアから戻ってきたのであれは本物だと説明していた。しかし、何故レプリカと書かれているかの説明はなかった。精巧なレプリカだろうから鑑賞に問題は何も無いが、本物はロシアにあるのではないかとすら想像された(ちなみに「本物」は過去来日しているらしい)。
 ただ草木のこと特に薬草類については詳しかった。そういう意味ではまさしく、「おばあちゃん」と「孫」の旅行であったのかも知れない。
 それからすこぶる饒舌で、話が長い。勿論そうした中で大切なことも話しているのだけれども、添乗員が訳せないほどに長い解説を平気でするし、訳し切れていないのが分かりそうなものなのに、後を続けてしまう。ガイドとしての資質がこうした点でも問われる人だった。
 工業製品や日本の関わった土木工事などで、日本礼賛をしばしば口にしたが、そうしたことは私たちには当たり前のことであって、聞いて心地よくはあるが、しかし我々旅行者が主には知りたいことではない。町の看板を見ていればどの企業が進出しているかは分かる。教会の必見とされている絵の解説を飛ばしたり、現在のブルガリア人と原ブルガリア人であろうトラキア人との関係など、聞けないものがしばしばだった。もっと日本人が知識欲旺盛な民族であることも理解して欲しかった。

5.添乗員の資質と怖さ

 今回の添乗員は、勿論ただただ饒舌な現地ガイドとの関係で割り引かなければならない点もあろうが、かなり問題な人だった。基本が出来ていないというか、省く。出発前の挨拶では、こちらの質問に答えるのみで、現地の状況の説明をすることはなかった。他の人も同様で、質問を考えていなかった人は単なる挨拶で数秒で終わったそうだ。観光で歩いていても人数確認をしない。ガイドの話を殆ど訳さない。朝の挨拶をしないばかりか、出発時のパスポート等の忘れ物確認もしない。旅慣れていても、そこは年寄りの集団だから、こうした点はしっかりすべきであろう。お客が注意散漫になっている時こそきちんと誘導するのが添乗員の役割の一つではないのか。
 つまりは、添乗員の基礎基本が全くなっていないというか、サボっている人だった。
 ある事件のこともあって、現地から東京の旅行会社に直接メールをして帰ってきた返事の中で、そのメールには旅行日数が間違った記述があり、さらには添乗員の名前さえ違っていた。勿論添乗員は社員ではないだろうが、この会社はどういう人で構成されているのかと疑問になるとともに、大手旅行社の旅行先の幅の広がり(従前「隙間産業」的に小さな旅行社が扱っていた範囲までも対象になりつつある)や、高度な品質管理手法による快適性の確保などが直ぐそこまで迫っている。日常的な買い物ではないので、一度そこを使うと経常的に使うことが従前には多かっただろうが、ネット時代の到来を含めて、そうしたあぐらをかいている状況で良くはなくなっていることをもっと認識すべきだろう。
 幸いにここ数年、5-10億以上の倒産を耳にはしないが、今回のようなリピーターを確保している会社も、顧客の高齢化とともに、難しい局面にさらされることになりはしないかと心配ではある。

6.トラベラーズ・ハイ

 トラベラーズ・ハイとは造語である。高山に行くと、登山家は「クライマーズ・ハイ」になるという。タレントのイモトアヤコがキリマンジェロに登頂した時もその状態がフィルムから流れた。人間は一定の環境に置かれるとある種の化学物質が出て、例えば恐怖や痛みを感じなくなるらしい。
 同じとは言わないが、自身を含めて旅行中はある種ハイ状態になる。これを「トラベラーズ・ハイ」と名付けている。これが強く作用され、これまでも突飛な行動に出た人を何度か見たことがあった。陽気になる程度のはご愛敬だろうが、度を過ぎれば他の迷惑になる。
 今回カザンラクのバラ祭で、同じ会社の他のツアーの数人がこの状態になったようだ。我々の座席はパレードの進行方向で彼らの後だったので、彼らが興奮して飛び出すために、しばしば視野が遮られた。あるご婦人、普段だったら物静かな人なんだろうが、自席から何メートルも道路に出て、写真を撮り続けた。関西弁(河内弁?)の男性も同様だった。下がってと言っても、言うことを聞かなかった。更に問題なのは、それらを見ていても我々そしてその隣のツアー(同じ会社のツアー)の二人の添乗員が何もしなかったことも問題だろう。
 適度なトラベラーズ・ハイは良い仲間意識を呼ぶ可能性もあるだろうが、こうした旅の恥はかきすてのような行為は、特に海外では日本人全体がそうだとに見られてしまう可能性もある。こうしたことへの適切なコントロールも業務の一部だという認識とを持ってもらいたいものだ。

