2007年12月27日(木)

テルアビブ 未明(カイザリア)(メギド)ハイファ
■着後、ホテルへ向かいます。 (ホテルで休憩)
■朝食後、地中海に面した港町、ハイファへ向かいます。
■途中、カイザリアに立ち寄り、ヘロデ大王が築いた水道橋、ローマ時代に建築された円形劇場にご案内します。また、ハルマゲドンの舞台、メギドにも立ち寄ります。
                                          ハイファ泊    朝昼夕

2−1 ホテルにて TAL(タル ホテル)505号室
 空港からはバスに乗って30分弱でホテルに到着した。ウエルカムドリンクもこんな時間帯なのに出してくれた。おそらく慣れているのだろう。
 部屋に入ってから、一泊分はもしもの事があってもよいように順のリュックの中なので、簡単な荷物の整理をして、その後風呂に入って疲れをとってから、今日の予定の若干の予習をして就寝。

2−1−1 朝
  ぐっすりと眠れて心地よい目覚め。二人とも目覚ましよりも早く起きた。しばらく荷物の整理などをしてから朝食会場へ。バイキング(ビュッフェ)方式なので、好きなものを選んで食べるのだが、種類はそう豊富とはいえなかった。味はそう悪くはなかったが、何しろ昨日は機内で沢山食べているので食は進まなかった。

2−1−2 出発 1000
 定刻前にはほぼ全員が揃い、青空の下、気持ちの良いスタートとなった。
  バスの座席は、前に2列を指名にして、外は自由席というので、我が家は一番後ろの定位置を確保した。今回のバスは、後ろのドアが、中央ではなく後部にあるので絶好の場所といえる。

2−2 カイザリア 1042〜1230
 カイザリアは、紀元前3世紀にはフェニキア人の小さな町であった。それを紀元前22年から12年間かけて、ヘロデ大王が大きな港町に改築した。ヘロデは猜疑心という病気(後述)のほかに、巨大土木建築工事が好きだという病気があった。後に訪れるマサダも、嘆きの壁のみ残るエルサレム神殿の大改築も彼の手になる。
 ヘロデの死後はその息子のアルケラオスらに引き継がれたが結果的にユダヤ王国はローマの直轄地となった。イザリアにはそれ以来約500年問、ローマの総督府が置かれた。
 ユダヤの正当な王朝であったハスモン朝を打倒したヘロデ大王は、もともとユダヤ人ではない(イドマヤ人)のにユダヤの王になったので、ユダヤの人々の尊敬は受けられなかったのだそうだ。彼は彼なりにハスモン朝の血を引く者を娶ったりもしたのだが、うまくはいかなかったらしい。そこでローマ皇帝と協力体制をとり、ユダヤ人に厳しく当たったという。ハスモン朝関係者の血を絶やしたとも言われる。これは猜疑心の固まりのような彼の性格にもよるところらしい。なおカイザリアという名は、ローマ皇帝(カエサル)という意からつけられた。カエサルはローマ皇帝の別称。
 新約聖書では、使徒ペテロがカイザリヤの百人隊長コルネリオに伝道し、異邦人に初めて福音が伝わったこと(使徒行伝10章)、使徒パウロが2年間この地に幽閉された(この時に沢山の手紙を世界各地の教会宛に書いた)後、上訴するためにローマに出帆したことも記されている(使徒行伝27章)。特にコルネリオへの伝導は、初期キリスト教がユダヤ教の一派から(すなわちユダヤ人の宗教から)世界宗教への第一歩を踏み出したエポックメーキングな事象であり、ここはそれが行われた都市と言うことになる。
 その後、13世紀後半にマムルーク朝(イスラム王朝)によって壊滅させられた。
 またここにはキリストの生涯についても重要な物が遺されている。置かれている物ははレプリカなのだが、福音書にはキリストが死刑になるに当たって当時のローマ総督のポンティオ・ピラトの名前が出てくる。
 一通りの説明を受けてから次のような順番で見て回った。
円形劇場→ローマ総督邸→井戸→トイレ跡→ヒポドローム(競馬場)→円形闘技場→サケルム(戦いに出る人がその前夜を過ごす所)→高級住宅街→公共浴場→倉庫→十字軍の街
  写真は、上から円形劇場・後に闘技場に改修されたピポドローム・ローマ総督邸跡(当時より海岸線が浸食されているのが分かる)・ピラトの名前のある碑文(2行目はPONTIVS PILATVSとかかれている)・十字軍の時代の要塞。 

