7.2012年4月4日(水)
アルビ、カルカッソンヌ (曇り時々雨)
起床(0530)朝食(0630)散策(0705~0807)アルビ観光(0845~1115)カルカッソンヌ(1327~1628)ホテル着(1750)夕食(1915~2050)夜景撮影(~2119)
7-2 散策(0705~0807)
まだ外は明るくなってはいなかったが、散策に出た。
アルビは、ポン・ヴィユー、「古い橋」と呼ばれている橋が建設されたことで、新市街も形成され、拡大した。この時期に、交易などの商取引、橋の通行料などのおかげで町は豊かになった。
ベルビ宮殿やサント=セシル大聖堂、ポン・ヴィユーや旧市街の町並みは、「アルビの司教都市」として、2010年にユネスコの世界遺産に登録された。我が家にとっては291個目になる。
朝一番はその古い橋を見に行った。
7-3 アルビ観光(0845~1115)
今日は現地ガイドさんの和代さんが付く。現地の人が付くとメモをするのに忙しい。ガイドブックに無いような細かいことまで話してくれるので、聞き漏らさないようにとなるからだ。本でも出すの?と言われたが、自分の記録としてだ。他にメモをするような人はいなかった。通り過ぎるだけでいいのだそうだが、もったいない。記録していてもどんどん忘れてしまうのだから、それがなかったら、行ったところさえ忘れてしまう。
アルビは中世の頃壁で囲まれており、今は殆どないが一部残っているところもある。その町の北側にあったのが、大聖堂である。
赤い町といわれるが、それは煉瓦の色から来ている。鉄分の多い土を使っているからで、白く見える家も赤い煉瓦の上に漆喰を塗っているのだという。
今アルビはタルン県の県庁所在地で5万5千人くらいの人が住んでいる。
7-3-1 サント・セシル大聖堂(0908~0947)
サント・セシル大聖堂は聖女セシルに捧げられて、13世紀後半に造られた教会。その頃はカタリ派が多かった。異端者が多いということでアルビ=異端者といわれる。これは今でもそう言われることがある。
しかし、アルビジョワ十字軍によるカタリ派の大弾圧の後、アルビは司教都市、つまりカトリックの司教が支配する都市となった。その後、1282年に建設が始まった大聖堂は、カトリックの権威を示すために建立されたもので、完成するまでにも200年を要した。
全長 113.5m、全幅 35m、鐘楼の高さ 78mの規模を誇る。
先代のアルビ司教座聖堂はロマネスク建築で、16世紀まで存続していた。
この建物は、すべて煉瓦で作られており、現存する煉瓦造りとしては世界一の建物だ。石のファサードは、15,6世紀の物で、北のゴシック様式で、後で付け加えられたので、様子が違う。この頃になると王の権力が南のこの地方にも及ぶようになり、それと共にゴシック様式も入ってきた。ただここのは北の地方のゴシック様式とはやや異なるところがあって、どっしりとした感じが好まれ、狭間が見られる。これは町の防衛のためで、この教会は要塞の役割も担っていた。
聖堂西側は巨大な鐘楼に守られ、向かいにはアルビ伯の居城があった。聖堂北側は要塞化した司教館と、川まで伸びる修道院の建物があり、聖堂東側には入り口がない。聖堂南側が正面入り口だが、かつてはここは跳ね橋で守られていた。
ここの守護聖人の聖女セシルは、3世紀頃にローマで殉教した人。神の言葉を音楽に乗せて伝えたということで、特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人とされる。伝説によれば、セシルは斬首刀の三打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたという。聖セシルに捧げられた聖堂は珍しく、特にフランスの司教座聖堂ではアルビが唯一。
横たわるセシルの像があったが、何ともなまめかしい感じがした。でもこれは首を切られて倒れている姿なのだとか。痛ましい。
7-3-1-2 天井画
内部も絵画と彫刻で埋め尽くされている。飾りが溢れんばかりにあり、また、多くの色を使ってしかもこのように残っているのは珍しいとのこと。外の単純な壁とは対照的だ。
