2007年12月31日(月) 快晴後曇り 最高気温20℃

ラモン渓谷 アブダット エイラット
■朝食後、紅海に面したイスラエル最南端の町、エイラットへ向かいます。
■途中、ネゲブ砂漠の深さ500メートルの巨大な陥没地ラモン渓谷にご案内し、その後、ナバデア人の隊商都市アブダットを見学します。
■エイラット着後、透明度抜群の紅海の海底がご覧いただける、水中展望台にご案内します。
                                        エイラット泊    朝昼夕

6−1 朝
 8時出発。気温15℃。
 ところで、例外なくホテルの部屋の入り口には、筒状の小さなモノが打ち付けられている。木製だったり金属製と思われるものだったりだが、イスラエル独特のものだ。しかも奇妙にも、皆少し傾いて付けられている。これは「ミズザ」と呼ばれユダヤ教独特のものだ。タナハの中に人が食事をするところや、寝るところには付けるように書いてあるのだそうだ。この中には基本的にはタナハの一節が書かれた紙の小片(正式には動物の皮に書かれたモノ)が入っており、「聞けイスラエル 我々の神は一つで始まる ・・・」魔除けのようなモノらしい。それがクルクルっと巻かれて入っている(中には単に木が打ち付けられているだけのような木の感じがするモノもあったが)。部屋だけでなく、食堂の入り口などにも付いているという。宗教的な人はチェックをするそうだ。

6−2 国道
 死海の横を通り、やがて砂漠の中に入っていく。ー100mから+100m・・・と徐々に高度を上げていった。途中、ユダ砂漠からネゲブ砂漠へと入る。ユダ砂漠は地溝帯の盆地のような場所にフェーン現象が重なって出来た極小エリアの砂漠、ネゲブ砂漠は乾燥帯の一般的な砂漠という生成上の違いがあるという。
 国道はかなり整備されているが、それでもカーブの続くところには、事故のオートバイを事故防止のために道路際に置いてあったりした。ユニークな取り組み方をする物だ。
 30分も走った頃、リン鉱石の採掘場と工場があった。
 そこから5分もしないところには原子力研究所があった。国内では、原子力について秘密にしていたらしいが、首相がポロッと外国記者にこぼしてしまったのだという。さすがにここは柵に囲まれて近づくことは禁止されていた。

6−3 ネゲブ砂漠
 ネゲヴ(Negev)はイスラエルの南部地方を指す。現在の年間降水量はたった100〜300mmの乾燥した地域で、中世以降は遊牧民が放牧生活などをして暮らしてきた。現在このネゲヴにはいわゆる「ベドウィン」と呼ばれるアラブ系の遊牧民が暮らしているが、開拓という名のユダヤ人入植地も多く建設されている。
 ネゲヴの土壌はもともと多くの塩分を含むため、 生育できる植物は限られており、聖書にも記されているアカシアやギョリュウくらいしか育たない。またネゲヴの土壌はチョーク質なので、水が土に沁み込む速さが極めて遅く、雨季にはちょっとした雨でも簡単に洪水を引き起こす。
 近年の入植者達によって開発された最新の開拓地や実験農場も見られる。有名なキブツやモシャブといった集団農場も、ネゲヴを始め国内に数百箇所も建設され、乾燥地帯でありながら驚くべき生産量を誇っている。こうした農業技術は世界最高水準であり、塩害や乾燥地帯での農業への指針を提示している。
 またアブダットの遺跡からほど近いところには、ヘブライ大学の研究機関によって古代の水利技術(次項のアブダットを作ったナバテヤ人の手法)を利用したものであった。ナバテア人は独特の農業手法を持っており、彼らが砂漠で君臨続けた一因でもあった。それは簡単に言えば、漏斗状にした土地の有効活用であり、数少ない年間の降雨機会を巧みに利用したもの(後述)。ナバテア王国がローマに屈しローマの支配となり属国アラビアとなった後、ローマはこの危険な陸路ではない二つのルートを開拓した。一つは、イエメンからメソポタミア経由となる長いルート、それから季節風を利用した海路。これでナバテア人は独占的だった香料の道商売を断念し、隊商宿の町の一部で農業を始めた。才があったらしく、ナバテア農法は大成功をした。またローマの辺境地域に当たったので、ローマはナバテア人を守備隊としても利用した。ビザンチン時代はこうして再び栄えたわけだが、イスラム侵攻以来こうした関係もなくなって歴史から遺棄されたために、8世紀にはナバテア人はとうとうこの地上から姿を消してしまった。