2−2−1 円形劇場
 この劇場はヘロデ大王によって建てられたものであるが、何回も修築工事されている。一番下の石のみオリジナルで、後は3世紀に復元されたもの。劇場の直径は約170mあり、その頂点までの高さは約30m。ローマ劇場の特徴として、半円であること、舞台の後ろには大きな壁が造られていて、今のように海は見えなかったことなどが説明された。5千人くらい収容されたそうだが、崩れている石組みの一部から、もしかしたら3階建てではなかったかとも考えられているのだそうだ。そうなるとゆうに1万5千人もの収容能力があったと考えられるとのこと。
 ここで演じられたのは、ギリシアに比べると一般大衆受けのものが多く、中には下世話なものも(恋物語など)あったとか。劇場の造りだけでなく、内容も違ったんですよと言う説明は面白かった。
 またこの近くにはいくつか石造物が置かれていたが、そのうちの一つに石棺があった。面白かったのは、石棺の側面にはその人の名前などが書かれるが、骨だけになると取り出して使い回したということだ。

2−2−2 ヘロデの宮殿
 海に面してそれはある。ローマ時代に総督府が置かれ、代々の総督がここに住んでいたのだが、かのイエスに処刑命令を出したピラトもここにいたということが、残された石碑に書かれていた。本物は、イスラエルの博物館にあり、これはレプリカ。しかしながら。これでピラトが実在の人物であったことが傍証されたというわけで、キリスト教史を初めとして非常に重要な意味を持つ。
  石の並べられた様子で当時を想像しながら海の方へ行くと、水源となる井戸があった。
 そこから先は海になるのだが、かつてはそこも宮殿だったのだそうだ。海の浸食で、今は海底に眠っている。同様に、当時の港の岸壁も海の中で面影を残していない。現地ガイドのIさんによればスキューバダインビングをすれば見えると言うが、透き通った海面からは判じ得ない。

2−2−3 競技場
 この競技場は、長さ460mもあり、当初はベンハーのような戦車競技をしたそうで、最大3万人も収容できたそうだ。折り返し地点は、わざと回転しにくいように邪魔な柱などがあったそうだ。映画「ベンハー」の競技場面は映像そのものはローマでとられたが、ここカイザリアが舞台とのこと。帰ったら早速チェックしてみよう。
 時代が下ってくると、戦車競技だけでは人を集めることが出来ず、半分以上が高級住宅地として売られて、残された三分の一程度の広さになってしまい、9千人程度の規模になってしまったとか。そこで行われたのは、映画「グラディエイター」に見られるようなプロの闘技。人間対人間の場合もあるし、人間対猛獣の場合もあったそうだ。更には、囚人対猛獣、キリスト教徒対猛獣、こうなるともう闘技ではなくて見せしめだ。
 競技場の中には、これらの人々のために、神殿が設けられた一角があり、戦いの前に祈る場を与えたというが、何をか言わんや、である。

2−2−4 ローマ時代の高級住宅街
 高級住宅地は、街として区画されポリスの形態をとっている。カルド(南北の道路)やデクマヌス(東西の道路)といったお馴染みの通りの名前もある。
 これら住宅の床は、きれいなモザイク画にあふれている。ほとんどが幾何学模様でこれといった特徴はなく、各家庭で自由に造ったらしく模様に統一性はない。それだけに様々な模様が見られる。

