2007年12月29日(土) 快晴 最高気温23℃

ティベリア・・・ (ダプハ)(カペナウム)(クムラン)・・・エン・ボケック(死海湖畔)
■朝食後、ガリラヤ湖周辺の観光にご案内します。タプハのパンと魚の奇跡の教会、ペテロ首位権の教会、イエス宣教の地カペナウム、ガリラヤ湖を一望する山上の垂訓教会を訪れます。
■又、イエス時代に使用されていたガリラヤボートを見学し、ガリラヤ湖クルーズもお楽しみいただきます。
★昼食は、ガリラヤ湖名物セントピーターズフィッシュをお召し上がりください。
■昼食後、死海沿岸のリゾート地、エン・ボケックへ向かいます。
■途中、「死海写本」が発見された、クムランに立ち寄ります。
                                      エン・ボケック泊    朝名夕

4−1 朝&サロメの話
 朝日がガリラヤ湖に光っていた。8時に出発。
 最初に出発したティベリアという町を作ったヘロデ・アンティパスとサロメの話がバスの中であった。サロメという話は新約聖書に出てくる物語。オスカーワイルドの小説でも有名。ヘロデ・アンティパスはヘロデ王残存3兄弟のうちのひとりつまりその兄弟ヘロデ・フィリポスの妻のヘロディアと恋仲になる。それを非難したのがヨハネ。それを怒って、ヘロデ・アンティパスは彼を投獄する。ある時ヘロデ・アンティパスは宴席を設ける。当然にその席には恋人のヘロディア、そしてその子供のサロメも招かれた。このサロメという子供は非常に踊りがうまかった。ヘロデ・アンティパスはサロメに踊ってほしいといい、うまく踊れたら何でもほしいものをあげると約束する。踊りが済むと観客は拍手喝采で喜んだ。気をよくしたヘロデ・アンティパスはサロメに「何でもほしいものを与える」と言う。サロメは母親のヘロディアにそそのかされて、「それではヨハネの首を盆に載せてほしい」という。ヘロデ・アンティパスは驚くが、ほかのお客の手前約束を違えることはできなかった。早速牢につながれていたヨハネの首ははねられ、盆に載せられヘロデ・アンティパスからサロメの手に渡される。そしてサロメから母親のヘロディアに渡された。・・・これがサロメの物語だ。もっとも実際には、こうしたエピソードとは無関係に統治のじゃまになったので処刑したと見るのが妥当だろうし、そうした考えも述べられている。
  左の写真はサロメのコイン。英語版Wikipediaより転載。

4−2 ガラリヤ湖
 やがてバス車窓右側にはガラリヤ湖が見えるようになる。ヘブライ語では、キネレットと呼ばれている。上から見ると竪琴のような形をしている。竪琴をキナールと呼ぶので、そこからキネレットになったと解説書には書かれているらしい。しかし現地ガイドのIさんはそれは間違いで、キネレット周辺にたくさん自生している「茨(ヘブライ語でキナールとかシュザフとか言う)」に由来するという。このあたりの茨の学名はディディフス・スピーナ・クリスティーという。イエスのトゲの茨という意味らしい。イエスが処刑前にローマ兵から(いじめで)被された茨の冠はこの種だというわけらしい。
 その西岸をバスは走る。ガリラヤ湖は、イスラエル国内最大の湖。南北最長で21q、東西最大で12q、その周囲は51q、面積は170平方キロで、琵琶湖の約四分の一の広さとなっている。淡水湖。海抜マイナス213mで、湖としては死海につぐ海抜の低さ。淡水湖としては一番低い。左の写真はこの後行ったクルーズの時の則の高度計。やや低めか。イスラエル国にとっては、大切な淡水湖で、ここの水は、地下パイプで南のネゲブ地方まで運ばれる。このために、給水した水はポンプの力でいったん高台まであげられ、それから重力の力で給水されていると言うことだ。全土の三分の一の水をここでまかなう。飲料水に至っては、50%を実にまかなう。キネレット周辺は標高が低いので夏とっても暑いこともあり、トロピカルフルーツ、バナナマンゴウやアボガドなどの生育地でもある。花もたくさん咲く地域なので、養蜂業も盛んらしい。