中世の好みというのは一般的にいろいろな色を使って、壁という壁に絵を描くということが行われた。それが現在まで同じような状態で残っているのは珍しい。普通は修復という名の元に、色を変えたり付け加えたり、隠すために上塗りをしたりしてしまったので、そのままというのは数少ないものになってしまった。
パステル染料で描かれた天井画は完成以来一度も修復されていない。
この建物は神の家という解釈であるから、天井=天国というイメージで描かれている。
天井は多数の画面に分割され、「フランスの青」 あるいは「王の青」 と呼ばれるウルトラマリンを背景に、聖書に取材したものをはじめとする数々のテーマが描かれている。天井画2面は聖セシルに関するものだ。これを描くに当たってはわざわざイタリアから職人を集めてきた。
真ん中の所、線がまっすぐぼこぼこ穴が開いているところは上からつるした足場の穴。修復の手が入っていないので、そんな物まで残っている。
7-3-1-3 最後の審判
聖堂西側オルガン席の下、曲面になった左右の壁面には、それぞれ 16.4 × 15.6mという大きなサイズのフレスコ画で「最後の審判」が描かれている。中世の頃に好まれた題材だ。
これらの作品はフランドル地方の著名な画家たちによって 1474年から 1484年にかけて製作されたもの。
中央には少し奥まって礼拝堂があるが、初めに造られたときにはここもつながっていて一枚のフレスコ画だったそうだ。それを、17世紀に現在のような礼拝堂を造るために壊してしまったのだとか。その消えた中央部分が最も大事だったのではないか。イエスと天秤を持った大天使ミカエルがいたと思われるからだ。
それでも残った部分は、後期中世の重要な作品のひとつと考えられている。
左の天国の部分の一番上は赤や白の衣を着た天使が飛び交い、その下には12使徒の弟子達がいる。更にその下は地上の聖職者になり、その下は裸で本を開いて歩いている人たちがいる。左側の人は普通の表情をしているが、右側の人たちは恐れおののいている表情をしている。左側の人は天国に、右側の人は地獄へ行くように言われたためだ。その下には地獄絵がある。元々は7つあったのが、今では6つしか残っていない。それぞれ犯した罪によって地獄に落ちる。
カタリ派弾圧のあと百年戦争と続き、最後の審判の話はカトリック教徒に受け入れられ広まった。教会では最後の審判を西側に描く。西側は日の沈む方角、つまり死の方角と言うこと。反対の東側には、内陣がある。それと一般の人たちの礼拝をする場所を仕切る壁(ジュベ)がある。これが未だに残っているのも珍しい。後の時代になって殆どの教会では差別するのはよくないと言うことで取り壊してしまった。
ジュベの上には十字架にかかったイエスと、見守っている聖母マリアとヨハネ、その下の裸の人はアダムとイブ。今あるのはこれだけで、他の部分はフランス革命の時に壊されてしまった。
7-3-1-4 内陣障壁
内陣には入れるというので、その入り口へ向かう。
内陣の左側の通路へ行くと、右手側には仕切りの障壁がある。内陣を囲んでいる。左手側にはいくつかの礼拝堂が並んでいる。そこにある絵や彫刻がこれまた素晴らしい。レース編みのような細やかな彫刻も見られその技術の素晴らしさにも目を奪われる。
1480年頃に製作された内陣障壁は、当時のまま残っている。これまた珍しいことだそうだ。
これらはブルゴーニュ地方の職人達によって造られた。壁は石だが、彫刻の人物は木造。全部色が付いている。これは16世紀頃の作品。丁度ルネッサンスの頃で、着ている服を見ると16世紀の頃の物。ただ彫られているのは旧約聖書の頃の人たち。
内陣を通って反対側に出るとそちらも同じように並んでいる。旧約聖書に登場する人たちの中で2人だけ女性がいる。女性は額をグッとだし、お尻の部分を膨らませている。これも16世紀頃の婦人の姿。ブルゴーニュ地方の葡萄やエスカルゴなども隠し飾りとして彫られている。
7-3-1-5 内陣
ここも彫刻でいっぱいだった。ここは閉ざされていた頃は聖職者しか入れなかった。
祭壇の後ろにイエスを抱いた聖母マリアがおり、それを取り囲むように12使徒がいる。その延長線の所に司教座がある。上座にある赤い椅子がそれ。これがあるからここは司教座教会、つまりカテドラルなのだ。これを他へ持って行かれるととたんに普通の教会になってしまうのだとか。それだけ重要な椅子ということだ。
