3月26日(月) カランバカ〜メテオラ〜デルフィ

起床(0630)・・朝食(0700)・・散歩・・出発(0900)・・メテオラ(0920〜1155)・・昼食(1205〜1305)・・カランバカ散策(1305〜1340)・・休憩(1550〜1605)・・峠越え(1620)・・アラホバ(1735〜1738)・・ホテル着(1800)
☆デルフィパレス(旧クセニア) ホテル 1号室

3−1 朝
 今日も朝は早い。自然に目が覚めてしまう。荷物整理をしてから朝食をとり、その後、散歩に行く。
 気持ちの良い空気の中を歩いて行くと目の前に昨日よりくっきりと奇岩群が見られた。すごい絶壁だ。ロッククライミングをする人もいるということだが、それにしても見るだけで目が眩むような岩山だ。目をこらしてよく見るとずっと上の方に、確かに修道院が見えた。どうやってあんな所にあんな建物を造ったのだろうと不思議でならない。信念というものはすごいものだと改めて思わされた。今日はあそこへ行く。今回の旅で一番行きたかったところだ。
 朝の散歩の帰りに、ホテル近くのスーパーへ行く。思ったより大きな店で、たくさん商品が並んでいた。その中のワインに則は目を奪われていたが(何しろ1ユーロ以下で買えるワインがあるのだ)、順は買うことを許さなかった。代わりにお菓子をいくつか購入。これも、前日ドライブインで買った金額の半分近かった。まぁ、実際の庶民の懐具合はこれくらいなのだろうと想像が出来るスーパーの買い物であった。その後、ホテルに戻って、メテオラのガイドブックを買った。

3−2 メテオラ (0920〜1155)
 隣町に着く頃からバスは山を登り始めた。昔はこういう道もなかったので大変だったようだが、今は結構近くまで車で行くことができる。ただ、道と行っても車がすれ違うのには一苦労するような道だ。しかもギリシャは殆どガードレールというようなものはなく、縁石やポールがあるのみだ。大きくカーブを切るときやすれ違いは結構なスリルだ。

3−2−1 最初の撮影ポイント (0920〜0930)
 まず1回目の停車。ここからもう修道院が見える撮影ポイントなのだそうだ。右手側に@ヴァルラーム修道院、谷を隔ててAメガロ・メテメオロン修道院が少し見える。そして左手奥にBアギオス・ニコラオス修道院がある。そしてすぐ後ろにルサヌー修道院がある。
こうしてみると尖った岩山の上というその様子がよく見て取れる。改めてその凄さに驚かされた。
そして偶然ではあったが、驚異の映像を撮影した。メガロ・メテオロン修道院から谷を隔ててワイヤーが延びている。上の写真で言うと、の間の辺り。は続いている谷のように見えるが、実際にはは独立した頂に築かれている。そしてそこを左の写真でロープが渡っていて、何かが運ばれているのが分かるだろう。その拡大を、円の中に示した。な、な、なんと?!人が乗っているのだ。

3−2−2 メガロ・メテオロン修道院 (0935〜1130)
 メテオラといえばここ、というくらいよく写真とかで見かける修道院だ。昔はこれで上下したという菰(こも)もちゃんとぶら下がっていた。駕篭もあった。いわば、その現代版(モーター駆動)が上の写真のそれ。下を見るとものすごい断崖絶壁で、高所恐怖症の人間にとっては生きていかれない世界だ。向かい側に見えるヴァルラーム修道院は、先ほど見た所よりも尖った上にあるというのがよく分かる。被写体としては最高だ。まさに絶壁の上にあるという写真が撮れる。
さてメガロ・メテオロン修道院へ登る。まずは階段を下りて菰の下まで行く。そこから階段を登っていく。これが189段。ようやく入り口に付く。ここで女性は巻きスカートを借りて腰に巻く。順さんは大きなスカーフを持って行ったのでそれを巻く。
 修道院の中は薄暗いが、撮影は禁止されていないので何とか写しながら見学した。
始めに食糧倉庫に行った。ワイン酒樽やチーズ作りの道具もあった。ただ、当時は自給自足ではなく、週に一度村へ下りて、村の教会でミサを受け、その時に1週間分の食料などを調達してきたのだそうだ。
 次に代々の僧達の頭蓋骨が並べられている部屋を見た。要するにカタコンベ?土葬した物を掘り戻したものだ。キリスト教では、こうした事は普通にあることで、聖人の頭蓋骨は信仰の対象にもなる。もっとも仏教でも仏舎利があるわけでお釈迦様の骨は珍重されているわけだから、同じことか。これまでに我々もこうした髑髏の山は何度かお目にかかっている。西洋人のセンスと我々は相容れないと感じる瞬間の一つだ。もっともそれを写真に収める我々もどうかと思う気がしないでもないが。
  歴史資料室へ行く。何故かここは撮影禁止。(右はダメと言われるまでに撮影してしまったもの)歴史の解説や昔の民族衣装などが展示されているだけなのだが。歴史の中には当然トルコからの独立が大きく取り上げられている。民族衣装の400のプリーツもトルコに占領されていた年数を表している。400年というのはさすがに長い。恨みが深いのもうなずけるような気がする。
礼拝堂へ行く。礼拝堂は、前室・中室・奥室の3つに別れている。天井から壁、全てがイコンで覆われている。このイコンには、聖書の物語や聖人達が描かれている。彫像のようにリアルに表現するのではなく、あえて、人間らしさから遠ざけるように平面的に描くのだそうだ。これはユダヤ教の流れで、このイコンを通してその後ろに神や聖人を感じ取って祈るのだという。信者にとってはとても大事な部屋。写真はこの教会がそもそも一番最初に建てられた当時の部分。今もなお綺麗ににフレスコ画が残る。
 それから少し自由時間になったので、記念品を買ったり写真を写したりして時間を過ごした。

