3月27日(月)
   クシナガラ ゴラクプール ルンビニ クシナガラ(泊) 晴

ホテル(0700)・・ゴラクプール(0750)・・国境手続き(0940〜1005)チャイタイム、ネパール入国(1020)・・ルンビニ園(1055〜1200)・・昼食:法華ホテル(1210〜1300)・・列車通過(1415)・・ゴラクプール駅通過(1520)・・クシナガラ涅槃寺(1630〜1710)・・荼毘塚(1711〜1725)・・ホテル着(1730)


3−1 朝
 則は朝は3時過ぎに目を覚ました。未だ体が日本時間を刻んでいる感じだ。日本時間なら6時半過ぎで、起床時間とすれば適切な時間だ。
順:血圧129−81 パルス67 体温35.1
則:血圧135−93 パルス60 体温35.8
 朝の目覚めはともかく、今日は往復8時間の印度ネパール国境越えを含む釈迦生誕の地ルンビニ観光の日であり、この印度旅行でようやく初めての観光になる日でもあるので期待感がふくらむ。
朝食もセットメニューで、けっこうな量があった。少しずつまんべんなく手をつけるように心がけているが、それでも品数があると量目も増える。ここは、日本人観光客になれているせいか、野菜類は火を通した物を提供してくれるので安心して食べられる。
インド人のガイドさんは完全に印度スタイルというかヨーロピアンスタイルの朝ご飯だ。ジュースを飲んでジャムを塗ったパンを一枚食べておしまいだ。そして日本人は朝ご飯をしっかり食べないと気が済まないことも知っている。日本には毎年来ていると言うし、大臣経験者の人を案内したこともあると言うし、日本人がどういうパターンで動くかを理解しているようなので、侮れないとも言えるし安心して付き合えるともいえる。

3−2 ルンビニへ
 車は定刻通りルンビニへ向けて走り出す。風景に代わりがあるわけではないが、丁度学校の通学時間にあたっていて、おそろいの洋服を着た可愛い子どもたちを沢山目にすることができた。
 公立の学校は、教科書はおろか食事や制服も提供されるらしく、就学率は都市部ではほぼ100パーセントらしい。農村部では、この数字は落ちるらしいが、実際に制服を着ている子どもたちを目にもしたが、その脇で忙しく働いている子どもたちも沢山目にした。こざっぱりとした制服の子と着古した薄汚れた作業着で裸足の子を一度に目にすると少し複雑な気分になる。

3−3 国境越え
 車は一旦ゴラクプールまで戻り、そこから右折してゴラクプール駅などのゴラクプールの中心地を抜けて、ルンビニを目指す。相変わらず、オレンジの並ぶ店先と黄金色に広がる麦畑の繰り返しだ。途中休憩をすることもなく(休憩はいらないと断った)トラックが出国待ちで数珠繋ぎになった国境の町に3時間ほどで到着した。
 ここでまず印度の出国手続きを取る。しかる後歩いてネパール領に行き、そこで入国手続きをする。これにはサイン等がいるので、我々も同行した。国境に設けられている緩衝地帯という物はない。両国のゲートの間は数メートルしかない。そこで手続きをして、なにやら車のチェックとかで時間がかかり、その間我々はチャイを飲んだ。

3−3−1 チャイ
 ここでチャイの作り方を見た。簡単だ。鍋にミルクを入れて、適当量の砂糖と茶の葉を鍋にぶっ込んで煮立たせればおしまいだ。ガラスの器に移す際に茶こしで茶は取り除いた上で提供される。

3−4 ネパール
 そうこうしているうちに準備が整ったので、再び車上の人となる。しかし走っている大地は印度ではなくネパールだ。印度の人たちに言わせれば、もともと印度の回りのネパールを始めとした国々は同じ印度だったし、今もネパール経済は印度に依存しているし、ネパールでは何でもかんでもカネカネカネだと、まるで印度の属国のように説明する。まぁこうした感情が国際問題になるのだ。どちらが上とか下とか、豊かであったり貧しかったりすれば差は生じるものの、それで論じてはいけないとの戒めの気持ちを持った。

