2008年1月2日(水) 快晴 最高気温17℃

エルサレム市内観光 こちらをクリックして適宜ご利用ください
■朝食後、エルサレム市内観光へご案内します。旧市街では最後の晩餐の部屋、ダビデ王の墓、嘆きの壁、岩のドーム、南の壁考古学公園にご案内します。
■午後、死海写本が展示される死海写本館、ホロコーストの歴史を展示する、ヤド・バシェムにご案内します。
                                        エルサレム泊    朝昼夕

8−1 朝
 とうとう最後の観光の日。一度も雨にも遭わずいいお天気続きで、ラッキーな旅行だった。
  8時15分出発。9℃。

8−2 エルサレム旧市街 0816〜
 昨日に引き続き旧市街の観光となった。糞門までバスで行き、その後は歩くことになるので、できるだけ荷物を少なくという指示の元、我が家はカメラだけにした。
 糞門までに道すがら、昨日行った万国民の教会などオリーブ山の裾野に点在する教会群を遠望できた。ライオン門も通った。

8−2−1 糞門
 今日の入口は糞門から。名前を聞くと汚い気がするが、昔ゴミ類を投げ捨てるのに使った門だからこう言われるのだそうだ。決して糞を捨てたのではないですよ、と言うことだ。
 もちろん今は美しい姿を我々に見せてくれていた。

8−2−2 神殿の丘 0830〜
 2006年から中に入れることになったそうで、その前の5年間はテロを警戒して異教徒は入れなかったそうだ。ついでに言うと、2000年までは誰でも自由に入れたし、岩のドームなども10ドル払えば、写真撮影は出来ないものの入れたという。やはり平和でないといけない。嘆きの壁(ヘブライ語では単に「西の壁」という)の横を横断して行く専用ゲートを通っていく。まだ建築中なので、木製の仮説通路だ。
 ここはダビデが紀元前1000年に首都と定めてから重要な都市になった。その時代のエルサレムは、今の旧市街よりも南にあって規模は小さかった。その後息子のソロモン王は、モリヤの丘(アブラハムがその子イサクを燔祭として捧げようとした所)と呼ばれていた辺りを金で買い取り、そこに第一神殿を建てた。第一神殿の概要は、岩のドームなどがあり現在発掘調査は出来ないので、わからないが、モーゼの契約の箱(十戒の石版)が安置されていた至聖所は岩のドームの中にある岩の上にあったのではないかと言われている。やがて前586年にバビロンによって滅ぼされると、民はバビロン捕囚となった。モーゼの契約の箱もこの時に盗まれてしまい、それ以来行方が分からなくなってしまったという。
 前538年にユダヤの捕囚民が帰還すると、前516年頃に第二神殿が造られた。ハスモン朝がその神殿を拡張し、豪華なものにした。さらにヘロデの時代にものすごくきれいな神殿に作り替えた。一般的に第二神殿という場合には、このヘロデ王時代のものをさす。これはユダヤ戦記の中のヨセフスの記載などから、また以降も多数残っているので、概要がかなり明らかになっている。イエスが十字架上で亡くなった時、この地にあった神殿の垂れ幕が上から下へ真っ二つに裂けた。それも70年に破壊されビザンチン時代になると、神殿の丘はゴミの山になっていた。これはビザンチン時代、既に聖墳墓教会は建っており、イエスの預言通りになったことを強調する意味もあってのことだったようだ。
 やがてこの地はムスリムの国となった(638年)。やってきたのはカリフであるオマーム。彼は聖墳墓教会の主導しに、ダビデ王が祈った場所をみたいと尋ねた。かれはそこで祈った。この神殿の丘で初めて祈ったイスラム教徒になった。そして小さなオマームモスクをエルアクサモスクが現在ある土地に建立した。
 ユダヤ教からキリスト教、イスラム教とここにはいろいろな宗教の歴史が積み重なっている。その中でも1099〜1291年のマムルーク王朝支配下に造られたものが一番多いそうだ。
 この丘に入るには、荷物は全てX線を通る。

8−2−2−1 岩のドーム
 紀元638年にエルサレムを征服したカリフ・オマームを記念して、ウマイヤ朝のカリフ、アブド・エル・マレクが紀元691年に建てたモスク。
 初めてのイスラムのドーム。この頃まだイスラム建築という物は確立していなかったので、ビザンチンの形式をまねて造ったのだそうだ。岩のドームは、岩盤の上に建てられているので、地震でもビクともしないで残っているのだという。
 今でも異教徒は中に入ることができない。この丘にも金曜日は礼拝の日なので入れないし、土曜日はユダヤ教の安息日なのでユダヤ教徒の過激派の襲撃を警戒して警官の姿が多くなるのだそうだ。異教徒が入れるのはそのため時間がきわめて限定されている。
 派手派手な金色の屋根は、それでも嫌らしくならないように光を押さえる様に工夫されているとか。周りの青タイルはアルメニアの陶器。一つ一つ丁寧に作られていてとてもきれいだ。これも以前はガラスモザイクだったらしい。一部にその名残りが見られた。手前の建物はアブド・エル・マレクが建てた7世紀のものだそうだ。後で述べる鎖のドーム。
 岩のドームは三番目の聖地だが、ウマイヤ朝の支配していた時代には、実はメッカもメディナもイスラム教の支配下にはなかった。ズベイル族という種族が支配していた。そこで、エルサレムの格を上げるために、ウマイヤ朝は考えた。そこで、コーランに出てくるモハンマドの夜の旅と昇天の旅を結びつけた。モハンマドはもっとも神聖なモスク(メッカにあるモスク)から最も遠いモスクへ夜にエルブーラクという乗り物(神秘の馬・・・体が馬で顔が美女で首がダイヤモンドで角が金でクジャクの翼を持つ)をつかって移動し、そこから昇天したという。最も遠いというのはアラビア語でエル・アクサ(端の意味)という。このエルサレムの地がそうした栄誉によくする土地かどうかはきわめて疑問だ。第一はメッカから一番遠いといえるのかという疑問。そして、コーランに一度もエルサレムやその別名が現れないことも疑問。つまりは、政治的な目的で、第三の聖地を作り上げた可能性があるとガイドさんは説明した。
 左の図で、一番上がこの神殿の丘の模式図。八角形のドームとバシリカ様式のモスクがあり、真ん中に沐浴場がある。下がメッカの当時の様子の模式図。人々は中心を七回回るという。中央には井戸がある。中央の図は、当時の聖墳墓教会の形。いずれもにている構造だ。
 このドーム、メッカのモスクの造りとほぼ同じ。聖墳墓教会とほぼ同じ大きさ。ズベイル族とともに、それらに対する対抗心のような物もあったのではないかとの説明があった。
  岩のドーム  内径20,3メートル、高さ20,5メートル
  聖墳墓教会  内径20,9メートル、高さ21,5メートル

