2008年4月28日(月)

▲起床(0400)−朝食(0600)−出発(0707)−空港着(0740)−離陸(0932)−軽食(0947)−クスコ空港着陸(1022)−クスコ散策1(1127〜)−昼食(1300〜1405)−クスコ散策2(〜1455)−サクサイワマン(1515〜1600)−ケンコー遺跡(1618〜1632)−タンボマチャイ(1639〜1715)−ホテル着(1900)−夕食(1945〜)
                                     ポサダ・テル・インカ・ユカイ泊

3−1 朝
 今日も朝は早い。4時には起きた。それから荷物の整理をした。と言うのも今日もまた飛行機に乗るため、スーツケースにきちんとしまい込む必要があるからだ。
 朝食までにほぼ準備を終えた。
 今朝は昨日とは違ってやや遅め(といっても6時だが)だったので、朝食の支度は完全にできていて、堪能して食べた。こんなに食べて高地に行ってよいのだろうかと思いつつ。

3−2 クスコへ STAR PERU 2I 1117便 14DE
 7時にホテルを出て30分後には空港に着いた。そこで皆が一番にしたことは、昨日の不時着のニュースの載っている新聞を買うこと。在庫がたくさんあったので買い損ねることはなかったが、きっと店の人は驚いたことだろう。
 確かに一面に大きく載っていた。一面だけではなく中面にも載っていたことから見ても、こちらでは大きな問題としてとらえているのだろう。と言うのも、そう遠くない前に、事故を起こして死亡者が出ていたのだ。観光客が大きな資金源になっている所だけに、下手すると死活問題になりかねない。今日はナスカ地上絵観光は一日全面禁止になるそうだ。今日飛行することを予定していた観光客はショックだろう。
 1時間ほどでクスコに着いた。飛行機を降りて歩き始めると、息が苦しくなった。添乗員さんが、「くれぐれも走らないように。」と言っていたが、その言葉通り、ここは3400mの高地なのだ。ゆっくりと歩いてターンテーブルまで行く。荷物はなかなか出てこなくて、しばらく待たされた。その間も動悸が激しくて、計ってみたら90前後も脈拍数があった。右はパルスオキシメータ(血中酸素濃度)の測定器の表示。

3−3 クスコ市内観光 1115〜
 ここの現地ガイドさんは 日本人。何かホッとする。
 早速バスに乗り込み、市内観光に出かけた。クスコは道が狭いということで、大型バスの乗り入れは禁止されているというので、中型のバスでやや窮屈。
 ペルーのあちこちにあるという7月28日通り(1821年の独立記念日)を通っていくと、これまたこれから何度も目にし耳にするパチャクティ・ユパンキの銅像が建っていた。インカ帝国の第9代皇帝で、インカ帝国の最盛期を作り上げた人だ。
※パチャクティ・ユパンキ・・・クスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編し、クスコの谷の小王国から南米の文明的な範囲のほぼ全体にインカの統治を広げることとなった征服の時代を始めた皇帝。在位1438年〜1471年。)
 バスを下りて歩き始めると、もうインカの石組みの道だ。その中に蛇をレリーフした石もあって、よく見ておくようにといわれた。この蛇には意味があるらしい。
 さてクスコ観光を始めるに当たって、クスコで訪れた場所を予め地図の中で示しておきたい。特に「大きな地図で見る」ボタンを押すとインデックスも付いてくるので見やすいかと思う。

大きな地図で見る

3−3−1 コリカンチャ(サント・ドミンゴ教会)
                   コリ=黄金  カンチャ=館

 今は博物館となっているが、教会として使われていたために宗教画がたくさんある。それは撮影禁止ですと注意された。

3−3−1−1 太陽神殿
 インカ帝国の中心神殿。1533年にクスコに入城したピサロ達はビックリしたという。石積みの壁は黄金で覆われ(金の板1枚2kgの物が700枚。約10kgの純金を使用)、黄金の像もあったそうだ。これらの金は、全てスペイン人達によって略奪された。それだけではなくこの神殿そのものが破壊され、その跡にキリスト教の修道院が建てられ、キリストの像が置かれた。
 壁や天井はきれいにフレスコ画で飾られていた。
 1950年の大地震でドームが壊れてしまったが、インカの石組みの所はビクともしなかったそうだ。