6−4 アブダット 世界遺産 0924〜1035
 アブダットは、 紀元前4世紀に隊商宿として築かれた。 町の名は、この地に葬られ、神格化されたナバテア王オボダス3世(Obodas III、在位前30〜前9)にちなむ。次のアレタス4世(在位:前9〜後40)の時代に一大隊商都市となり、ローマ時代にも繁栄した。このアレタス4世お治世の時に南のペトラから砂漠を越えて遠くはローマまでのネットワークが完成した。しかし4世紀半ばの地震で大きな被害を受けた。ビザンティン時代にキリスト教都市として最盛期を迎えたが、631年の地震で破壊されたと考えられている。
 町の北側にはナバテアの寺院が建てられたが、ビザンティン時代の5世紀に教会に建て替えられた。6世紀には要塞が建てられた。町の南側の教会は6世紀のもので、550年から617年の刻文がある。西側の斜面からは、約600棟の住居跡が発見されている。
 ナバテアは高度な製陶技術を持っていたことでも知られるが、この遺跡では窯跡が発見されている。また、農耕の遺跡も発見されている。このほかビザンティン時代のぶどう搾り場の跡がある。
 このアブダット(Avdat)は、Incense Route - Desert Cities in the Negevとして20005年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に
Haluza, Mamshit, Shivtaの諸都市とともに登録されている。
  右の写真はWikimedia Commonsから転送した俯瞰写真。クリックすれば参照ページの飛べる。

6−4−1 香の道
 「香と香料の道」(Spice and Incense Route)といえば、ローマ人やギリシア人といった地中海沿岸の富裕階級の人々が求めた香料を商人が運んだ道のことを指し、インド、中国、アラビア半島南部を結ぶ多くの交易路が存在していたが、紀元前960〜925年頃に、アラビア南部のイエメンにあったとされるシバの女王の国から ソロモン王のもとへ黄金と香料が贈られたという記述にもとづく、伝説的な道が思い当たる。古代ユダヤ教では、香は神への捧げ物やなどに使われる貴重な必需品であった。(東方の三博士がもたらしたものも乳香とミルラと黄金であった。)
 実際のアラビア半島南部の「香と香料の道」を指す場合、この道の起点の一つに、紀元前3世紀から紀元後2世紀に古代ナバテア人が建設したペトラ遺跡も含まれている。 ヨルダンのペトラを造ったナバテア人は香料の原料となるレボナ(Boswellia属の木の名前・・・ガイドさんの発音を拾った)が高く売れることに目をつけてどんどん商売を増大させていった。
 イエメンからアラビア半島、ネゲブ砂漠、ガザの港まで運んでいたという。1800kmもの道で、途中に死の砂漠といわれる所もあって、ナバテア人しかその道を知らず、他のもの達は通れなかったことから独占的に商売をしていたらしい。左はナバテア人のかつての首都ペトラの最奥にあるエドディルのもの。
 ガザからはアレクサンドリアへ、そこで乳香にされてローマへ送られたのだそうだ。
 隊商宿は60ヶ所にもおよび、ひとつの隊の人数は数百から1万人と説に差がある。千人程度と考えても相当の数だ。従って水などは補給を得たが、かなりのものはイエメンあるいはガザから用意していたらしい。およそ30qごとにあったという隊商宿だが、ここアブダットはそのうちの一つだそうだが、当時のものは殆ど残されておらず、ローマ時代のものばかりが残る。
 ガイドさんが乳香を持っているというので、触らせてもらった。手でこするといい香りが残った。イエメンではこれを食べてもみた

6−4−2 監視塔
 入口には監視塔がある(ただし現時のものはローマ支配時代のもの)。城壁で囲まれた街には必ずといってあるものだ。狭間なども作られている狭い階段を上って周りを見てこの遺跡の全体をつかんでから見学に行く。門から先は町のカルドにつながっている。

6−4−3 町の中
 カルドとデコマノスを通りながら教会の方へ向かう。道の両側には商店が並んでいた。

6−4−4 葡萄酒作り
 4畳半くらいの広さの所は葡萄酒を作る所。18歳未満の乙女のみが葡萄をつぶす仕事が出来るのだ。足の裏の柔らかさが大事で、決して種をつぶしてはならないからだ。つぶされて出た汁は小さな穴から下の大きな穴へと流れていく。その上澄みを取って熟成させるとワインが出来るのだそうだ。

