12月22日(月) エローラ&オーランガバード散策

朝食(0630)・・ホテル発(0900)・・タウラターバード(0935〜0945)・・エローラ石窟寺院(1015〜1345)・・昼食(1350〜1445)・・オーランガバード散策(1550〜1645)・・ホテル着(1700)・・夕食(1930)

3−1 朝
  2時過ぎにjunがトイレにゆく。そのこともあって朝というよりは深夜2時半過ぎにnoriは目を覚ました。仕方のない性分だ。もっとも昨晩は9時過ぎには寝てしまったのだから、まぁまぁという感じだろうか。junも起きてきて、日記を書き始めた。noriは今日の予習。その後また洗濯をした。昨日の感じで一日あれば乾くと判断したからだ。
 その後、納豆汁を飲んでから6時45分くらいにレストランへ行く。未だ準備していて、全て揃っているわけではなかった。7時を越えて食べていたが誰も来ないので部屋に戻る。
 実は今日の出発は9時と比較的遅い。その分のんびりは出来る。明日は早いので、少しその準備をしたり、またまた洗濯をしたり、それから少しうとうとして、時間までを過ごした。

3−2 タウラターバード城砦 (0935〜0945)
 泊まっているオーランガバードのホテルは街道沿いに面している。したがって出かけるのには便がよい。エローラまでの距離は三十数qのところにある。そのまま走って行けば、1時間弱で到着する距離。走って20分くらいで、車は田園風景の中、菩提樹が両側に街路樹として植えられ木陰を作っている道を走る。この辺りは夏が本格化(5月頃から7月)するときにはさぞや暑くなるのだろうと想像が出来る。現地ガイドさんの言葉によれば、日常的に40℃後半が出るらしい。50℃も経験するとも言っていた。実際のこのあたりが今回の旅行でも体感的には一番暑い場所だった。
  更に少し行くと、左右にいくつかイスラム時代、つまりは数百年は経過しているであろうと思われる、聖者の墓がある。形式はかつてパキスタンで見たものと同様のもの。ただ積極的な保存はあまりされていないという感じ、あるいは宗教的な意味合いがもはや失われつつある感じの保存状態のものばかりだ。やはりイスラム教徒は少ないのだろうか。
  車は人だかりがする辺りで止まった。見上げれば彼方の山の頂上付近にいくつかの建物がある。中央部に白い少しせり出したように見えるテラスのような部分に建物があり、眼下を見下ろすには絶景の場所になっている。またそれ故に敵の動静をいち早くキャッチできるような場所。望遠で覗くと、人の気配があった。
  12世紀のヤーダヴァ朝の首都だったダウラターバード。エローラほどには時代が遡らないからあまりまだ歴史的な価値は無いのかもしれないが、城郭的には山城でありかつ眼下の街が城壁内という規模の大きなものであったことはわかった。ここがダウラターバード城砦。ちなみに、ダウラターバードとはバードだからイスラムの都市。宝の街と言った意味らしい。何でもかつては宝石類の産地であったようでそれにちなんでいるとのこと。
  我々の到着した時間帯は外に観光客がいなかったので、物売りがややしつこかった。もっとも取り囲まれるというようなことはないし、釈迦が悟りを開いたブッダガヤのように被写体を遮るようなこともない。
  この城砦はかなり手前に城壁があり、今でも少し残っており、出城のようなところだったのだろうか、カーブを描く部分などが美しい石積みを見せている。我々はその前の堀の部分の対岸あたりから見上げている。この堀は今は空堀になっていて、男女二つのグループが芝刈りか何かであろうか作業をしていたが、この部分はかつて水がたたえられ、ワニを放っていたということだ。砦域とは狭い橋で結ばれていて、ことがあった場合にはそれを切り落としたと言うことだ。橋から落ちた人はワニの餌食となるという寸法だ。因みにこのタウラターバード城塞は鉄壁の守りを固めていた城塞で、歴史的に陥落したことはない。
  その堀の手前には大きなエンジュの木が植わっていて、赤い花を沢山つけていた。その花越しに城内にはミナレットが見える。花と同様に朱色に彩られたもので、相当大きなミナレット(クトブミナールに次ぐとも聞いた感じがする。これは15世紀の物)であった。この町がイスラム時代になってからも繁栄していたのではないかとこのことから想像される。
 城の城壁というか堀を回るように車は走る。半周した辺りで写真ストップ。ここには数台の車が止まっていた。物売りもどういう訳かほとんどいなかった。その場所からかなり近いところに猿が群がって日向ぼっこをしていた。この場所からは遮る物が少ないので、白い建物が強調されて見える。ただ逆光なのが惜しい。
  更にエローラに向かっていく途中で水牛や、頭に水瓶を乗せて歩く女性などを見かけた。今もこうして運んでいるという事実が、妙に印度的に感じた。
 