2−2−5 公衆浴場
 住宅地の中にある公衆浴場はとても広く、いろいろな工夫がなされていた。中でも、壁に蒸気の通るパイプを通して部屋全体を暖めるものなど初めて見るものだった。

2−2−6 十字軍の要塞
  倉庫群を抜けて要塞を見る。これは13世紀に建てられたもので、ローマ時代の大理石などを再利用している。この要塞が実際に十字軍に使用されたのは、1218〜65年の間だけ。ずいぶんと短い。
  城壁には敵の攻撃から身を守るために様々な工夫がなされていた。空堀や二重になった城壁、入口の石落としの隙間などにそれが見られる。下に反り返るように造られた城壁など、日本の城の造りと共通している。人間の考えることはいずこも同じと言うことか。

2−2−7 神殿の丘
 ここは一つの宗教だけでなく、その時の宗教施設が次々と建てられたとか。ローマ時代は時の皇帝に捧げる建物であり、ビザンチン時代は教会でありとその時代の権力者の要求で造り変えられた。

2−2−8 要塞の門(昼食後1240〜1445)
 昼食は要塞の中のレストランで食べたので、順番が逆になるがこの項目をここに入れた。
 この門は、直角に二度曲がらなければ中に入れないように工夫されている。入口には当然石落としの穴が開いている。ゴシック初期の造りになる。

2−3 昼食 port cafe 1230〜1340
 海沿いのレストラン。メニューは、パスタ、ピザ、ラビオリ、サラダ。
 予約はしてあったはずなのだが満席状態で、しばらく外で待たされた。出てきたのはイタリア料理。それも一人一人の盛りつけではなく、大皿に盛ってあるのを自分の皿に取って食べる形式だった。

2−4 導水橋 1355〜1410
  海岸に面して、ローマ時代に使用された2つの導水橋がある。ヘロデ大王の時代に造られたものと考えられる。最初に写真の奥の方、山側の導水橋ができた。1本だけでは不足して2世紀になるとそこへくっつけるようにもう1本造った。飲料として、農業用水として、人々の生活に欠かせない飲み水は遙か遠くカルメル山の麓の泉から引いてきた。
 さらに問題が起きた。地盤沈下などがあって勾配がうまくとれなくなった箇所が出てきた。迂回したりしもうまく行かないところは、導水橋のかさ上げをしてこれに対応した。二枚目の写真にはかさ上げした部分が写っているのが分かるだろう 。
 ちなみにこの導水橋はこの後海に消えている。当時の海岸線より今は山側にあることがここでも分かる。

2−5 メギド 1500〜1620 世界遺産
  メギドは新約聖書の「ヨハネの黙示録16章の16」で世界の終末に際して善と悪との最終決戦が行われる場所としてハルマゲドン(ヘブライ語でメギドの丘の意)の名前が記述されていることから、ハルマゲドンの舞台と言われている事で有名。何故そうなのかだが、これは、第一にはヘブライ語で丘はハルといい「ハル」−「メギド」(Har Megiddo)が転じてハルマゲドンになったと言うことと、第二には古代から交通の要所(エジプト−アッシリアを結ぶ結節点)であって大きな戦いの舞台としばししなったことに由来するという。我々日本人にとっても、気分のよくない土地としての記憶が脳裏に残る。一時期オウム真理教がサリン事件等で地球の最後をハルマゲドンとして騒ぎ立てた記憶が残っているからだ。
 上の写真は英語版Wikipedia掲載の物。クリックすると拡大する。
 メギドはイスラエル北部のイズレル平野の中央部に位置する、高いところでは60m以上ある約6万平方メートルの大型の遺跡丘である。英語では、テル・メギドと呼ばれる。テルというのは、日本語訳すると「遺丘」となる。新石器時代から鉄器時代の層の殆どがある。何れにせよ紀元前6世紀には居住の跡が確認されているテル(遺丘)である。
 紀元前2000年代にはカナン人の都市として、また紀元前1000年ごろにはソロモン王の重要な都市としてメギドが登場する。メギドのテルはイスラエルでも最大級。
 この遺跡の北部では前3000年頃に聖域が設けられ、 前2650年〜前2350年の間に直径8m、 高さ1.4m程の遠景の祭壇と3つの神殿が設けられたとされる。中期青銅器時代以降の防壁と門の遺構も重なって発見され、ソロモン王の時代には6つの部屋を持っていた城門(ソロモンの城門)が発掘されている。
※詳しくは ヘブライ語聖書の史実性―テル・メギドでの発掘調査から―を参照するとよい。また写真および映像によるツアーはそれぞれをクリックするとよい。