正面にはマリアがおり、今回は工事中で見られなかったが、その対面にはセシルの像がある。
その間には左右に聖職者の椅子が両側に並んでいた。肘掛けの所にミゼルコルド(=神様の慈悲)と彫られている。所によっては女性の胸が彫ってあったりする。
ここにも多数の人物像がある。その上に教会のとがった塔のような物も彫られているが、これは天国をイメージしているものだ。聖職者の頭の上には、必ずこうしたものがある。
結構忙しい見学だった。
7-3-2-2 美術館(1009~)
中は撮影が出来ないので記録のみ。事前にどんな作品があるのか調べていたので、それを確かめながら見て歩いた。10年くらい掛けて拡大工事をし、ようやく昨年末に完成した。改めて作品を並べ直し、今週月曜日に開館となった。
地下から上の階へ見学するようになっていた。
最初はロートレックの肖像画。殆どが友人が描いたものだ。本人の自画像は2点しか無い。16歳の時の作品だ。顔はちょっとぼやけた感じになっている。ガイドさんお勧めは、後ろ姿の自画像だ。椅子に座っている姿が漫画チックで面白い。
次からは馬、両親や友人の肖像画、娼婦の絵、ポスターなどと、各部屋によって展示が代わってくる。
見たことのある絵が目の前に並んでいるというのは、やはりある種の興奮を味わうことが出来て心地よいものだ。
最初は解説付きで一緒に見て歩いたがその後は自由となった。ただ、殆どの作品を見てしまったので、解説本や土産物を見て過ごした。
7-4 カルカッソンヌへ
今度の移動は結構長い時間になるので、お休みの時間だ。ガイドさんは次の観光まで一緒に行く。
移動の途中で明日行くトゥールーズを通過した。アルビからカルカッソンヌまでは「く」の字のように移動するので、ここが「く」の字の丁度曲がった辺りになるのだとか。
トゥールーズはフランスで4番目に大きな町で、エアバスやロケットを造っている、航空技術・宇宙開発産業工業の町だ。毎年人口が増えている。
丁度昼の渋滞が始まってしまった。フランスでは、12時に仕事を終え、いったん帰宅し、昼食後また仕事に出る。結構職場に近いところに住んでいる人が多い。
葡萄畑もある。この少し先のリブの発泡酒はシャンパンよりも早く作ったが、宣伝しなかったせいもあってあまり広まらなかった。リブのブランケットまたはクレモンという銘柄。ここでは教会の資金援助のためワインのオークションが行われる。1タル300リットル5000ユーロくらいになる。
それからカルカッソンヌについて話してくれた。
カルカッソンヌは、小高い丘の上にあった。紀元前5世紀頃ケルト民族が住み始めた。その後、古代ローマ人がやってきて最初の壁(ラ・シテ)が造られた。これは低い一重の壁だった。こういう壁に囲まれた町をラ・シテという。中世の城塞都市としてはヨーロッパ最大の物である。
8世紀にアラブ系のサラセン人が来る。その君主の姫をカルカスと言う。カール大帝が攻め込んで来て長い戦争状態が続いたときに、策略を用いて勝利した。そのときに勝利の鐘を打ち鳴らした。鐘をならすという動詞をソネといい、鐘を鳴らした主語のカルカスの名と結びついてカルカッソンヌという町の名になった。その策略というのが、1頭の豚を丸々太らせて城壁から落とした。それを見た敵兵が、あちらにはまだ食料が豊富にあると思い込んで引き上げていったという。この絵が町中で見られますよ、ということだ。
それからフランク族がやってきて、その有力者がトランカヴェルという一族。この一族がカルカッソンヌ子爵となり城を建てた。その後も争いがあるごとに増築され、シテは難攻不落の要塞と化していく。11~12世紀には領主のカルカッソンヌ子爵がカタリ派に友好的だったためにアルビジョワ十字軍に攻撃され、1209年落城。カルカッソンヌ子爵は殺された。その後敵の将軍が後を継いだが、彼はその後も戦いを続け、トゥールーズで殺された。最終的に13世紀以降はフランス国王に支配された。そのときに、スペインとの国境に近いこともあり、外側にもう一回りの壁を築いた。国境を見張るための装備が強化された。
7-5-1 ナルボンヌ門 (1327~)
城壁に着いた。本当はそこまで大型バスは入っていけないということになっているのだが、内緒で行ってみるということでここまで来た。まあ、シーズンオフだから出来ることだろう。雨がまた落ちてきた。
