8月13日(日)快晴 ケルマン・バム

起床(0400)朝食(0700)出発(0800)バザール散策(0813〜0915)マハーン、シャー・ネエマトッラー・ヴァリーシュライン(0950〜1017)CP(1028〜1032)アルゲライアン(1115〜1200)昼食(1210〜1300)CP(1359)仮設住宅地帯(1410)ガナートの列(1435〜)バム(1443〜1600)ホテル着(1616)夕食(2000)就寝(2130)・・・41℃ 走行距離200km

7−1 朝
  旅もはや中日となった。皆食事に飽きている頃とみえ、今日は朝からおかゆが出た。昨日、添乗員氏が現地ガイド氏を通じ、ホテル側にリクエストをしていたからだ。なかなかの配慮といえる。そして、ホテルの女主人が腕をふるってくれたのだった。現地の長粒種を使ってであるが、なかなかの出来映えだった。美味しくいただいた。

7−2 金曜モスク&バザール 8:13〜9:15 
 朝の出発等タイムスケジュールはいつもの通り。昨日作った絵はがき4枚をホテルに委託する(9月5日到着)。最初にケルマンの町の金曜モスクに行った。ここもタイルの美しいモスクだったが、ミナレットが欠損していた。欠損している理由は、モスクと人家が近く、昔は実際に人がミナレットに登ってアザーンを唱えていたので、プライバシーが保たれないということで建てられなかったという。この説明があっているかどうかは定かではないが、(失礼な言い方ではあるが)たとえ出任せにしても。驚くべき論理だ。つまり、この国の人は元々、宗教とはどこか斜向かいに対峙して暮らしてきたのではないのか。ガイド氏を信じれば、そうした思いを強くした。その代わりかどうかわからないが、モスクのファサード部分の上には時計が鎮座ましましていた。時計を見て自信で判断し祈りを捧げるべしと言うのであろうか。
  次ににまたまたバザールだ。ただしここのバザールでは、屋上見学をすることはなかった。ホッとする。これから店を開けるという感じの所も多かったから、開いているのは半分くらいだった。
 ここのバザールは一直線なので、その片端から入り抜ける形で見学した。
  一方の端にはドームがあり、その形はイラン式だった。つまり単純なドームではなく小型のドームを積み重ねたような形で、ここのはその小ドーム(パーツのドーム)が12にあり、12角形であった。内部には、かつてこの地に住んでいた或いはここに集った、或いは通過したとおぼしき人々の絵が飾られていた。
 則はそのドーム近くの広場に面したところにある銀行の「マネージャーである」と自己紹介した人に話しかけられた。行ったことがあるのかどうかわからないが、日本は美しい国と行ってくれた。イランもそうだと応じた。喜んでもらえた。
 バスに戻ってから、過日「薔薇水」を購入した人が飲ませてくれたが、はっきり言ってマズイ。つけるもので、飲むものではないと感じた。
 
7−3 シャー・ネエマトッラー・ヴァリーシュライン 
                      9:50〜10:17 
 
 マーハーンという町に入るとガイドがきれいなシュラインがあるので寄って行こうと急遽決まって見学。シュラインというのは、現地ガイドによると霊廟と言うことだ。というわけで、ここはシャー・ネエマトッラーという人の廟だ。
 入り口の扉には、当時のままという象牙の象眼が残されており、また天井の幾何学模様も美しかった。廟の中に入るには料金がいるが、それと知らずに入ってしまった我々は料金を請求されてもとぼけてしまった。でも結局お金を何人分かは知らないが、添乗員さんは取られたようだった。ゴメン。中はとても荘厳な感じがして、真剣に御参りをする人がいた。入場料を取るくらいなら、遠慮せず写真を撮るのであった。