3−5 ルンビニ園(釈迦誕生の地)
 国境を越えて道を進み左折するとすぐに寺や仏像が見えてくる。やがて右側に大きな域を示す塀が見えてくると、それがルンビニ園だ。
 ルンビニ園の入り口には扉があり、そこからは徒歩で行かなければならない。と言ってもおそらくは10分とはかからない距離だろうか。でも、我々はリキシャに乗って入園事務所の前まで行く。
 ここで則は、我慢しきれなくなってトイレに。というか、塀のそばで所用を済ませる。ルンビニ園には写真を撮るには料金がいる。二人分で100インドルピーであった。もっともこの金額は少し少なかったかも知れない。入園料そのものもあがっていた風がある。観光地にあってはよくこういうことに遭遇する。トルコに行ったときは、数日前の料金の倍以上になっていたのに驚かされたことがある。

3−5−1 見どころ
 ルンビニ園の中の見所は4箇所。第1は、釈迦生誕の地を記念して紀元前2世紀から7世紀にわたって建立された僧院やストゥーパの跡。イスラム教徒による破壊を免れなかったものだ。
  第2はアショカ王柱の一つがここにある。しかもここで重要なのは、アショカ王柱に刻まれたこの地が釈迦誕生の地である旨の記述があること。
  第3はマヤ夫人の脇腹から生まれたそのことを示した木のレリーフ。これは新しいものだ。破壊され、その複製品と言った感じだが、十分にそれらしい雰囲気を醸し出した物だった。そしてその聖堂そのものが鉄骨で、丁度遺跡の上のカバールーフのように造られている。
  第4に、釈迦が産湯を使たっと伝えられる池。これらは300メートル四方程度のエリアにまとまって存在する。

3−5−2 アショカ王柱
 ルンビニ園は世界遺産に登録されている。その登録されるに至ったのもアショカ王柱が発見されたからだろうが、アショカ王柱は一番ひっそりと、マヤ聖堂の横に立っている。ちょうど仏教徒らしき集団が来ていたが、彼らはここでお祈りをしていた。

3−5−3 菩提樹
 ルンビニ園の中心で一番目につくのは大きないくつかの菩提樹。タルチョが縦横無尽に飾られていることだ。一番大きな菩提樹の根っこ部分には祠が造られ、地元の人の崇拝の対象になっている。ここでマヤ夫人が休息したらしいが、勿論この菩提樹はその当時のものではない。ただ、直系らしい。人々は、ここで靴を脱いで御参りをする。祠の中に幾ばくかのお金を入れて祈っている。

3−5−4 池
 産湯を使った池は思ったよりも大きいものだった。前述した一番大きな菩提樹の前に広がっており、菩提樹を背にしてみると、池の奥にマヤ聖堂とその左にアショカ王柱を見ることができる。

3−5−5 マヤ堂
 赤い色の建物だ。屋根の上にはネパールの寺院を象徴する顔がある。
 中には古い遺跡がそのまま残されていた。それらを保護するようにこの建物で覆われているのだ。釈迦誕生が掘られたものがあった。その下には5cm四方程度の金箔が貼り付けられていた。巡礼者がこうして御参りをするらしい。これはこの後も何度も目にした。また、お釈迦様誕生の目印となる石もあり、それはガラスで覆われていて、あまりはっきりわからなかった。

3−5−6 僧院跡
 長い年代にわたって造られたもののようで、その時代によって煉瓦の大きさや積み方が微妙に違っている。これらが建っていた頃を想像するとかなり大きかったことが想像できる。ただ、これらの煉瓦は、崩れないようにかコンクリートで下の部分が固めてある。
 この後に行った印度領内にある終焉の地クシナガールの遺跡でも同じに思ったのだが、遺跡をコンクリートで固めて保存をはかることも必要だが、その建立の時代的な流れが明確に解るような状態にしておいてもらえると遺跡の価値が増すように思う。

