5.2012年4月2日(月)
ロカマドゥール、コンク、ロカマドゥール (快晴)
起床(0530散策(0735~0835)コンク(1100~1436)昼食(1240~1410)ロカマドゥール(1615~1800)ホテル(1805)夕食(1900~2030)散歩(2040~2050)就寝(2130)
5-2 散策(0735~0835)
食事を終えるとその場からすぐに出かけた。
目的地は聖域。添乗員さんによると6時頃から開いているでしょう、ということだったからだ。
道はもう知っているのでどんどん歩いて行った。さすが店はまだどこも開いていなかった。もちろんエレベーターも動いていない。
階段を上り始めて15分ほどで聖域に着いた。
が、まだどこも開いてはいなかった。仕方ないので、誰もないことを幸いに、いくつかある礼拝堂の写真を撮ってから、また中間地点の展望所へ行ってみることにした。
そこで何枚か写真を撮ってから下り、今度は町外れの方まで行って見ることにした。
最後の門まで、と言って歩いたのに、なかなかたどり着かなかった。集合時刻が気になりだした頃にここが最後の門だろうと思われるところに到着。13世紀に作られた一番下の門だ。急いで写真を撮って戻った。
その次の門がユーゴン門。これも13世紀。急いでいるといっても写真だけは撮った。
次の門が、サルモン門。やはり13世紀。上の二つの階は駐屯兵所。保存状態が最もよい。ここの面白いところは、電話ボックスがあること。街の景観を邪魔しないようにと作られているのかとは思ったが、それほど気を遣っている街には思えなかったが。
5-3 コンクへ
ホテル発(0911)
出発の準備をしていると、外をガラガラと荷物を引きずる音がしていた。ずうっと続くので覗いてみると、どこかの団体が自分たちのスーツケースを運んでいる音だった。他の人たちはこうして自分たちでやるのだ。
が、今日の我々にはそんな必要はない。ちょっぴり優位な気持ちでバスの所へ行くと、後部のガラスが全面黒いビニールで覆われていた。何事と思ったら、枝にぶつけてガラスが割れてしまったと言うことだ。他にこすった後など無いのに、どうやってガラスだけ割れたのか不思議でならなかった。ということで、我が家の指定席、つまり一番最後尾の席は危険なので今日は空席。我々は偶然にも今日が一番前の指定席だったので、問題は生じなかった。
そんなこともあって出発が少し遅れた。
今日は現地ガイドが付く。早速説明が始まった。
ロカマドゥールの人口は630人あまりであること。このロット地方にはそうした小さな村が多いとのこと。周りの土地を見れば分かるように石がゴロゴロしているので、牧畜が多く行われていること。石の囲いは、草地を作るために取り除いた石で作っていること・・・等々だ。
フィジャック町通過(09:53)
ここも巡礼路になっている。それとロゼッタストーンを解読したジャン・フランソワ・シャンポリオンの生まれた町で、ロット地方では大きい町になる。
やがてセレ川を渡る。
この辺りから岩が少なくなり、土地が豊かになってきたように見える。
ロット渓谷(10:05)
しばらく渓谷沿いに走る。この辺りから川はロット川となる。
アヴェロン県に入る(10:15)
この辺りから山間部へと入っていく。
かつては炭鉱の町として栄えた町を抜ける。それ用の引き込み線などもあり、かなり大々的に行っていた様子が窺えた。
いよいよ山道(10:48)
この頃からくねくねした狭い上り坂が続き、山道に入った。
ビューポイント(10:55)
どこまで続くのかと思っていたら、ビューポイントです、と言うことでバスストップ。
村が見渡せる地点で、なるほどビューポイントだ。ラテン語の「コンカ=貝殻」に由来するその名前通り、地形が上から見ると貝に見えるそうだ。教会の十字形もよく分かった。これから駐車場まで行って歩いての観光となる。
5-4 コンク(1100~1436)
ここも巡礼路。また、フランスの最も美しい村にも選ばれている。
ちなみにコンクとは、大きなホタテ貝という意味らしい。これはこの土地が上から俯瞰するとそうみえるからだそうだ。このコンクの巡礼地の有り様は、つまり受け入れ体制などについては、多くの他の巡礼地の手本になったそうだ。
