12月24日(水) ビーマベトカ&サンチー

起床(0600)・・朝食(0700)・・ボパール ホテル発(0837)・・トイレ休憩(0945)・・踏切・・ビーマベトカ(1008〜1120)・・トイレ休憩(1125〜1152)・・昼食(1404〜1508)・・考古学博物館(1510〜1555)・・サンチー遺跡(1600〜1730)・・ボパール ホテル着(1845)・・夕食(1930)

5−1 朝
 朝はいつもの通り、早めに起きて身支度。その後朝食会場へ。時間的にはそう早いことはなかったのだが、まだ準備段階だった。それでも我々よりも早い外国の人がいたので、食べられないことはないようだ。
 トーストを焼いて、オムレツとお好み焼きのような物を焼いてもらった。言葉は通じないので、お互いに身振り手振りで話した。結構通じる物だ。
 出発は予定よりやや遅れ目。今回は人数が少ないということもあるのだろうけれど、結構時間にルーズな点があり、予定通りということはこの後あまりない状態が続いた。 

5−2 トイレ休憩(0945)・・踏切・・
 1時間ほど走ってから、トイレ休憩となった。目的地は直ぐ目の前なのだけれど、そこにはトイレがないということでそうなった。ここで今度はjunが大失敗をやらかした。トイレのちょうど水だまりの所に腕時計を落としてしまったのだ。せめて周りに落ちてくれれば拾えた物を・・・。
 そこは踏切に接したところだったので、列車が通るたびに何人かが大騒ぎしてカメラを向けていた。踏切はいつまでしまっているのか全くわからないのだけれど、車は皆おとなしく待っている。ただ、人は様子をうかがいながら遮断機を挙げて通り抜けていった。列車が通り過ぎてしばらくしてから、何の前触れもなく遮断機が上がった。
 
5−3 ビーマベトカ(1008〜1120)198

大きな地図で見る
 ビーマベトカはボパールの南45qにある。1850年頃に発見された、750の洞窟とそのうちの500に壁画があった。時代は大きく、
A(金石併用時代 7000〜1万年前 ビーマベトカでは一番新しい時代のもの)、
B(旧石器時代中期 5000〜7000年前 人も描かれるようになり逆さ槍を伴った狩りの様子やダンスをしている所など躍動感が表現されている絵などがある)、
C(旧石器時代上期 3000年前 バイソンや虎、サイなどが縁を赤で表した線画が中心)
の3つに分けられる。古いものは壁画と言うより線画。色は、自然のものを使っている。緑は動物の骨などのミネラルから、赤は木の葉から、白は木の根から作り出している。
・No.1:白象。指を使って描かれた。足は指紋をスタンプのようにした。ビーマベトカを代表する岩絵。アンテロープ(牛のような動物)を捕まえる人が描かれている。
・No.3:両側にそびえ立つ大きな岩の壁にある。線画でハンティングの様子。山羊を狩っている場面だ。手をつないで山羊を囲むようにして追い込み、手で捕まえる様子が描かれている。他に水牛の狩りや、猿、クジャクなどの動物も描かれている。人の手形もあった。たぶん作者のだろうということだ。現代人に比べると小さいし、指も短く子どもの手のようにも見える。
・3000年前の男性の骨が見つかった穴もある。(下左)
・ラクダ岩が見える。この様に岩をものに見立てて名前を付けるのは、日本だけの物ではなかったようだ。(下右)
No.6Bの時代。白い色で描かれている。太鼓などの楽器やダンスをする人など。特にダンスをする人のステップは皆同じ。カップルもいる。他にも親子や水牛などがいる。
・No.7:狩りの絵。馬に乗って戦いに行く様子。武器を持っている。Cの時代のものもある。赤い人や動物など赤い色も登場。
・覆い被さっている大きな岩の下にもぐり見上げるような所にある壁画。Bの時代頃の物。猫や鶏、朝日やサソリなどそれぞれに関連はなく描きたい絵を描いている感じ。山羊の群れ、犬、馬など数が多い。Cよりも古く最古の線と言われる物もある。
・No.8:赤い線画。Bの時代。戦いに出る様子。飛んでいるクジャクの姿。
・ビューポイントに出る。目の前に広がる岩の中に、亀石・犬岩など大きな岩が見られる。ここでも名前が付いている。次へ向かう途中の岩に、赤い線で男性の姿、三角形が二つ重なっているのが見られた。
・No.4:ズーロック。ここのハイライトの壁画のひとつ。動物園のように沢山の動物が描かれていることからこの名がついた。ここは危険のためでなく、保護のために柵がある。それだけ有名な場所と言うことだろう。人の乗った象、トカゲ、斑点のある鹿、水牛の群れ、網にかかった鹿、など、いろいろな種類の動物が数多く岩一杯に描かれている。大きいものは、両手を広げた位もある。いくつもの時代に渡って描かれている。これは、この岩陰を住居に定めていた一家が、何代も何代も続いて生活し岩をうがいて彫ったことを意味しているのだろうか。
・チークの葉から赤い色を作るのだと言って実際に見せてくれた。この辺りにはチークの木が多い。葉っぱを指でこするようにしていると確かに指先が赤くなってくる。
・No.2:赤い馬と人。馬や人の線は、骨とか筋肉を表そうとしているのではないかということだ。手形がたくさんある。他にも描かれていたが、長い間に流れ落ちてしまったそうだ。