7−4 アルゲ・ライアン (*1) 11:15〜12:00

  さて、今日はバムまでの途中にアルゲ・ライアンという、やはりバム形式の街を訪れる。ここは地震の影響が軽微で、よくその形をとどめているという。バム崩壊以来脚光を浴びるようになったということだ。遺跡は確かに一部修復をしていることもあるが、保存状態は悪くはない。ここはイスラム時代のものというのが前提だが、ササン朝ペルシャ時代にまでたぶんその基礎的部分は遡れるだろうと言われている(may in fact have foundations from the pre-Islamic Sassanid era)。←※1
 モスク(緑色の部分)や一般の人々、貴族エリア、王族の居住エリアなど、区画が分かれている。門には投石用の穴、砦部分には矢を射る穴なども見て取れる。紺色のところはバザールで、紫色は広場中央の薄いオレンジは王宮部分。二人が写っている左の写真は、図の水色部分(たぶんサウナだと思う)あたりから王宮部分に向けて撮った。王宮エリアはかなり復元が進んでいる。また今ひとつは、モスク方向を城門(茶色の囲い=城壁=が切れたあたり・・・図では左下あたり)の上から狙った写真。
 この城壁都市はそう大きなものではない。城内には一定の身分以上の人々およそ1千人が住んでいたという。インドのカーストのような身分制度があったとのことで、庶民は場外に4千人くらい住んでおり、いったん事が起こると城内に駆け込んだのだそうだ。 このような城塞都市というか、辺境を守る都市が多数存在したのだろう。
 ここでも屋根の上を歩いたりして写真を撮った。というより全体を知るためには、上から見渡した方がよくわかるのだ。逆に言えば、この城壁都市が、ちょっと高いところに登れば一望できる、平城タイプのものだと言うことだ。このことは押さえておく必要があると思う。

7−5 昼食 1210〜1300
  アルゲ・ライアンの城壁を出て数分の所にあるレストランで食事をした。今日は野菜サラダはなかった。砂漠なので高いからかもしれない。そのほかはいつもと同じだが、お米がおいしかった。
  レストランの庭には、ザクロ(イランはザクロでも有名)が丁度実をつけていた。「ザクロは人間お味がするんだよ・・・」と言っても、あまりみなわからない様子だった。残念。
  このレストランは2004年に観光整備の一環で開業されたものらしい。

7−6 仮設住宅
 食事の後は一路バムへ向かう。いったん折れていたアルゲ・ライアンへの道を本線まで戻り、そこから約110qである。アルゲバムに近づくにつれ高度が下がってきたので、だいぶ気温が上がってきた。アルゲ・バムまで30qくらいの、街の手前左側にたくさんの仮設住居が建っていた。バム崩壊後、ここに(も)建てられたものらしい。ただし、遠望で定かではないが、現在は殆ど放棄されているようでもあった。更にバムに入っても仮設住居を見ることができた。崩れたままになっている家屋などもまだ見られ、まだまだ地震の爪痕が残っている。(2003年12月の大地震・・・外務省による概要
 町中では至る所で工事をしている。中でもひときわ目立つのはサッカー場の工事だ。サッカーチームの肝入りらしいが、何か違うような気がしないでもない。もっとも観光客を呼び込まなければ町の復旧もないことは確かだ。
 バスは更にしばらく走ってアルゲ・バムの入り口に着いた。

