4.2012年4月1日(日)
サルラ、コロンジュ・ラ・ルージュ、カレナック、ロカマドゥール (快晴)
起床(0430)散策(0800~0840)ラスコー(0935~1110)コロンジュ・ラ・ルージュ(1210~1345)昼食(1220~1335)コロンジュ・ラ・ルージュ観光(1345~1445)カレナック(1510~1600)ホテル着(1635)散策(1720~1835)夕食(1855~2040)散歩(2045~2105)就寝(2230)
4-2 散策(0800~0840)
出発までまだ時間があったので、今朝は古い城壁を探しに行くことにした。
といっても町をぐるりと囲んでいた城壁は殆どその姿を残しておらず、添乗員さんに聞いても分からなかったので、地図を頼りに探した。
何とか、これだろうと思える物が見つかった。塔らしき物もあって、これだろうと見当を付けた。石垣が残っているだけで、それも現在は住居に活用されている。よく見ると歴史的建造物、のような説明標識が貼り付けられていた。
その後は路地を歩いた。狭い道を挟んで古そうな建物が並ぶ中を歩いていると、中世の世界に迷い込んだような気分にもなる。
所々に先ほどのような標識が見られた。ただ、悲しいかな、意味が理解できない。
それからまた市庁舎や大聖堂の広場に来た。昨日とは打って変わって静かで、人は全くといっていいほどいなかった。
大聖堂の裏の共同墓地に建てられた仏西部独特の、「死者の灯明塔」がある。ロケットのような形をしている。12世紀にベネディクト会の墓地の中に建てられたもので、ロマネスク大修道院の典礼と深く関係しているらしいが、詳細は未だ謎のようだ。一説では葬儀用の礼拝堂、また、上部の小窓から灯りを照らし死者を導くための灯明塔ではないかと言われているそうだ。
4-3 ラスコー(0935~1110)
今回のツアーの楽しみの一つはここ。
ここの壁画は、アルタミラ洞窟壁画と並ぶ先史時代の作品で、1940年9月、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見された。少年というから子供かと思ったら、17,8才のもう青年といってもいいような人たちだった。実際の写真も残っていた。彼らが学校の先生に話し、そこから歴史研究家へ話がいって大々的な研究へと結びついたのだそうだ。
ただ、保存の関係から本物の洞窟に入ることはできない。その代わりに近くにその一部の複製(ラスコーⅡ)が作られているので、一般の観光客はそこを見ることになる。
といっても無制限に見られるわけではなく、これも決まった時間のツアーに参加することになる。その人数も制限されている。その上、写真撮影も出来ない。これは、むやみにフラッシュなどたかれては堪らないという側面もあろうが、複製そのものが当時の顔料当時の手法で絵が開いているという事情があろう。(参考ページ)
我々は早かったせいか、殆ど貸し切り状態で見ることが出来た。他の人がいると通訳が出来ませんから、と事前に資料を頂いていたのだが、そんな心配はなくしっかりと通訳してくれたのでわかりやすかった。
地下へ入るとまずはラスコーの説明があった。この場所や壁画の内容、画材などについて話してくれた。
壁画は、馬が最多であること、人間は抽象的に描かれていること、ここは神聖な場所であったと考えられることなどだ。
それから本物そっくりに作られた洞窟へ入っていった。
牛の間という。4頭の大きな牛が描かれていることからそう名付けられたそうだ。牛は現在と同じくらいの大きさだった。ここには一番大きな牛が描かれている。その描き方は、平面に描いてあるのではなく、洞窟の岩の凹凸をうまく利用して立体感が出るように描かれている。それが素晴らしい写実性と躍動感を見せている。俗っぽくいえば「今にも動き出しそうな」感じすらする。生き生きとしているのだ。
古い絵の上に新しい絵が重ねて描いてある。それらは技法にも違いが見られるが、これは時代によって異なる人の手によるためだろうということだ。
他に熊や鹿(4頭)もいる。ユニコーンのように見える、現代では見られない動物もいる。
描かれているのは馬が一番多いそうだが、こけ、動物の毛、木の枝をブラシがわりに、または指を使いながら、線だけではなく、吹き付けたり叩いたりするが方法も取られて変化を持たせ、岩の立体と相まって躍動感をだしているとのこと。
そこから少し進んで通路のように狭くなっているところへ行くと、壁だけではなく天井にも描かれていた。これらは足場を組んで描いていたそうだ。その所々に点々でマークのようになったものがいくつか見られるが、これは作者のサインではないかという。それも個人の物では無く、グループの物だろうということだ。