3−3−1−2 虹の神殿
 安山岩でできている。入口や壁の窓は台形の形をしているが、これは安定した形だからだというが、ガイドさんは、聖なる図形と考えられていたのではないかと考えられるという。このガイドさん、これから先もこのような私的な考え方をちょくちょく披露してくれた。
 部屋の中央に小さな石があって、それに乗って窓の一つを見ると次の部屋の、更にその奥の部屋の窓と一直線につながっているのが分かった。 
 いわゆるカミソリの刃一枚通さない石組みとこのような建築技法の素晴らしさ、インカはすごい。

3−3−1−3 稲妻の神殿
 ここは外壁のみ残っていて、石がばらばらに置かれている。が、この石はインカ時代の物ではないのだそうだ。そう、だから崩れたのだろう。
 奥まった所にインカ時代の全体の建物を表す模型があった。
 建物の屋根はイッチュと呼ばれる草で覆われており、中庭には金の砂がまかれ、先端にはシンボルとしての黄金のリャマが置かれていたのだそうだ。とにかく金がふんだんに使われていたらしい。当然それら全てが略奪されたのは言うまでもない。太陽神が飾られていた部分もちゃんと再現されている。この場所には後から行く。しかしながらこの場所の写真で見えている前面部分には教会が建てられているので、もちろん像はあるわけでもないが、さらに悲惨さを感じざるを得ない。
 今の中庭はスペイン時代のものだ。柱廊には沢山の宗教画が飾られているが、これらは撮影禁止。

3−3−1−4 花園
 トイレの前はきれいな花園になっていた。その中で花が下へ向かって咲いているカントゥータというのを教えてもらった。これはペルーの国花と聞いた。写っているのはガイドの吉田さん。この花は日本でも見かける。他にもいろいろ咲いていて、またここからのクスコ市街景色もきれいだった。ハチドリを見かけたという人もいたが、我が家は確認できなかった。昨日地上絵では見たのだけれど。

3−3−1−5 星の神殿
 中はインカの石組みのみ残っている。が、よく見るとフレスコ画も見られる。これはスペインがここを修道院として造りかえたときに石の上をフレスコ画で覆い、きれいに仕上げた。それが大地震で崩れたときに元の石が姿を現したのだそうだ。本当は撮影禁止なのだが、監視人のいないことをいいことに皆でシャッターを切った(ガラス越しなので少し不鮮明なのは勘弁してください)。

3−3−1−6 月の神殿
 はっきりとどこから何処が月の神殿なのか確認できなかった。写真を撮っている間に説明が流されていたからだ。
 写真に写っている入口が月の神殿のものなのだろうと思うのだが、大きな一枚岩を削って造られた二重になっている重厚な入口。ただしドアがあったような形跡はない。何故なら枠の所に、ドアがあれば凹みなどがあるはずだが、ここでは見ることは出来なかった。先の稲妻の神殿で見た再現模型でも、台形状に切り取られた入り口があるだけで、ドアは再現されていなかったので、おそらくは少なくともこうした神殿にはドアはなかったのだろうと思う。
 こからは高貴な人しか入ることができなかったと言う説明がかろうじで聞き取れた。

3−3−1−7 太陽神像の安置所
 スペイン時代のイスラム様式の天井の下を通りぬけて先ほどの模型で一番先端になっていた所へ出た。黄金でできた太陽の像のあった所だ。勿論今あるわけはなく、ロープで囲われてその場所だけが残されている。先の模型のところで書いた場所だ。
 先にも書いたが、ここは細い路地の行き止まりに今ではなっていて、幅は1〜2メートルくらいしかそれはない。写真の右手には教会の壁が迫っており、我々22名もやっとの思いでそれぞれ写真に納めたという具合だ。中央の凹みに太陽神は安置されていたという。
 ところでこの太陽神はそれでもいったんは、スペインが侵略してきたときに担ぎ出され、反攻のシンボル的存在として、戦いの場にも持ち出されていたという。最終的にはスペインの手に落ちたと思われる。