4−3 イエスの活動(山上の垂訓教会)
 やがてミグダルという小さな町を遠目に見る。ミグダルすなわちマグダラで、かのマグダラのマリアの出身地だという。マグダラのマリアはよく娼婦と言うことになって登場するが、聖書にはそうした記述はなく、「罪深い女」と書かれているに過ぎない。これは実際は性的に品性良好ではない人というほどの意味で実際はあるらしい。色気ムンムンの人といった意味か?絵画などでは、巻き毛の髪の長い美しい女性としてよく登場するし、小説ダビンチコードではイエスとの間に子がもうけられたとされる人だ。
 山上の垂訓教会は、イエスが8つの教えを説いたところとされる。この教えは、ここだけでなされたのではないそうだが、そうだろう。たった1回ではもったいない。
  イエスの布教は30歳から33歳までの短い期間、しかもこのガリラヤ湖畔のみに過ぎなかったそうだ。ヨハネによるヨルダン川での洗礼の後、住んでいたナザレでは嫌われたので、カペナウムを拠点に伝道活動を始める。彼の活動域はほぼガリラヤ地域、分けてもキネレット周辺に限定されている。これにはいささか理由があったようだ。ガリラヤ地方は当時ヘロデ・アンティパスの管轄地であった。それに対して、ヨルダン川東岸や今のゴラン高原あたりは兄弟のヘロデ・フィリポスの管轄となっていた。西側にはユダヤ人が多く住んでおり、東側には多神教徒が住んでいてユダヤ人はほとんどいなかった。ユダヤ教というのはユダヤ人の中にしか広めない宗教であった。ユダヤ教徒の秋各派として台頭してきたイエスの教えは当然ユダヤ人を対象としたものでしかなかった。西側にあって何か不都合が生じても、キネレットに船を浮かべておけば東側に簡単に脱出が可能だったという地理的な要素が重要な地域選択のファクターだったとも考えられているとも言う。また保守的なユダ地方の人々よりもより素朴な漁師たちが多く住むキネレット周辺を布教場所に選んだのかもしれない。
 その布教場所だった湖畔一帯が見渡せる場所に山上の垂訓教会は建っている。1938年にカトリックのイタリアの布教団体(という名称の団体)によって建てられ管理されている。建築家はイタリア人のバルルーシュと言う人。この教会は八角形(≒円形)をしており、東向きになっているわけではない。
  八角形をしているが、8つの説教ということもあるだろうし、この形だとどこが中心かということがはっきりするので、この形になっているのだそうだ。ここでイエスは「八つの幸いなるかな」という説教をしたと、マタイによれば
  @心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
  A悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
  B柔和な人々は幸いである。その人たちは知恵を受け継ぐ。
  C義に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる。
  D哀れみ深い人々は幸いである。その人たちは哀れみを受ける。
  E心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。
  F平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
  G義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
・・・これらはいわばイエスのモットーとも言えるもので、教えの核心部分。この教えはたびたびなされていたようであり、それをマタイがまとめたと言うことらしい。
 さて我々が立っている場所がイエスのそのときに説教した場所かというとどうもそうではないらしい。再掲写真だが、山上の垂訓教会はこの写真の手前にある。右上の台形状の山がカルネイル(二つの角の意味)ヒッティーン(小麦)の古戦場。中央の芝生の山の上から湖とは反対側の斜面に信者を座らせ、麓にイエスは立って見上げる形で説教をしたと考えているのが今の有力な説。音響効果も考えてのことらしい。だとすると多くの絵画で描かれている構図とは逆のパターンになる。山麓の垂訓というのが正しい表現になる。写真の地域およびその左の地域つまりはここで眺められるくらいの地域の中で、三分の二の奇跡を起こし80%の布教活動をしていたという。まさにイエスの世界そのものの場所。イエスはこの地で当時ユダヤ教の最大派閥の一つであったパリサイ派の改革が布教目的だったと考えられている。イエスは従って安息日を守りコッシェルを守っていた。彼はユダヤ教徒そのものだった。その後弟子のペテロが最初であるが、ユダヤ人以外にまで教えを広めた。世界宗教としてのキリスト教はこのときに初めては生まれたと言ってよい。
 教会の中に入る。頭上には八つの窓があり、山上の垂訓を表している。また床には床には、7つの美徳の象徴が描かれている。信仰、心、勇気、正義、希望、本能の克服、愛(たぶん)であり、縞模様はキネレットの波を象徴している。
 ここには1964年にパウロ6世も訪れている。パウロ6世だが、彼は初めて5大陸を訪れているまた初めて飛行機に乗った人。カトリック教会を改革した人。聖教、プロテスタントの融和を図ろうとした。また「イエスの死についてはユダヤ人はその責任を負わない」と述べた人でもある。

4−5 タプハ 0907〜1000
 山上の垂訓教会からおよそ1時間半バスで走ると、タプハ。この地名は、ギリシア語のヘプタペゴン(7つの泉)から変化したものだそうで、昔はそのままヘプタペゴンという名の町だった。アラビア人はPが発音できなくてVになるのでそう訛ったものらしい。7つの泉は生暖かく、若干塩分を含んでいる。湖岸に湧いていて魚がよくおびき寄せられるところであり、よい漁場だった。

