ペラヘラ祭と象サファリ      


A. ペラヘラ祭

 ペラヘラ祭というのがどんなお祭りかは、実は余りよくわかっていなかった。昨年チベットのデブン寺の大タンカ開帳を見に行って、それまでの日本での祭の興味が海外にも飛び火した感じになった、そのために夏休みに又行ける祭はないものかと、そうした展開から出てきた今回のスリランカ行きであった。
 ところでスリランカのニュースについて私たちは、Lakehouseという会社がやっているDailynewsから知識をとっていた。何故かと言えば、我々が行く前に停戦協定が結ばれたと言うことだが、内戦状態というわけではないけれども、パキスタンのハ(カ)イバル峠付近の政府未統括地のようなところが存在するらしく、それなりの情報を掴むためだった。現に今年は厳重な警備の元行われたと報じられており、そうした情報の中で一番今となっては傑作なのは、この国の大統領が閣議(?)に盗聴器のようなものを持ち込んで現行犯逮捕(?)されたというニュースで、まだまだ不安定な要素がそこの存在していたそれは証でもあった。
 さてそのウエブ新聞のペラヘラ祭に関する解説が、ウエブ上でもっとも充実したものと思われ、「そもそもKANDYという古都でエサラ月(この国の歴は太陰暦?)に行われるペラヘラ(行進を意味するシンハラ語?)祭」とはどんなものかはそこを当たるのが望ましいと思う。それは「KANDY ESALA PERAHARA SUPPLEMENT」としてまとめられている。そこにはスリランカの歴史的な記述を含めて、非常に詳細にまとめられており、一読の価値があるものだ。

 とはいえ、ここではその記事の抜粋をしながら、概略見ていきたい。
 ペラヘラという行列形式のお祭りは満月の日前後にスリランカ各地で行われているという。何故満月かと言えば、それはたぶん仏陀の生誕の日が満月の日だったからだろうか。
 古代に行われていたこのペラヘラ祭は、イギリス軍によって古都KANDYが陥落した1815年3月2日の翌日に既に旧来のそれをまねした形で西洋ナイズされて行われたらしい。その後もちろん国王の所持品(日本で言えば三種の神器のようなものだろうか)であった「仏歯」はイギリスのものとなっていたが、1828年5月28日それが返還されたのを祝し古代の形式に立ち返ったものが行われた。(ということは既にKANDYでペラヘラ祭がそれ以前から行われていたと言うことだろう。)
 そもそもこの国に仏歯が何故存在し、それが国家権力の象徴とも言うべきものとして存在し、又それが今日なおスリランカの仏教との心のよりどころになっているのかをひもとかねばならないだろう。スリランカへ仏教がもたらされたのは紀元前243年で、インドのアショーカ王の息子マヒンダ(ミヒンドゥ)長老によってであるとされる。これ以降スリランカの国の歩みは仏教と密接に結びついて展開されることになる。釈迦が菩提樹の木の下で悟りを開いたというブッダガヤのその菩提樹から分けとった若木がアショカ王の王女サンガミッタによってスリランカにもたらされ、それが延々と今日もなおスリランカ王朝最古の都市であるアヌラーダプラに存在すると言う事実だけでも十分だろう。さて仏歯だが、左の犬歯であり、インドからの王女の嫁入りの祭にもたらされ(4世紀)、その保管&崇拝の目的のためにアヌーダプラに最初の仏歯寺が建立された。以降遷都があるその都度新しい都には仏歯寺が建てられ、王権の象徴の一つとしても作用してきたようだ。そして王朝の終焉の地のキャンディーにも最後の仏歯寺が建てられ、そして今日なおそこに存在するということだ。 

 さてペラヘラ祭は何もキャンディーだけのものではない。われわれもそれをキャンディーへのバス移動の途中に交通渋滞として経験をした。ただ仏歯寺を奉ずるキャンディーのものが最大であるという似すぎない。しかしながら、この時期は国中の象がキャンディーに集められてくるのではないかと思われるほどの規模で行われることは特筆すべきだろう。バス移動の途中で象を載せたトラックに何度か遭遇した。

 キャンディーのペラヘラ祭というと、仏歯寺の仏歯が練り歩くことを想像するが、それだじけで実は終わるわけではない。実際問題仏歯寺境内にはヒンズー教の寺(神社?)があり、ヒンズーの神々がまつられている。そうした神社の出し物も仏歯寺の行列が終わった後に次々と展開される。それはスリランカの4つの守護神、ナータ、ビシュヌ、カタラガマ、パティニで、つまり5セットの(先触れ・ダンス・象・宝物・太守)が通りを練り歩く。既に20世紀初頭のイギリスの新聞にはその長さ2分の一マイル(800メートル以上)と記録されている。