3−3−1−8 教会 〜1240
 今でも機能している教会があった。皆が入りたいということで、少し時間をとった。丁度賛美歌の練習をしているらしく、歌声が響いていた。
 しかしながらインカの人々はどうして侵略者でありかつ異教徒の宗教であるキリスト教を受け入れたのだろう。不思議に思う。マリア信仰と土着の信仰が融合して布教を促進させたというような話も聞くが。太陽神の信仰は何処に行ってしまったのだろうか。
 この教会の入口付近に御輿のような物が置いてあった。これは王などの移動手段であったらしい。右上の模型のところで撮った写真をミックスした画像を見てもらいたい。このようにして担いで移動したらしい。もっともここに飾られているのがそれかは説明板もなく不明だが。
 ここで、ここの見学は終わり、外へ出た。

3−3−2 サンタ・カテリーナ修道院
 昼食場所へ向かう道は、狭くまさに地元の人が生活している道だ。人混みを抜けながら歩いて行くわけだが、両側の壁の石の所はインカ時代の物。頑丈な基礎の部分を残して新しく家を建てたのだ。
 途中修道院を外側から見た。
 昼食場所はすぐ近くだった。モデルのおばちゃん達がウロウロして待ち構えていた。(彼らは撮影に応じ、1ソル程度のチップをせしめるという商売人。)

3−3−3 昼食 INKA WALL  1300〜1405
 <メニュー・・・野菜スープ、チキン(稗の衣のフライ)、マッシュポテト、アイス、コカ茶>
  我々の他にも2つの日本人団体が入っていた。他に客がいないことからみても、ここは日本人客の御用達のようだ。飲み物なども結構高い値段がついていた。ジュースを頼んだ人たちは5$くらいとられていたと思うが、その反応は水っぽいものだった。マンゴージュースがさらさらしていた。この店はいただけなかった。
 おおむね何処の旅行でも昼は地元レストランでおいしいのだが、観光客からせしめるだけの店のようで、もし我が旅行社がこれを呼んでいるのなら、次回からは外した方がよいと進言したい。

3−4 クスコ散策その2
 さて世界遺産の町クスコ観光の後半戦だ。昼食後外へ出てから、すぐ近くにあるソフトクリーム屋があった。そこにコカ茶ソフトがあったので、すぐに購入した(ちなみに買ったのは我が家だけ)。小さなコーンで1.5ソルだった。ガラスに値段が書いてあるので、ぼられたわけではないだろう。40円程度だが、その大きさからすればちょっと高い感じがした。抹茶ソフトのような味がした。
  それからまた歩いて市内観光となった。

3−4−1 大きな石
 狭い路地を抜けていくとやがて大きな石組みの道へ出た。
 ここは、インカ時代の第6代皇帝インカ・ロカの宮殿だった所だそうだ。館の壁に使われていた石組みが今でも利用されており、その一部に有名な12角の石がある。他にも13角の石というのもあるんですよ、とガイドさんが教えてくれた。ただし、「かなり無理な数え方をするんですけどね。」と。確かにありそうな感じがする。
 前もって調べたときにはこの辺りにモデルのおばちゃん達がいるはずだったのだが、一人もいなかった。そのお陰でゆっくりと写真を撮ることができた。
 ところでこのインカの石組みは、「カミソリの刃一枚通らない」と表現されることが多い。実際によくもマァ、鉄も使わずにこのような精巧な組み物が出来るものだと感心する出来映えなのだが、実際はこれはインカの独自の技術ではない。インカ以前からの南米の文明はおおむね石の文化だったのだから。

3−4−2 アルマス広場
 12角の石を見た後そのまま道を進むと、クスコで一番古いと言われるエルトリンフォ教会(別名凱旋教会)に出る。そこを過ぎるとすぐそこがアルマス広場。インカ時代にはワカイパタ(悲しみの広場)と呼ばれたそうだ。
 中央の噴水に面してカテドラルやイエスズ会教会が建っている。市民の憩いの広場という感じの所だが、ここに歴代の王が広場を囲む形で館を代々建築していった。というのもインカでは古い王の財産は死後もその王に帰属するとされたので、新しい王は全て自分で領地そのものを含めて作り出さなければならなかったから。右の写真は、この後行ったクスコ市内を展望する場所から望遠でとった。