ここの天井画には色が鮮やかに残っている物が見られる。材料として、赤土・木炭を獣脂・血・樹液で溶かして混ぜ、黒・赤・黄・茶・褐色の顔料を作っていた。牛や馬が重なり合い、時には遠近方で動きを表現してある。その中の一つ、黒い牛の絵の角に遠近法が用いられている。手前の角が長く描かれ、奥の角は手前の角より短く描かれている。1万5千年も前にこのような手法がとられていたというのは驚きだ。
見学できるのはこれだけ。本物の洞窟は長く続いているというが、複製されたのはほんの一画のみ。それでも十分にそのすごさは伝わってくる。が、やはり物足りない。
説明だけで、身体にその素晴らしさが染み込むまでには至らなかった。
外に出てから売店で資料を買った。既に次の見学者が長い列を作っていた。
ちなみに、そもそもはラスコーの為に作ったルール、「内部が公開されていない、あるいは入場するには特別の(入場券を買えば入れる程度はない)許可がいるような場合には、その外観等を見ただけで行ったものとする。」によって、到達世界遺産の列に加えられた。
4-4-1 昼食(1220~1335)
日がいいからとレストランの前庭での食事となった。レストランというより家庭料理を味わえる店という雰囲気だった。
前菜のサラダは、ベーコンとクルトンの入った野菜サラダ、メーンは赤ワインの牛肉煮込みポテト添え、フルーツサラダ。量は多くて完食とはいかなかったが、美味しかった。
ワインは、ロゼがお勧めというので、そのロゼと赤と白を1杯ずつで6ユーロ。
外で食べても日が当たって暖かく気持ちがよかった。周りにもタンポポや姫リンゴ、それに何と桜などが咲いていた。桜は丁度桜の開花時期のようで、各地で見ることが出来た。勿論ソメイヨシノではない。
4-4-2 コロンジュ・ラ・ルージュ観光(1345~1445)
レストランから歩いて観光。小さな村なので歩いて十分だとのこと。
ここが、「フランスの最も美しい村協会」発祥の地だそうだ。この「フランスの最も美しい村」は人口2000人以下など厳しい基準があるらしい。日本において都会ではだいたい人口1万について小学校1校だから、如何に小さい規模かが分かる。小学校はおそらくは一学年一クラスで、それも30人満たないのではないのか。日本ではこうした村はいくつかの合併促進政策で、もはや殆ど存在しなくなっている。
さてこの村ルージュと言うからには赤い煉瓦の建物が多いのだが、元々は白い漆喰で塗られていたらしい。その痕跡は古い建物に見ることができる。
初めにモサック城を見ながら坂道を降りていく。城といっても本当の城ではなく、有力者の館を通称でそう呼んでいるだけなのだそうだ。14世紀には、この地名産の胡桃のオイルや、ワインの生産で発展し、16世紀に最盛期を迎えた。この時期に、地方の高級貴族は、こぞってこの村に別荘や館を建てた。これもそのうちの一つなのだろう。
4-4-3 サン・ピエール教会
教会へ行く細い道の入り口に、そちらを向いた像が建っていた。
町の中心になっている教会。ロマネスク様式で作られたそうだが、ロマネスクの基本である十字型をしていない。これは後からの改築のためだそうだが、16世紀、宗教戦争の時には、一つの教会がプロテスタント側とカトリック側両方に開かれていたという珍しい教会だ。ただ両者を仕切っていた壁は50年ほどで壊されてしまった。
中は質素だった。ピエタ像が印象的だった。また、ステンドグラスが光に照らされて床に映っていて綺麗だった。
ただここで一番の見所は入り口の所にある。
ミッキーマウスの頭のようになっているその上のタンパン。キリストの昇天の場面が描かれ、12人の使徒がその下の直線の枠取りの中に収まっている。
4-4-4 自由散策
その後は自由散策。教会の前の門を通り抜ける道が巡礼路になっているというので、貝のマークを探しながら町並みを見て歩いたが、ホテルに付いているのは見つけたが、道の標識などは見つからなかった。お土産屋さんばかりが目に付いた。
すぐに町外れまで来てしまったので、引き返して少し小高い丘に行って見ることにした。
道路を渡って畑の方へ行ってみた。木が邪魔をして全体を俯瞰できる場所へ行くには少し上って行かなければならなかった。
振り返ってみると全体がよく見えて、ここで一枚パチリ。パンフレットに載っているのはもう少し上の方から撮っているような気もしたが、集合時間のこともありここで良しとした。戻るときに、人の家の壁に沿って空き地の方へ行けそうだったので入って行ってみた。
そこからも電線などに邪魔されずに全体写真が撮れた。その頃になると我がグループの人たちもめざとく我々を見つけて上ってきたので、道筋を教えてあげたりして引き返した。
我々はみんなの先導役みたいな物だ。この頃の気温は25度を示していた。
バスに乗る前にトイレに行ったら、何と洋式ではない、アラブ式があったので驚いた。