7.ブルガリアの食べ物・飲み物

 さて旅行記ではあまり触れられない点をいくつか書きたい。
 今回ではブルガリア料理と称するものに連日連夜目にかかることはなかったのだが、やはり最初にはヨーグルトについては触れなくてはならないだろう。
 最も我々が食べたヨーグルトは殆どホテルのビュフェ形式の朝食で、特別に提供されたことは一つの例外を除いてなかった。junはヨーグルトを好まないので、日本でかなり練習して出かけたので、やや拍子抜けであった。さて味であるが、日本のヨーグルトと大差はなかった。明治ブルガリアヨーグルトはブルガリアと付くくらいだから当たり前かも知れない。またヨーグルトを使った「タラトール」というスープも、食したものは殆ど水状態で、その味わいは拍子抜けするくらいに薄かった。飲料で、アイリャンというものもあったが、日本のヨーグルトドリンクとは比較にならぬほどに水っぽいものだった。
 ブルガリア・ハンバークとも言うべき「キョフテ」は、やはりソースで食べることになれている我々には、少し抵抗があった(肉だけの味ではない何かが欲しい感じ)。肉料理では外にケバプチェ。長くオスマントルコに占領された国ならではを感じた。食生活で言えば、ギョベチェは煮込み料理で、トマトベースの家庭の味といった感じの料理。その意味で言えば、ボルシチの親戚か?
 サルミという葡萄の葉の塩付けしたもの?をご飯にまいた蒸し料理(ちまきの雰囲気だが米は粒状のまま)も食べたが、米ではあるが、親近感は沸かなかった。
 総じて前提的に塩分を調味料にしている場合が多く、日本人にとってはやや塩辛い傾向に有ったと思う。しかしこのことはブルガリア料理が口に合わないと言うことは意味していない。全体的にやや味付けが単純だと言うだけで、内陸国家のおおらかさが伝わる料理が多かったように思う。
 デザート類については概して甘かったが、どれがブルガリア固有のものか判断しかねたので、ブルガリアの~というようなことはここでは言いかねる。
 最後にアルコールを中心とした飲み物について。ブルガリアもまたワインの産地。というよりは葡萄の産地と言った方が正しいだろう。訪れた中では、ギリシャ国境に近いメルニックがワイン産地の一つ。物価の分、非常に格安感があるし、日常的な飲み物として飲まれていることが想像される。というのは、ペットボトルワインが道沿いに売られているためだ。観光客値段で、1リットル200円~300円程度。味は酸味がやや強く、寝かせておいた方が良いかなぁと思われるが、たぶん防腐剤も使われていないだろうから、そう持たないだろう。色も深いルビー色をしていて、値段に比べてそう悪くはない。ホテルで1リットル飲んでも500円程度だった。
 ラク系統の酒もあった。同じように白濁するのだが、度数が他の国の同様のものよりも高いという。私が飲んだのは、47度。氷を入れてそのまま提供されたが、これが正式の飲み方かどうかは分からない。
 ノンアルコール飲料としては、ボザを飲んだ。小麦の発酵飲料と言うことで、きなこを溶かしたような色の小麦を発酵した飲み物。やや酸っぱく、junはダメだった。コーヒーは概して高い。多くの人はハーブティーを好む。ハーブティーの種類は他のヨーロッパ諸国同様に豊富。