3−4−2−1 カテドラル(大聖堂)
 第8代皇帝ヴィラコチャ・インカの宮殿の後に1550年から100年ほどかけて建てられたそうだ。材料となった石はサクサイワマンの石を切り出して持ってきたものだ。内部には400を越える宗教画があり、銀を300トンも使ったという祭壇もあり、地震の守り神という黒いキリスト像が安置されている。と、ここは説明のみで、実際に中に入って確かめることはできなかった。

3−4−2−2 ラ・コンパニーャ・デ・ヘスス教会(イエスズ教会)
 ここは第11代皇帝ワイナ・カパック(在位1493年〜1527年)の宮殿のあった所に建てられている。
 カテドラルに比べると背の高い分、スマートな印象を受ける建物で、広場中央部に設置された噴水とのコントラストがとてもきれいだったので、同行の人たちもそうであったが、我が家も同様にもっぱらこちらの方をバックに写真を撮りまくった。

3−5 サクサイワマン 1515〜1600
 ここも3500mを超す高さのために決して走らないように注意を受けて観光が始まった。といっても、大多数が入り口付近にたむろしていたアルパカと民族衣装を着た人たちとの記念撮影にだいぶ最初時間を費やしてしまった。その間我が家は自分たちの写真を撮った。
 さて入り口のもぎりの所までくると、目の前には大きな石の石組みが並んでいる。すご〜いの一言につきる。クスコ市街で見た石も大きいと思ったがとてもとてもここの比ではない。
 この遺跡は、第9代皇帝パチャクテ(在位1438年〜1471年)の時代の1460年頃に建設されたインカ時代の重要な建造物のひとつ。第10代皇帝トゥパク・ユパンキ(在位1471年〜1493年)の時代に完成した。サクサイワマンの砦と呼ばれていたが、現在では政治・軍事・宗教儀式の石造建造物群であったと考えらえている。
 かつてのクスコは街全体がピューマの形をしていたが、その頭に当たるのがここだそうだ。毎年6月24日にインティラミ(太陽の祭)が行われる。
 インカ最後の第15代皇帝マンコ・インカ・ユパンキ(在位1533年〜1536年。ビルカバンバ(Vilcabamba)を拠点に山岳地帯から熱帯雨林地帯にかけて支配した亡命政権「新しいインカ帝国」初代皇帝。在位1536年〜1544年)が1536年スペインに対して反乱を起こしたとき、約8ヶ月間ここを要塞として戦った。これが、その後36年間続いたインカの反乱の手始めの戦いであった。
 マンコ・インカがビルカバンバに後退した後、ここは崩壊し、後は長年に渡り、大聖堂や他の教会、スペイン建造物の建設のための採石場としてその石を持ち出されてしまった。それでも、いまだに巨石は数多く残されている。
 ジグザグになった石組みは、全長360mにもなり、高さは下から最高9m、6m、5mの三段組みになっている。ジグザグではなくまっすぐに伸ばすと600mにもなるそうだ。このジグザグの状態については、上の写真からもある程度理解いただけると思うが、グーグルマップと上空から見ている分更によく分かるので、リンクを張っておく。
 テラス状の部屋があり、最上部には15m以上の円柱の塔があり、その周りに神殿がたくさんあったと考えられる(ガイドさん説)。
 巨大な石は、7km先の石切場から運んできたと言われる。100トンの石もあり、車輪もコロも無かった時代にどうやって運んできたのかは不明である。ただ1日2万人くらいの人が働いたと言うから人海戦術だったのだろう。
 ここで一番の石は、128トンもある。いや、石と言うよりは岩という感じだ。人と一緒に写った写真を見るとその巨大さがよく分かる。
 2段目まで上ってみましょうということで皆で息を弾ませながら上っていったが、順は結構息苦しくてすぐにダウン。なのに、膝の悪い則のみが上まで上って行った。すごい根性だ。