4−5−1 パンと魚の奇跡の教会 0907〜0930
 かつてここに同じ名前の教会があった。入口の前にわずかにその痕跡が残っていた。たとえば、洗礼槽。これは5世紀ビザンチン時代の教会にあったと推定されるもの。
 福音書にはたくさんの奇跡が記されているが、その中で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全部に記されているものはたった一つしかない。それが「5つのパンと2匹の魚で5千人を養った」奇跡だ。
 だいたいを話すと、イエスが説教していると、だんだん暗くなってきた。そこで弟子たちはもうだいぶ暗くなってきたので、もう信者たちを返しましょう。そうすれば自分たちで夕食を食べるでしょうからと言うと、イエスは「いや、おまえたちがこの人たち全員に食べさせるのだ」と言います。しかしながら、弟子たちは反論します。「ここには二匹の魚と五つのパンしかありません、どうやって数千人を食べさせたらよいのでしょう?」と。そこでイエスは立ち上がり、それらを掲げ祝福をした後に弟子たちにちぎって分け与えます。弟子たちはそれをさらに分割して配ると、女子供を除き五千人を、満腹させることができたという。繰り返すが、聖書には何故か5千人の中に女・子どもは入っていないということだ。何故?ちなみに残飯を集めるとなんと12籠分にもなったという。
 イエスは同様のこの奇跡を2度行ったのだそうだ。その1回目と言うことでここに教会が建てられた。2回目は、数匹の小魚と7つのパンによってまたまた女子供を除き四千人を満腹させ、残飯を集めると7籠分になったという。この聖地は本当にここなのだろうか。聖書によればこの奇跡の後に弟子たちがゼノサウルに帰ったとある。ゼノサウルという土地は西岸にある土地で、西岸から西岸に帰ったとするのは矛盾がありはしないか。実際は東岸にあったのではないかというのが、ガイドさんの言い分。本当の場所というのははっきりしないが、ビザンチン時代になってたくさん聖地に人々が訪れるようになり、交通の便などを考えて(東岸ではなく)ここということにされたのだろうということだった。
 現在のものは1956年に立てられたきわめて新しい修道院。教会自体は1982年に建てられ、ここだけだろうか管理しているのはベネディクト派だという。ここにはビザンチン時代の教会の跡に立てたのではない。本来のビザンチン時代の教会は実はもう少し山側にあった。右写真の小山の麓にあったという。しかし教会はビザンチン時代の様式を復元した建物になっている。1980年代にエルサレムで、ビザンチン時代にパンと魚の教会を造ったマルティウスのイコンが発見された。このマルティウスが抱えていたのが、ビザンチン時代のパンと魚の教会の模型で、この模型を忠実に再現したのが現在のパンと魚の教会。
 ビザンチン時代の教会は、すなわちパンと魚の教会についても同様に、ATRIUM(アトリウム)という中庭と回廊によって構成される部分があり、回廊の一番奥の礼拝ホールにつながる部分をNARTHEX(ナルテックス)という。礼拝ホールはバシリカ様式であり、列柱によって区分けされた側廊がある。東側向いてアプシスがありその中に祭壇がある。アプシス両側には小部屋があり、左側はリヤコニコンといって神父牧師の控え室であり、右側はプロテジュクといってミサの時のパンと葡萄酒を入れておく部屋。
 ところでこのナルテックスの役割だが、普段は教会は出入り自由で異教徒にも開放されている。しかし祭祀(パンと葡萄酒の儀式)を行う際には異教徒には出て行ってもらわなければならない。その時にキリスト教徒たちは「ミサ、ミサ」(出て行け!の意味)と言って追い払う。これがミサの語源だと言う。そうなると異教徒たちはナルテックスのところで待つことになる。ただしミサというのはカトリックの人々で、プロテスタントは主の食卓と言い、正教ではユーカリストと言う。
 アトリウムの手前部分にある池には七つの階段があり、七つの魚(鯉)が泳いでいるが、七つの泉に由来している。
 350年にはすでに教会が建てられていた。6世紀にはその教会が修復され、それを土台にして、1956年修道院として、1982年にベネティクト会により教会として建てられた物だ。現在のこの形は、エルサレムのイコンを元にビザンチン時代のように復元されている。
 門をくぐると回廊に囲まれた中庭に出る。そこには7匹の鯉の口から水をはき出させている池がある。その両側からそこに入る階段も7段。
 礼拝堂はバジリカ様式。床はモザイク画で飾られていた。その先の祭壇の所にかの有名な「パンと魚」のモザイク画がある(上の方に掲げた)。パンが4枚しか見えませんが、1枚はきっと下に隠れているのでしょう、とガイドさんの言。タイルの赤いのが古代のもので、白黒のが復元されたものだ。
 またここでもナイルメーターが描かれている。これについてはいろいろの説明ができるようだが、エジプトの職人もしくはエジプトで修行した職人がこれを作ったという風に見るべきではないだろうか。また床にはガラスが埋め込まれており、この時代よりも遡る遺構もかいま見れるように工夫されていた。

4−5−2 ペテロ首位権の教会 0938〜1000
 最初の写真は無理矢理撮ったのでアングル的にいただけないが、フランシスコ会の修道士。フランシスコ会の修道士の特徴は、衣服が焦げ茶色のところ。それとロープで腰を縛っているが、その先には三つの結び目があり、修道士が生活規範にしている「貧しくあること」「執着しないこと」「神に従順であること」を表している。
 さて4〜5世紀に建てられた教会の跡に、1943年にフランシスコ修道会によって新しく建てられた「ペテロ首位権の教会」は、「パンと魚の奇跡の教会」からは一端道に出て、道沿いに5分ほど行くとある。
 首位権という奇妙な言葉の意味はのは、トップであると認められたと言うことだそうだ。ペテロは最後の晩餐の時にイエスに、「鶏の鳴く前に3度私を知らないと言うだろう」と言われ、「絶対そんなことはしない」と誓っていながら、実際にはイエスが捕らえられると、その通りにしてしまった。処刑された後ペテロはそのことを悔いながら生活していたところ、復活したイエスが現れ、三度信じるかと逆に問われ二度信じると答えた、最後では「それがは主よあなたが一番ご存じのはず」と付け加えた。その直後(それならば)「私の羊たちを導きなさい」と指示された。私の羊すなわちイエスの従っていたものたちであり、その長になれと言うわけだから、つまり後継者として認められたというわけで、ここがその記念すべき所というわけだ。
 教会の祭壇は大きな岩でできている(この石は教会の外にまで出てきている)が、この岩の上で復活後のイエスが弟子に食事を与えたとされる(ヨハネ伝21章)。それゆえこの岩はキリストの食卓(ギリシア語でメンザ・クリスティ)と呼ばれている。ただ、この日もミサが行われていてそこに近付くことはできなかった。
 さて、このペテロ、後にローマへ渡り、逆さ十字架にかけられて処刑される(イエスと同じ形では恐れ多いと言うことで自ら申し出たのだそうな)が、後世それからずっと現代まで続くローマ法王の祖とされ、ローマ法王の第一代目として認定されている(これを正教は認めていない)。
 ここからガリラヤ湖畔に下りることが出来、早速水をさわったりしたが、水の上を歩いたイエス気取りで水に入った則はあえなくポシャ。