ここに修道士が住み始め、やがて救い主に捧げる教会が建てられ、シャルルマーニュの一族がここに修道院をおいて庇護し、コンクの村を経済的に支えた。
しかしコンクの繁栄を決定づける出来事が起こったのは、聖女フォアの遺骨が修道士によってアジャンからコンクに持ち込まれた866年のこと。
聖女フォワの奇跡がコンクの評判を築き、サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路の要所となっていった。
5-4-1 サント・フォワ聖堂
11世紀から12世紀にかけて建てられたロマネスク様式の教会。
以下は、コンクのパンフレットから。
「聖人達と聖遺物への崇拝、そして巡礼。コンクの栄華は中世の信仰生活において不可欠であったこの二つの行いにありました。もしこの二つの敬虔な習慣がなければ8世紀末にこの人跡未踏の渓谷に建てられた修道院は、その後長いことその存在を忘れ去られることになったかも知れません。孤立を避けるため、コンクの修道僧達は、聖遺物の宝物特に数々の奇跡をもたらしたといわれる聖女フォアの聖遺物をこの修道院に集めました。
サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼の途中、コンクに宿泊する大勢の巡礼者をもてなすため、修道僧達は1050年から1120年にかけて、修道院付属教会を建設しました。現在もそのまま使われている壮大な教会内部の側廊や周歩廊は、聖遺物入れが置かれていた内陣まで典礼を妨げることなく参拝できるようにゆったりと広がっています。」
・・・とあるのだが、一説によると以下のような説明もある。村自身がその説明に泥棒してきましたとはかけないだろうが。以下日本語版Wikipediaより。ちなみに英語版ではほぼ同様の説明があるが、ご当地でもあるフランス語版では何故かその部分はグレーのようにみえます。
「864年から875年のこの時期、コンクの修道士アリヴィスクスが、アジャンの教会に安置されていた聖フォワの聖遺物を盗み出すことに成功するという、歴史的な事件が起きた。聖フォワは303年、アジャンにて12歳で殉教していた。この敬虔なる移動が、すぐに奇跡を誘発し、多くの巡礼者をコンクへ引き寄せたのだった。」
いずれにせよ以前にも書いたが、お伊勢様詣での旅籠になるかならないかは、町の大問題であったと言うことだろう。
5-4-1-1 外観
まず後陣の方から見下ろしてみる。3層になっているのが分かるがそのバランスが素晴らしい。ドームの頂部は22mにも達する。着工したのは1040年で、ロマネスク様式の傑作と言われている。各時代によって使われて石材が違っていたり、補修の後を興味深く見ることができる。
1678年に地域間の戦争により大きなダメージを受けたが、プロススメという作家が書き残して置いた資料により当時の姿が分かったので、それに基づいて修復した。補修されて現在の姿になったのは19世紀のこと。修復のやり方考え方はその後、各地のモデルとなった。
外壁の石が違っているのは、造られた年代が違っているためで、素材や工法も違っているのが分かる。下から順番に造られている。
5-4-1-2 タンパン
西側正面には、12世紀前半に制作されたロマネスク彫刻、「最後の審判」のタンパン(正面開口部アーチ部分の半円形の小壁)がある。そこには、多くの人物とさまざまな場面が彫られている。残っている色彩は、当時のままだそうだ。
驚くことにここには日本語の解説書があった。それによると、「タンパンは代表的なロマネスク彫刻の一つです。12世紀初めの作品ですが、作者や正確な制作時期は不明です。教会外陣の入り口、ポーチの屋根に覆われる場所にはめ込まれており、ロマネスク様式の証でもある彩色が現在も伺えるのは全くの異例です。教会入り口のタンパンの彫刻は最後の審判をテーマに、見事な保存状態でその姿をとどめる124人の人物が物語を演出しています。」とある。
添乗員氏が渡してくれたこのタンパンの図柄の解説も日本語だ。ここにはそんなに日本人がやってくるのだろうか?