3−2−3 第二の撮影ポイント (1133〜1143)
 ここからは4つの修道院が見えるというガイドさんお薦めのポイント。ただ、かなりギリギリ前まで出るので、添乗員さんは気をつけてーと何度も注意を繰り返していた。
見られる4つは、今まで既に見ていた所。右から@ヴァルラーム修道院、Aメガロ・メテオロン修道院、Bアギオス・ニコラオス修道院、そしてCルヌサー修道院。また、周りの山々もきれいに見えていて、なるほどこれなら絶景の撮影ポイントだと納得。なお、番号は最初の写真にのせた番号に一致する。往時は、たくさんあったものの、現在は6つの修道院が動いているに過ぎない。一番大きな規模の、そして我々が見学したメガロ・メテオロン修道院にしても、修道僧はわずかに3人しかいないというは無しだ。メテオラの交流衰退の歴史があるからだろうが、多くは世俗化に伴ってもっと修行に適する場所へ移動したのだろう(別添資料参照)。

全景・@

A・B

C・この解説


3−2−4 第三の撮影ポイント (1150〜1155)
 007の撮影に使われたというアギア・トリアダ修道院は車窓から眺めた。ここは、映画007シリーズの「ユア・アイズ・オンリー」で、かのジェームス君が、この岩山の上にある修道院を敵の本拠としてロープで登っていくという場所。確かにこの角度からは、映画の世界に使われるのが納得できるように見える。ここは車を止める場所がなかったのかあるいはそうした世俗的な世界を現地ガイドがいやがったからか定かではないが、降りずに次の撮影ポイントへ向かった。
  ここからはアギオス・ステファヌス修道院が見える。これがホテルから一番よく見えた修道院だ。逆に言えば、この修道院の裏手は、我々の泊まったカランバカの街がよく見えるはず。なお、ここは一番最初に写真ストップした場所にあったルサヌー修道院とともに、現在では女子修道院になっている。
 これで現在活動している6つの修道院は全て見たということになる。


3−3 昼食 (1205〜1305)
 カランバカに戻って昼食。EGINION(カランバカの古い名前)にて。昼間っから、またまたワインを飲んだ我々だった(ただし0.5L)。
  ○スープ、サラダ、カラマリ(イカリングフライ)、焼きリンゴ
  △ワイン5ユーロ

3−4 カランバカ散策 (1305〜1340)
 レストランがカランバカ町の目抜き通りにあるので、食事の後自由時間。あまり行く所もないので本当にフラフラしていたら、豆類を売っている店のおじさんの呼び込みの声に誘われて中に入る。ピスタチオの本場だというのでつい買ってしまった。
 キロ単位で売っているのだが、多すぎると言ったら半s(ハーフキロ)で5ユーロということで決着。
 その後、また長いバス移動。

3−5 アラホバ (1735〜1738)
 途中一度の休憩を挟んでバスはひたすら走る。峠を越える頃にまた雨が降り出した。これでは益々到着が遅れるな、と思っていたが、アラホバという町が見える頃には止んで一時的にだが青空も見られるようになった。ここぞ、とばかりに車がストップして撮影タイム。
 この街は冬はスキー客で賑わうそうだ。近くにスキー場があるとのことで目で探してみたが、分からなかった。
 ここばかりでなく、ギリシャの町はどこもきれいな町並みを見せている。たてものの高さや色が統一されているからだ。

3−6 ホテル着 (1800) デルフィパレス 1号室
 ようやくホテルに到着。今日も部屋は自分で選ぶ方式だ。昨日に引き続き残り物を取りに行ったら、残りはない。今夜は宿無しか、等と言っていたら、二つも持っていった人がいて返してくれた部屋ナンバーは1。つまり1号室だ。初めてのナンバーだ。フロントからはちょっと地下に下るが一番近い部屋だった。
 その後夕食までは時間があったので、まずは風呂に入ってゆっくりした。
夕食は
  ○チーズパイ、サラダ、ビーフ、アイス
  △ワイン

★資料 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
 メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成する事はなく、単独で修行する隠修士が主流であった。
 メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。
 メテオラの風光明媚な景色と修道院文化への関心からこの地域も観光地化が進み、世俗を避ける修道士にとっては活動に適さなくなりつつある。その為、メテオラを捨てより閉鎖的なアソス山に移住する修道士が増加している。なお、20世紀に入り、二つの修道院が女子修道院に改組されて現在に至っている。
    (写真は資料とは無関係。ルサヌー修道院の写真。)