8−2−2−2 エル・アクサモスク
 岩のドームを作ったアブド・エル・マレクの息子エル・アルリ−ドが岩のドームの20年後に建てた物。
  この様式はバジリカ様式をまねて造った。こちらは岩盤の上ではなく、ダビデが作った広大な神殿域の上に建っている。ここはダビデが巨大なアーチをいくつも作って、丘の平らなところを広げた場所なので、空気の上に立っているようなものなので、耐震性がきわめて低い。それで地震で崩壊してしまったのだそうだ。
  左下の写真、これはオリーブ山からの遠景だが、これをみるとこのモスクが人工地盤の上に立てられているのがわかる。紀元前後にかような構造体が造られ、それが現存すると言うことはすごいことだと思う。
 エル・アリードが作ったモスクは1万5千人も入れる大きな物だったらしいが、今は5千人程度の大きさ。何度もの地震を経て修復修復されてきた結果らしい。エル・アリードはシリヤのダマスカスにあるウマイヤドモスクなども造っている。
  現在の建物は、一時十字軍に主の神殿として使われたらしい(テンプル騎士団が利用していた)が、破壊は免れ、11世紀の物が主体となっている。

8−2−2−3 鎖のドーム
 岩のドームの横にあるやや小さめのドーム。天井と柱だけだが、装飾は手を抜くことなく施されている。これも岩のドームと同じくアブド・エル・マレクが造った。岩のドームよりも先に造ったとも言われる。
  岩のドームを造るための資金が隠されていた話とか、ダビデの時代に裁判が行われていた所で、裁きの時に鎖が天井から吊り下げらており、真実を述べた者はその鎖に触れることができたが、ウソをついた者は鎖に手が届かなかったという。
 神殿の丘の東側の端に行くと、昨日見てきた教会群が一望できた。


8−2−2−4 メドレセ
  マムルーク王朝時代の物。この時代の特徴というのは、入口に階段があること。両側にはベンチがあること。クローバ型のアーチがあること。額縁のような物があること。パズルのような模様があること。窓の格子には十字の交差点に丸印が付いていること。
 ところでマムルークとは奴隷のこと。つまりお金で買われた人間。主に白人奴隷をさす言葉で、特にコーカサス地方や中央アジアの貧しい地域で且つ優秀な騎馬民族の子供を買ってきて優秀な軍人に育て上げるということをしていた。そしてこれらが次第に支配階級になっていった。18才から3年間マムルーク養成学校へ行かせて、イスレム教の勉強と激しい訓練が行われる。3年間の養成後は自由人となり、故郷へも帰れたというが、実際にはほとんど帰ることなく、職業軍人となり一生(奴隷として買ってくれた)スルタンに忠誠を誓ったという。この時代の軍隊は非常に質の高い軍隊であった。イスラエルにもモンゴル帝国の爪は伸びたが、それを追い返したのもマムルークたちだった。マムルークは一代限りで、マムルークの子供がなることは出来なかった。マムルーク朝の首都はカイロで、エジプトにはやはりマムルーク朝の建物が多数残る。

8−2−2−5 鎖の門 0914〜
 鎖の門のところは、十字軍時代の城壁の門となっていて、建築的な特徴は十字軍時代のものだった。水飲み場(サビール・・・オスマン朝の時代のもの)などもあったが、ここは少し汚いエリアだった。
 このガイドさん、なんでも知っているので次から次に説明してくれるので、その度に記録したり写真を撮ったりと資料が膨らんでいってしまう。