ここの外側の城壁は、13世紀、スペインとの戦いの時に、防衛のために強固にした。しかし、ピレネー条約で国境が後退すると、国境の町としての価値がなくなり、王や貴族はこの地を去って行ってしまった。すると、貧しい人々がこの石を使って家を建て、ここに住み始めた。その後19世紀に改修が行われるときに、その人々をここから立ち去らせた。
門は4カ所、塔は52個もあった。今はオード門、ナルボンヌ門の2つの門から自由に中に入ることができる。
その一つ、ナルボンヌ門から中に入る。そこにカルカス像が置いてあった。これはレプリカで本物は中にあるということだ。
町の外側には堀が掘ってある。丘の上なので空堀である。橋が架けてあるが、二つ続いた跳ね橋になっている。戦争の時や夜にはこれをあげていた。
更に入っていくと町の入り口になる。塔の所が狭間になっていて、矢を打って攻撃できるようになっている。そして、敵が攻め込んでくると、上から格子のとが下りてくる。左右からは矢が飛んできて、上からは石も落ちるようになっている。
次がメーンストリート。お土産屋さんが並んでいる。カルカッソンヌ特有のお土産というものは特にない。
城の入り口に出る。レストランはすぐそこなので、城の中に入るのは後ということで、まずは昼食。
7-7 城壁の中へ(1505~1730)
この城は一番古い部分が11世紀になる。その後付け加えがなされている。
城に入るために、やはり堀が掘ってあるので、また橋を渡る。これも跳ね橋であった。が、橋の方はもう普通の石橋になってしまっていた。フランス語では眠ってる橋、というそうだ。ここからだと壁が二重になっているのが良く分かる。
この辺りの城壁は、弓や石などで敵を攻撃できるようになっている。右側の壁の部分には出った板張りの部分があって、この部分からも弓矢で攻撃が出来るようになっている。そのうち一枚だけ板が外してある。ここからは石を落とすことが出来る。落とした石が転がりやすいように右から二番目の塔の下は、斜めになっている。
壁と壁の間は堀になっていて、四角く区切られた花壇のような物がいくつかあった。これは当時の菜園を再現してあるのだそうだ。
塔と塔の間を通って中に入る。
7-7-1 中庭
中央に大きな鈴掛の木が二本あった。当時はここで、裁判などを行ったり、役所的な手続きをしたりもしたそうだ。丸い石臼のようなものは、粉をひいた。ひいた粉は向かい側にある小さな穴で、パンを焼いた。つまり、共同の竈だった。右隣には鍛冶屋があり、蹄鉄を打ったり武器を作ったりしていた。
現在はそこにトイレがあるのだが、中庭正面にある塔は、ドンジョンという主塔で、敵の攻撃を受けたときに最後に逃げ隠れるための守りの塔なのだとか。
その横にある3階建ての建物は、一番最初11世紀に建てられた時は2階建てだった。その名残が屋根瓦が壁に飛び出すようになっているところで、そこまでの高さだった。2階部分には二つ狭間の穴も開いている。屋根の下にロマネスクアーチの窓があるが、実はそこが出入り口。はしごをかけて上ったそうだ。その上がゴシック様式。13世紀の王の時代のもの。一番上の階は16世紀のルネサンス様式で、後で付け加えられたもの。四角の窓に十字を入れるのが流行っていたのだとか。
全体のバランスという考えはなかったようだ。しかしながら、時代時代の特徴がわかって面白いし参考になる。
7-7-2 城内
入り口に日本語の説明書(パンフレット)がある。
それをもらってから木の階段を上る。ここの下の部分は19世紀に修復されている。そのとき教会の雨樋を作ったが未完成のままのものが展示されている。この修復を指揮した人の彫像もある。修復前にはなかった屋根を付けた。それも他から持ってきたスレートの屋根を使った。元の姿に近づけるというのではなく、そのような修復をした。そのときに、城壁の間にびっしりと家を建てて住み込んでいた人々を退去させた。
この街の模型があったので、そこで全体を確認した。重要な建物は子爵の城と教会だ。
カルカスの像の本物が置いてあったが、すり減っていて跡形もない。単なる石の塊だ。
更に木の階段を上って行く。通路は狭い。
