8月9日(水)晴れ ハマダン滞在

起床(0400)朝食(0700)ホテル発(0803)ガンジナーメ(0820〜0900)水買い物(0915〜0923)チェックポイント(0935〜0938)アリーサドゥル洞窟着(1030)昼食(1145〜1215)アリーサドゥル洞窟入場(1230)足漕ぎボート(1250〜1340)出発(1400)CP(1520〜1523)瓜買い物(1535〜1540)エクバタナの丘(1545〜1640)エステルとモルデハーイの廟(1645〜1710)ホテル着(1730)ホテル発(1945)夕食(2005〜2130)ホテル着(2150)就寝(2230)

3−1 朝
 食事は7時15分からということだったが、早く起きてしまった我々が朝食会場を除いてみると、まさに準備中というところだった。少し待って行ってみると何とか食べられそうなので席に着いた。勿論ビュッフェ形式なので、自分で持ってくるわけだが、食べ始めた頃にようやく全品が揃ったようだ。きっと、日本人はなんてせっかちな人種なんだろうと苦々しく思っていたことだろうが、気にしない。実際問題、定刻前に全員が揃ってしまった。日本のホテルではだいたい定刻前に行かないとまともに食事が出来ないのだからそうなのだが、習慣とは恐ろしい。
 出発するとまもなく公園を通りかかった。あちらこちらにテントが張られている。行けば、イランの国内旅行者なのだそうだ。雨のほとんど降らないイランでは、こうした形に旅行が可能なのだろう。もちろん、公園にテントを張ることは合法的なのだそうだ。この後、テント屋なども見ることができた。経費を節減した旅行であろうが、旅行もこうして自由に出来ると言うことは、これも豊かさの現れの一つだろう。

3−2 ガンジナーメ   8:20〜9:00
 ダリウス大王(Darius)とその子クセルクセス(Xerxes)二代にわたる王の碑文がある場所。ガンジナーメの最初のガンジというのは宝の意味らしい。そして後半のナーメが文章という意味らしい。つまり、これは宝物のありかを示している碑文と言うことになる。時代を経て文章が判読出来なくなったころについた名称だろう。
 しかしながら、どこの人間がこうした交易路の通過点、すなわち水の存在する場所において、そのような文章を二代にわたって残すだろうか。しかしこの名称の故に解読に対する動機付けになったのだろう。欲とは恐ろしいものだ。この文章は昨日訪れた「ダリウス大王戦勝記念磨崖浮彫」とまた同様に3種類の異なった言語によってかかれており、他からの解読との整合性などを使い、解読が行われたのであろう。
 碑文の内容は、古代ペルシャ語、エラム語、バビロニア語で書かれている。さて宝のありかが分かるつもりで解読された碑文の内容は、実際は王権の必然性を説いたものだった。「A great God is Ashuramazda,the greatest of the gods,who created this erath,・・・」。
 
3−3 アリーサドゥル洞窟 10:30〜13:40 
 途中で水などを買いながら、アリーサドゥル洞窟へ向かう。ここは今回一番の観光地ではなかったろうか。その人の多さでのことだが、広い敷地にびっしりと観光客がたむろっていた。我々は予約をしているというので、長い列に並ぶことなく入場券を買い求めることができたのだが、入り口へ行ってみると、予約が入っていないということで改めて12時の予約を取り直し、それまで外で待つことになった。この日は、この後も予約の不徹底で待たされる場面があった。まぁ仕方がない。
 休む場所を探すと行ってもなかなか見つからずしばらく芝生の上で待っていると、ようやくチャイハネを見つけたというのでそこで休むことにした。これから後もそうだが、日本人というのはとても珍しいようで、ジロジロ見られるばかりでなくあちこちからカメラの放列を受けた。一緒にカメラに収まって欲しいという要望もたくさん受けた。
 待つ時間が長いので、そこで昼食も摂った。
 ようやく12時になったので、入ることができた。この洞窟は、船で遊覧するように作られている。入ったはいいが、まだまだ船に乗ることはできない。というより船までは遠い道のりが待っていた。
 やっとの事で船乗り場へ着く。足こぎボートなので、現地の漕ぎ手の他にもう一人漕ぎ手を出して欲しいというので我々の中の若手がそれに当たってくれる事になり、一番前に乗り込んだ。その後に紐でつながれた普通のボートが3艘続き、それぞれに5人ずつ乗り込んだ。
 中は思いの外奥深く広がっていた。鍾乳洞を船に乗って移動しながら見るのは初めてのことだ。時には高い天井であったり、時には頭すれすれに垂れ下がっていたり、また大きな切り込みがあったり細かい細工のようになっていたりとそれは変化に富み、移動する間ずっと飽きさせることはなかった。
 ここは是非行ってみる価値のある所だ。