8−2−3 嘆きの壁 0925〜1000
 嘆きの壁に入る前にはまたセキュリティーチェックがあった。ここのはそう厳しくはなかった。
 バビロン捕囚から戻ったユダヤ人によって、 紀元前515年頃に第二神殿として再建され、さらに紀元前20年頃にはヘロデ王によって改築されている。下から7段くらいまでの大きな石ががまさにその時代のものだという(更に12メートルくらい地下に埋まっている。)。それから上は、その後マムルーク王朝から以後オスマン朝の時代へと続く。石の大きさではっきりしていることがわかるだろう。
 イエス キリストの死後もユダヤの地はローマによって支配されていた。そして過酷なローマ帝国の支配に耐えかねたユダヤ人は、紀元66年に大反乱を起こした。時のローマ皇帝ネロは軍を派遣し、激しい戦いが繰り広げられた。ユダヤ側の犠牲者を百万人以上との記録もある。紀元70年にはエルサレムが陥落し、ユダヤ人の聖地である神殿も唯一西側の城壁を残し破壊された。イエス キリストが実際にエルサレムの崩壊を予言して涙したという聖書の記述が現実のものとなったわけである。唯一ある程度の高さまで残った西側の城壁が「西の壁」あるいは「嘆きの壁」と呼ばれる今日のユダヤ人の最も聖なる場所である。
 男女は別々の所で祈るが、広さは2:1。中に入るのも写真を撮るのも自由だというので、無遠慮にさせてもらった。女性の服装は普通の人と変わりはないが(肘膝を出してはならない。パンツも女性はだめ。何故ならおしりの形が見えるから。素足を見せないためにストッキング類は必ず履く。既婚の女性はスカーフなどで、髪を隠すことになっている。カツラはいいという見解もある。)、男性のそれは大いに異なる。まず頭にはキッパと呼ばれる小さな帽子か代わりの帽子を必ずかぶらなければならない。洋服も宗派によって異なるそうだが、黒が一番多かった。しかもその黒の服も微妙に違っていいるという。髭を伸ばしているのは、タナハに顔に刃物をあててはいけないと書かれているためだそうだ。(肌に当たらないという点でハサミで切るのはOK。電気カミソリも土曜にOK。)
  それから服の中から切れ端のようなものを垂らしている人が多い。最初はなんてだらしがないと思ったのだが、キッピートというものなのだそうだ。男性は長方形の布で作ったベストを着なければならないとタナハに書いてある。このベストをシャツの下に着るが、そうすると人に見えない。いいことしていても人に見えないのでは、効果がない。そこで長方形の布の四隅に房を付けてシャツの下から出して、アピールをしているのだという。
 ユダヤ教とキリスト教の対立よりもユダヤ教間の対立の方が激しいのだそうだ。ところで超正当派ユダヤ人というか、極端な人たちは働いてはいない。政府が養っている格好になっている。ここの周りにもある。ユシバという宗教学校で、祈りと研鑽の日々で一生を終えるらしい。兵役も免除されている。一番極端な派であるネットウェイカルタという一派は、イスラエルという国そのものを認めていないという。ユダヤ人の国というのは救世主が現れて造るものだというわけだ。人工的に人間が造った国は認めていない。
 ユダヤ教徒がここで祈るのは、西の壁が神聖だからではない。彼らは壁の中の神殿域の方に向かって祈っているのだ。西の壁の向こうには、丁度神殿があった。壁は西側だけではなく残っているのだが、ちょうどユダヤ人地区にも近いこの近くが好まれているに過ぎないらしい。ユダヤ教徒は神殿の丘の中には決して入らない。恐れ多いと言うことのようだ。イエスが、第二神殿に来たとき、その中で商売をしていた人たちに激しい怒りを感じたのと同じで、神殿域は聖域なのだ。
祈りの姿だが、ツフィリンというものを額のところと、腕に巻いている。額のところに付けている様は、まるで山伏のような姿だ。箱の中には、部屋の前に置かれていたと同様に「聞けイスラエルよ我々の紙は・・・」が入っていて、頭と同様に腕にも革紐を七回巻いている。頭で考えていることと、腕ですることすなわち実行が一致するようにと言うことで、祈りの時などに付けるという。
 なお、西の壁沿いには西の壁トンネルというものが掘られている。今回は入れなかったわけだが、より至聖所に近づけるという。岩のドームまで掘ろうとしていたのではと疑われたトンネルだ。

8−2−4 南の壁考古学公園 1010〜1055

 ビザンチン時代のカルドの様子を現す壁画を見てから考古学公園の中にはいる。この頃の商店街を示す絵だが、商店と言っても店の商品を並べるのは道路上であって、建物そのものは、倉庫的に使われていたらしい。またそれぞれの店の間口はかなり狭かったと言うことだ。ここにあるカルでは、マタバのモザイク画では上の方に描かれている第二カルドにあたるもの。
 最初にまた映画を見た。古代イスラエルにおいて、一人のガリラヤ地方の若者が地方から上京し、第二神殿時代に生け贄を捧げるという内容のものだった。
 映画を見る前の部屋で、石の食器などを見た。石は汚れを受けない食器と言うことになっている。それ故に、石の食器が出てくればユダヤ人の集落と言ってよいとのことだ(写真がへたくそでゴメン)。