さてそのタンパン、むかって左側に天国、右に地獄の情景が刻まれている。その両方の顔つきを比べてみると天国は生き生きとしているのに比べて、地獄は体つきも貧相だ。飲み過ぎや怠け者は地獄に描かれていた。我が家には厳しい判断だ。皮を剥がされている者もいたりして皆苦しそうな表情をしている。が、整然としている天国の聖人達より、見ていてこちらの方が面白いと思ってしまう。イエスの下で、大天使ミカエルと悪魔が睨み合う姿も面白い。丁々発止の駆け引きをしているのではないかなどと想像してしまうからだ。
ヤコブやフォアは当然天国にいる。フォアは差し出された神の手の前で祈っている。ヤコブもいるにいるのだが、イエスよりも遠く離れており、教会の創設者や王、修道院長よりも遠くに小さく彫られている。
この上のヴシュールには石の間から恐ろしそうにそこを覗いている「好奇心」がいる。ガイドさんの説明ではこれに触れなかったが、土産物店に入ると結構この絵はがきやポスターがあったので、それなりの存在なのだろう。
5-4-1-3 内部
装飾もすばらしく、教会内には250の柱頭がある。ただその柱頭を間近に見るためには、観光案内所のガイドの付き添いが必要だということで、我々は下から見上げるようにして写真を撮ったりした。その2階部分には、宿に泊まれない貧しい巡礼者達が寝泊まりすることが許可されていたそうだ。
教会は左回りに歩くのが決まりなんですよ、と言われたが、これは初めてだった。多い日には一日千人もの人が訪れ、少なくても百人は下らないとのことで、そのために出来たルールだそうだ。と言うことはチベット仏教の右回りほどの縛りはなさそうだ。
丸天井の壁画は15世紀の物。完成する前にストップしてしまった。壁画も同じく15世紀の物で、サント・フォワの物語が、左から施している場面、裁判の場面、処刑の場面、偉功が続いている場面なのだそうだ。
サント・フォワを祀った正面の祭壇は新しい物で、ロココ様式だとか。
創設された11世紀から12世紀の古い祭壇は、その裏手にある。柱もその当時の物だ。柱頭が素朴な造りになっている。
・・・「95の窓と9つの銃眼を飾る104枚のステンドグラスは、世界的に有名なピエール・スーラージュ作。1887年から1994年までかけて完成させた。外側からも内側からも同じように見えるこの作品は、ロマネスク様式の厳粛さとその象徴を尊重しながらも洗練された美しさを併せ持つ作品で、サント・フォア教会の内部に柔らかい光を採り入れる。(パンフレットより抜粋)」
ただ、白黒ステンドグラスは、素人目には、あまり面白くはない。審美眼のなさが露呈された格好だ。
5-4-1-5 宝物庫
コンクの修道士たちによって集められた中世初期の聖遺物が収蔵されている。金銀細工の技術を身につけていた修道士たちは、多くの聖遺物と祭具に金装飾を施し、西洋世界で最も美しいと評される宝物を生み出した。
革命期の混乱はコンクの宗教的支配力に終止符を打つこととなるが、その時期も村人は教会の宝物を守り通し、革命勢力の手にわたるのを防いだ。
一番の目玉であるフォワの遺骸は宝物館に展示された光り輝く聖遺物箱の中に安置されている。箱といってもそれは黄金と宝玉で全身を荘厳しつくした高さ80センチほどの坐像で、その腹部にあいた四葉形の窓の中に布で包まれたフォワの頭蓋骨があると言われる。8世紀(9世紀とも10世紀とも言われる)に作られたこの像の頭部は、ローマ時代末期の黄金仮面を再利用したもので、首から下は木製で、金を塗り、全身にエメラルドやサファイア、水晶、真珠、その他の宝石をちりばめてある。これらの宝石は巡礼者が持ってきたものがほとんどだが、それは19世紀まで続いた。水晶の中にイエスがいる物やカメオなども見られた。
他にも何点かある金銀、七宝が施され、宝石が散りばめられた多くの聖遺物箱はみごとな状態で保存されている。
中世から継承した最も美しい工芸品に数えられ、この宝物館は、収蔵品の規模でも、その質においてもフランス最高とされる。
ただ、撮影は禁止なので写真はない。
以下はパンフレットより。
「カロリング王朝の皇帝や王子達の寛大な施しによって誕生した宝物庫は、866年、聖女フォアの遺物によって、また中世全期にわたる巡礼者達からの寄贈によって充実します。10世紀以降、コンクでは聖遺物箱は貴金属、また古代の貴石、真珠や宝石によって細工が施されるようになります。
・最古の聖遺物箱の陳列棚(9~12世紀):カール大帝が所有していたと言われるAピピン王の聖遺物箱
