1月1日(木)
アグラ〜タージマハル〜ファティープルシクリ〜ジャイプール

起床(0630)・・朝食(0730)・・アグラ ホテル発(0840)・・アグラ城(0844〜1008)・・タージマハル(1030〜1147)・・昼食(1208〜1325)・・ファティープルシクリ(1437〜1534)・・ジャイプール ホテル着(2015)

13−1 朝
 6時半起床。昨晩は音が全く聞こえ無いわけではなかったが、まあ、気にしなければ何とかなる部屋だったので、ゆっくり眠ることが出来た。
 今日はインドといえばここ、と言われるタージマハルに行く。楽しみな1日だ。世界遺産のベスト10には必ず顔を出す場所だ。
 ところで朝食は、皆一緒にということで待ち合わせてレストランへ行った。2009年元旦ということで、これまた添乗員さんがそれ風の料理を用意してくれた。赤飯に黒豆、田作りにお雑煮まであった。こうしたものは、一時帰国した際にどうやら調達してきたものらしい。実は我が家も、家用に年越しラーメンとお雑煮を持ってきていたのだが、有り難くこちらを頂くことにした。
 出かけるときに、また、ドアマンさんと記念撮影。最初にアグラ城をめざす。今日の観光にはタージ・マハルが含まれるが、午前中の早い時間帯は霧が立ちこめているので、先に対岸のアグラ城にゆくことになった。


13−2 アグラ城(0844〜1008) 202
 デリーからアーグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルによって1565年に着工され1573年に完成した。ただ、要塞として造ったために住み心地が悪く、完成を待たずに1571年、ファテープル・シークリーに新都の建設を命じて、そちらへ移り住んでしまった。
その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーン(タージ・マハルを作った)まで3代の居城となった。
外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。アクバルは赤砂岩を好んだが、息子のジャハーンギールが大理石を好んで使うようになった。
 アクバルによる建造物はわずかしか残っておらず、 むしろ後継者のシャー・ジャハーン帝が城内にも城下にも建物を多く建て、宮殿として充実した居城として復活した。そのシャー・ジャハーンは老後、息子アウラングゼーブによってここの囚われの塔に幽閉された。
その後、アウラングゼーブ帝の時に城壁を二重にし、その間を堀とした。外の堀には川の水を引き込み、ワニがいた。中の堀にはライオンや虎がいたそうだ。こうして万全の防御策をとっていた。ここは、ムガル帝国の権力のシンボルとなった。
 1707年にアウラングゼーブ帝が死去すると、急速に衰退。やがてイギリスの植民地となる。1857年セポイの乱(インド人による反乱)では英国軍のベースとして戦場となり、いくつもの宮殿が改築又は破壊された。たくさんあった宝物は、そのときに持ち去られた。(ガイドさんはこう言ったが、別の資料によると『その前の異民族の侵略の時に、シャー・ジャハーン帝による大理石の宮殿から金細工や宝石、貴石を奪い、調度品を運び去った。 1803年にイギリスの駐留軍がアーグラ城を占領したとき、荒れ果てた宮殿の広間には何ひとつ残っていなかったという。』というのがある。)公謁殿の前には、この戦いの時に戦死したイギリス人司令官コルビンの慰霊碑(墓?・・・セノターフ (棺を模した墓碑)なのだろう)がある。実際問題イギリスが去った現在でもアグラ城の区域のその多くは印度軍の管轄下にある。
 ムガール帝国のイスラム教徒が権力をつかんでいた頃は、宗教間の争いはなかった。イスラム教徒とヒンドゥ教徒との融和をはかり、ヒンドゥ教徒を帝国の要職に登用したりもしたからだ。ところが、イギリスが入ってきてから、イギリスが意図的に対立させた。商工業も壊滅状態になり、人々は農業で生計を立てるようになった。インドにとってはつらい時代であったとガイドさんは語った。
 