2−5−1 全体像
 まず博物館に入って、地図を見ながらメギドの地域・地形的重要性の説明を、ソロモン時代のメギドのテルの模型を見ながら遺跡の概容などの説明を受けた。
 この場所は古代からメソポタミアとエジプトを結ぶ国際的な通商路「海の道」の要衝で、多くの戦争が行われてきた。この地を押さえることが戦略的にも大事なことだった。
 有名なものでは、紀元前1479年ころユーフラテス川まで侵攻したエジプトのトトメス3世の軍をカデシュ王の率いるシリアとの連合軍がメギドで迎え撃ったメギドの戦い。この戦いでエジプト軍が勝利し、エジプトの支配下となった。
 今までの発掘で青銅器時代からペルシャ時代までの居住層が20ほど見つかった。このほかにも初期青銅器時代の祭壇、アハブ時代の厩舎、大規模な水道トンネル、ソロモン王時代の城門などが発掘されている。併設博物館にあった模型の上記写真は約倍に拡大される。方角はほぼ右が北。

2−5−2 青銅器時代の階段
  外へ出ると歩いている階段は青銅器時代の階段ですよ、と言われた。ええっ、青銅器時代っていつ?石器時代の次の時代で、地域によってはない。日本は鉄器と共に伝わってきたために、青銅器時代と区分されることはない。その上を歩いているのかと思うとすごい。

2−5−3 北の城門
 これも3500年位前のもので、青銅器時代と考えられる。こうして年代を推し量るのに、昔は土器などの破片から推測したそうだが、今は「炭素14(生物は生きている限り一定の割合の炭素14(放射性元素)を吸収していて、 死と共に一定の割合で壊変していく。この壊変の割合の測定によって死期からの年代が測定できる)」というもので判定するのだそうだ。科学は進歩している。

2−5−4 ソロモン王の城門
  続いてソロモン王の登場だ。ソロモン王が重要な砦として作ったと言うだけにケースメート門(三重の門)で頑丈な構造になっている。
 現在は片側しか残っていないが、左右にそれぞれ3つの部屋を要していて三重としていた。
 ここは重要な建築物という認識からだろう、復元が試みられており、基礎部分のオリジナルのところとそれから上に積み上げられている復元部分を明示している。この形式はこれ以降の遺跡においてもイスラエルではしばしば見られた表示方法だった。

2−5−5 アハブ王の町と城壁
  アハブ(在位:紀元前869年〜紀元前850年)はイスラエル王国(北王国)の7代目の王。フェニキアのシドン王の娘イゼベルを妻に迎えて、異国文化を導入し、象牙の家を建てるほど繁栄した。メギドで発掘された「ソロモンの戦車町」と言われる遺跡は、このアハブ王の建設した要塞都市と考古学上、判明している。
 アハブ王に関してこんな話がある。「ナボトの畑事件」。
 「アハブ王のイズレエルの離宮の隣に、ナボトの葡萄畑があった。アハブはその土地を菜園にしたいと思い、譲ってくれるようナボトに頼むが、農民のナボトは王の申し入れを断る。アハブは王としての面目丸つぶれで、腹を立てたが、さりとて強制収用に踏み切れずにいたが、王妃イザベルは、当然のことのように王権を利用し、ナボトの悪をでっち上げ、偽証させて、ナボトを死に追いやり、まんまとその土地を手に入れた。
 晩年、アハブ王は、娘が嫁入りしたユダ王ヨシャファトと同盟して、アラム(シリヤ)と戦うことになった。アハブ王は滅びを予言したミカヤの言葉に不安を覚え、敵の目から逃れるために変装していたが、皮肉なことに流れ矢に当たり、戦死してしまった。」かように旧約聖書(以下言及はタナハTankhを用いる)ではこれを王妃イザベルの異教導入による多神教化の批判に用いている。
 この城塞は一部が残っていたが、二重の分厚いものになっている。