4−6 カペナウム 1007〜1047
 カペナウムは「慰めの村」という意味。イエスはこの町を第二の故郷して数々の説教や奇跡を行った。まさにカペナウムは、ガリラヤ地方におけるイエスの宣教の中心地であった。その数では他のどの町にも勝ると言われている。が、カペナウムの人々はその教えを拒んでしまった。そのためイエスはカペナウムの町を呪った。
 入るとすぐにペテロの像が建っていた。右手に鍵を持っているのがペテロ、と言うのが決まり。これは天国への鍵だそうだ。キリストから託されたもの。左手に杖を持っているが、羊飼いの杖。羊を飼いなさいと言われたからだとか。でもこの羊って信者の意味ではなかったのか?何故ここにペテロの像が建っているかだが、ここにペテロの家があったとされているからだ。

4−6−1 シナゴークの石
 ペテロの巨大な象の右側に並べられているのがシナゴークの跡から見つかった石群。その中に、ダビデの星やソロモンの星があるが、当時これらは単なる幾何学模様の一つとして描かれていたに過ぎないのだそうだ。そのダビデの星がユダヤを表すようになったのは19世紀からで、特にナチスドイツによってユダヤを表す印として使われたことで確定していった。やがてそれはイスラエル独立の時にシンボルとして扱われ国旗となったのだそうだ。赤いダビデの星は医療救急期間のマークになっている。 またこれらに混じって葡萄などの植物も描かれている。ちょうど日本の七草のようにイスラエルにも七草(と言うか七つの木)というものがある。葡萄・ザクロ・オリーブ・○○・○○・○○・○○の7つである。またダビデが名手だったという竪琴もあった。
 またシナゴーグにはなくてはならない、教典(トーラー)を収めておく棚である。未来にできる第三神殿を想像したものになっている。
 興味深いのは神殿のようなものに車輪がついている残骸がある。ヨシュアによってソロモンが神から授かった十戒の石版二枚を入れていたもので、当時はこれを担いでカナンの地に入った。契約の箱と言われるもので、ソロモンによって神殿ができるまではこの箱の置き場所は決まっていなかった。カナンにやってきてからも海洋民族であるフェリシテ人やカナン人との間に戦闘は続き、ある時フェリシテ人に戦闘のさなか盗まれてしまう。しかしながらぶんどったフェリシテ人にその後不幸なことが続いたので、彼らは車輪をつけた台に契約の箱をくくりつけ更に金などの土産物をも載せ牛に引かせて好きなことに行くようにした。牛はしっかりユダヤ人のもとにまっすぐ帰って行った。そのことを表したもの。なお契約の箱は第一神殿の至聖所に納められていたが、バビロニアに滅ぼされた際に散逸した。第二神殿が建った際にも契約の箱はあったが、中は空っぽであったという。

※十戒 :ユダヤ教の教えの中で核となる大切な決まりごと。(THE COMMANDMENTS)
─「エジプト記 20章」より引用─
1.あなたには、私のほかに神があってはならない。
2.あなたは、自分のために偶像を作ってはならない。
3.神・主の御名をみだりに唱えてはいけない。
4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(6日働いて7日目を休む)
5.父と母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。(本来の意は、誘拐の禁止を指す)
9.隣人に対し偽りの証言をしてはならない。
10.あなたは、隣人の家を欲しがってはならない。

4−6−2 古い町の跡
 オリーブ油を作った施設や柱頭、石臼などが残されていた。柱頭にはメノラーが彫刻されていた。写真左のオリーブオイルを絞るための道具だが、家畜がぐるぐる回ってつぶすタイプ。オリーブは収穫したら乾燥させて幾分か水分を蒸発させた後、絞り器にかけた。ビザンチン以前(ローマ時代)はつぶしたものを藁に染みこませてそれを麻袋に入れて、てこの原理で絞り出していた。絞り出したものの上澄みをすくって使った。ビザンチン時代になるとねじ式の絞り器が発明された。当時オリーブオイルは非常に重要なものだった。もちろん食用にしたが、ランプにも使ったし石鹸のようなものも作った。宗教的儀式においても重要だった。たとえば王の戴冠の時に頭に油を垂らしていた。そのほか石臼などもあった。
 ユダヤ人の家かどうか考古学的に見分ける方法には、ミクベや石の食器などがあることを既に見たが、ここではメノラー(七つのローソクを立てる燭台)の飾りを見た。メノラーは神がモーゼに指示した形だという。次第にシンボライズされ、今ではイスラエルの国章にも使われている。それはコリント式柱頭部分にあった(大きい方の赤枠部分)。ちなみにイスラエルの柱はこの全て「アカンサスに飾られた」コリント式だという。小さい方の写真は日本語版ウイキーペディアからの転載。