8.風景など

 ブルガリアは日本の国土の3分の一くらい、北海道の2倍くらい。ヨーロッパ諸国の中ではスペインのマドリッドに次いで首都ソフィアは標高が高い。およそ800メートルほどあるという。ソフィアは想像できるように、周りは山に囲まれている。したがって、飲み水は豊富で、我々日本人でも何ら差し支え飲むことが出来た(もちろんミネラルウォーターを推奨されたが)。
 黒海沿岸は肥沃な土地が広がっている。緑豊かで、農業生産も盛んに行われていた。ソフィアから南下するにはいくつかの山を越えなければならない。とはいえ、そう高い峠はなく、快適なドライブが出来た。森林もうっそうとしていると言うよりは適度な緑といった感じ。以上はブルガリア旅行に最適という6月に旅行した感想なので、北部は特に冬の生活は厳しいらしい。
 ちなみに海に面していないブルガリアだが、黒海という代替があり、ブルガリア海軍も存在する。
 ブルガリアの人と交流するような場面はあまりなかったが、自由時間などに垣間見た人々は、人なつっこい人々だった。道など聞いても、例外なく親切だった。

9.ブルガリアの宗教

 ブルガリアは国民の8割以上がブルガリア正教を信じている(Wikipediaより)。モスクやシナゴークもソフィアで見たことは見たが、我々が観光の対象としたのはすべてキリスト教教会であり、今なお使われているものすべてはブルガリ正教のものであった。その歴史は古く、ビザンチンの介入やオスマントルコ時代を経ても営々と受けつがれ、リラの僧院をトップにして、今日に至っている。特にオスマントルコの支配下にあっては、政治的にはオスマントルコに宗教的にはギリシャ正教に従属された悲惨な歴史を持っているらしい。
 古い時代からのものが残されている教会にあっても、聖画はイコンやフレスコ画で、今日なお輝き続けている。幾多の時代を乗り越えて、それらが守り抜かれてきたことには頭が下がった。そしてその芸術性にも目を見張った。
 残念ながら、殆ど無神論者に近い仏教徒である我々は、それを宗教的対象としては見ることはできなかったが、その歴史的芸術的な価値にはいささか近づけたように思う。

10.ブルガリアの謎

 最後に不思議な出来事を書いておきたい。我々はソフィアに一泊した後ヴェリコ・タルノヴォという町に泊まった。そこで郵便局に切手を買いに行った。絵葉書用のため、予め入手しておきたかったからだ。そこで言われたことは1.0レバであった。1レバ切手がないらしく、0.5レバを二枚貼れと指示された。これはつたない英語と、ブルガリア語での会話だったが、同行のロシア語の堪能な人もやはり1レバと言われ、彼は自信を持って1レバですと答えてくれた。
 しかしながら、その後の郵便局で切手を皆が買い出すと、様々な数字が行き交った。1.4レバ、2.5レバなどなど。それが分かったのは、旅の途中ネセバルでの自由時間の時だった。郵便局に5枚ほど書いた絵葉書を持って行くと、郵便局員は入口で我々を見つけたので、絵葉書を示すと、これでは足りないという。どうやら彼女の主張する正規料金は2.1レバで、1.1レバ分を追加でそれぞれ支払えという。仕方なく支払い、更に5通分の追加の切手も買った。絵葉書は彼女の手元にあり、出してくれる風でもあったが、それ以上の会話が成り立たなかったので、後ろにも人が来ていたので、そのまま引き下がった。
 その後、数々の数字を言われたという同行の人が現れた。
 しかし!この事実を知っても、我々の添乗員は動こうとしない!
 日本に帰ってきてブルガリアポストのページをみると、航空便では2.1レバが正解のようだった。船便なら1.4レバのように思える。ちなみに、出した10通の絵葉書はすべて戻ってきた。こんなことなら、いろいろな金額で出してみれば良かったかも知れない。だから、実証的に2.1レバだという確証はない。2.1レバかそれ以下だったと言うことしか分からない。
 ブルガリアでの最大の謎である。