13−2−1 アマル・シング門
 一通りの説明を聞いてからそんな歴史を持つ城内へ、南のアマル・シング門から入った。
ラールキラーのラホール門によく似ている。というかあちらもシャー・ジャハーンによって造られたものだから、当然か。
門は他にデリー門とよばれる壮麗な西門が有り、そちらはバザールへ、このアマル・シング門は宮廷地区へと通じた。現在は、こちらの門からしか入れない。

13−2−2 アクバル門
 アマル・シング門を入ると、もう一つアクバルという門がある。アーチ門入口の左右に大筒のような、見張り台がある。

13−2−3 ジャハーンギール宮殿
 アクバルが息子のために造らせた宮殿。左右対称のファサードの上にはチャトリ(小塔)が両端に乗り、赤砂岩の壁面には白大理石の象嵌がほどこされている。
入り口ホールを抜けると中央中庭に出るが、ここはヒンドゥ教の配置パターンにしたがって諸室が囲んでいる。その南北のホールは木造的な柱・梁構造からなり、腕木には木彫的なレリーフ彫刻がほどこされている。
アーチがヒンドゥー教、チャトリがイスラム教式と混在している。

13−2−4 公謁殿 (ディーワーニ・アーム)
 一般の人々用の謁見の間。造られた当初は木造だったが、シャー・ジャハーン帝によって現在のような白大理石による三廊式の列柱ホールとなり、その広い前庭を囲む柱廊も石で置き換えられた。この前庭は宮廷地区と、デリー門からの市街と、そして大モスクとを結ぶ広場でもあって、皇帝はここで市民の訴えを聞き、裁きを下した。
高さ7メートルの花びら形の大アーチが9連もつづき、中央の奥には皇帝の間があり、象嵌で飾られた部屋には一段高く玉座が設けられている。玉座からは両方の門が見られるようになっていた。金の玉座だったが、王冠と共に持ち去られた。風通しを良く造ってあり、空間が広い。庭にはたくさんの噴水を造った。

13−2−5 内謁殿 (ディーワーニ・ハース)
 公謁殿の裏側には、一般市民の立ち入れないマッチ・バワン (魚の館) とよばれる中庭に面して、やはり列柱ホールのディーワーニ・ハース (特別謁見の間) があった。ここで、皇帝は高官や外国使節など重要な客と会った。 かつては中庭に、魚で満ちた大きな池があった。

13−2−6 後宮 (ゼナーナ)
 内謁殿の隣には美しく保たれた四分庭園 があった。草のある所はまるで絨毯のよう。庭園の中央には四角い池のある白大理石のテラスがあり、それはシャー・ジャハーン帝の寝殿(ハース・マハル)。軒下の彫刻はヒンドゥー教式、中には金箔の飾りがのこっている。元々はシャンデリアや絨毯もあった。後にイギリスが修復した。
その両脇には皇帝のふたりの娘、ローシャン・アラとジャハーン・アラのための館が建てられた。金色のベンガル風の屋根をもつのでゴールデン・パビリオンとよばれる。金箔のかごのようだ。これらの館からは、ヤムナー河と対岸の風景が眺められる。
2階はすべてハレム。ハレムとは愛妾達の部屋と思われているが、ここではそうではなく女性の部屋ということだそうだ。母・娘・妻・親戚の女性などが住んでいた、つまり女性の館だという。壁の白い色は漆喰で、そこには石や金を用いて描いた壁画があったそうだ。

13−2−7 囚われの塔 (ムサンマン・ブルジュ)
 八角形をしている。この城では古い部屋にあたる。床の中央には大理石の噴水がある。シャー・ジャハーン帝が息子に幽閉されたと言われている部屋だが、実際には違うとガイドさんは言う。象嵌の彫刻が素晴らしい。金網が付いている。川に面したベランダには柱が何本もある。タージマハルが遠目に見ることが出来るはずなのだが、この日は靄がたちこめていてかなわなかった。