8−2−4−1 エルサレムの歴史

 右の図で、薄く水色に塗ってあるのが現在の旧市街。一番外側の壁が、反乱直前のもの。ビザンチン時代は、水色の部分+黄緑の線のエリア程度だった。最初のハスモン朝の時代の頃の城壁が、黄緑部分。ヘロデの時代に継ぎ足された。更に大反乱の起こる少し前にはオレンジ色の部分が加わった。
 エルサレムの歴史はイスラエルの歴史の凝縮版だ。
  カナン時代(青銅器時代):今の城壁域より南にヤブースと言われた部分に小さな町があった。
  ダビデの時代:紀元前1000年にダビデが征服して、首都とした。そしてエルサレムとする。ソロモンの時代に第一神殿が出来る。その後古代イスラエル王国は南北にユダとイスラエルに分裂する。ユダは(新)バビロニアによって紀元前586年に滅ぼされる。この時に第一神殿が崩壊したという。
 バビロン捕囚後の時代:ペルシャのキュロス大王が紀元前537年に当時バビロン捕囚としてとれられていたユダヤ人を解放する(彼の征服地宗教受容政策についてはこちらを参照)。こうして第二神殿が造られ、ペルシャ統治が始まる。その後アレキサンダーなどの時代を経て、ギリシャの統治下に置かれる。ギリシャ統治末期には、ハスモン家の自治がしかれていた。ハスモン朝は第二神殿を豪華なものに造り替えた。紀元前63年にポンペウスがやってきて、ローマ支配の時代になる。そしてヘロデの時代となり、第二神殿をいっそう豪華なものにした。
  第二神殿崩壊:その後第一次ユダヤ戦争で第二神殿は崩壊し、紀元後2世紀ハドリアヌス帝の時代に、町の名前をイリヤカピトリーナと変える。キリスト教がだんだんと勢力を強めてきた時代で、キリスト教を排除するために、聖墳墓教会のある辺りをアフロディティー(ビーナス)神殿にした。神殿の丘には、ゼウスの神殿が出来た。カピトリーナは都市という意味。イリヤというのはハドリアヌス帝の名前。
  ビザンチン時代:コンスタンチヌス帝の時代になると、すなわちビザンチン時代になると、アフロディティーの神殿は聖墳墓教会(当時は復活の教会)になり、ゼウスの神殿のあった神殿の丘はゴミ置き場に変わった。
  イスラム時代: 638年からビザンチン帝国が追い出されてイスラムの時代になり、途中十字軍の信仰もあるが、1300年間続く。十字軍帝国はその間に、第一次十字軍帝国が1099年から約88年間、第二次はわずかに15年間だけ、それ以外はイスラムの手中にあった。1260年モンゴル帝国の爪が忍び寄るがマムルーク朝が退けた。
  イギリス委任統治時代: イスラムの時代はオスマントルコの衰退で1917年にイギリスによる委任統治が始まるまで続いた。1948年までその時代は続く。
  イスラエル国家樹立: そして5月14日に独立宣言が行われ、名実ともにエルサレムはイスラエル国家の首都となった。とはいえ、1948年から1967年までの19年間はエルサレムは二つに分かれていた。第三次中東戦争によって、ようやくエルサレムは完全にユダヤの手に入った。そして今日に至っている。町中に40thと言うような表現をよく見かけたが、これはエルサレム統一40周年を記念した2007年の名残。

8−2−4−2 考古学公園散策
 さて、映画を見終わって出てきたところは、ちょうど南の壁と西の壁が交差する辺りだ。順さんが建っている辺りがちょうどその角の辺り。右奥に伸びている壁が南の壁。左の方に伸びているであろう壁が西の壁。この壁の延長上にさっき見てきた「嘆きの壁」部分の西の壁がある。中央上部に見える丸いドームはエル・アクサモスク。ここでもモスクが人工地盤の上に立っていることがわかるだろう。
  その下の写真(現地のガイド用説明図)が西暦紀元前後の、いわばイエスの時代の復元図で、一番下の角に順さんがいることになる。基礎の部分から12メートルあるという。
神殿域の大きさは、南北の長さが480メートル東西が300メートルであった。神殿の丘全体は列柱廊下で囲まれていた。列柱廊下の柱の太さは大人三人が手を回した大きさであり、柱頭部分は金メッキが施されていたという。南の部分は柱が全部で160本の構成で、三階建て構造になっていた。
 西の壁沿いの道は現在考古学者では、ヘロデ通りと名付けているらしい。南北に走っているので、これはカルドになる。大きな石がゴロゴロしているが、この石にヘロデの建築の特徴があるという。これらの石はユダ地方の石灰岩だそうだ。とても広い通りで太い柱も残っている。
 次の図だが、反対側から見た図だが、神殿の丘には何重もの柵があった。列柱通りの直ぐ内側の柵の外までは異教徒でも入ることが許されていた。その中にはユダヤ人しか入れなかった。つまり、中央の門から入れるのはユダヤ人だけ。その次にまた門がある。ニカノール門と言うが、自分が持ってきた生け贄を捧げるのをみたい男性だけが入れるエリアだった。更にその中、至聖所がある建物を囲んでいるエリアには祭司のみ、その中の建物には一年に一度、贖罪の日(ユダヤ人は25時間断食をする)だけ大祭司のみが入ることを許されていた。南の壁と長い東の壁が今見えている。この図を見れば、西の壁のあの辺りでユダヤ人が祈りを捧げている理由がはっきりするだろう。一番至誠所に近い辺りなのだ。
 南側には右側に3つのアーチのあるクムダ門と、2つのアーチのある門があり、普通は右側の門から入り左側の門に抜けるが、喪中の人はその逆を行い慰めを受けたという。西側には4つ入り口があった。西と南の角近くにある門は立体的になっていて一度90度曲がってから域内にはいる(上の方の図参照)。そのアーチのとっかかりの部分がまだ神殿の壁に残っている。このアーチを発見した学者の名前を採ってウイルソンアーチという。発掘前はあの辺りまで土に埋まっていたという。
 さてその下の道はどうなっていたかが右の写真。右側が西の壁。左の反対側の部分は商店の部分。先に掲示した復元予想図のような場面がここで見られたと言うことだろうか。
 その後方上の方についている門は、やはり発見した人の名を採ってバークレー門という。これはちょうど女性の祈祷所の直ぐ右上に当たる部分。今も昔の変わらないのだろうか、左の上の方が高級住宅街になっており、わざわざ富裕層が貧困層の住居まで下りて入る煩わしさを回避していたという。
 嘆きの壁はこの先にあるのだが、その標高はここよりも5メートル上に「現在の嘆きの壁のグランド」があることになる。
 所々に大きな穴が開いているのは、ローマ軍が神殿を壊す際に上の方の石を落としたためにできた物だという。ヘロデの時代の石は巨大で、最大で570トンというもの(石灰岩)まで見つかっている。世界最大のレバノンのバールベックで見つかった700トンの石に迫るものだ。ヘロデ時代の石の特徴は、左の写真でわかるように、縁の部分が一段深く掘られており、しかもその凹んだ部分を含めて表面が磨かれたいらになっていることだという。また石組みは少し内側になっていて見上げたときに圧迫感がないようにと言うことと安定感を狙っているという。
 神殿詣でをする際に欠かせない、沐浴用のミクベなどが発見されている。通路が分かれているエルサレム式ミクベだ。きれいに仕切りが残っている。西側壁の通路を途中から折り返してやや山側の道を通って元に戻る。たくさんのミクベを見ることが出来た。