7−7 世界遺産:アルゲ・バム 
 アルゲ・バムの入り口には乗用車が1台停まっているだけで、来ている人はいなそうだ。則はこんな時間に観光にやって来るなんてクレージーだとつぶやいた。一番太陽が高い時間だ。入り口も鎖で閉鎖されていたが、それを乗り越えて中に入った。勿論ガイドの口利きがあってのことだ。
 さて最初に目に飛び込んできたのは日の丸のマークだった。正確には日の丸のマークをつけた重機車だった。日本の援助の手がかなり入っているとは聞いていたが。また、日中に修復工事もないのだろう、日本の方が現地の人と協力して修復に当たっているというような光景は見られなかった。というより、我々以外には誰もいない、まさに死んだ町(バム)であった。
 さて、アルゲ・ライアンはアルゲ・バムのミニチュアといわれる。確かに、アルゲ・ライアンの街の有り様は、アルゲ・バムの壊れた町中を彷徨する際に、在りし日の姿をイマジネーションとして描くのに大いに助けになるものだ。アルゲ・バムは規模はもちろんアルゲ・ライアンの比ではないほどに十分に大きいものではあるが。たとえば、右の写真はかなり損傷は激しいものの、その残骸部分の形式から、モスク跡ではないかと推定(想像)することが出来る。
 アルゲ・ライアンとアルゲ・バムの決定的な違いは、アルゲ・ライアンが平地における城塞都市としての性格を持っていると思われるのに対して、アルゲ・バムは背後の岩山を利用した日本の城郭の歴史で言えば「平山城」に属するものだ。つまり、山岳城塞都市的性格を有している(残している)。居住区域は麓の平地部分にあるが、城塞部分は地形を利用したものになっている。左の写真で、手前部分が居住部分。そして背面の小山を利用して、っそれにへばりつくように建設されているのが、紫禁城部分、つまりアルゲ・ライアンの地図で薄いオレンジに塗った部分。このことは、日本の城郭史と同様だとするのならば、アルゲ・バムの方が規模との相違ばかりではなく、そもそもの建設年の年代的な違いにもつながるのだが。
 アルゲバムの歴史は、アケメネス朝まで遡れるとする説がある。そこまで遡れることに難色を示すとしても、カナートの形式からパルティア時代には遡れるそうだ(ユネスコのバムの評価書から)。
 さて見学である。ご存じのように、アルゲ・バムはもともと世界遺産の候補にはなっていた(発見されている世界最大の日干し煉瓦都市と言われている)ものの、2003年12月23日に起きた直下型の地震のために、遺跡はおろかバムの街全体が壊滅的な破壊に見舞われた。
  従って現在では、イランでは唯一世界危機遺産の指定を受けている。それ故に、見学路は、ロープ等で仕切られかなり限定されている(と実は後でわかった)。
 入り口(左上写真)を入ってすぐに左折して城郭都市の中に入る。
 道の左側地域が比較的裕福な層の、あるいは為政者側に近い層の建物があり、右側が庶民の建物がある。道の両側には商店街、今で言うバザールがあった。
 破壊の度合いはかなりすさまじい。が、元々学者が入っていたのだろうし、地震前の写真もかなり残されているため修復の目標値はあるわけだから、暗中模索度も低いだろう。また、地震のもたらした効果として、放棄される以前の過去の歴史層もあらわになったと言うことで、アルゲ・バムの歴史的解明が更に進展することが期待できる。この点を含んだユネスコの緊急の世界危機遺産登録がなされたものであろうと思う。実際ユネスコはNHK資料をも利用した修復に着手している。
 私たちは案内の手を伴っていたので、実は本来の観光客が出入りするエリアよりも更に上の層、すなわち城壁部分に入った。そこで説明を受け、解散となった。右の写真は城郭内部で、いわば閲兵場のようなところ。背面の建物群の修復がかなり進んでいることがわかるだろうか。
 私たちはゆっくり降りて、一番外側の城壁の部分で下を見下ろすと町の全体の様子がよく分かり(左写真)、当時を偲んでいた。他の人にもこの場所を勧めていると、突然現れた警備員が飛んできて何やらまくし立てている。言葉がよく通じなかったが、すぐに降りろと言うようである。さっきまで現地係員がおり、大丈夫だったのに<?>であった。というわけで、城壁部分には登れないと思っておいた方がよい。ということは逆に、バムの民家部分の破壊は地上部分でしか確認が出来ない。右の写真が平地部分から見た破壊状況だが、かなり土のかたまり同然になっている部分があることがわかる。
 破壊は新しい発見の始まりでもあったらしい。更に古い時代の遺構まで、地震によって破壊された下の層から新たに発見されたものもあると聞く。アルゲ・バムの新たなる発展に思いをはせて後にした。
 アルゲバムの在りし日の姿は、たとえばここで見ることが出来る。

7−8 ホテル
 ホテルはバム市外からやや離れたところにあり、地震時建築中だったということだ。4階建てだが、どういう訳かエレベーターが無かった。設備的には及第点のホテル。
  夕食はホテル内のレストランだった。少しでもバムにお金が落ちるようにしたかったが、食事時にアルコールを調達できないというのは、その意味でも致命的だった。食事のウズラのケバブは特別に提供されたもののように思うが、実はあまりに油っぽくかつ肉部分が少なく味も特筆すべき点はなかった。

<ホテル>
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