5−4 トイレ休憩(1125〜1152)
 先ほどの所でまたトイレ休憩。しばらくお茶を飲みながら過ごしているとまたもや列車が通過。何人かが急いでカメラに飛びつく。さっきは電気機関車に牽引されていたが、今度のはディーゼルだった。

5−5 昼食(1404〜1508)
  オルチャを通り抜け、サンチーまで行って昼食。次に出かけるサンチーはオルチャを挟んで反対側にある。この遺跡二つを結ぶ直接道路も建築中とのことだ。
 最初に印度風のトマトスープが出た。列車の中でもちょっと味わったものだが、トマトくさくない。あとはカレー料理。デザートに初めてアイスクリームを食べる。おなかが心配だったが、慎重な添乗員さんが何も言わないので、皆かぶりつく。美味しかった。


5−6 考古学博物館(1510〜1555)
 まずは考古学博物館へ。カメラも大きな荷物も持ち込み禁止。
・第1室(入って直ぐの部屋):正面にアショカ王の石柱の上に乗っていた4頭のライオンの像。紀元前3世紀のオリジナルのもの。ライオンがほえるように口を開いているのは、仏教の教えの力強さを表している。アショカ王の柱の一部もある。
・第2室:40の仏塔にあった仏像が14体並んでいる。半数以上がイスラム教徒によって頭部が破壊されている。頭部の残っている立像の体のバランスは飛鳥大仏とよく似ていた。ここにも4頭ライオン。このライオンは蓮の花の上に乗っており、頭上には法輪をいただく。孔雀はアショカ王の時代に国鳥と定められ今日まで続いているので、孔雀の彫刻がある。
  1mくらいの小さいストゥーパ。ストゥーパは3つの部分に分かれ、土台はアース(地球)、中央はコスモス(宇宙)、天蓋はヘヴン(天国)。コスモスの部分に4体ほどの仏陀が彫られていた。ストゥーパを造るのは、1つは記念碑として、2つめは高僧の遺骨を納めて祈りの対象とするため、3つめは自分の願いのためと言う理由があるとのこと。
・第3室:仏陀の頭部が多数並んでいる。破壊されて捨てられていたものを集めた。これらの仏陀の目は瞑想状態にあり半目をしている。
他に鉄の農具もある。板に彫られたヒンズー教の神像は、この地域のヒンズー教の寺院から出土したもの。
・第4室:修復の写真が並んでおり、発見当時から今までの様子が分かるようになっている。発見当時は森の中にあり、瓦礫の山のようだった。ストゥーパは108もあり、僧院も51ほどあった。ただし今はストゥーパが3つ残っているに過ぎない。
・第5室:12世紀後のヒンズー教の神々の像が並んでいる。

5−7 サンチー遺跡(1600〜1730)199

大きな地図で見る
 サンチーとは平和という意味。シャンティーというヒンズー語から。1818年に発見されたこの遺跡は、50を越えるストゥーパや僧院、その遺構などから成る。遺跡の中央にあるストゥーパはマウリヤ王朝の3代目アショカ王(在位前273年〜前232年頃)により建立されたストゥーパの原型といえる物。ただし、現在のは拡大改修された物。サンチーの丘は、これより11〜12世紀まで各王朝の庇護下で仏教の聖地として大いに栄えた。
ところでここの入場料も、インド人(とバングラデシュ、パキスタン、スリランカ、ネパール、ブータン、モルディブ国籍の人)は10ルピーだが外国人は何と25倍の250ルピーも取る。外人が一人はいれば、インド人の25人分だ。このばかばかしい値段の格差を、インド人自身が恥ずかしいと思うようにならなければならないだろう。