3−3 エローラ石窟寺院 (1015〜1345)196

3−3−1 トイレ休憩
 最初に後で昼食を摂るレストランでトイレ休憩。インドではトイレ事情は相変わらずよくない。トイレについては気を使う。人口が少なく砂漠地帯なら青空トイレもありだろうが、それはそれでクリーンなのだけれども、そうしたことも人前では出来かねる。
 さて利用させてもらったホテルはその名もカイラス・ホテル。エローラ観光のハイライトであるカイラーサナータ寺院にちなんで名付けられたと思われる。
 入口の前の車だまりには、猿の群れがいた。猿の種類は先ほどタウラターバード城砦を遠望した際に見たものと同じように思えた。その特徴は逆光から見ると頭の部分の毛が光り輝くことと、体長よりも長い尾だ。人を見ても近づくでもなく逃げるでもなく、全く無関心といったところ。

3−3−2 エローラ石窟寺院概要
大きな地図で見る
  エローラ石窟寺院(群)と呼ばれているものはインドで最大規模の石窟群で、全部で34ある。我々は既に三宗教の激突する場面を現在イスラエルの占有するエルサレムで見た。ちなみにエルサレムは世界遺産だが、それはヨルダンが申請したもので、国別分類でも微妙な立場におかれている。さてエローラ石窟寺院だが、エルサレムが三次元的な宗教建造物の広がりを見せる中(岩のドームはユダヤ人が作ったプラットフォームの上にある)、ここは二次元的な広がりで、その専有部分を相互が犯すことなく広がっている。つまり、ほぼ南北に南から広がりを見せているが、南の部分を占めるのが仏教窟、中央部がヒンドゥー窟、そして北側がジャイナ窟となっている。上の地図では最大の見学ヶ所である第16窟のカイラーサナータ寺院がほぼヒンドゥー窟の中心で、それよりも南つまりは地図では下の方が仏教窟、そしてやや離れた北にあるのがジャイナ教窟。
 また年代的にも綺麗に分けられる。エローラ石窟寺院のうち1〜12が仏教窟で5世紀から200年かけて造られた。13〜29がヒンドゥー教窟で8,9世紀(資料によると7〜10世紀)に造られた。30〜34がジャイナ教窟で10〜12世紀(資料によると8〜10世紀)に造られた。明日見るアジャンタのそれと同様に、玄武岩を上から下へ、前から後ろへと掘り進めて造った。足場などはなくノミのみで造り上げた。
 アジャンタとの比較だが、概ねで言えばアジャンタの方が古く、仏教窟のみ。そして8世紀ころには放棄されて、イギリス人に発見されるまでは半ば土砂で埋もれてしまっていたが、エローラは三宗教窟が相互を犯すことなく併存していたこともあって、また時代的に12世紀まで下ることも出来るという事情もあって、歴史の中に常に存在すなわち祈りの対象、信仰の場所であり続けた。
 さてエローラ石窟寺院にはチケットオフィスのある入口からバスでそのまま少し行くと大きな広場に出る。そこが第16窟のカイラーサナータ寺院の正面辺りで、そこでバスを下りる。そこから歩いて一旦カイラーサナータ寺院を見上げる位置まで行き、右折した。エローラ石窟寺院は右から左へ順番に付番がなされている。我々は一番右側の第1窟まで歩く。雨が降っていたりして濡れていると結構滑るのではないかと思われる場所だ。