3−6 昼食
 遺跡見学の後は、本来昨日宿泊する予定であった法華ホテルで昼食。現地スタッフも日本語を上手に話し、食堂の雰囲気も十分に日本風。昼ご飯はかなり日本風の日本食。煮物などが出てきた。食事の時間を利用してガイドさんが、印度再入国のイミグレーションカードを作成してくれたが、入国時はよいだろうが出国時が心配な位に間違えが多かった。果たしてどうなることやら。

3−7 出入国
 さてそれからは帰路である。やはり同じ時間だけかかる。
 最初にネパールの出国。これは簡単。今度は車を降りること無しに通過。
 印度再入国も既に書類は間違えつつも一応作成されていたので、これも簡単に終了。
パスポートの印が増えた。

3−8 クシナガラ(涅槃の地)
 この分帰路は時間的に短くなる。帰路途中一回ガソリンスタンドに立ち寄る。ここで、明日の予定にしていたクシナガラ観光が、時間的に未だ十分に明るいので可能なことを告げられ、我々もそれに同意した。生死はいっぺんに経験した方がその分意味深いかとも考えた。

3−8−1 涅槃堂
   涅槃堂の入り口には一応門がもうけられている。門前では土産物屋がいくつか並ぶが、観光シーズンではないのだろうか、あまり商売には熱心ではない感じだ。
 園内に入ると、園内で体を休めている人がいる。広い敷地は公園のようにきれいに整備されている。ここで働いている人や、子供を伴った一団もいた。物乞いや物売りの子供ではない(そうした子供もいたが)。またしっぽの長い大きな猿がいた。この猿はどうせなら明日のシチュエーションで搭乗して貰いたいくらい立派な猿で、人間に危害を加える風でもなく、我々の前まで走ってきたがそこで留まって座っていた。
 涅槃堂はホテルまでの道中の途中にある。大きなエリアを占めている。ここは釈迦終焉の地に建てられたもので、その回りには釈迦のいとこの建てた大きなストゥーパや僧院などおびただしい数の建物の基礎部分が残っている。これもイスラムによって破壊されてしまったために今はその基礎部分しか残ってはいない。中央付近にある涅槃堂とその奥のストゥーパは後世のもので、このストゥーパも八分の一の仏舎利が収められているストゥーパである。
 涅槃堂には、北枕になった釈迦の六メートルの巨大な涅槃蔵が安置されている。これは5世紀のもので、1876年に河床から発掘されたものである。周りには壁面で祈る者や、解説をしてくれる者などの人々がそこにはいる。涅槃の顔は足元から見ると死に顔で、正面から見ると○○(忘れた)で、頭の方から見ると微笑んで見えるとそこにいた人が日本語で解説をしてくれた。
 ストゥーパは中に入るというような構造にはない。その周りを時計回りに回って祈りを捧げるものなのだそうだ。我々もほぼ一周した。

3−8−2 荼毘塚(釈迦を荼毘に付した所)
 涅槃堂を後にして向かったのは、古い巨大なストゥーパ。ここは公園のようになっており、誰もが自由に入れるようになっている点は、書き忘れたが涅槃堂と同一。なんやかんやとよってくる子どもたちもいる。しかししつこいとかそういうことは全くない。拒むこともないので、無視をしている。さてストゥーパは一周できるようになっている。
 教えに従って時計回りに一周してみた。入り口部分を正面とすると丁度正反対の側に祈りをする場所が置かれている。ここで荼毘に付されたのだから、当然のことだろう。しっかり線香を売るものなどもいる。マァだからと言ってどうと言うこともない。我々は葬式仏教でしかない仏教徒の端くれにも列せられるかどうか怪しい輩なので、ぐるっと回って写真を撮っただけだ。

3−9 ホテル
 確かに釈迦の終焉の地と生誕の地をあわせ見たわけだが、そしてその両方が世界遺産に登録されている(現地ガイドの説明では)ものの、同じ仏教遺跡でかつ世界遺産のタフティバイや黄河故城に比べると、その時代が古いだけにその分壮大さにはかける。
 これで初めての印度観光は終わった。荷物を置いてあるホテルに戻った。この旅の中では、今日だけ唯一の連泊だ。

<ホテル> ロイヤル レジデンシー