5−7−1 第1ストゥーパ
 東西南北に門がある。中央のこんもりした山がストゥーパで紀元前3世紀のマウリヤ朝の時代のもの。当初(アショカ王がそもそもは建立した)はレンガ積みで現在の約半分の大きさだったが、シュンガ王朝期(前187年頃〜前151年頃)に石を積んで拡大した。周りの欄楯(らんじゅん)という石の柵は紀元前2世紀のもの。直径は約36.6mで、高さは約16.5m。欄楯の四方にある門(トラナ)は紀元前1世紀のもの。このトラナの柱と梁には本生図や仏伝図、仏教説話など沢山の彫刻が施されている。これは砂岩で出来ており彫刻がしやすかった。釈迦の教えや姿は、小乗仏教の時代なので、仏像ではなく、蓮の花やストゥーパ、僧院、菩提樹などのシンボルで仏を表していたので、イスラム侵略時にも破壊を免れた。

・北の門:当時は赤い色で彩色されていた。一番上の法輪の一部が壊れている。一番上の横棒には、5つのストゥーパと2つの菩提樹が並んで彫られている。これは仏教の7つの教えを示している。2段目は菩提樹が7本。7人の仏を表している。3段目は仏陀が出家して森へ向かっていく様子を表している。それぞれの両端に渦を巻いたような模様が見られるが、これは、仏陀の教えには終わりがないことを表している。縦の柱にも右側のものには、祇園精舎や仏陀の説法、涅槃などが、左側には僧院やアショカ王が彫られている。周りのトラナから続く欄楯が3段になっているのは、過去・現在・未来を表しているから。

  裏側には象や孔雀などの動物が多い。また、2段目には悟りを開く前の悪魔の誘惑の様子もある。
・東の門:マンゴーの木の下にいる天女(ヤクシー)が有名。体の線が美しい。裏側には、7つの菩提樹、いろいろな動物の祈り、像の尊敬の念などが見られる。
・南の門:一番古い門。一番上は仏陀の誕生の様子、2段目はアショカ王の参拝の様子、3段目は仏陀の誕生を祝福している精霊達の様子。縦の柱にはサールナートの説法の様子も見られる。裏側には、涅槃後の、遺骨を巡る人々の争いの様子が彫られている。結局は遺骨を8つに割ることで収拾した。
・西の門:一番上は7人の仏。勿論ストゥーパと菩提樹で表している。2段目はサールナートの説法。しょてんほうりん?。3段目は象たちが仏陀に尊敬の念を表している様子。裏側は南の門と同様、全て人々の争いの様。
かように、トラナの面という面すべてが表も裏も彫刻で埋め尽くされている。ジャータカ物語の絵画彫刻版と言ってもよいような様相の、芸術作品になっている。なおこの時代は、釈迦そのものは表現されてはいない。いわゆる仏像はない。釈迦は、菩提樹やスツーパで代替表現されているので注意が必要。

5−7−2 僧院跡
 いくつかの僧院の後が見られる。第1ストゥーパの下に見られる大きいものは紀元前3世紀のもの。ため池も見られる。

5−7−3 第3ストゥーパ
 直径は約15m。第2ストゥーパとほぼ同じ大きさ。シュンガ王朝期に建立された。当時から門(トラナ)は1つしかなかった。トラナにはヤクシャ(森の精霊)が遊んでいる様子やアショカ王のお祈りの様子などが見られる。

5−7−4 第2ストゥーパ
 第2ストゥーパもやはりシュンガ王朝期に建立された。アショカ王時代の3人の高僧の名前を記した舎利容器が発見された。第1から500メートルほど下った所にあるとのこと。行きに10分帰りに15分といわれ、自由時間がわずかに30分ではあきらめざるを得なかった。
  そこで帰路に第2ストゥーパが遠望できる位置でバスを止めてもらった。第2には囲いは残されているが門(トラナ)はない。元々存在しなかったらしい。説明では第1が一番古いストゥーパということだったが、形式的な盛り上がりからすれば第2が一番古い気がした。(このあたりの解説はここが詳しい)

  ところで・・・このサンチーの遺跡で、世界遺産サイト訪問数が199になった。200まであと一歩。リーチとなったのだ。

5−8 ホテル着(1845)
       NOOR US SABAH PALASE ★★★ 205号室

 連泊なので、昨日と同じ。新たにミネラル水が置いてあった。もちろん洗濯に今日も精を出したことは言うまでもない。

5−9 夕食(1930)
 もちろん今日も、ビュッフェではあるが。メインはカレーであることに変わりはない。最後に果物とアイスクリームが出た。果物の方は未だ手を付けるのをためらったが、アイスクリーム(こっちの方が危ないかも)は昼も食べたので、大丈夫だろうと平らげた。クリスマスイブだが、もちろん七面鳥はない。