・ベゴン神父の持ち運びよう祭壇:銀及び斑岩製(1000年頃)
・壮麗たる聖女フォア(9~10世紀):聖女フォア像聖遺物入れ。聖女の頭部を収めるために作られた所蔵品の中で最も感銘を与える作品。
・聖女フォアの持ち運びよう祭壇
・聖女フォア崇拝に当てられた陳列棚:11世紀初めに描かれた聖女フォア奇跡の本
・行列のための大十字架:銀製(1500年頃)
・フェルタンのタピストリー(17世紀):聖女フォア受難の場面」
※最初の写真はフランス語版のWikipediaより。
5-4-2 昼食(1240~1410)<ローベルジュ・サンジャック>
サント・フォワ教会のそばにあるホテルレストラン。テラスでも食事ができる。1階にブラスリ・サンジャックとサロン・ド・テ。2階に伝統的なフランチレストラン。2007年版ミシュラン・ガイドでビブグルマン1個獲得という店だ。
我々は勿論1階。奥の方の部屋。ただ、どこでもそうなのだが、トイレが一つしか無い。あってもせいぜい二つ。それも男女別になっているところはまだましだ。フランス人はあまりトイレに行かないのだろうか。
メニューは前菜はキッシュと野菜。メーンは鶏の赤ワインソース煮。デザートはガトーノア(クルミのケーキ)。地ワインがピッチャー(500ml)で6ユーロ。コーヒーが2ユーロ2杯。計10ユーロ。
食事のあと少し時間があったので、もう一度教会へ行った。タンパンの前で二人で写真を撮った。あまり人もいなかったのでゆっくりと撮ることが出来た。それからまた中に入って一回り。
バスは下の駐車場で待っていたので、そこまで歩いて行った。14時36分にバスに乗って出発。
5-5-1 城
城は、王や貴族の住居というのではなく、見張り等のような役割だった。14世紀に狭間のある城壁と三つの櫓で、守勢の特性が確認される要塞として造られたが、巡礼者が増えたので、巡礼者用の宿泊施設として19世紀の初めに改築された。その頃になると戦いが一段落して城としての役割を終えたということだろう。
ロカマドゥールの歴史からすれば取り立てて見るほどのものではない。今は博物館になっている訳でもなく中は何もない。見晴台があるが有料である。・・・ということで、観光客の我々は無理矢理納得させられて、城内には入らずに城からロカマドゥールの町へと降りることになった。
眼下にはロカマドゥール渓谷が広がっている。
5-5-2 十字架の道
そこから緩やかに下っていく坂道がある。12世紀に聖域が造られ、16世紀までは岩山のみで、聖域から城へ続く道はなかった。人が踏み入れるのを許されない、そんな場所であった。そんな場所に礼拝堂を造った。
この道は、巡礼者が増えた19世紀初めに、巡礼者の道として整備された。下から上までイエスの13の受難の祠がある。これも同様である。今週の金曜日にイエスを偲んで信者達がこの道を歩くというお祭りがあるという。
柱のある洞窟は人工的に造った礼拝堂で、やはり19世紀に整備の一環として造られた。今は入れないように柵がしてある。
途中の見晴台へ寄って町全体の写真を撮った。そこからは街が俯瞰して見える。
巡礼が始まったのは12世紀頃で、その頃こちらには巡礼ブームが起こった。巡礼がブームの頃は、この狭い町に3500人ほどが住んでおり、上の町には巡礼者用の病院もあった。そこから参道へと続く道に、今は廃れてしまってないが、家が並んでいたそうだ。現在の人口は630人に過ぎない。
我々が使っている入り口の門は「イチジクの門」といい、中世は治安が悪かったので町を守るために造られた。門はいくつもあり、川と断崖に挟まれて、要塞のように造られた町である。それでも16世紀の宗教戦争の際には、たびたびプロテスタントに襲われ、金や銀、宝石など貴重な物が盗まれたり壊されたりした。その中には、アマドゥールの遺体もあった。また宗教的施設も壊されたりして大きな打撃を受けた。
その後、すっかり忘れ去られた街になってしまった。が、教会や礼拝堂は聖職者によって細々ながら守られてきた。そして19世紀になってこれらの道を整備することで復活を遂げた。
ロカマドゥール再生に力を入れたのは当時この地を治めていたカオールの県知事だった。所々に新しい建物があるが、それは19世紀のネオクラシック様式の建物。
そんな説明を聞きながら、ショートカットして聖域へ向かった。途中にエレベーターの乗り場があった。これで一挙に町まで降りられるが、2ユーロかかる。トイレも近くにあったが50セント必要。