3−3−3 仏教窟
・第1窟(1026):前に井戸がある。中は、飾りもなく質素な造り。寝る部屋にはベッドもない。当初は窟を制作するためのもので、その後僧院として使われたと思われる。また昔農民が住み込んでいたために、壁には羊などをつないでおいた穴が多数残されている。大きさは、18.06×16,85mで、6世紀のもの。仏教窟はアジャンタも含め二種類に分類される。数が多いのは「ヴィハーラ」と呼ばれている、日本風に言えば僧院。僧が寝起きし、瞑想をし、時に祈りを捧げた修行の場所。
・第2窟(1031):大きさ27.0×20.1mで8世紀のもの。彫刻が立派。音響がよく、声がよく響く。ガイドさんが歌う。それを聞いていると、おそらくは日本で言う唱名のようなことが行われていたことなのでは無いかとの想像が働く。中央正面奥まった部屋にはお釈迦様がおり、その左側には蓮華菩薩、頭上に飛天、右には金剛菩薩、周りには仏がいる。この構造は他の窟でもほぼ同様だ、
・第3窟(1038):ここにも井戸があるが、未完成の窟。柱には何の装飾もなく質素。これは未完成のままに置かれたためなのだろうか。ただ、やはり蓮華菩薩と金剛菩薩がいる。そしてその奥には仏陀の像が置かれている。寝る部屋もある。僧院としては使われていたのであろうと想像される。
・第4窟(1042):小さい窟で奥行きもあまりない。セメントで一部修復されている。構造的には前二窟と大きな違いはない。ここは2階建てになっているが、階上への進入は禁止されている。
・第5窟(1045):53.28m×36.63mかなり大きい。2列になった盛り上がったところはテーブルとして使用された。つまりここは集会や食堂としても利用されたらしい。柱は未完成だが、やはり仏を挟んで蓮華菩薩と金剛菩薩がいる。周りには部屋もある。
・第6窟(1050):入って直ぐの右壁に弁財天がいる。仏堂前室左壁のTara(菩薩)立像とその向かいの壁に彫られた女性像が目を引く。
・第9窟(1053):壁の彫り物が綺麗。仏の行列。6窟と2階つながり。ここから振り返ると今まで見てきた仏教窟がきれいに見える。
・第8窟(1058):1階に下りる。弁財天や鬼子母神がいる。
・第10窟(1100):天井が高くドーム状になっている。唯一の塔院(チャイティヤ・礼拝堂)。ここだけが僧院ではなく、対比していえば洞窟寺院という感じのもの。アジャンタ後期のチャイティヤ窟の定型的形態の窟。
  すなわち、前方後円のU字型をした窟で、左中右の三室構造。広間の壁面沿いにU字型に列柱が巡らされ、柱には彫刻がある。天井はまるで鯨のおなかの中みたいな肋骨状の構造。まるで鯨に飲み込まれたピノキオのようだ。ファサード部分の二階部分は明かり取りとしての役割を果たしている。
 その最奥に高さ8mのストゥーパがあり、ストゥーパの前面には三尊形式のブッダ像が彫刻されている。他にも飛天・ミトゥナ像(「3−3−2 エローラ石窟寺院概要」参照)がいる。音響がすばらしくよい。祈りの人もいた。
・第11窟(1112):三階建て。ここは第12窟を見るので、割愛。柱のみにが見えるが、中にはやはり仏像彫刻がある。
・第12窟(1115):前窟と同様に三階建てで、仏教窟群中最大。各階の高さは4m弱。前面には四角い柱とバルコニーが規則正しく並んでいる。2階には僧たちへの連絡を書いた掲示板などもある。3階には過去7仏や瞑想・説法の仏が鎮座している。
 第11窟とともにこの二つがこれほど大がかりになったのは、同じ頃に近くで造られていたヒンドゥー教窟の大きさに強く刺激されたためのようだ。が、あくまでも仏教窟は、静かな瞑想、礼拝の場として造られている。
 折しも今はたぶんスクール・トリップのシーズンらしい。礼拝の場所であるが、カラフルなサリーに彩られた女子学生を見れば、仏もほほえむ気がした。

3−3−4 ヒンドゥー教窟
・第13窟〜第15窟:ここは外観見学のみ。写真でも判るように、中もがらんとしていて見るべきものは少ないためだろうか。左上・左右・左下の順。

第13窟 第14窟

 