3−4 エクバタナの丘  15:45〜16:40
 エクバタナは紀元前7世紀の「メディア」に始まり、アレクサンダー大王によって滅ぼされる紀元前333年までアケメネス朝の夏の首都として繁栄を極めた。その王宮の跡がある丘だ。まずはじめに出土品を収めた博物館に行く。ここは小規模ながら、よく整理された博物館だった。
 石棺、貯蔵壺、柱の基盤などがあり、小さな物は印章や器などが並べられていた。
 最初の大きな甕(壷)の写真、中には小麦やワインなどを入れて半分地下に埋めておいたという。パルティア(起源前247-226)時代のもの。次の、写真は、起源前およそ1000年の頃(エラム中王国?)の時代に作られた研磨土器。このような鳥の口ばし状の形態はイランの土器を特徴づける形態の一つ。日本に来た起源前3000年くらいの研磨土器に、私どもは驚かされた。また右は同じ時期の戦闘用の斧の金属部分。青銅製。 つまりこの頃もう青銅器文化があったということだ。
  次の模型の写真は、エクタバナの丘の遺跡の構造をあらわしたもの。実際に屋外に言ってそれを確認できた。
 それから外へ出て、分厚い壁で仕切られている住居跡を見に行く。まだまだ発掘途中なのだそうだが、既に現在の人が住んでいるところもあってなかなか思うように進められないのだそうだ。発掘された部分の多くは保護のため屋根で覆われている。見学通路にしたがって歩く。この広大な土地におそらくは数千年前から首都と定められる以前より多数の人々がここに暮らしていたことに思いをはせながら見学を終えた。

3−5 エステルとモルデハーイの廟  16:45〜1710
 この地には珍しいユダヤ教寺院(シナゴーク)で、ユダヤ教参詣者の聖地となっている。ユダヤ人を虐殺から守ったとされる王妃エステルとその伯父モルデハーイの霊廟。旧約聖書「バビロンの捕囚」につながる古い話だ。ただし実際には別人の廟だとも言われている。(簡単に言えば、虐殺をバビロニア王のユダヤ人の妻エステルが身をもって防ぎ、その後ユダヤ人はバビロニア軍を破ったキュロスにより開放された話。)
 このイスラム世界の中に、しかも過激とされるシーア派の中にユダヤ教の教会があること自体驚いたが、ユダヤ人も住んでいるという。今現在この地に住んでいるユダヤ人は20人までに減ったそうだが、この廟を守っている老人がいた。周りの人たちとは旨くいっていて何の問題もないですよ、とは言っていたが、さて本当のところはどうなのだろう。最後にボールペンを要求された。(実はこの人、万年筆やボールペンの収集家なのだという資料を後から見つけた。)
 ホテルへ戻るためにバスまで戻る途中、パン屋をのぞき、焼きたてのナンを食べた。ナン生地の整形は機械化されていて、丸められた球状の小麦粉から円形の平べったい形は自動的に出てくる。それを回転している火の釜に入れ、一回転すると出来上がり。それを口にほうばると、今までの冷えたのとは違ってすこぶる美味しかった。何(ナン)でも焼き立てに限るという、お粗末な一節。

3−6 夕食 20:05〜21:30
 一旦ホテルへ戻ってから夕食に出かけた。ガーデン式のレストランだ。ところがここも予約したはずなのにそれがされてないということで一悶着。全くどうなっているのだろう。今日は。
 それでもどうにか席を確保して食事にありついた。前も後ろも団体が入っていた。それぞれが大人数で、こうしたところで(おそらくは一族の)交流を深めるらしい。

<ホテル>
ブーアリーホテル[BOU ALI HOTEL] 306号室
ラーレ公園の中にある。
・TV・冷蔵庫・クーラー・スリッパ・風呂用サンダル
・石けん・歯ブラシ・シャンプー
・シャワーキャップ・バスタブ