8−2−5 ユダヤ教徒地区 1100〜
  右は至聖所にあったものの復元したメノラー(燭台)。大きさは1.3〜1.7メートルくらい。元々は42キログラムの純金製であったという。ただ42キロではこんな大きなものは作れなかっただろう。それから足の部分は六角形になっているが、本当は三本足のものだったらしい(とガイドさんは説明した*1)。
  この形はイスラエル国旗にもなっている、イスラエルを象徴する七つのローソク立てを持つ燭台で、29日にもふれたが、メノラーとよばれるもの。
 散策をする町は比較的新しい。東西に分かれていたエルサレムが統一されてから造られたからだ。この町は米国系ユダヤ人が多く住むという。米語が多く聞かれるという町。家賃なども非常に高いという。すんでいる人たちはほとんど宗教的な人々。
 そんな中に分厚い壁があった。何と第一神殿の壁だという。半信半疑でもあるが、この地域は全て信ずることの上に成り立っているのだ。紀元前11世紀から紀元前6世紀頃の世界!
 それからビザンチン時代のカルドを少し歩いた。柱や壁がその頃の物だそうだ。
 また、昔の古いエルサレムの地図の所へ来た。昨日見たもので、マダバの地図と言われるモザイクだ。ヨルダンのマダバで見つかった地図だ。ビザンチン時代紀元後6世紀のエルサレムの姿。上が東で黄金門が見える。北側(左)にも門が描かれているがダマスカス門。
 昨日も書いたが、このマダバという街へは、かつて訪れたことがある。そこで、世界最古といわれるエルサレムのモザイク画を、目にしていたのだ。聖墳墓教会が真ん中にある。カルドが2本あることも分かる。我々が今散策しているのはこの内の中央の第一カルドと呼ばれる道。縮尺や建物の大きさは全く非現実的であることは割り引いてみないといけない。
 シオン門を出て「シオンの丘」に向かう。門を出る手前、途中アルメニア地区を通る。アルメニア人というのも結構流浪の民なのだと言うことを実感した。マムルークの時代の末裔なのか。郵便ポストがアルメニア国旗に塗られているので、ああここがそうなのだとようやくわかる。しかし特にソ連崩壊以降アルメニア人はかなり激減しているようで、このあたりではユダヤ人が食い込んできているという。
*1:英語版のWikipediaのmenorahの解説では、第二神殿時代の神殿(至聖所)にあったメノラーをローマが奪ってきたとの記述があり、その際のことをレリーフにしたそのレリーフがあって、そこには写真と同形式のメノラーが掘られている。このことからすると、写真の形式はあったのではないだろうか。
 なおガイドさんが三本足とした論拠は、たとえばこの図柄を参考にして言っているものと思われる。然し、今となっては彼女が何故あえて三本足と言ったのかは疑問として残るばかりだ。

8−2−6 シオンの丘 1122〜
 「シオンの丘」と呼ばれるところは、エルサレム旧市街の南西、城壁の外にある一角。ここは第二神殿時代にエルサレムの上の町であったところで、祭司や貴族が多く住んでいた。
 マリアの永眠教会からエルサレム旧市街の南西、城壁の外にある一角で、ここに「最後の晩餐の部屋」と「ダビデ王の墓」もある。
 実はこの2つ、同じ建物にある。最初に13世紀にユダヤ教徒(ランバンというラビ)がやってきて、シナゴーグを建てる。それ以降ユダヤ人がやってきて、次第にユダヤ人地区を丘の下まで形成していった。そのあと14世紀になってカトリックのフランシスコ会がやってきて、ここに自分たちの建物を建てる。ために15世紀になってキリスト教(最後の晩餐)とユダヤ教(ダビデの墓)の対立が激くなり、時の支配層だった、そして第三者的存在だったイスラム教徒がその間隙を縫って両者を追い出してしまい、16世紀にその手に収めてしまったのだそうだ。そして建物をモスクにしてしまった。 かような事情があって、追い出されたそれぞれが、城壁内のキリスト教徒地区ユダヤ教徒地区を形成していった。
  「シオン」とは、そもそもエブス人の砦だったが,後に“ダビデの都市”と呼ばれるようになった場所だ。ダビデはシオンの山を攻め取った後,そこに王家の居住地にした。シオンはダビデがそこに「契約の箱」を移した時,特別に聖なる山となった。
  ソロモンの時代にエルサレムが拡張されるにあたって、シオンは北東部の丘も指し示すようになり、後にエルサレム全市、あるいは神殿のある丘をシオンと呼ぶようになった。