第15窟 写真順

・第16窟(1145)カイラーサナータ寺院:第16窟はエローラ最大にして、最高の窟と言える。エローラの至宝。「カイラーサ」というのはシヴァ神の住居と言われるヒマラヤの聖山の名前。ひとつの岩を掘り出して造られた。エローラーの石窟寺院群の中央にそびえている。750年から900年までもの年月をかけて造られた。47m×81mの広さがあり、一番高いところで33mにもなる。上から下までくまなく彫刻におおわれているが、その一つ一つが意味を持ち見応えがある。
(以下 神谷武夫氏による)中部インドのエローラーに、こうして南方型の寺院建築様式が導入された。ヴィマーナ(本堂)は水平層が重なる階段状をなし、各層にはチャイティヤ窓が刻まれた。 マンダパ (拝堂)の屋上には丸彫りで 4頭のライオンが彫刻されている。その手前にはシヴァ神の乗り物であるナンディ(牡牛)のための 2層の堂、その両側にはスタンバ(記念柱)が彫り出され、さらに手前に入り口の門がある。これらすべてはひと続きの岩山の斜面から彫り出されたもので、頂上でシヴァ神が瞑想にふけったという神話的なカイラーサ山を、これほどみごとにシンボライズした寺院はほかにない。
この石彫寺院に命を吹き込んだ、質量ともに他を圧倒する彫刻の数々は、多種多様な神々、悪魔、空想上の動物などで、人々を感嘆させずにはおかない。 一例を挙げれば、寺院への入り口の南側にはシヴァ神の妃でライオンの背に乗ったドゥルガー女神が描かれ、水牛の姿をした悪魔の王であるマヒシャと勇敢に対峙している。 この場面は叙事詩 『ラーマーヤナ』 や 『マハーバーラタ』 に基づいていて、悪魔の王を打ち負かすことができなかったシヴァ神とヴィシュヌ神は彼らのシンボルである武器をその女神に譲り、その美しくも残忍な女神は、8本の手を使って四方八方へ武器を投げつけるのである。
ほかにも加えるなら、幸運と美の女神ラクシュミー、象の頭をもつガネーシャ、弓矢を手にする愛の神カーマ、聖なる河の女神ガンガーとヤムナー、などが挙げられよう。 エローラーのヒンドゥ窟では、こうしたモティーフがくりかえし用いられているが、残念ながら戦闘の場面や動物を描いた天井画や壁画は、不完全にしか残っていない。
(以上)

  一通り中を歩いて見てから全貌を見渡すために上に登ってみた。足元が少し危ういが、やはりここまで来てみないと全体の大きさを実感することは出来ない。下からではわからなかった上の方の彫刻もよく見えた。全体を見ても明らかなように、カイラーサナータ寺院を「窟」や英語の「CAVE」を当てはめるのは完全な意味では正当とは言い難いだろう。これまでみてきたものは確かに石をうがいて洞窟状のものを作り、そこを寺院や僧院に仕立て上げてきた。しかしながら、カイラーサナータ寺院の場合は店屋に売っているゾウの置物のように石をくりぬいて作ったもので、「窟」や「CAVE」を当てはめるのには問題はありはしないだろうか。
 それからカイラーサナータ寺院は印度南部系寺院の特徴をもつといわれる。日本でも寺院建築の伽藍並びに「法隆寺式伽藍配置」とか「四天王寺式伽藍配置」といって、地域や年代別の寺院建築の特徴を分類しているように、インド南部の現存する寺院建築と酷似しているという。再び神谷武夫氏の著作を引用すれば、『このカイラーサ寺院は 南方型の寺院建築様式をしていて、しかもモデルとなった石造寺院が 前期チャルキヤ朝の都、パッタダカルに現存しているからである。 南インドではパッラヴァ朝とチャルキヤ朝が 宿命の対決を続けていたが、8世紀半ばにデカンのラーシュトラクータ朝が覇権を握り、両王朝の文化をも我がものにした。 チャルキヤ朝はパッラヴァ朝の都、カーンチープラムの工人を奪って パッタダカルの寺院建設に従事させていたが、ラーシュトラクータ朝はさらにその建築家や工匠を エローラーに連れてきたろうと考えられる。』ということだ。この議論からもわかるように、他の窟が第16窟の模倣といわれる第11・12窟などを除けば(しかもこれらも単に二次元的空間を階層化しただけにすぎない)、いわば二次元的な空間占有であるのに対してカイラーサナータ寺院のそれは三次元的な空間の占有を成し遂げている。
 いまひとつ重要なのは、全体が山車に見立てられているという南方の特徴を具備していることだ。カイラーサナータ寺院のばあい、その役割はおびただしい数の像がそれを担っている。
 ここの写真の注釈は要らないと思うが、下記の写真の最後の横に長い写真の一つ前の段の右の写真だけ解説しておきたい。これはまさしく窟なのだが、寺をくり抜いた岩に登りその帰途見たもの。カイラーサナータ寺院造営のための石工たちの住処だったのだろうか。
・第29窟(1305):一番大きい窟(37.5m×40.5m)。これだけの空間の中を、大きな彫像が囲んでいる。中央には、シヴァ神の象徴としてのリンガが祀られている。リンガを祭る小部屋の外を守る神々の一部は腰の部分まで掘られて独立しているものもあった。「dumal-lena」と地元では呼ばれている。
 この堂は入り口というか、開口部が二か所にある。最初の写真は我々の出入りしたところだが、いま一つ川(に見立てた)側にも出入り口があり、川の女神がそこに入る。モンスーン期間中には東側には滝も出現する仕掛けになっていたらしい。