5-5-3 聖域
聖域に入る門は中世にはなかった。19世紀に道を造ったときに通れるようにした。入り口の聖マーシャル門に付いている紋章はカオールの物。19世紀にカオールの市長が造ったことを表している。その頃この地はカオールに含まれて統治されていた。
古めかしい階段は古い城まで続く道。これが唯一の道だった。
トンネルのような道を通って広場に出る。周りには7つの礼拝堂がある。キリスト教においては7という数字は大事な意味があり、神との契約を守るということを表している。
建物の作りはモンサンミシェルに似て、自然の石の造りを利用して造られている。
入ってきたトンネルの上が、当時の姿のままに残るサン・ソヴール礼拝堂。この中では最大だそうだ。つながるようになっている左隣にあって、工事中なのが黒いマリア像があるノートルダム礼拝堂。更にその左側で、岩の中に入り込むように造られているのがサンミシェル礼拝堂。
その先にある階段はやはり19世紀に造られた物だが、修道士の住居がある。
くるりと身体の向きを変えて見ると一番左にあるのが、サントアンヌ礼拝堂。聖母マリアの母親のことだ。次がサントブレーズ礼拝堂。一番右側がサントヨハネの礼拝堂。
そして地下にあるために見えないが一番重要視されていたのがサントアマドールの礼拝堂。12~16世紀までは一番重要な礼拝堂だった。
これら7つは、1154年からほぼ同じ時期に造られた。
5-5-3-1 サン・ソヴール礼拝堂
聖域の中では最大の物。全景を納めたいが、狭い場所に建物が林立するので、うまく納められない。
この礼拝堂は、着工したときはロマネスク様式だったが、時代が移るにつれ、建築様式も代わってきた。ステンドグラスの半円形の窓は物はロマネスクだが、内部の天井には初期ゴシック様式が取り入れられている。8本の円柱を束ね柱にまとめ、対角のアーチで支えられたヴォールトである。 後ろの木造のギャラリーの後ろには、断崖の石が見える。
現在のは19世紀に再建されて、今の形に戻った物である。
後ろの方に黒いマリア像のレプリカが置いてあった。黒マリアは、南フランスや北スペインに多く見られ、12~13世紀初頭に集中して作られた。その頃はアフリカへのキリスト教が広まっていった頃。黒光りをしているが木造だそうだ。本物は写真撮影が出来ないので、ここで写してください、ということだが、そのため?
5-5-3-2 ノートルダム礼拝堂
現在、土台の修理中ということで外には覆いが掛けられているが、中は普通に見ることが出来た。中は、思ったよりもそう広くもなく、中央にマリア像があった。
中世の時代に信仰を集めたアマドゥールの遺体は、宗教戦争の際、プロテスタントの人たちに盗まれてしまい、その後、ロカマドールで信仰を集めたのが、ここにある黒いマリア像。
照明もないのではっきりとは分からない。ただ、冠をかぶっていてそれが光っていた。junは金だと思い、noriは電気で照らしているせいだという。
ここは、1562年には武装勢力による焼き討ちに遭ったが、このマリア像だけは焼失を逃れた。
そして、やはり19世紀中頃に再興された。
天井には10世紀から吊り下げられている鐘があり、奇跡が起こる時、自ら鳴ると言われている。足下にはモザイク画がある。話してはいけないというので、沈黙の行列だった。聖域の中の至高の聖なる場所といった感じだった。
「何故このような黒いマリアが作られるようになったかというと、これらは12~13世紀初頭に集中して作られた物であるが、中近東や南国の人の肌の色を模したのでは無いかと思われる。全体に小さく、木造で素朴な作りになっている。豪華さには欠け、むしろ野性味があり、常に赤子を抱いている。色としては青、白、少し金がかったオレンジ、発光する緑色を必ず使っている。そして顔は常に黒。こうした形になったのは、人類の発祥の地はアフリカだったが、彼らはやがて北上して宗教や文化など、人としての知恵を付けた。それが中近東だった。また、キリスト教以前の宗教を取り込むという考えもある。更に、黒い色というのは、白人社会においては差別化が出来て一目でマリア像であると認識できる。」
・・・と言うガイドさんの説明を聞いてもなお、あまり良く理解は出来なかったが、要するに土着信仰をうまく融合させたのではないか。