8−2−6−1  マリアの永眠教会
 エルサレムにある教会の中でも最も大きく壮麗な教会の一つ。
  1898年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は聖地訪問の際、シオンの丘の一画を入手して、ドイツ・カトリック教会に贈与した。1901〜11年に建築家インリッヒ・レナルトがこの教会を建てた。教全の地下には、永眠するマリヤの像がある。

8−2−6−2 最後の晩餐の部屋 1130〜
  イエス キリストがユダヤ教の指導者たちによって捕らえられる前夜、イスカリオテのユダを含む12弟子とともに食事をしたのが「最後の晩餐」。この最後の晩餐はユダヤ教三大祭りの一つ、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が神によってモーセに率いられ、エジプトから救いだされたことを祝うペサハ(過越の祭・・・大麦の初穂を神殿に納める祭り)の食事であったようだ。ちなみにその7週間後にシャブオットという祭りがある。これは小麦の初穂を捧げる祭り。現在は初物を食べる祭りとなっている。シャコットが収穫祭。仮庵(かりおり)祭という。現在でも子供らはこの時期外でテント生活のようなことをする。ペサハは7日間続く。過越際の言われどおり、酵母の入らないパンを食べるので、除酵(じょこう)祭とも呼ばれる。この時期になると、スーパーでもマッァーというクラッカーのようなパンしか売られなくなると言う。あらゆる酵母の入ったものはだめ。ビールだめ、パスタだめ、クッキーもだめ。この期間は一人で過ごしてはならないことになっており、外国人でもよく一緒にユダヤ人のところで過ごす。食事をしながら、過越のことがまとめられているハタダという本を読む。一段落ずつ読んでいく。
 当時は、ダ・ヴィンチが描いたようにテーブルで食事を摂ったのではなく、床に直接円座を作るように座って食事を摂ったのだそうだ。
 また、ここで、イエスはペテロに対して、「鶏が三度鳴く前に私を知らないと言うだろう」と言う予言もした。ユダの裏切りに対する予言も。
 さらに、復活したイエスが、7週間後、ここに集まっていた弟子達の所に降りてきた、つまり聖霊降臨の所だという。7週間後だから、シャブオットの祭りの食事の時だ。弟子達が集まっていた所にすごい音がして突然舌の形状をした火柱が降りてきて弟子たちをなめ回した。するとそれまで一つの言葉で話していた弟子達がいくつもの言葉で話すようになった。大きな音がしたので、祭りに来ていた人がここに集まってきた。12弟子たちが自分たちの国の言葉でしゃべって言うのに驚く。ペテロがやがて種々の言葉で説教を始めた。これは「イエスの、教えを世界に、すなわち異民族にも広めなさいと言う啓示である。」ということらしい。ここからキリストの教えはユダヤ教の一派ではなくなったわけだ。これをペンテコス(Pentecost精霊降臨)という。でも、でもだ。そもそも違う言葉をしゃべるようにしたのは外ならぬ神ではなかったのか。この矛盾はどう説明してくれるのだ。
  この建物自体は、13世紀の十字軍時代の物(アーチの先が尖っている形状などその特徴から明らか)なので、そのようなことはあり得ないのだが、そう信じられているのだ。柱の3匹のペリカンも、中央は母親でイエスを象徴し、母親の肉を食べているのが子供、人間がイエスの死によって救済されると言うことを表しているという。
  当時は食堂であったが、前述のような所以でモスク形式に変えられてしまっている。最初の写真でわかるように、ミハラブが造られている。

8−2−6−3 ダビデの墓 1141〜1150
 男女別に入口になっている。ここでも男性は帽子をかぶらなければならない。
 ギュウギュウの中を進んでようやく棺の前に出る。非常に大きい棺だ。と言っても本当の棺ではないというのだが、これも信じる者には叶わない。
 タナハによれば、ダビデの墓は町の中にあるというのだから、元祖エルサレムである城壁の外のヤブースという町にあると言うことになっている。だから嘘。だいあたいこうした埋葬方法でなかったことは、キリストの墓を見ても明らか。
 6世紀頃、シオンの丘とダビデとの間に何らかの関係があるという伝承がユダヤ教徒の間に生まれた。それを、9世紀にイスラム教徒がここがダビデ王の墓であると決めつけた。さらに12世紀になると、キリスト教徒もそれを信じるようになり、13世紀になるとユダヤ教徒もそのことを事実として受け入れるようになったのだという。
 どうしてなのかは説明もなかったので分からないが、要するに既成事実として人々の中に入り込んでいったのだろう。

8−2−7 鶏鳴教会 1156〜1245
 鶏鳴教会へは、シオンの丘から歩いて行った。まず展望台に行ってオリーブ山の全体を見渡して昨日の見学箇所を確認した。

8−2−7−1 展望台
 まず展望台に行ってオリーブ山の全体を見渡して昨日の見学箇所を確認した。
  昨日は確認できなかったが、イスラエルが作ったパレスチナとの境の分離壁。高さ5〜6メートルのコンクリート製。両側には砂地を設け、警戒をしているという。世界からはベルリンの壁を連想させると非難囂々らしいが、地元の人は喜んでいるという。
 その理由は、イスラエルの人にとっては勿論安全が保たれると言うこと。パレスチナの人にとっても安全にイスラエルに入れる事になると言うのだ。つまり、壁の間からきちんと検問を受けてイスラエルに入り、高い給料で仕事にありつけるというのだ。パレスチナ人の多くはそうしたがって実はいるのだというのがガイドさんの説明。テロがあれば国境封鎖するので、パレスチナ人も困ると言うことのようだ。だから地元のことは地元に来なければ分からないと言うことだった。だからパレスチナのナンバーがあったのだ。
 さてパノラマ写真の右の建て込んで建物が建っている辺りがヤブースではないかとされているエリア(ダビデの町と呼ばれている)。ソロモンの時代に左の神殿の丘を買い取って拡張し、更に西側に広まっていった。このダビデの町と呼ばれるエリアにはわき水の出るところがり、そこで最初の町が形成されたわけだろう。
 展望台の右下の方に見えるのが、ヘケルダマといギリシア正教の修道院。ユダが金のために裏切り、苦しさに耐えかねて首つり自殺した場所に建てられていると言われ、ヘケルダマとはアラム語で「血の畑」というすごい意味だ。