3−3−5 ジャイナ教窟
  ジャイナ教は、マハービーラによって前6世紀に始められた。マハービーラ以前に23人のジナがいたとされているので、彼は24人目のジナということになる。 ジャイナ教徒は、蟻も殺さぬ宗教。食べるものにも厳しい制限がある。ただ、ジャイナ教というと裸(裸行派、ディガンバラ、digambara)というイメージがあるが、後に白衣を着る一派(白衣派、シュヴーターンバラ、svetambara)が分かれているのだそうだ。
・第32窟(1320):ディガンバラ派の寺。入ると直ぐに大きな象が2頭いる。カイラサナータを小さくしたような形。小カイラサナータと別称される。違うのは、開祖の彫像があること。勿論裸。2階建てで、天井や柱の装飾が見事。面白いのは小カイラサナータというが、本殿は洞窟作りになっている点。つまり、カイラサナータ寺院と仏教窟の形式とを合体させたような拝殿形式をもつ。経済的な理由かはたまた時代的な階層構造のためなのか。ちなみにカイラサナータ寺院は8-9世紀のもので、小カイラサナータは10-11世紀のもの。
・グルリと回るような形で続いて第34窟、第33窟と見て回る。32窟から入ると、2階部分などで、これらはつながっていて、ぐるっと回るように見学できる。これはなにも観光客のためにそうしているのではなく、もともとの構造がそうであり、順番に寺を詣でると形式にもともとなっていたのかもしれない。あるいはそれぞれが機能分化して役割を担っていたのかもしれない。

3−4 昼食(1350〜1445)
 昼は往路にトイレ休憩したホテルのレストランにて。カイラサナータ寺院というか、遺跡入り口から至近。どういうわけか、往路にいた猿はもはや姿がなかった。
 もちろん昼食内容は、またまたカレーです。このころから、少しずつ日本の味が旅行会社より提供され始めた。まずは茄子の漬物と、ふりかけ。カレーで大丈夫というnoriもつい手が出る。

3−5 綿畑
 この時期、インドは綿の収穫期となっている。ずうっと続く綿畑を見ていたら、ガイドさんが、車を止めて実際に見てみましょうということになった。ぐんぐんと勝手に畑に入って綿を摘み始めた。遠くの方で収穫している人も、だからといって慌てて飛んでくるようなこともなく、手を振ってくれた。

3−6 ヒンドゥー教の行列
 車を走らせていくと、オレンジ色の旗を掲げた集団に出会った。ヒンドゥー教のお祭りがあるとかで、お寺にお参りに行く行列なのだ。村の人々が一緒に行く。途中の村の人が合流することもある。列の中程には、頭に神聖な木の植木を乗せている女の子がいる。
 この後もこうした行列にいくつか出会った。

3−7 バザール(1550〜1645)
 洋服や生活用品、野菜、肉、スパイス、靴、ベルト、鍵屋などが雑然と並んでいる。狭い中をオートバイなどが遠慮無く走り抜けていく。クラクションの音がいっそうけたたましい。少し自由に買い物をする時間があったが、我が家は特にほしい物がなかったので、早めに車に戻って皆の帰りを待った。というのも、この地域はイスラム教の人が多くて、思うようにカメラを向けられないからだ。

3−8 ホテル(1700) THE AMBASSADOR AJANTA 連泊
 ホテルは連泊であり、チェックインの作業がない上に早めの期間で、少しゆっくり出来た。またまた洗濯もしたし、風呂にも入った。そういえば、今回はけっこう浴槽があるホテルが多い分、日本人の我々には好都合だった。
 写真はホテルドアマンと。

3−9 夕食(1930)
 昨晩と同じホテル内レストランにて。今日もビュッフェスタイル。ただ、昨日よりもお客が多いせいか、内容的には充実していたように思う。スイーツも沢山あった。写真の球状のものは、カステラを揚げてシロップズ漬けにしたようなもの。手前は、クスクスの蜂蜜和えといった雰囲気のもの。もちろん食べるには覚悟が必要なくらいに甘い。
 明日の朝は早いので、食事をしたあとは明日の予習をして早めに就寝した。