建物から出て振り返ると扉の上に、ドニイス・ド・バーの紋章を支えている跪いた天使がいる。その右下の壁には15世紀のフレスコ画の一部、骸骨の画が残っている。窓を挟んで右側には何もないが、その当時は左右対称で描かれることが多かったので、対になっていると考えると、骸骨の死に対して生を象徴する物が描かれていたのではないかと推測される。というのも生と死をモチーフにした絵画が多かったからだ。
そして創建当時はここまでが礼拝堂の大きさだった。
窓は19世紀の再建の時に取り付けられた。15世紀にすべて自然崩壊があり(たぶん上から石がおっこってきた)、柱などが補強された。
ドアの所に紙の印刷物が何かの告知の為か張ってあったが、このマークのような物は、スポルテル。メダルのような物で、巡礼の最後にもらって、ここまで来たということ証拠のような物とガイドさんは説明していた。これらは今はお土産としてあちこちの店で手に入る。巡礼といえばホタテ貝だが、この黒マリアの像も同じように重要なシンボルであった。
ロカマドゥールのスポルテルは、村の職人によって鉛、青銅、錫、銀または金で作られ、大修道院長がそれを管理し、売り上げの利潤を手にしていた。今は観光用で、境内の土産物屋に我々の多くはそれを聞いて自由時間に殺到した。
5-5-3-4 聖ミカエル礼拝堂(サンミシェル礼拝堂)
聖ミカエル礼拝堂は高所にある。鐘楼を形作っている四階建ての建物の三階部分がそれ。断崖の中に入り込んでいるため、雨風から守られ、わずかに修復されただけで、12世紀の元のままの姿で残っている。
壁に残された保存状態のよい絵は、12世紀の青を背景とした絵で、左側が受胎告知で、右側が聖母訪問。こうした青や白色の乗せ方は、リモージュ焼きという陶器で有名なリモージュという町の職人が伝統的な手法で描いた物であるといわれている。
聖母訪問の2人の女性は、マリアが神の子を受胎したということを従姉妹エリザベートに知らせるという場面を書いた物。抱擁したエリザベートとマリアの目は、3つしかない。これは、こちらから見上げたときに、より本物に近く見せるということや岩がせり出したところに書かれたためにそのようになったとか。
受胎告知の下に大きな絵が描かれているが、当時は他にもこのように大きな絵が描かれていたと思われる。この人はサンクリストフという巡礼路の守り神で、14世紀の物だそうだ。
今通り抜けるようになっているが、これも19世紀に作った物で、それまではここには門はなかった。巡礼者の動きをよくするためにした。
ここで、階段を下りる。junは杖をついている人の手助けをする。
ここで自由時間となった。開いている礼拝堂には自由に入ることが出来る。土産物店も開いていた。こちらの方が信用が出来るとガイドさんのお勧めだ。
我々は、最初に、もう一度サン・ソヴール礼拝堂からノートルダム礼拝堂へ行ってみた。
5-5-3-5 門の先
門を更に進んで行ってみた。その門は、19世紀に新しく造られた通路で、先の階段を行くと聖マリアの家へ行けるそうだ。
階段の手前に洞窟があり中に入ってみると祭壇があった。入り口にはセントルイスと書かれていた。「小修道院 門番室」に当たるのかも知れない。ただ、入り口の所にトレーナーがいくつか飾られていたので、ちょっと意味が分からない。
それから広場へ戻って、入り口が開いていたヨハネの礼拝堂へ入ってみたが、10畳もないほどの広さで、祭壇があるのみで飾りも見られない質素な物だった。
最後に階段を下りて土産物を買い、ホテルへ戻った。
5-7 夕食(1900~2030)
一応目を付けていたのはあったのだが、添乗員さんがお勧め、というのを言ってくれたので、殆どの人がそれにした。
が、それが偶然我が家が目を付けていたメニューだった。17ユーロ。値段も手頃な盛り合わせのプレートだ。我が家も右へならい。
野菜とフォアグラや鶏肉などが盛りつけてあった。言ってみればこの地方のごちそうをワンプレートで堪能できいるようになっているもの。みんなと一緒でなければこれを一人一皿頼んでしまうところだったが、二人で一プレートで十分です、という添乗員さんの助言に従って大正解だった。やはり量が多い。それからチーズの盛り合わせ、6ユーロも頼んだ。ワインのお供にする為だ。ちなみに、チーズ盛り合わせにも、ワンプレーと盛り合わせにも付いてきたのが、ロカマドゥールのチーズ。これはヤギのチーズ?らしい。ロカマドゥールの名物なのだそうだ。
ワインはカオールのボトルで19ユーロ。
ついでにデザートも頼んだ。6ユーロ。これは前のと同様シュークリームなのだが、アイスクリーム。冷たくて美味しかった。