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2008年2月15日(日)
美田(0730) −(0740)西ノ島・別府港(0800)(0840)島後・西郷港(0900)−(0908)玉若酢命神社・八百杉・宝物館(0945)−(0950)牛突き(1010)−(1010)後醍醐天皇行在所跡(1030)−(1050)水若酢神社(1120)−(1200)屋那の松原(1220)−(1252)隠岐そばの昼食(1355)−(1405)隠岐空港(1511)−JN 2336 10AB−(1553)伊丹空港(1643)−JL 126 58AB−(1730)羽田空港(1755)

3−1 朝

 今日も早起きして朝の散歩としゃれ込んだが、それに適したところは見あたらず、早々に戻ってきてしまった。
 島を渡るのに、今日は高速船ということで朝が早いので、部屋に戻って最終の荷物のまとめをしてから、朝食会場へ行った。

3−2 隠岐の島町へ(島後に戻る)

 くるときにすれ違った高速船に乗って隠岐の島町へ戻ることになった。港までは、ホテルのバスで送ってくれた。これは昨日の宿でもそうであったのだが、ここの島では、ずっと貸し切りのバスというわけにはいかないので、ホテルが港までの送り迎えをサービスしている。
 高速船は、デッキに出るわけにはいかないので、座席で居眠りをしていた。途中の島へ寄った関係で、40分ほどかかった。この船は最終目的地は境港のようで、我々が下りる港は長蛇の列で、それまでガラガラだった船内はきっといっぱいになったに違いない。

3−3 八百杉

 ここからの移動はまたバス。初日とは違うバス会社で、バスも小さくて全員が乗り切れないのでタクシーが一台着いてきた。
 そこで始めに玉若酢命神社へ行く。その門前に、大きな杉の木がそびえ立っていた。これが八百杉。話には聞いていたが、確かにすごい。てっぺんの方は、落雷のために折れてしまったそうだが、それがなかったら、どのくらいの高さがあったのだろう。
<玉若酢命神社の神門をくぐった右側に、県下一の杉の大木がある。樹高30m、根元の周囲約20m、目通り幹約9mに及ぶ。樹齢は2000年を超えると言われる。>
☆解説板より・・・「昔々、若狭の国から渡ってきた八百比丘尼は、この社にお参りし記念に杉を植えました。八百年後に再び訪れることを約束したので、八百杉と呼ばれるようになったと伝えています。」

3−4 玉若酢命神社

  玉若酢命を主祭神としている。ここは隠岐総本社で、かつての隠岐国府の所在地。本殿は、隠岐にある神社の最古の物で、隠岐造(*)と言われる隠岐にのみ存する独自の神社建築様式だ。寛政五年(1793年)建立。
  隠岐造説明板より<外形の特徴。屋根は大社造に似て妻入りだが、平面形は神明造に似て横長の短形である。向拝(ごはい)は前面いっぱいに片流れについているが、その両端は春日造と違って大屋根と離れている。尚棟に雀躍(すずめおどり)と称する一本木をおき両端は鬼板より出て反っていて、隠岐にのみに存在する独特の神社建築である。>

3−5 億岐家

  代々、玉若酢命神社の宮司を務める億岐家へ行く。これで「おきけ」と読む。入り口が3つもある立派な建物だ。現在の住居として使われているとのことで、外観だけを見せてもらった。その庭に、珍しい竹が生えていた。「仏面竹」という物で、幹にひもで縛ったような跡が付いている。こういうのは非常に珍しい物で、その一つ一つが仏様の顔に見えることからそういう名が付いた。ちなみに水戸黄門の持っている杖はこの竹で出来ているのだそうだ。今度よく見てみよう。

3−6 宝物館

 その億岐家に隣接している宝物館。日本ではここにしか残されていないという「駅鈴」があった。要するに駅ごとに伝令を伝えるときにこの鈴が手形のような役割を果たしていたようだ。各地に多いところでは6個も配られたというが、ここの他の物はすべて紛失しているという。この文様は、昭和51年から56年までの往復はがきに使用された。則がえらく気にって模造品を買った。
 もう一つ日本に3つしか残っていないという「倉印」。「隠岐倉印」と刻印されている。他に「但馬」、「駿河」がある。

3−7 牛突き

 ここの牛突きも郷土の名物として有名だ。といって何時もやっているわけではないので、観光客用に見せている所がある。モーモードームという小さな会場は、我々だけの団体だけだったので、予定された時間よりも早めに始まった。
 一人が前で手綱を握って牛を操り、もう一人が牛のやる気を出させるために牛の尻を細い棒でたたく。牛にはその跡が残り、水泳よりもこちらの方が牛がかわいそうだと思った。これが、ローマの闘技場か。
 牛は本番ではないので決着を付けずに引き分けということで途中で引き離した。

3−8 後醍醐天皇行在所跡

 ここには国分寺があった。行在所跡は国分寺にあるのだが、この寺は昨年全焼してしまったので、礎石しか残っていない。本堂も仮の住まいになっている。が、実はその方が趣があるといえなくもない。ただ、後醍醐天皇行在所跡というのは、西ノ島の黒木御所もそういわれている。

3−9 水若酢神社

 水若酢神社は隠岐国一の宮、祭神は水若酢命で国土開発と日本海鎮護に当たられた所から農耕と航海安全の神様として農民から広く尊敬されている。神社の造りは隠岐造で、平成4年重要文化財に指定されている。現在の本殿は、 寛政7年(1795)に建造された。玉若酢命神社とほぼ同じ時期の建造となる。
この日は、隠岐の100kmウルトラマラソンの日で、50kmの部のスタート地点になっていたので、大勢の参加者で賑わっていた。それにしても100kmだ50kmだと、我が家にいわせればまあ物好きな人の多いこと。50kmはこの後のスタートになるのだが、100kmはすでにスタートしていて、途中何人かを見かけることもあった。

3−10 屋那の松原

 昨日泊まった宿へまた戻ってきた。この松原も八百比丘尼関係の所だ。 八百比丘尼は釜屋の海岸にやってきて松を植え始めた。一夜の間に植え終わるはずだったが、鶏の鳴き声をまねをする声に驚いて、松の苗を投げ出して逃げてしまった。その松が現在の松原といわれている。
 静かでのんびりしたところだ。気持ちよくてちょっと横になったりした。

3−11 西郷港で昼食

 昼食は西郷港に戻って隠岐そば定食を食べた。隠岐そばとは、つなぎを使わないので、短いそばだ。茶碗に口を付けてすするようにいただく。感激するほどの味ではないが、地元の味で、冠婚葬祭には欠かせない物だという。
  その後出発まで時間があったので、近くのスーパーへ行きお土産の「あらめ」を買い込んだ。
  これで島での予定はすべて終了。

3−12 帰路

 隠岐空港から伊丹まで、相変わらずよく揺れた。
  伊丹から羽田までも同様。どうして東京から南側の飛行機はこうも揺れるのだろう、などと思いながら戻ってきた。途中富士山の頂上部がきれいに見えた。
  羽田へはほぼ予定通りの17時30分に着陸。その25分後には京急の電車に乗っていた。