4−4−5 城砦

 壁に囲まれた一角は、大きな広場になっていて、避難場や集会所としてつかわれたそうだ。普段は外で一般の人たちは暮らしていた。監視塔は2ヶ所。写真でもわかるだろう、中央の大きな穴は、地下の貯水槽。漆喰で内部は固められている。
  またせまい階段を上がって監視塔の上に行って周りを見ると、ぐるりと城壁が町を囲んでいる。おおよそ100m四方。意外にも低い壁が巡っている。 これは敵と戦うというよりも盗賊から身を守るために造られた。軍隊なども別のエリアにいたらしい。
 軍隊の宿営地とともに、 ここから製陶工房跡が見える。ナバテア人の作る陶器は繊細な模様そして堅いということで有名だったという。この、当時人気のあった陶器は作る過程で匂いが出るというのでおそらくは城壁の外に工場があったということだ。ナバテア人は多才な民族だったらしい。

4−4−6 南の教会
 聖テオドロスの教会とも言う。墓石にこの人の名前が刻まれているから、そう言われるにすぎず、この人がどういう人なのかは分かっていない。 
 今残っている柱などはすべてビザンチン時代のもので、バジリカ様式。わずかに柱頭の突き出したところにナバテアの名残が見られる(写真は北の協会でふれる)が、これは後の建設時に再利用したものだろうということだ。つまりは、ナバテア人の信仰していた神々の寺があって、その上にビザンチン時代に教会を建てたという寸法だ。この場所は神々の一人オボダを祭ったオボダの神殿があったらしい。それがゼウスの神殿やアフロディティ(ビーナス)の神殿になり、ビザンチン時代の教会となった。
 回廊があり列柱があり、3つのアプシス(部屋)があり、中央には祭壇が見える。大理石の祭壇の前には、正教と同じように高い壁(イコノスタシス)が築かれていて、内部は見られないようになっていた。左の小部屋はリヤコニコン修道士の着替えのための部屋、右はプロテズスといってミサ用のパン・葡萄酒などの保管場所。

6−4−7 展望台から
 眼下には丸い屋根の浴場が見える。全部ではないが、ほとんどの部分がビザンチン時代のものが残っているのだそうだ。形式はちゃんとしており、脱衣部屋、熱い部屋温い部屋、冷たい部屋がそろっており、水は深い井戸(深さ60メートル)から求めてきていた。
 また、ナバテア農法を実証しようとした畑もある。多くの人の胃袋を満たすために水を取り入れる工夫をして作物を作っていたそうで、実際にその農法で成功したという。
 さてそのナバテア人の農法だが、ワジの中に石垣を築き段々畑を作る。冬になると雨が降るが、斜面から流れてくる雨水を徹底的に利用する。段々畑の一番上に漏斗状の貯水池にうまく水を集める。そして一番上の畑に水を導く。一番上の畑の水があふれたら、二番目の畑に流れるようになっている。これを徐々に下の畑まで続ける。・・・現代もそれに習ってかなり成功を収めているという。もちろん生活用水としても重要だった。その貯水槽はネバダ砂漠で約200ほど見つかっている。全てワジの側面に掘られている。この辺りの白亜質の掘りやすく水を含むと固まるという土質が幸いし、漆喰など塗らなくてもよかった。そうして作られた漏斗型貯水槽の向く先は水路であり、大きな貯水槽に流れ込むようになっていたらしい。ぜんぜん水には困らなかったという。
  この漏斗型の水路を造り水を一点に集めるというやり方だが、同じようなものをどこかで見たのだが思い出せない。

6−4−8 北の教会
 南の教会と同じ作りになっている。ビザンチン時代の洗礼槽があった。大理石の石がはめ込まれていた。大小あり、子供用と大人用だった。大人用があるのは、ビザンチン時代はキリスト教が拡大してゆく時期であり、異教徒からの回収が多かったから。また南の教会よりもちらの方に沢山ナバテア時代の爪のある柱頭が見られた。オボダの神殿の時代のものをやはり再利用したものと思われる。
 遺跡からバスまで丘を降りてゆく途中で、住居跡をみた。じつは我々は先に降りてしまって、折り返して見た。石で出来た山の斜面をくりぬいた、洞窟型の住居。写真で見る小さい壁の穴は灯明を燃やすための棚。明理をこうして確保していたようだ。煤の残るものもあった。
 このアブダットだが、2005年に世界遺産に登録されている。登録名は、”Incense Route - Desert Cities in the Negev”で、アブダット(Avdat)の他、Haulza、Mamshit,Shivtaの都市を含んでいる。