2−5−6 アハブの宮殿
  石がゴロゴロしているだけでその大きさや造りを想像するのはつらい。

2−5−7 タボル山
  肥沃なエズレル平野の向こうに小高い山が見える。588mのお碗を伏せたような山だ。「変容の山」と呼ばれる。それは・・・
  タボル山において、イエスの衣は真っ白に輝き、その右と左にはタナハ全体を象徴するモーゼとエリヤがいた。つまり旧約(古い契約)における神の言葉をすべてこの光輝くイエスが担っている、神の言葉はすべてここで実現したということだ。これを目撃したのは、ペテロとヤコブとヨハネ。最後にゲッセマネに同行したメンバーだ。

2−5−8 神殿地帯
 いくつもの神殿がその時代に合わせて造られていた。生け贄の台と思われるものもある。


2−5−9 穀物貯蔵庫
 まいまいず井戸のように見える深い穴は、当時の穀物倉庫と考えられる。
 写真では分かりづらいと思うが、上3分の2の左からなだらかにおり、やがて急な階段がつけられているのが分かるだろうか。深さは7メートルほどあり、紀元前700年代、アッシリアが支配していた頃の物と想像されている。

2−5−10 ソロモン王時代の厩舎
 何頭もの馬をつなぐことが出来、かいばが食べられるような石の餌桶があり、則は当然馬の代わりにモデルとなった。
  ガイドさんはソロモン王の時代のものと言っていたが、別の資料ではアハブ王の時代と書かれている(現地の資料もソロモン治代と書いている)。
 ここに平行に5つの厩舎が並んでいて、全部で150頭の馬を収容することができたらしい。

2−5−11 地下通路
 水を求めて泉へ行く通路が地下を通っている。平和なときには地上から泉へ行ったそうだが、戦いの時には、この地下通路を通って泉へ行ったのだという。上の図で説明すると、CITY WALLと書かれている部分が城壁部分。この右側が場内。右から降りていく階段があるが、これが場内から泉へ至る道。水平になったトンネルを抜けて左下まで水を求めていく。
 そこへ到達するまでには、約190段の階段を下りて行く。暗い上にかなり急なので怖い感じだ。階段を下りきると横に伸びるトンネルを進んでようやく泉に着く。泉の水はかなり干上がっていて、今はほんのわずかその名残をとどめるに過ぎない。また来た道を戻るのかと思ったら、帰りは平和なときの階段を上ったのでほっとした。こちらは約70段だった。
 さていったいこの泉まで水をどうやって持ってくるかだが、これは平和な時に、春の洪水時期に壁を開けて鉄砲水を利用して水源を確保し、いったんことあれば給水側を閉鎖し対応した物と思われる。何れにせよこの遺跡最大の見せ物だ。ここを通らないとこの遺跡に来た意味は半減するだろう。

2−6.ホテル 1708 Crown Plaza HAIFA 624号室
 ウエルカムドリンクを頂いて、部屋に入る。今回のホテルで随一のアメニティグッズが充実していた。
 ハイファの街は夜景がきれいだというので、9階レストランの夕食を楽しみにしていたのだが、急に3階に変わってしまい残念。写真だけ取らせてもらった。