13−2−8 その他
 2階にあがる途中、タージマハルにつながる地下道ですよという所があった。そう言い伝えられているだけで実際に行ったことはないのだという。確かに川を渡らなければならないのだから、無理では?
特別な謁見室。貴重な宝石の石細工がたくさんあった。王の名前がある。黒大理石、金色砂岩、白大理の柱。夕涼みの場所。1階はバザール。2つめの中庭がある。
メモには以上のように書かれていたが、もう、頭がごちゃごちゃになってどの辺りなのかよく整理が付かないのでご容赦。

13−2−9 真珠モスク
 アーグラ城内には大モスクがひとつと小さいモスクが2つある。
大きい方はすべて白大理石でつくられ、モティ・マスジド (真珠モスク) とよばれる。この白亜のモスクはシャー・ジャハーン帝によって 1648年から 1655年にかけて建設され、その白いドームの並びは城内の景観に華やかな彩りを添えている。
これは遠目に見るだけだった。

13−3 タージマハル(1030〜1147) 203
 タージ・マハルは、大気汚染による被害が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが見られる。ということで、ある地点まで行くと電気自動車に乗り換え無ければならない。上の地図の左にあるアグラ城からタージ・マハルに線を延ばしてそのまま反対側に同じくらい行ったところで降ろされた。そして、宮崎ロードという、日本人のお医者さんの名前を付けているという道をタージマハルに向かって走った。(この名称の詳細は聞き逃した。)
 電気自動車を下りて入口となっている東門へ行く。そこでセキュリティーチェック。大きな荷物の持ち込みは出来ない。代わりに、ミネラルウォーターと靴カバーを受け取る。
 しかし、門を入ったからと言って目の前にあの光景が広がるわけではない。
宿坊と説明してくれた建物の間を通ってメーンゲートに出る。そこを通り抜けるとようやく目の前にタージマハールが広がる。
 シャー・ジャハーンが愛する王妃ムムターズ・マハルをしのび、彼女の記憶を永遠に留めるために建設した墓廟である。タージ・マハル廟が完成したのは 1654年で、着工から20年以上の歳月が流れていた。

13−3−1 メーンゲート
 入口にあるメーンゲートは南の大門である。中央にアーチが形の大きなイーワンが開き、左右に2段重ねのアーチ形の飾り窓がある。イーワンの上には11の小さなチャトリ(小亭)が並んでいる。
 中央のイーワンを縁取るように付いている飾りはコーランの一節である。この文字は、下から上に行くに従って大きくなっており、見た目にすべての文字が同じ大きさに見えるように工夫されている。
 門といっても中はホールになっている。そしてそのホールを抜けるといよいよ眼前にタージ・マハルのまばゆいばかりの姿が目に飛び込んでいた。

13−3−2 庭園
 庭園の中央には、13m四方の白い大理石製の池が設けられ、そこから東西南北に水路が通されている。この水路はイスラム教の天国の4つの川を表し、水路と池にタージマハルの姿が映し出されるように設計されている。また、50あまりある噴水からはすべてから同じように水が出るようにも設計されている。が、作者が誰であるのか、公式の記録には残されていない。
 中央の池のところにはベンチが設けられている。そこに故ダイアナ妃が座ったというので人気スポットになっていた。さすがにここは一大観光地で、インドの人もたくさん観光に来ていた。
 写真は一番手前にある椅子でくつろぐjunさん。ここでこんな格好が出来たのは、ムンバイの事件の影響でそれでも観光客が少なかったせいだろう。

13−3−3 全体のバランス
 何の妨げもない空間の中に廟を配してである。この頃になると青空も見え始めたので、絵はがきで見るような光景が目の前にある。タージ・マハルの後ろは川(ヤムナ川)になっており見上げる限りはその方向に夾雑物を見せない工夫がある。
  廟の両側には全く同じ形をした赤砂岩の建物が廟のほうを向いて建っている。どちらも白大理石のドームを3つずつ持ち、西側(メッカ側)はモスク、東側は迎賓館とされているが、実際にはバランス状、廟本体を引き立たせるために造られたのであろうということだ。
  また、4本あるミナレットは2〜3度、外側に倒れている。これは積もった雪が墓の上には落ちないようにと考えてこうなっているそうだ。印度というヒマラヤ方面は別として暑い国のイメージだが、雪も降るというが、この日は晴れ渡っていた。

