8月16日(水)快晴 シラーズ・エスファハーン

起床(0530)朝食(0600)出発(0800)北門通過(0805)CP(0810〜0818)ブドウ畑地帯(0830)ペルセポリス通過(0948)水田地帯(0958)CP(0932〜0935)パサルガダエ(0955〜1128)昼食(1315〜1412)CP(1430)GC(1547〜1600)CP(1705〜1710)ホテル着(1747)夕食(1947〜2105)就寝(2220)・・・走行距離500km

10−1 朝
 ホマホテルの朝食はさすが洗練されている。ただ内容は変わりはない。
  さて今日も道中は長い。500qほど走るという。途中でキュロス二世(キュロス大王)の墳墓といわれる墓および彼の宮殿跡を見学する。シラーズからは、昨日ペルセポリスに行った道をたどり、更に北上する。キュロス大王の墳墓のあるパサルガダエまではおよそ2時間の行程。

10−2 道の途中
 シラーズ北門(コーランゲート)を通過して、まずは昨日と同じ道を途中まで行くことになる。
 昨日道の両側にずらりとペットボトルのような物を売っていたので何かと思っていたら、この辺りはブドウ畑が続いているとのことで、ブドウジュースを売っているのだそうだ。葡萄酒をかつて作っていた、というか葡萄酒発祥地の一つでもあっただろうイランが、今はブドウジュースだ。悲しい。(イランのエラム期の遺跡からは世界でも最も古いものの一つとされる葡萄酒の残存物が付着した容器片が発見されている。・・・英語版WikipediaのWineの項)
 ペルセポリスへの分岐点を過ぎてしばらくすると水田らしき物が見られるようになった。そこで、農業について説明をしてくれた。イランは三毛作をしていて、米、小麦、トウモロコシと作付けが代わるという。他にも農産物がとても多く、産油国というよりも農業国と言った方がいいらしい。と言うことはイランに対して兵糧攻めというのは効果がないようだ。ただ、やはり経済制裁はきついらしく、帰国してからそのために新しく航空機を購入することができず、かなり古い機体を使っているというのを知ってゾッとした。
 この辺りの農作地帯はベドウィンのテントも目立った。羊飼いと農民、土地をめぐる争いもかつてはあったそうだが、今はうまく共存しているとのこと(レザーシャー時代に彼がこうしたシステムで両者を和解融合させた?という説明もあった)。つまり、農繁期にはベドウィンがそれを手伝ったり、刈り取った後の畑はヒツジに開放してその糞を畑の肥料として活用したりといった具合。
  その過程で、ベドウィンたちは畑の間を行き交う自由を手にした。

10−3 世界遺産:パサルガダエ  9:55〜11:28
 さてパサルガダエ(Pasargadae)は、大イラン帝国の発祥の地ともいえる場所だ。上の地図は、その最大域を表している。英語版Wikipediaのこのページから直接リンクを張って引用した。
 パサルガダエという名も、「ペルシャの本営」という意味だという。それまでイランは概ね北側にあったメディア王国と南側にあったエラム期を経たアケメネス王国が二分してあった。これを統一したのが、キュロス二世である。
 彼は紀元前550年にメディアを滅ぼし、現在の原型のイランの形を作り上げた。アケメネス朝ペルシャと呼ばれる時代の幕開けともいえる。その後領土を拡大し、エジプトからインド西側までを含む史上初めての巨大帝国を作り上げた。上の図はそのときの帝国の姿。
 彼の業績の話は、みなヘロトドスの「歴史」によっているらしく、読む解説書に記載されている内容はほとんど一致している。また、現地ガイドの説明も同様だった。
 彼は寛大で、破壊と殺戮を侵略地において行わず、隷属させず自主的部分を残し、たとえば彼自身の宗教は拝火教だったが征服地の宗教を原則許容した(*1)。人類史上「人権」という意味の言葉を最初に使ったのがキュロス大王だと現地ガイドは胸を張った。
 埋葬されている土地は、その昔に彼がメディア軍を破ったその場所とされる。
 この地パサルガダエだが、彼の死後もダレイオス1世によって引き継がれ造営が行われた(ペルセポリスが作られるまで続いた)。ダレイウス1世は都はスーサに定めたがその戴冠式はここで執り行った。その敷地は広大であり、我々も見て回ったのはバスに乗ってであった。実はバスがゲートの前で一旦停まった。トイレ休憩を兼ねてで、キュロスの墓まではバスに乗るのが通常らしいが、気の早い則をはじめとする面々は既に歩き始めていた。
*1 2008.2.3追記 この方針があったからこそバビロン捕囚の解放が実現した。歴史はそのとき動いたのだ。これによって、エルサレムの地に第二神殿が建設されることになる。