8−2−7−2 鶏鳴教会
 聖ペテロが、3度イエスを知らないと言ったのを記念して造られた教会。勿論良い意味ではなく「悔い」を忘れないために造られたのだ。裏切りの記念ではなく、後悔の記念の教会だ。ファサードの部分の青い衣をまとっているのがイエス。正確にわからないだろうが、この場所には既にユダはいない。赤い衣をまとっているのがペテロ。おまえは三回裏切るというイエスに対して、「決してそんなことはない」と彼が言っている場面。ちなみにイエスの指は三本立っている。
 この教会は、大祭司カヤパ(紀元18〜36年在位)邸宅跡と伝えられる場所に建てられている。ゲッセマネの園で捕らえられたイエスは、谷底の方からカヤパ邸に達する幅広い石段を通って連れてこられた。この石段は19世紀になって発掘され、2000年前のものであることが確認されている。ペテロがイエスの言葉どおり、3度主を否んだ庭もこのカヤパの官邸での事である。ここでは、穀類を入れる貯蔵庫、ワインの貯蔵庫、天秤、ミクベなどが発見されている。神殿詣りの時の納めたものの彫像エリアではないかと思われ、そこから大祭司の家という類推に結びついた。
 教会の地下には岩の牢屋が大小あり、その小さい方でイエスは最後の一夜を留置され、そして総督ホンテオ・ピラトの法廷へ連行された。ユダヤ教の立法では死刑はない。極刑というのはむち打ち40回であった。そこが生死の分かれ目と判断していたらしい。横柱に手を縛り、つま先立ちにし、鉛の入った革の鞭でたたいたと言うことだ。気を失うと、塩を振りかけ目覚めさせて再開したという。
 地下にある「鞭打ちの部屋」。両腕をつるされて鞭を打たれたという部屋だ。隣には、「吊しの牢」。四方を壁に囲まれて明かり取りすらない。そこにはイエスの影と言われる少し黒くなった部分がある。そう言われるとそう見えないことはない。信じよ!
 2階には、新しい教会が建てられている。
 ところで時間があるときにガイドさんにここの真偽を尋ねたところ、かなり考古学的には怪しいのだそうだ。吊しの牢と言われているような所も、物を吊すなどをしただけで、牢屋ではなかったという解釈らしい。歴史ロマンを消してしまうが、あまりにも宗教が、ことの事実をねじ曲げているということなのだろう。信仰の怖さを見た。

8−3 昼食 1303〜1405 オリーブ&フィッシュ 17℃
 オレンジスープ、パン、サーモン、ポテト、サラダ、ココナッツソルベ、ミントティー。
 さすがに首都のレストランだけあって、サービスなども洗練されていた。中華に引き続いて、何かほっとした感じの食事だった。

8−4 イスラエル博物館
 イスラエルの建国以前から、美術品の収集で知られていたベツァレル民族美術館が発展解消し、1965年に国立博物館として発足した。国会議事堂(ハクネセット)の向かいの丘に幾つかのモダンな建物がある。ここにはユダヤ民族美術および世界の美術コレクション、イスラエルにおける考古学的出土品、20世紀最大の考古学的発見と言われる死海文書などが収められている。博物館は全部で5部門に分かれている。
 写真は、死海文書を作ったエッセネ派の終末思想「光の息子たちと闇の息子たち」をモチーフにしたものだという。光の息子たちすなわちエッセネ派が、闇の息子たちすなわちその他のユダヤ教徒に勝つという考え方。勝つ方法はやはり死海文書にあるという。

8−4−1 第二神殿時代の模型 
 模型は、実物の50分の1の大きさで、第二神殿時代のエルサレムの様子が復元されている。考古学者が再現させたのだが、なにぶんにも資料が少ないので、発掘が進んだり新たな資料が見つかったりしたときには随時訂正されるのだそうだ。
 人間も描いておいてほしかったところだ。約3センチくらいになるので難しかったかもしれない。それから、もう少し高い位置で俯瞰して眺めたかった。
 なお、イスラエル博物館のページに第二神殿時代のこの模型のバーチャル映像があるので、リンクをしておく。