4−6−3 シナゴーク
 私たちは石造物の置かれている脇を通って、シナゴーグに入った。
 このシナゴーグは3〜4世紀、ローマ時代のもの。イエスの時代のものは玄武岩でできていたらしいが、それは基礎部分だけが今では残されている。このシナゴーグは入り口からはいると背中をくるりと向けて入り口に相対して入り口側が南になっていてそちらを祈る形式。入り口が狭い。ところでキリスト教が興隆した時代になるとバシリカ様式の建物は、単なる建物・教会・シナゴーグの三種類となりそれがシナゴーグであると判定するのは難しくなる。第一の要素は、シナゴーグは集会所(ユダヤ会堂)にもなっていたので、周りにベンチがあった。建物の向いている方向(教会だと東)やユダヤ的モチーフがあるかで判断することになる。たとえばヘブライ文字が出てくるなど。 このシナゴーグは二階建てであったようで、人数が多くなると二階に上って祈ったという。中世になるとこれが一階は男性二階は女性と別れるようになる。天井は木で作られていた。
 ところでこのシナゴーグの床下から5世紀(ビザンチン時代)のコインが出てきている。先ほど3〜4世紀と書いたがこれは矛盾することになる。これは石灰岩で作られていることにヒントがある。この地方でとれる石は玄武岩。それ故にイエスの時代のシナゴーグの残骸は玄武岩でできていた。歴史学者にスポリアとよばれることがあったからだと推定している。ビザンチン時代はキリスト教がローマ国教になり、新しくシナゴーグを建設することは禁止された。そこでガラリヤ地方の遺棄されてたであろうローマ時代のシナゴーグを購入するなどして、修復の形をとったのではないか(修復は許可されていた)と考えられている。建築時に床下にコインを巻くという習慣があったわけだが、それ故にその移築時は5世紀と判定される。たぶんくるっと回って祈る形式(これが沢山ある形式かもしれないが・・・ガイドさん口ぶりではまだ他にもあるような言い回しだった)は、この元々の土地の特性による制約から来ているのだろう。

4−6−4 聖ペテロの家
 最後にペテロの家と言われている場所に行った。ペテロはそもそもはカペナウムの人ではなかった。ペテロはどうやら婿入りした人のようで、その家に居候をしていたのがイエスらしい。由緒あるところになる。そのような縁でペテロとイエスは出会った。
  その推定する位置に、1世紀頃キリスト教弾圧時代に一般の家に見せかけて教会とした時代があったが、その「見せかけ普通の家教会」ドムス・エクレシアとして改修されていたものが、ビザンチン時代になって「教会」に生まれ変わる。三重の八角形の教会だった。その遺構を見ることができる。今ではそれをカバーする鞘堂のような形で巨大な現在の教会が建っている。1990年に建てられたフランシスコ会の教会。 まるで宇宙から降り立ったUFOのように八本の足で遺構を守っている。

4−7 船 1120〜1151
 1986年にガリラヤ湖が旱魃で水位が非常に下がったときに偶然発見されたという船を見学した後、それを模したという船でキネレットのクルーズを楽しんだ。

4−7−1 紀元一世紀の船
 1986年1月この年キネレットの水が旱魃で干上がっているところをミグダルの湖畔で、キブツ・ゲノサウルの漁師の兄弟が泥の中から発見した。船長さが8.2m、幅が2.3m、乗組員は5人で、漁船もしくは運搬船として使われていたと推定されている。二人がオールを漕ぐ。一人が舵取り。科学技術を駆使して傷つかないように引き上げた。板の継ぎ合わせ方法や調度品類から紀元後一世紀のものではないかとの推定がなされ、最終的に炭素年代測定で紀元後一世紀のものとわかり、特にキリスト教世界に一大センセーショナルを巻き起こした。「イエスの時代の船だ。イエスが乗ったものかもしれない」。展示館もキブツの経営。
  フラウィウス・ヨセフス(マサダで詳述)はキネレットの美しさを賛美しつつ、「常時230艘もの漁船が活動するほど漁が盛んだった」と述べており、これらの記述との整合性もとれているものと思われる。紀元66〜7年頃のユダヤ人の反乱で筏のローマ軍と漁船を改造したユダヤ軍が戦ったとされている。もちろんローマ側の勝利に終わるが、この時のものと考える方が妥当であろう。
  しかしこの船は2000年にようやく公開された。14年間何をしていたかだが、湖から引き上げる際にも発泡ポリウレタンで全体を覆いつり上げ、水槽に入れ融点以上に加熱したポリエチレングリコールに浸し水分子との交換を行った。こうして今日展示できるようになったわけ。
  さてこの船のおもな部分はレバノン杉(縦位置の写真は木材種別だが殆ど同じ色で占められている)出来ている。あのエジプトの神殿の屋根を葺いたものと同じだ。松とか鈴掛だとか全部で12種類の木材が使われているという。
 今でもバチカンでは欲しいと言っているのだそうだ。

4−7−2 クルーズ
 展示館の出口を出ると桟橋に道は続いていた。先ほど見た古代の船を約2倍の大きさにして今は観光用に作られている。ケツサレからその船に乗り込んでカペナウムまで、しばらくガリラヤ湖の遊覧を楽しむ。
 船が走り始めるとすぐに君が代に合わせて日の丸が掲げられた。貸し切り船なので、こんなサービスがあるわけだ。その後も、カモメにパンをあげたりした。日本の客の誰かが始めたのをまねしているのだろう。外の船ではこんな様子は全くなかった。
 30分ほどの遊覧の間に、先ほど訪れた一帯を見ることができた。
山上の垂訓教会
ペテロ首位権の教会
聖ペテロの家
船上にて

4−8 昼食 エンケブのレストランにて 1220〜1330
 バスは12時過ぎにエンゲブに到着した。「エン・〜」とよく呼ばれる。今日の宿泊地エン・ボケックもそうだが、このエンというのは泉の湧くところという意味だそうだ。
 ここでセントピーターズフィッシュを食べた。アフリカ原産の魚でクロスズメダイの一種ということで、オスは口の中で稚魚を孵化させ、稚魚が再び口に還って来ないように口に石を加えるという習性があるそうだ。キネレットに棲む魚で唯一食べられるものであるが、現在では養殖している。名前の由来は、新約聖書のイエスがペトロに命じて湖に網をいれさせると口に銀貨をくわえた魚が獲れたという話にちなんで名づけられた魚。
 さてこのセントピーターズフィッシュであるが、唐揚げにして出てきた。淡泊な味だがなかなか美味しかった。当地ではレモンをかけて食べるのだが、我々日本人は醤油味で食べた。