4-5 カレナック(1510~1600)
ここも「フランスの最も美しい村」認定を受けた村だ。11世紀にできたクリュニー修道院や16世紀に建てられたドワイエン城などがあったりと、歴史は古い。
バスを降りて歩いて村の中に入っていく。川に面した道路にそって城壁が築かれ、ドワイエン城が見える。この城は、20m四方の3階建てで、村と周辺の歴史などが展示されている。
アーチ形の門を潜ると、サン・ピエール教会の扉口が見える。
が、ここは後でゆっくり見ましょうと言うことで、まずは町外れまで行ってみた。かようにこれらの村は小さい。
そこで自由解散となったので、まずはサン・ピエール教会へ行ってみることにした。
4-5-2 回廊
その隣が添乗員さんは入れないだろうと話していた回廊だ。行ってみると扉が開くので入ってみた。これは、ロマネスクとゴシック様式が混在する回廊で、6角形の塔や15世紀の彫刻「キリストの埋葬」が見所になってる。このキリストの埋葬は、格子で仕切られた部屋の中にあったのだが、カメラを差し込んでやったら結構うまく撮れた。
階段で2階にも行ってみたりした。なかなかいい雰囲気だった。見られてよかった場所だ。
集合場所まで戻るときに、タルチョの掛けられて家を見つけた。これはチベット仏教を信仰していると言うよりは、「中国のチベット政策に対する意思表示」の意味だろうと言うことだった。外の町でも一ヶ所見たが、写真は取り損ねた。
また、塔らしき物もあった。今は子供の遊び場になっていた。
4-6 ホテル<リヨンドール 207号室>
ホテル着(1635)
ここも巡礼路の一つ。その町の中にホテルがある。最高のロケーションだ。
ということで、バスは町中に入ることは出来ないので、手前の駐車場で降りて歩いて行くことになった。スーツケースはホテルの車が積んで届けてくれた。
ただ、ポーターがいないので、荷物は自分かまたは添乗員さんが運ぶことになる。
noriはホテルに入る前に靴の汚れ落としで綺麗にした。これは実際には、馬などの落とし物を往時男達が落としたものだという。
部屋は道路に面しているので町の動きが良く分かる。
ベッドにはシングルベッドとダブルベッドがある3人使用の部屋だった。バスタブはなくシャワーのみ。
4-7-1 散策(1720~1835)
ロカマドゥールは今自分たちがいる町と、修道院などが集まっている聖域と一番上の城に分かれている。それだけかと思ったら、今いる町は下の町で、夕食のレストランのある辺りが上の町なのだそうだ。(正確にはどうも「上の町」はロカマドゥールではないらしい)
夕食まで時間があったので、町へ出た。とりあえず岩の上に立つ城まで行ってみることにした。
アルズー川岸の狭い石畳の道路沿いに店が並んでいる。お土産屋もいくつかあったが、ホテルやレストランが多く目に付いた。
また、上の方へ行くエレベーターもあった。往復で3ユーロ、片道2ユーロかかる。小さな子がいる親子連れや高齢者には有り難い。が、我々は歩く。・・・と言うのもnoriはこのエレベーターが一番上まで入ってくれないことを、チケット売り場のカウンターで確認したからだった。
4-7-3 十字架の道(1745~1800)
門を抜けると右にはエレベーターの終点が、左には十字架の道と呼ばれるジグザグ道の林道が続いている。
エレベーターはここまでしか来ていなかったのだ。我々は十字架の道へ進む。ここには曲がり角の所に、イエスの受難の姿を彫り込んだほこらがある。丁度エルサレムの「VIA DOLOROSA 悲しみの道」と同じような内容になっている。
あちらは第14ステーションまであったが、こちらは確か13までだったように思う。
初めのうちは数えながら上っていたのだが、上に行くに従ってやはり疲れが出て数えるのもいい加減になってしまった。
最後の方に洞窟を彫り柱を立ててやや広い部屋のようになっている所があったが、説明書きがあっても分からなかった。
そこを登り切るとようやく城へ着いた。
4-7-4 城(1800~1815)
城といっても今は展望台になっている。そこへ上るためには一人2ユーロかかった。
が、行っただけのことはあった。断崖に突き出すように作られた展望台からは遠くの上の町までの景色は勿論、町が一望できる。下を見るとゾッとするような高さだが、目の中に町全体が入ってしまう。
他にも団体などが来ていたが、写真を撮るのに邪魔になるほどの人数でもなかったので、二人で写したりした。
上の町の教会(たぶん巡礼者の為の病院の附属だった教会)も見えた。勿論我々の泊まっているホテルも。
展望台は一カ所ではなく狭い通路を通って何カ所かに行くことが出来るので、いろいろな風景を楽しめた。上がってきて良かった思った。ただ夕食の集合時間近いので、あまり時間は割けなかった。