6−5 ラモン渓谷 1053〜1117
 ここは、約1億1千万年前(白亜紀)に地殻変動により陥没して出来上がったと考えられている渓谷(Makhtesh Ramon ←google map にリンクしている。その得意な地形が確認できるだろう。)で、深さ500mのそそり立つ壁が実に37kmにも及ぶ。マクテシュというのは、自然の浸食作用によってできた大きなクレーター(Makhteshというヘブライ語は本来はクレーターの意味)のようなもので、世界に9つしかないのだそうだ。そのうちの5つがイスラエルに、残りの4つがシナイ半島にある。ということでマクテシュというヘブライ語が世界語になっている。地学のテクニカルタームであるようだ。所々黒っぽく見えるのは、およそ一万年前の火山活動の名残。火口跡ということだ。
  マクテシュは第一には、窪みが山の尾根に出来たものであること(つまり隆起して台形状になっていた土地の中央部が凹んだということ)、第二に窪みは浸食作用によって凹んだものであること、第三には窪みの中にワジが流れていてその中のものを外に出す作用を行っているということ(Makhtesh Ramon だけはワジが例外的に三本ある?)がマクテシュの条件なのだそうだ。このラモンのものが最大といわれる(ちなみに最古のものは小さなマクテシュと呼ばれるマクテシュ)。
 ここからは地質学の話になる。地質学では、古生代・「中生代」・新生代と大まかに時代区分をしている。これは主に化石などによる分類によって学問が成立してきたという背景によるものだと思われる。古生代は生命誕生期といってもよいだろう、およそ5億4400万年前からおよそ2億5000万年前の時代。新生代というのは、ほ乳類の時代といってよい、およそ6500万年前からの時代。中生代はその間に位置する時代で、恐竜に象徴される時代。
  中生代はさらに、古い方から「三畳紀」「ジュラ紀」「白亜紀」に大別される。この辺りの一番深い地層は、三畳紀のもの。その上に、「ジュラ紀」の地層が被さっている。その上に砂岩層と石灰岩層が堆積している地形であった。これがかつて大きく地球上を覆っていたテティス海の中にあった。
  最初にこれら地層が台形状に隆起してきた。そして一番上の石灰岩層が海上に頭をもたげる格好になった。ちょうど島のようになった。隆起した辺り、特に海岸線あたりに、波などの浸食作用で亀裂が入り石灰岩は水にもろいので浸食作用が進み、やがてそれが上から二番目の層である砂岩層に到達する。砂岩は更に水によく溶けるので、海水中に溶解していく。つまり、砂岩のあったところが海水に浸食され、上に石灰岩があるのでいわば空洞状谷なり、やがてその石灰岩が落下する。
 こうしてマクテシュの基礎が出来る。この頃になると隆起が進み古い海のテティス海は引いてゆく。このできた窪みに水がたまり、出口を探し、やがてそれらはマクテシュの外へ流れ出す。その浸食作用によって窪みは更に深くなり、そのしたにあったジュラ紀や三畳紀(アンモナイトの時代)の地層が地表に顔を出すことになった。
 現在世界遺産の暫定リスト(複合遺産の部)に載っている。このマクテシュが複合遺産登録を目指しているのは、ここがローマおよびビザンチン時代にナバテア人が使っていた通商路が走っていたことのに由来する。当然この中でその独特な潅漑技術による農業も行われていた。
 確かに削られたような岩がゴツゴツしていて独特な景観を醸し出している。
 この中には遊歩道も沢山作られていて、軍の練習が休みになる週末だけ歩くことを許されるとか。車は最初マクテシュを東西に横断する形で、南側の壁に向う。途中大きなワジを渡る。どうかリンクしているgoogle mapを見て、スケールからその巨大さを実感してもらいたい。そして南壁を越えて、エイラットをひたすら目指した。今日は昼が遅くなるということで、添乗員氏の計らいで、おにぎりが一つずつ配られた。久しぶりの日本の米の味だった。

6−6 戦車
 軍と言えば、頭上を時折軍用機が飛んでいるがその音のすさまじいこと。だからこの辺りが軍の訓練場になっているのだそうだ。マクテシュの中を低空で軍用機が横切るのを何機も見た。
  空だけではなく地上でも演習が行われていた。戦車隊が、的をめがけて撃ったり坂道を上ったりの練習を、道路のすぐ近くで行っているので、よく見える。砲撃も行われているようで、土煙が上がっているところもある。迫力満点。
 その上駐屯地も道路のすぐそばにあって写真も取り放題。おおらかというか、入国を厳しくしている自信の表れというか。
 キブツもいくつか通過した。砂漠の中に突然、緑あふれる畑などが現れる。トラクターで耕作している場面にも出会った。その豊富な緑に驚いた。イスラエルが誇るだけのことはある、砂漠の潅漑技術だ。