13−3−4 タージマハル廟の造営
 これを造るために、インド国内はもとより世界各地から工匠や職人を集めた。建築材料も同様で、白大理石はジャイプールから、赤砂岩はファテープル・シークリーから取り寄せた。更に、花模様の象嵌に付いている貴石類については、翡翠・水晶は中国から、トルコ石をチベットから、瑠璃・サファイヤをスリランカから、縞瑪瑙・アメジストはペルシャから、赤瑪瑙はバグダットから、珊瑚や真珠貝はアラビアから、ダイヤモンドはブンデルカンドから集めた。何しろ一つの花に50〜100個もの貴石が使われたというのだ。ということでこの霊廟造営に費やされた総費用は、国を傾けるほどの物であった。これが、排斥された遠因にもなっているらしい。

13−3−5 タージマハル廟
 本体部分は1辺が約100mの方形で高さが5.5mの基壇の上に建てられている。ここに上るときに先ほどの靴カバーをする。地元の人は裸足だ。
 本体は、平面的に見ると57m四方の四隅をカットした八角形の形をしている。中心に大きなドーム、四隅に小さなチャトリがある。
 建物の四方に入口があり、メーンゲートと同じように大きなイーワンの両側に2段重ねの飾り窓がある。 遠くからタージマハルを眺めると、真っ白い大理石の建物にしか見えないが、近くに寄ると、大理石には一面に象嵌細工が施されているのがわかる。イスラム装飾は、大別して幾何学文様と唐草文様に分けられるが、タージマハルでは唐草文様が主に使われている。
 廟の内部では、蓮の形をしたドーム天井でおおわれた墓室に、白大理石のムムターズ・マハルのセノターフ (棺を模した墓碑) が、同じく白大理石のシャージャハーンのセノターフと並んで安置されている。これらの墓碑には、貴石類の組み合わせでコーランの一節が象嵌の花の飾りに囲まれて刻まれている。ただ、ここは暗くてあまりよく見る事は出来なかった。懐中電灯は現地のガイドさんの独占のようだ。また、撮影も禁止。
 右の写真、超広角レンズを使ったので画像は少し奇妙な形をしているが、それでも周りにいる人々の大きさからこの廟のスケールが判るだろう。

13−4 昼食(1208〜1325)
 イスラムの正月料理。ケバブ。勿論カレーはあったが、目先が変わった。
 次のファテープル・シークリーまでは、ここから1時間ほど走る。