10−3−1 キュロス大王墓
 さて、彼の死にまつわる物語だが、彼は、長男をエジプト遠征に向かわせ、自身はインド方面に遠征し、その途中の今のタジキスタンあたりで戦死したとされる。遺体は、この地迄持ってこられ、拝火教であるから土中ではなく、石棺の中に埋葬された。
 キュロス大王墳墓は今は残念ながら、保護のためであろう、覆いがかぶせられており、特に背面に回るとまるで修復中のような感じになっている。
 さてその構造は二段になっている。台座部分はちょうどエラム期のジグラット(天空と交信するためにより大地より天空へと延ばした階段ピラミッドのようなもの)に似て、階段状になっている。この階段部分は神殿を表現している部分であり、その段数6段。そしてその上に石棺部分がある。
 石組みには所々欠損が見られる(写真参照)。これはここに鉛を使っていたからで、後に鉄砲の弾の材料にされてしまったらっしい。これは強度を保つためのものだ。
 そこに葬られたとされる遺体は石棺とともに消失している。これはアレキサンダーの遠征時に消失されたと説明を受ける。なぜ破壊し尽くさなかったのか。彼の説明は、さしものアレキサンダー軍もキュロスの業績に対しそこまで出来なかったというものだ。ペルシャの魂までをも破壊は出来なかったのだろうか。
 現に、アレキサンダーそのものも、征服地への施策はキュロス大王に似たやり方、つまり征服地を尊重した施策を採用したという。「歩き方」にはソロモンの母の墓とかつて呼ばれたと記され、それ故に破壊から免れたとする説もある。日本の天皇家を連合国側が温存したのと同じ理由かもしれない。現地ガイド氏の説明の方が妥当かもしれないと思った。
 右の写真は、見張り塔方面を望んだもの。

10−3−2 東門の宮殿
 そこからバスに乗って、東の門まで行く。東門の宮殿に向かって入る方向で右側の部分といわれるものが残されている。ここもカバーがある。それもそのはずで、上部には近世までエラム語・バビロニア語・古代ペルシャ語で同文「我はアケメネス族のキュロスなり」と書かれていたが、崩壊したらしい。今はその部分はコンクリートが塗られ、痛々しかった。
 さてここには、それ故にキュロスの像と言われるものが残されている。屋根で保護されているそれは4つの羽を持つ。この部分はエラム風だという。4枚羽は四方への拡張された領土を表しているとも言われるという。頭には、羊の角の形で描かれた冠を乗せているが、これはエジプト風であるという。また理由は定かでないが、足の部分はアッシリア風であるという。
 このキュロスの像は、王宮そのものを象徴しているようでもある。その当時の新興勢力だったアケメネスにとっては、エジプトや古代オリエント世界のような石造建築物への技術的な発達は無かったと推定され、征服地からの当時の最新の技術を導入することによって、王宮そのものが建設されていったともいえる。そういう風な様々な地域の特徴が、石造建築物軍に残っているゆえんとも言う。それは王の征服地許容政策のなせる技なのかもしれない。

10−3−3 宮殿跡
 次に書物によっては橋、ガイドによれば炊事場の横を通り、(一つの)宮殿跡とされる場所へ行く。現地ガイドの説明ではレセプションルーム。
  ここは敷石の上に更に基壇があるという構造になってる(他の場所も概ねそうらしい)。日本家屋の建築時のベタコンのような構造なのだろうか。そこには、玄武岩で作られた黒光りしていたであろう構造物があり、人物外が描かれていたらしいが、上半身部分はかなりは損を受けている。
 ここに碑文が立っている。古代ペルシャ語・エラム語・バビロニア語で「我はキュロス、アケメネスの王である」と書かれているという。
 また、魚と人間が合体した下半身のレリーフがある。魚はエラムの神様なのだそうだ。
 少し先の何本もの柱がきれいに並んでいる所はキュロス王の宮殿とされる。修復中であり、囲われていて中に入ることはできないのでバスで通過した。