4−9 ヨルダン川
 実は食事のレストランに入る手前で小さな川を我々は渡った。これがヨルダン川。といっても、大河でもなんでもない。この小さな河川が何故に有名かと言えば、地理学的に見れば世界で一番低地を流れている川であり、そしてキリスト教的にはイエスが洗礼を受けた川であるという点で、世界中にヨルダン川という名前は知れ渡っている・・・とガイドさんは言うが、我々にとっては実は「ヨルダン川西岸地区」「パレスチナ自治区のあるヨルダン川西岸」というフレーズの中で実は一番頭に入っている川だ。川渡ったことで、ヨルダン川東岸地域に一端足を踏み入れる。ガリラヤ地域のキネレット周辺は現在はイスラエル領になっているからだ。つまり、イエスの時代では、ヘロデ・アンティパスの領土からヘロデ・フィリポスの領土に入ってきたということになる。

4−9−1 ゴラン高原
 食事の前後、ガリラヤ湖を右側に、ゴラン高原を左側に見ながら走る格好になる。左の写真はゴラン高原の様子。第三次中東戦争の結果シリアからイスラエルが占領したエリア。でもここは入り口で、正直その雰囲気を味わうほどではなかった。
 ゴラン高原は面積約1150kuキロ平方メートル、東京都の約半分に当たる。そこは元々はシリアの領土であった。乾燥地帯で、水資源が非常に乏しい中東にあって、ゴラン高原は平均標高がおよそ600mで、冬には雪が降り、その雪解け水で、一年を通して水が豊富である地域である。イスラエルは、ゴラン高原を戦略的に非常に重要な地域(イスラエルの水源)であるとし、入植地を停戦ライン沿いに建設して、1981年にはゴラン高原併合法案がクネセット(イスラエル国会)で可決され、イスラエルはゴラン高原は自国の領土であると主張し始めた。現在多くのイスラエル地図にはゴラン高原がイスラエルの領土として描かれている。
 第三次中東戦争までは湖岸に近い部分をグリーンライン(勢力引き離しライン・・・事実上の国境)が通っていたが、いまでは高原の奥の奥にパープルラインという同じ性格のものがある。これは第四次中東戦争で、シリアに奇襲をかけられた(安息日の攻撃)イスラエル側であったが、徐々に勢力を盛り返しダマスカスまで40qと言うところまで到達した。その後消耗戦があり、アメリカの仲介で1974年に停戦協定が結ばれた。イスラエルの主要水源地であり、イスラエルとしては譲れない地域でもある。
 日本にとっても無関係な土地ではない。1996年(平成8年)以降、自衛隊が国連平和維持活動の一環として、シリアとイスラエルとの境界に位置するゴラン高原へ派遣されている。この派遣は人数こそ少ないものの長期にわたっていることから、陸上自衛官の国外派遣の経験を積む重要な場となっている。2007年(平成19年)が第24次隊となる。12名が主に後方支援(物資の輸送・道路の修復など)に当っており、大変規律正しいことで有名だと言うことだ。
 とはいえゴラン高原は戦場地として認識をしているが、同時にここで良質の葡萄を栽培しているワイナリーがあるというのは、則にとってはかなり重要。

4−9−2 ヨルダン川を再び渡る
 さて食後は一路次の目的地クムランへ向かうことになる。昼寝モードにバスの中は入る。
 食事後しばらく走るとキネレット沿いに走ってきた進路を90度左に折れ、国道90号線をひた走ることになる。そして再びヨルダン川を再び渡る。この先のヨルダン川東岸はヨルダン領だから。ヨルダン川西岸は、1967年の第三次中東戦争でヨルダンからイスラエル軍によって占領された地域。現在同地区はイスラエル軍とパレスチナ自治政府によって統治され、ガザ地区と共にパレスチナ自治区を形成する。(右上の写真の奥の方はヨルダン国境と言うことになる)
 途中に、ベドシャンという町を通過した。ローマ時代のデカポリスの首都だったところで、イスラエル側(ヨルダン川東岸のシリア・ヨルダン側ににあとの9つはある)にある唯一のデカポリス。紀元前五千年ほどから町があったと伝えられている。当時はスキトポリスと呼ばれていた。ギリシャ時代にルーマニア近辺に住んでいたスキト人の騎士をすまわせたことにより、スキト人の待ちという意味で名付けられた。
 ここへ来て初めて検問というのを受ける。といっても単に一旦停止して通過するだけなのだが。また、パレスチナのナンバープレートを付けた車を見かけるようになった。パレスチナの人はイスラエルに出稼ぎに来るのだそうだ。
 こうしてバスはいわゆるヨルダン川西岸地域、パレスチナ自治区エリアに入った。

4−9−3 エリコ
 エリコは古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には、周囲を壁で囲った集落が出現した。最古の町と評されることもある。また、世界で最も標高の低い町である。
  新約聖書によると、イエスは洗礼ヨハネと別れた後、荒野で40日断食をし、悪魔によって試練を受けたとある。エルサレムから死海に行く途中エリコという海抜−350mのオアシスの町があるが、そこに誘惑の山(Mount of Temptations)というイエスが悪魔の試練を受けたとされる場所がある。エリコはまたモーセの後継者ヨシュアを中心とするイスラエルの民が町の城壁の周りを7回回って掛け声をあげると、城壁が崩れたという話の舞台でもある。
  1994年にガザとともにパレスチナの完全自治地区となっている。ここにも遺跡がある。実は我が家が行きたかったT旅行社はここにも行くことになっていたのだ。残念な思いをしながら通過したが、イスラエル人は見つかると命の保証はないという危険地帯であるため、我々が観光する場合には、アラブのバスに乗り換えガイドも交換という手続きをふむことになる。(写真の遙か彼方にエリコの町がある)