13−5 ファテープル・シークリー (1437〜1534) 204
  ファテープル・シークリーはムガール帝国第三代皇帝のアクバルが、シークリー村の聖者の「男子を授かる」という予言が当たったことに感激してここに宮殿を移し、遷都した(1571年から1585年)。
  新都に移してまもなくの 1573年、アクバル帝は西インドのグジャラート地方に遠征して勝利をおさめ、領土を拡大した。 彼はこのように領土を広め、ムガール帝国の基礎を築いた人物だ。凱旋した皇帝はこの勝利を記念して、新都をファテープル・シークリー(勝利の都シークリー)と名づけた。しかしながら、この場所は水が得にくかったため、たったの14年で遷都することになってしまった。
 当時の市街は残っていないが、放棄されたおかげで中心を占める丘の上のモスク地区と宮廷地区が、戦乱にもあわず、そっくり残されている。
 ここも、バスで近くまで行くことは出来ず、麓の街でオートリキシャに乗り換える。入口まではかなりの急坂を上っていく。一般の我々のような観光客が歩くのは一寸無理だ。
 壁の長さは 11.2kmでメインの門は東のアグラ門。我々が入るのは北東側にある正門のナウバット・ハーナ門。入ると右側に造幣局跡、左には国庫跡がある。
  その間を抜けていくと、正面にあるのが広場のような中庭をもつディーワーニ・アーム(公謁殿。一般の人用の謁見室)があり、南側にはアヌープ・タラーオとよばれる矩形の池と皇帝の居室、北側にはディーワーニ・ハース (内謁殿) がある。
 1570年に完成した珠玉の建物である内謁殿の中央には高さ7メートルの柱があり、その樹木のような形につくられた柱頭の上に玉座があった。この玉座からは部屋の四隅に梁状の橋が水平に渡されている。おそらく往事には、ここからアクバル帝は下を見下ろして、階下で行われる議論に加わったり審判をしたりしたのではないかと見られている。文様がびっしりと彫られていて見事である。
 ここで目を引くのは、5層の楼閣パンチ・マハル。頂部にドーム屋根のチャトリが載る。5層のになっていて壁がなく、列柱と床だけの高楼だが、もとは石彫りの透かし壁が付いた侍女達の館だったようだ。1階の列柱は84本有り、上の階に行くほど少なくなっている。
その少し左側にジョード・バーイー宮殿がある。これはジョード・バーイー妃の他に大勢の妃が暮らしていた所。三角屋根はヒンドゥー教、丸屋根はイスラム教の様式。ガイドさんによると奥さんはトゥルシーという植物を庭に植えて、主人の健康を願って毎朝お祈りをするのだという。外側から見ると透かし彫りが綺麗。
 庭園と池を挟んで皇帝の寝所バーブガーがある。3階がベッドルームになっている。夏は下に水を通して涼しく、冬は暖房も入ったそうだ。タージ・マハルとそう離れていないし、丘の上にあるからさぞや冬は寒かったであろう。
 裏には大きな人造湖を造った。そしてそこにある塔のような物は象の墓と言われているのだそうだ。また、こんな言い伝えもあると現地ガイド氏が教えてくれた。後にヒンドゥー教の王が入場し、破壊し燃やした。為に、木曜日には魂の火が燃えると伝えられ信じられている部分もあるのだと。
 帰りもオートリキシャに乗って戻る。約束していたのがなかなか来ないので、そこにいたのに乗って帰る。途中ですれ違った運転手は、「あれ?」というような顔をしていたが、来なかったおまえが悪いと言いながら知らんぷりをしていた。

13−6 道中 約200km
 今日のすべての観光を終えて、後は移動。新年早々に一度に3つの世界遺産を見て回って、本当ならすぐにでもホテルに入ってゆっくりしたい所だが、200kmもの長距離ドライブとなる。その道中で目に付いた物・・・
○菜の花畑
ここも菜の花の最盛期。一面真っ黄色だで見事。途中で色鮮やかな衣服の女性達が畑の中を歩いているのを見かけたが、菜の花畑の中でも栄えるのではないか。
○蜂蜜
ミツバチの箱が並んでいるのを見た。こんなところで、と思ったが、これだけ菜の花が咲いているのだから、きっと美味しい蜂蜜がとれるのだろう。
○その他
高い煙突はレンガ工場のもの。野生のクジャクや荷を運ぶらくだなど、日本ではとうていお目にかかれない物を目にした。

13−7 ホテル着(2015)
        HOTEL CLARKS AMER ★★★★★ 409号室

 ※バスタブ有り(ただしお湯は時間差を付けないと駄目)、ドライヤー有り、コーヒーメーカー有り、部屋の鍵調子悪し(カードキー)
  何度トライしても、またフロントで二度も入力し直してもらっても、上手くカードキーは作動しなかった。ホテルのボーイは、何度もトライしてはダメで、一発勝負のようのこという。その上カードに息をかけこすって開けてみせる。どうも今回の旅では後半のホテルは外れが多い。

13−8 夕食(2030)
 ともかく到着が遅かったので、部屋に荷物を置いたら直ぐにレストランへ集合となった。
 夕食はビュッフェでもちろんカレー中心だった。正月の夕餉には、添乗員さんが作った、ちらし寿司が出た。お米はたぶんアルファー米だろうが、異国の地で食べるそれは、何にもましたごちそうだった。何年かぶりで、ピンク色のでんぶを食べた。たくあんも出て、これまた郷愁を誘う味で、味わって食べた。日本人であることを日本人の持つ舌を持った人間だと言うことを、強く実感させられた。