10−3−4 見張り塔
 また門(prison of Solomon)と思われる部分も通過。これはいくつかの部分を組み合わせたものなのだそうだ。
  見張り塔だったところに登る。およそ2q四方に散らばるという、宮殿および墳墓などがほぼ一望できる。急坂を登ったかいがあった。上の写真で会議場跡と書いたが、宮殿跡とも言われている。またソロモンの刑務所と書いたのは上の「門」と思われると書いたところ。正面から見ると右に写真のようになっている。
 これで本日の観光はおしまい。後はイスファハンに向かうだけだ。昼食場所までおよそ2時間くらいかかるというので、トイレに行きたいという人がおり、元の入口まで戻ってトイレ休憩をした後出発する。道の両側には何もなく、土獏地帯が続く。

10−4 昼食
 昼食は相変わらずのメニュー。が、柔らかく煮込んだ鶏のもも肉のかたまりが出てきたのが目新しいか。他に特筆することはない。
  そうそう、入口に各旅行会社のシールが貼ってあったのだが、今回の我が利用会社のはなかったので早速添乗員に申告して貼り付けてもらったたことか。勿論この店の了解などはないよ。写真は、実に二枚も貼ってしまった添乗員Yさん。

10−5 バスの中で
 道中の過程で、現地ガイドの話が始まる。

10−5−1 アザーン
 きっかけは、誰かがアザーンの声があまり聞かれないという質問からだ。だいぶ前に則がつぶやいていた話を誰かが質問したらしい。今アザーンの声と書いたが、現在では他の国でも皆スピーカーによる放送に変わっている。逆に言えば、それはまた我々観光客には、時に早朝の3時4時に聞かされるのは結構な苦痛になる。しかしイランではそういうことはない。これはスンニ派とシーア派との違いによものではないか、というのが添乗員Y氏の見解だ。片っ方は一日5回の礼拝だが、シーア派は一日3回の礼拝でよいことに由来するのではないかという見解だ。現地ガイドに聞くと、その見解は違うと言うことだ。

10−5−2 モスク参り
 実は、前から、現地ガイドは体制にかなり批判的な内容の話があった。たとえば、「イランは安全な国です。イランはアラブではありません。イランが危ないのは交通と宗教指導者だけです。」といった具合だ。
 彼は答えて言う。
 「金曜モスクに金曜日に行ってみればよい。金曜日でも礼拝者は少ないはずだ。モスクにお参りに行くのは、現在の体制に荷担する行為だ。一般の庶民は、今の政治システムがよいなどとは思ってはいない。礼拝は心の問題だから、皆家庭で祈る。礼拝に参じないのは、宗教心が薄いわけではない。心の問題だ。
 イランの現状をより理解するために一例を挙げれば、私の知り合いが病人がいるのにアザーンがうるさいと警察に電話したら、アザーンは中止された。教会の地位というのは、そんなものだ。」
 そういえば、ケルマンにミナレットのないモスクがあった。理由は、あまりにも民家が接近していて、私生活を覗かれる心配があったので、ミナレットを建設しなかったというような話を聞いた(前述)。
 興味深い話だが、宗教心は心の問題であり、必ずしもモスクを必要としない、神はいつでもそこにおられるという思想が、イランにはもともとあるのかもしれない。ガイドという職業柄、様々な国の人と接する。様々な国の文化を目にする。ガイドという職業の人たちは、体制従属型の人は少ない。この人もそうだろうか。イランという国が少なくとも見せる一つの側面であることだけは記憶にとどめてよいだろう。

10−5−3 シュラインとモスク
 また、話的には前後するが、イランのイスラムにおけるシュライン(神社)と表現する彼の話と、モスク(すなわちイスラム寺院)の違いをこう説明してくれた。モスクは礼拝堂であり、彼がシュラインと称するのは霊廟およびそれを伴ったモスクだという。