「南の庭」という開けた庭を見下ろすところまで来た。周りは通路で囲まれているが、昔は屋根があって室内だった。ここでは宴会などが行われた。中央には柱の跡が残っている。左の部屋に明かりを入れるために屋根を取り壊してしまった。
南の庭にくっつくようにして塔がある。この建物は一番高い塔で、見張り塔。敵が攻め込んできたりするのを見張っていた。中世の頃の城の壁はでこぼこになっているが、これは出っ張ったところの穴に狭間を作ってあるから。この造りは日本の城と同じだ。この件に関しては司馬遼太郎が、少年使節団を扱った作品の中で、彼らがヨーロッパの城の造りを日本に伝えたのではないかというようなことを書いていたので、そうなのかも知れない。
また上って行く。
先ほど渡った橋の上。落とし格子が二組あった。その仕組みなどわかりやすく説明してある。石を落とすことも出来る。油は高いので使わなかった。
木で出来た出っ張りの部分を歩いている。隠れながら攻撃できるので、ぐるりと造られていた。これは復元されたもの。
北側からは新しい町が見下ろせる。ここから今夜のホテルが見えた。
その後は、王の墓標や写真を展示してある特別展、石の彫刻展などが部屋ごとに展示されていた。戦いの時の石の玉などもあった。一番重いもので100kgあるそうだ。飛距離は何と200mもあるそうだ。ただ、操作に時間がかかりすぎて1時間に1~2発しか投げられなかった。
面白かったのは十字架。表はイエスの磔の場面、裏はマリアの受胎告知の場面となっていることだ。生と死が背中合わせになっている。周りには騎士の絵が描かれている。
その後また少し自由時間となったので、資料を見つけに行ったりした。
7-7-3 サン・ナゼール教会(1610~1628)
シテにある唯一の教会。かつてはカテドラルだったが、司教座が他に移ってしまったためにそうではなくなってしまったバシリカという称号だ。これは主に巡礼教会などに与えられる名誉的な称号になる。隣にあるかつての司教館は、今はホテルになっている。
シテの中では重要な部分になる。
右側の丸いアーチの入り口の方が11世紀に最初に建てられたロマネスク様式。窓も小さい。
左側の高く大きい方がゴシック様式。王の領土となったときに建てられた。教会の建物が高く大きくなって、窓も大きくなった。アーチは先がとがったようになった。雨樋などその特徴的な物だ。
中に入る。
ここはステンドグラスに力を入れて造ってある。美しいものが残っている。
カタリ派の多かったこの地でやはりカトリックの威厳を示す必要があった。そこで教会を美しく立派なものにするというのが基本になっている。そのためにこのステンドグラスが造られた。
正面の中央は細かい作りになっている。縦型のステンドグラスが何枚かはいっているが、その中の真ん中のものはすごく細かいが、一つ一つの場面というものが八角形になっており、下から上へ向かって聖母マリアの生涯が、受胎告知から亡くなって天の神に迎えられるところまで表されている。
13世紀から14世紀の物。これはその頃は小さいガラスしか作れなかったから必然的にそうなった。その両側は大きな図柄になっているが、これは200年後、ルネサンス期に入り、大きなガラスが作られるようになったからだ。
古いステンドグラスと同じ頃のものが左右のバラ窓。
北側のバラ窓は、中央に聖母マリア、周りを4人の天使が囲んでいる。その外側には24枚の花びらがあり、全体的に聖母マリアの色である青色が多く使われている。13世紀終わり頃の作品だ。
南側のバラ窓は、中央にイエスがいる。それを取り囲んで20の花びらがあり、一番外側には12使徒がいる。色はこちらの方が明るくなり、黄色や緑、紫色が使われている。午後の太陽が入ってくる方角になる。
もう一枚、ゴシック時代のステンドグラスがある。南にゴシックが入ってきたときには既にロマネスクの教会があったので、あまりゴシックの物は無い。ただ、ここは半分がゴシックで造られているので、ステンドグラスもある。
それには、大きな木がある。
根元にいるのはアダムとイブ、そして蛇。左にはノアの箱舟の場面、右にはユダヤの契約の箱などお馴染みの場面もある。大きな木の枝がラテン語のリボンになっているが、それを持っているのは旧約聖書に出てくる予言者達。ただこのリボン、19世紀に修復したときにメチャクチャにはめ込んでしまったので、順番が分からなくなってしまっているそうだ。