4−10 クムラン 1513〜1700
 もともとエルサレムにいた清貧なユダヤ教の一派(エッセネ派)。この派の特徴は、ユダヤ教の戒律の中で特に「清浄」と言うことに対して厳格に振る舞う一派だった。ミクベに一日二回は浸かっていた。トイレにいたら昔はやったらやりっぱなしだったが、この派は穴を追って埋めていた。そのスコップなども見つかっている。もともとはエルサレムに住んでいたが、紀元前二世紀にリーダー格の人物がパリサイ派と大げんかして、この砂漠地帯に移ってきたという。砂漠の何もないところに、清浄さを見いだしたからだという。そして捲土重来を誓ったと言うことだ。特にこのクムランは、いくつもエッセネ派の集落ができたが、そのセンター的な役割を果たしている集落であった。これから見る遺跡は、住居ではなく、その「センター的役割を果たした施設」が集まっているところだという。
 エッセネ派は太陽暦を採用していたため、太陰暦を採用していた当時の人々とは相容れず(休日や祭日が違っていたのだろう)それが原因の一つとなって、やがて滅びてしまったという。

4−10−1 毎日の生活
 遺跡見学の前にまず5分程度の映画を見た。そこで、このエッセネ派の人々の日常の生活を見せられた。
 この共同体は紀元前8〜7世紀頃から形成され始め、紀元前130年頃、最も繁栄し、一時は何千人もの人が集まったが、紀元70年の神殿崩壊とともに衰退した。ここでは紀元前2世紀から紀元70年くらいまで生活していた。
 彼らは、集団で自給自足の生活をしていた。必要な物はすべて作っていた。食料はもちろんのこと食器や今で言う紙の代わりの皮など、とにかく何でも作っていたのだそうだ。共同生活で自給自足を目指すというのは、どこかキブツに通じるところがある気がした。しかも妻帯禁止で、独身の若い男たちの集団であったらしい。・・・ただしここで発見されている墓地からは女性の骨も発見されておりひょっとしたらエッセネ派だけがいたのではないのかもしれない。
 彼らは背後の山にある洞窟(30ほど見つかっている)、あるいは崖の陰などにテントを張るなどして庵を結んでいた。推定人口は200人くらい。朝は日の出とともに起床し、小道を通り山から下のセンターへやってくる。最初に皆で礼拝をする。朝食はなく、エン・ファシュファという南に三qほど行ったところに泉が湧いており、そこで大きな農場を営んでいた。大麦小麦などの穀類を作っていた。ナツメヤシや葡萄なども作っていた。酪農もしていたようで、羊や山羊を飼っていたので、肉や乳製品も食べることが出来たらしい。食器や執筆活動に必要ななめし革なども自分たちの工房で作っていた。
 昼になると戻ってきて、ミクベで体を清めた。じじつおびただしい数のミクベがセンターにこの後確認をすることが出来た。そして水浴の後は皆と食事となる。この一連の行為は生活のためでもあったが、宗教的な儀式でもあった。午後は再び耕作したり、聖書の写本や執筆活動あるいは研究などをしたりしていたという。そしていつかエルサレムに戻りすばらしい神殿を作ることを夢見ていたらしい。夜になると再び集まり、二回目のミクベによる水浴後夕食となる。この後自由時間となるが、ほど無く日が暮れるであろうから、物思いや聖書の話などを一時したらねぐらへ戻っていかなければならなかったろう。これが一日のサイクルで、これの繰り返しが彼らの生活そのものだった。