10−6 休憩の店で
 フラフラと店に入って面白い物を見つけた。丸い物で何?と思ったらジュースを固めたものだというのでとにかく買ってみることにした。そうやって食べるのだろうと思っていたら、店の人が食べ方を教えてくれた。みんなで味見したが、味の方はどうも今ひとつ。確かにジュースを濃縮した味なのだが、濃すぎる感じだ。
 後日、日本の土産にいくつか買い求めた。

10−7 ホテルで
 さて目的地イスファファンには、後半の道路事情はかなり改善され、まだ日のあるうちの到着となった。これは疲れている我々には有り難かった。
 いざ着いたが、それから一騒ぎあった。
 まず、鍵の束を従業員が添乗員に渡さないのだ。自分で持っている。それで仕方なく添乗員もホテルマンに案内させようとするが、我々の階が違っているのだから彼とて立ち往生だ。結局また添乗員が配ることに。ここのシステムは後でわかるのだが、少し他と違う。カードキーと普通のキーとが渡される。カードキーでも開くし、普通のキーでも開く。ただし、カードキーは部屋の所定の場所に入れないと電気の供給がされない。多分その辺りを説明したかったのだろうが、1人で9部屋は欲張りすぎだ。
 まぁそのことはともかく、我々が乗ったエレベーターはどういう訳か、ボタンを押していない降りる人のいない4階に到着。しかも30センチも4階のレベルより低い位置だ。シンドラーの事件(日本で頻繁に事故を起こしているエレベーターのメーカー)を思い出す。則は危険と思い、降りた。他の皆もそれに従う。4階から5階には従業員用のエレベータで上がる。
 部屋に入って、カードキーを差し込んでも灯りがつかない。しばらくして誰かが、カードキーの表裏の向きによって灯りが点く点かないが決まると言うことを発見。無事に部屋に入る事ができた。ようやく入った部屋だが、バスタブがない。ここで3日間過ごすのにちょっと、いや大分がっかりだ。
 そうこうしているうちに、添乗員氏から電話あった。ここの会社は、こうしたトラブル対応力は前回も抜群だった。他の部屋でもかなりトラブッているようだ。
 部屋にバスタブがないと伝えた。しばらくしてまた電話。バスタブがないのは我慢してもらえるかとの照会。まぁ仕方がない。
 夕食の集合時間になったので、階下に降りる。さっき故障したエレベータがきたので、パスしようとしたら、現地ガイドと運転手が乗っていたので、何かあっても安心だろうと乗る。無事1階に下りたが、各部屋から様々なクレームがあり、添乗員氏はその対応に当たっていた。殆どの人が部屋を変えてもらったようだ。
 このホテル、新築と言うが、そうではなく、改修したのではないのか。だから部屋のプランニングがおかしくなって、部屋の中に柱があったり、電気の場所がベットでふさがれていたりするのだろう。コンセントなど壁にたくさんついているので、改修は最近のことだろう。

10−8 夕食
 夕食場所は、我々のホテルよりも高級なホテルの中庭だった。キャラバンサライがあった場所かあるいはそれに似せて作った巨大な中庭に食事スペースがあり、我々はそこの「トラディショナル・レストラン」と書かれた所に入った。
 どういう訳か、ケバブはなかった。ジャガイモとトマトと肉団子のスープがおいしかった。

10−9 世界遺産:夜のイマーム広場 
 そのあと、メンバーの一人のリクエストに応じて、夜のイマーム広場に行く。もういい加減歩きくたびれたと思ったところが、イマーム広場の中央だった。すっかり日は落ちているが、池の周りにはライトアップされたモスクや宮殿がきれいに浮かび上がっていた。
 夕涼みをしている人、オートバイを乗り回している人、サッカーボールを蹴っている人などで溢れていた。そこで10分ほどの写真タイムの後、帰路につく。

10−10 順の変調
 ホテルに戻るとくると、順さんが急にすぐ寝ると言い出した。様子が変わったのに則は気がつかなかった。聞けば、どうも夕食の途中から寒気がしてきたというのだ。則も同時に寝ることにする。則は、このときはたいしたことはないと未だ認識が甘かった。だから、順よりも早くすぐに寝てしまった。

<ホテル>
アセマンホテル[Aseman Hotel] 503号室
・TV・冷蔵庫・クーラー・スリッパ・風呂用サンダル
・シャワーのみ・石けん・シャンプー