6−7 休憩 1230〜1255
 アラバ渓谷に入った。アラバ渓谷周辺の沙漠地帯は、主に赤味がかった砂岩で占められている。キブツの経営の店でドライフルーツを買う。味は普通の味だった。
 外のアレンジメントととして乳牛が沢山いたのが面白かった。この辺のキブツでは酪農をしているのか。ただしこちらがよく分からないのかもしれないが、店の中にはそうたくさん乳製品があるわけではなかった。

6−8 野生動物自然保護園通過 1300頃
 ハイバルヨトバタという自然動物(絶滅危惧種)の保護施設の横を通過。数が増えたら元に戻すようになっているという。ダチョウが沢山見られた。

6−9 昼食 1325〜1425 エルガウチョにて
 何故かこの土地でアルゼンチンレストラン。ピロシキやステーキなどすごい量だった。味は悪くないので、残すのはもったいないと思ったが、お腹には限界がある。
 それから珍しくビールを飲んだ。今回の旅行は殆ど飲んでいないのだが、今日は容器が珍しいので頼んだ。ソフトドリンクもビールも何であれ容器の大きさで値段が決まっているのだ。で、頼んだのは一番大きい器のビール。飲み応えがあった。

6−10 水中展望塔 1445〜1600
 エイラットまで来たのはこれが目的といってもよい観光所。要するに水族館だ。
 初めに海中展望塔へ行った。階段を52段ほど下がっていくと周りが全て海の中になる。日本にも同じ趣向のものがあったように思う。
 そこは多種多様のサンゴと色とりどりの魚の世界だった。
 その後、いくつもある建物に入った。そのいずれもがサンゴと魚の水族館だった。それぞれ違いがあるのかも知れないが、凡人には同じように見えてしまったのだが。
 でもその種類の多さには驚きだ。
 予定の時間はあっという間に過ぎてしまい、このように遠くまできてはややあわただしい見学だった。

6−11 国境 1610〜1615
 ホテルへの帰りがけにエジプトとの国境へ連れて行ってもらった。ここからは四国がいっぺんに見られるというので、ちょっとした名所になっている。ただ、国境なので、あからさまに写真を撮るととがめられるので注意するようにということでバスを降りた。
 案の定エジプト側では国境の警備員に注意されたが、海を撮ってるだけですと説明して何とか事なきを得た。ここからは、日本の別の団体はトランクを引きずって国境を越えていった。スエズまでは行かないという約束で、ビザ無しで外国人はエジプトにはいることが出来る。シナイ山詣でのためにある措置といったところだろうか。彼らは明日朝のシナイ山ご来光を目指す。
 海の向こうにはヨルダンとサウジアラビアが、陸の国境づたいにはエジプトが見える。そしてここはイスラエルということになる。対岸を双眼鏡でのぞくとヨルダン国旗の大きいのがはためいているのがよく分かった。

6−12 ホテル 1630 Crowne Plaza 628号室
 早めにホテルに入ったので、少しのんびりした。他の元気な人たちは、エイラットストーンというこの地で採れる宝石を見に行った。
 我々は洗濯と、休憩に使った。

6−13 スーパーで買い物
  一休みしてから道路を渡った所にあるスーパーへ買い物に行った。もう外は真っ暗。それでも安全さを気にする必要はない街だ。
そこへ行っておみやげにするお菓子とワイン。我が家のいつものパターンだ。計32ドル也。

6−14.花火
 今日は大晦日。でも、ガラディナーも無いというしひっそりとした夜になるのだろうと早めに床につく。と、夜中に突然大きな音が響いてきた。おかげで目が覚めたが、何事が起こっているのかしばらくはぼんやりして分からなかった。時計を見ると丁度0時。
順が、もしかしてと気がついてベランダに出てみると、大きな花火が2カ所から上がっているのが見えた。すぐにカメラを持って写し始めるとすぐに則も起きてきて、しばらく花火を楽しんだ。
ホテルでは、フリードリンクとダンスで盛り上がったらしい。
やはり何処の国でもカウントダウンというので盛り上がるようだ。