4−10−2 遺跡見学
 生活するとなると必要な物は水。大きな貯水槽がいくつも作られていたが、そこに貯める水は、鉄砲水など自然の物。ナハルクムランというワジが近くを通っている。そのために貯水槽に導く水路が出来ていた。
 また、ミクベと呼ばれる水浴場もいくつもあった。貯水槽からミクベへ水を流すための水路もあった。勿論、食堂や台所、写本を書いた部屋などもある。
 農業を営んでいたから、当然粉ひき作業が必要であり、そうした道具も残されていた。
 それからエルサレム式ミクベというかがれた水浴前の人と沐浴後の清浄になった人とが同じ道を通らないように仕切りがもうけられているものも見た。
 また写本をする部屋スクリプテリウムの遺跡を見ることが出来た。このクムランを有名にしたのは、死海写本だ。ここで二千年前に写本が作られ、それが発見されたわけだ。細長い部屋で、これは往事は二階建てになっていたという。
 死海写本というのは何か。それは、1947年から1956年までの間にこのクムラン周辺の11の洞窟から発見された古い聖書やその他の写本で、全部で15000の断片が見つかった。それを40年かけて修復した結果、950の巻物になった、その書物のこと。950の内には完全なものもあれば殆ど欠損しているものもあった。それらをあわせて950種の文書が発見されたと言うことになる。期間を見ると、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間のもので、種類としては、タナハ(原本は紀元前6世紀から紀元前2世紀の間に固まったものと思われる)=紀元前3〜2世紀に筆写された旧約正典(特に、ほとんど完全な形で残っているイザヤ書や詩篇など)とタナハに入らなかった外伝とも言うべき言い伝え等の文書=「光の子と闇の子との戦い」「創世記外典」などの外典文書・エッセネ派の思想や戒律などを書いたもの=「宗規便覧」など・・・この3種に分けられる。殆どがヘブライ語で書かれ、一部アラム語のものもあった。
 それまで一番古いとされてきたタナハの写本は、アレッポ写本というものが見つかっていたが、それは紀元後10世紀のもので、一挙に千年も遡ることになった。
 写本の仕方だが、個人が持っているのは印刷物だが、シナゴーグなどのトーラーに納められているものは、聖書書き職人の手によるもの。その書き方は、動物の皮で作った紙(ごく一部パピルスのものがあった)に、羽のペンで、特殊なインクを用いて一字一字手書きする。筆記体の形式や文字の間隔などもきっちりと決まっている。もし間違ったような場合には、そのページは廃棄する。これを一ページ一ページ書いていき、全部書き終わったところで製本(それぞれを縫い合わせる)して長い巻物の形にする。そしてトーラーの箱に収めることが出来る。もちろん聖書書き職人になれるのは、ユダヤ人として模範的でないといけない。
 この時代でもほぼ同じ工程をたどっていたが、ペンだけは金属のものか茅の茎を使っていたという。そして水と油と炭と樹液を混ぜて練り上げた特殊なインクを用いて書いた。インク壺や炭なども出てきている。石の机なども見つかっている。
 これらはエルサレムにある死海写本館で現在は見ることが出来る。
 食堂を次に見た。食堂は細長い部屋で、ござが敷かれそこに列をなして座り、食事をしたという。解説で描かれているものを信じれば、対面で2列合計4列になって座って床の上に食器を置いて食べていたらしい。パリサイ派に追われてこの地に来た彼らは神殿がないから生け贄の儀式は行えない。そこでこれに代わる儀式として、ミクベによる水浴と食事を儀式にしたというのが、ガイドのIさんの説明。さて何を食べていたかだが、農業をしていたのでパンは作られていた。葡萄を作っていたのでジュースやジャムもあったらしい。酪農をやっていたから肉や乳製品も食べていたらしい。結構今風だった感じがした。
 その横には台所になっている。食器が沢山出土した。また近くからは切られた動物の骨が発見されている。山羊とか羊とかだった。コッシェルを守っていたことが伺える。
 更に進んでいくと、石が平らに敷き詰められているところに出た。何かと言えば、ナツメヤシを干す場所だったという。
 それから死海を挟んでネボ山が遠望できる広い場所に出た。対岸のホテルには既に灯が入っている感じだった。そのような暗さであったが、精一杯望遠で除くと、なにやら山頂に白い建物らしきものが見える頂があった。おそらくはそれがネボ山の教会だろう。

4−10−3 写本発見
 5番の洞窟が見える。一番沢山の写本が発見されたのは4番の洞窟だが、それは5番の後ろ側でここからは見ることは出来ない。では何故このような場所からおびただしい数の写本が発見されるに至ったのだろうか。それは第一次ユダヤ戦争に起因するものと考えられる。70年に第一神殿が崩壊するわけだが、それ以前にローマ軍はユダヤのあちこちに侵攻してきた。そしてとうとう68年にはクムランにローマが侵攻してくることが分かる。そこで、素焼きの入れ物に自分たちが大切に書きためてきた写本を入れて、洞窟に隠すことを考えた。
 格納直後にローマ軍はやってきて、クムランという町は滅ぼされた。同時にエッセネ派も消え去った。しかし、洞窟内の壺は残った。
 そうして時が二千年流れた。ベドウインの羊飼いの少年が偶然発見した。羊飼いの少年は、その羊の一匹が洞窟に迷い込んだので、それを追いかけて洞窟まで来る。石を投げるとカランと音がした。何かあるなと入ってみると、素焼きの壺があった。そして中からは7つの巻物が出てきた。
 巻物を持ってベツレヘムに行き、発見した少年はその7巻をすぐにバザールで売りに出した。そのうちの3つは当時から住んでいたスーケーニクというユダヤ人考古学者が買い取った。しかし残りの4つは流れ流れてアメリカに渡る。それを追いかけたのはスーケーニクの息子のヤディンだった。7年後ようやく4巻とも買い戻し、こうして7巻ともイスラエルの地に戻る。
 この親子二代の追跡劇の間に、考古学者たちが他にもあるに違いないとクムラン周辺の洞窟を探し回って、10年間かかり膨大な数の死海写本の断片が集められた。
 その後、一時ヨルダンのロックフェラー博物館(東エルサレム)にあったが、最終的にこれをイスラエル側が手に入れ、40年かけて修復をした。

4−11 ホテル 1730 Hod Hamidvar 604号室
 安息日(あけ)で部屋の掃除が出来ていないというのでしばらくフロントで待つ。安息日あけまで、つまり日没まで前日の滞在者がいたので、チェックインは遅くなる。ここでジュース事件発生。慌て者の順婆さんが何と他の団体に紛れ込んでそちらのウエルカムドリンクを二人分頂戴してきてしまったのだ。何とも恥ずかしい話。
  そんなことをしているうちに18時を回ってようやく大部分の人の部屋が出来たのでその人達だけ部屋に入ることになった。我が家も当選。
 しかしながら、一番最後の人は食事の時間である19時になってようやく部屋があてがわれた。他にも日本人団体や日本以外の団体もたくさん入っていたのだが、到着が最後だった?我々団体だけがいつまでも待たされて、貧乏くじを引いたような格好になった。遅くにあてがわれた人は気の毒だったが、このようなことの逆の立場を明日味わうことになる。