8−4−2 死海写本館 1425〜1513
 イスラエル博物館の一つ。建物の屋根は、旧約聖書の巻物が入っていた壷のフタの形をしている。
 クムランから発見された写本が集められている。建物の中は薄暗くて足下もおぼつかないほどだったが、これは保存のためだという。永らく隠されていた時にはそれなりに保存状態が良かったのだろうが、こうして地上に出されてしまうとどんどん劣化してきているのだという。そのために光りができるだけ当たらないようにしていること、半年ごとに展示作品を代えること等工夫しているのだそうだ。展示もあまり立てず、35度くらいのやや平らな状態で置かれていて、重力に対する配慮もされている。
 写本には、「タナハ(旧約聖書)」・ユダヤ文書の「外伝」・エッセネ派の「戒律」の三種類あるそうだ。中でもイザヤ文書は完ぺきに写本されていて7.5mもの長さになるそうだ。これはさすがに原本ではなくてコピーしたものが展示されていた。これらはヘブライ語でかかれているがヘブライ語が読める者はその2000年前の文書が読めるという。
 死海写本は、クムランおよびその周辺から、1947年から1956年までの10年間に見つかった、約1万5千の写本の断片から950の巻物(そのうちタナハは250)を40年かけて蘇らせた、世界最古のタナハおよびその他の写本は、イスラエル第一級の国宝である。今日なお修復は続けられているが、修復の過程では日本の和紙も使われているとのことだ。
  建物内部もそれに合致するようなすばらしい設備になっている。写本やそれが入っていた壺そして写本用の筆の他、革のサンダルや、石のコップなども展示されている。トイレ用のスコップや、農業用のカマなども展示されていた。
 地下には「アレッポ写本」が展示されている。10世紀にシリアのアレッポから発見されたこれは「死海写本」が発見されるまで世界最古級の旧約聖書の写本とされていた。これは1冊の本として見つかったもので、現存するのはそのうちの294ページ(元々は390ページあった)のみだそうだ。制作されたのはティベリアで紀元後10世紀。カライ派という派が買い取りエルサレムのシナゴーグにやってきた。セルジューク朝によって奪われカイロに渡る。そこで再びユダヤ人コミュニティーが買い戻す。11世紀から12世紀の話。14世紀にアレッポのユダヤ人コミュニティーに流れてゆき、そのあとは超神聖な写本として洞窟などに大切に保管されていた。1947年11月国連がユダヤ人国家樹立に動き始めたときアレッポでもユダヤ人虐殺が起き、この本も一時期無くなった。後に発見されるが四分の一は散逸した。その後イスラエル国家に寄贈された。(上の写真はヨルダンで見た死海文書。銅製。死海文書の中には銅製の物もあるという記述が日本語版ウイキーペディアではある。)
 残念ながら前述のような事情もあり、死海写本館内の撮影は禁止されている。そこで、イスラエル博物館のページから、死海写本のスクロール表示のページと死海写本館内部のヴァーチャルツアーのページを紹介しておきたい。なお前者は、表示されたページの左下の「To view the scroll」をクリックしてもらいたい。


2008年10月5日追記:「死海文書をデジタル化でネット公開へ」というニュースが9月末に流れた。まだネット上でのリンクは公開されていないが、たとえばクリスチャントゥデイMSN−産経ニュースが伝えている。

8−5 ヤド・バシェム 1525〜1730 17℃
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによって虐殺された600万人(そのほかに同性愛者、障害者や病気のドイツ人、ジプシーとかポーランド人などの500万人合わせて一千百万人が虐殺された)のユダヤ人たちを慰霊する目的で建てられた博物館。イザヤ書に出てくる「我が家、我が城壁に刻む、決して消しさられることがない記念と記憶」というヘブライ語のヤド・ヴァシェム(記念と記憶)にちなみ、その名がつけられた。
  三角屋根の歴史博物館ではホロコースト(虐殺)に関する歴史や写真、切り抜き、遺品、生還者の証言ビデオなどが、悲惨な当時の様子を伝えている。その構成は、最初に幸せだった日々の映像が流されている部屋から始まる(上の写真左)。それが部屋をジグザグに進むにつれて、狂気の世界に変わっていく様が、時間別地域別(フランスから奪い取った北アフリカにも及んだ)に淡々と展示されている。改めてナチスが侵略した国の範囲の広いことに驚き、その各国で同じようにユダヤ人を虐殺していたのだから、本当に逃げ場のない世界に置かれてしまっていたのがよく分かった(写真撮影は当然ながら禁止なので、上の二枚で雰囲気だけをつかんでほしい・・・最後の写真は英語版のWikipediaから)。
 その中でも子ども博物館は、印象的だ。館内は真っ暗で周りは全て鏡になっており、ロウソクが灯るなか、スピーカーから流れてくるのは、犠牲になった子どもたちの名前だ。ここは暗闇と音の世界だった。
 庭園はユダヤ人をナチスから救った異邦の善き人を記念して植樹されており、日本のシンドラーともいわれる杉原千畝さんのものもある。
 また、「コルチャック先生の碑」もあった。コルチャックは、ポーランドの小児科医、孤児院院長で、児童文学作家。ナチス・ドイツの統治下のワルシャワゲットーで、ユダヤ人孤児の孤児院を運営することになる。孤児院の200人の子供たちは、親衛隊によりトレブリンカ強制収容所(正しくは、トレブリンカ抹殺キャンプ)に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、子供たちと共に移動し、日記の記載がそこで終わっているため、恐らく1942年8月5日、ナチスにより子供たちと共にガス室で殺害されたと思われる。彼が考えていた子どもの理想は、死後47年にして国連で「子どもの権利条約」として実現された。日本も1994年に批准国となっている。

8−6 ホテル 17:30 Novotel Jersalem 457号室
 ホテルでやはりビュッフェ形式の今日も夕食だった。でも則はカレーがあったので喜んで食べていた。
明日の朝は早いので、荷作りをしてから早めに寝ようと思ったが、結局はいつもと同じ時間くらいになってしまった。といっても9時頃には寝てしまうのだから、日本にいる頃と比べるとすごく早い。
あとは日本へ帰るために、非常に入国以上に厳しいと言われる出国検査を終えて、無事にイスラエルを出国できるよう祈るだけだ。