3−6 クスコ市街のパノラマ  1603〜1614
 バスは少し走ってクスコ全体が見渡せる所で写真ストップ。撮影ポイントらしくしっかりとモデルがいた。

 クスコは1983年に世界文化遺産に指定されている街で、瓦の色などが指定されているということできれいな町並みをしている。

3−7 ケンコー遺跡 1618〜1632
 ここも3600m位あるというので、皆でゆっくりゆっくりと歩いて行った。この遺跡は、サクサイワマンのように石材を積み上げて築く遺跡とは異なり、自然の岩盤(石灰岩の一枚岩)を削り取ることで、形を作っている。以前は岩の上に上る事ができたが、今は禁じられてしまったそうだ。
 ケンコーとはジグザグの意味で、岩の上にジグザグの溝が掘られていることからこの遺跡の名が付けられた。その溝にチチャを流し、左に流れたら豊作、右に流れたら凶作という占いをしていたのではないかと思われる。現物は見られなかったので、左のガイドさんの持ってきた写真で想像するしかなかった。
 ここは、インカの人々にとっては神聖な場所で、インティワタナ(神聖なる太陽崇拝の夏至と冬至に関する場所)に当たり、ワカ(聖霊)信仰の場所でもある。 
 神殿内部は半地下になっていて、ミイラを作る場所やいけにえを捧げた台などもある。
 岩の裏側にある大石の造形は、なぜか男性の性器のようにも見えるとガイド氏は言っていたが、考えすぎでは?
 また、その周りには半円形劇場がある。ここでミイラを持ってきて儀式を行ったのだそうだ。壁の一部の引っ込んでいるところがミイラの置き場ではなかったかという。
 ここもまた、スペインによって破壊されてしまっている。

3−8 タンボマチャイ  1639〜1715
 プカプカラというクスコの入口の関所に当たるところ(右写真参照)を過ぎるとすぐにタンボマチャイ。
 高度3765mなり。富士山の高さとあまり変わらない地点まで来ていることになる。更に「ゆっくり、ゆっくり」としつこいくらい言われて歩き始めた。かなりの上り坂なので、グループも結構長い列になった。が、則は相変わらず根性でか一番先をとっとと歩いている。そのうち順から見えなくなった。  
 ここは第10代皇帝トゥパック・インカ・ユパンキ(在位1471年〜1493年)が地下水が湧きている丘の横に宿泊所、或いは休憩所として建てた。水量が常に一定で絶えることがないというこの湧き水が出ており”聖なる泉”と呼ばれている。ただ、その水源が何処なのかは未だに分かっていないという。
 上に4つ、下に2つの壁がんが有り、そこにはミイラを入れていたという。インカのミイラはエジプトとは違い、蜜蝋で固めてあるので、沐浴させても大丈夫であったし、ミイラというのは何時までも宮殿に住み続けているという考えがあった。 
 と言うような説明を聞いている間、いつの間にか則一人は丘の上まで行っていた。相変わらず元気だ。説明を聞いていた我々は、とうていそこまで行く元気が無く、そこから折り返してバスの所へ戻った。高山病になったという人はいないが、皆、かなり動きが鈍い。我が家はパルスオキシメータでチェックしているので万全だ。

3−9 トイレ休憩 アワナカンチャ  1730〜1745
 本来はお土産屋さんなのだが、もう閉まっているのでトイレだけ使わせてもらいましょう、と言うことだったのだが、店自体はしまっておらず、我々が到着したことを気付いてか店に電気がつき商売が始まった。
 アルパカの商品を主に売っていた。裏庭にはアルパカがいたそうだ。ここの旅行社は原則土産物屋には立ち寄らないが、トイレなどの利用の時は仕方がないというルールがある。それで立ち寄ったわけだが、それでもここの商品は本物で心配がありませんよ、と言うとおり、お値段もかなりお高くて、とても我が家は手が出ない。
  それでも折角だからと則の手袋を購入した。ここではVIZAカードが使えた。ただし、値切れそうもない店だったけれども、結局約1ドルほど則は値切った。どうも値切るのが楽しいらしい。

3−10 ホテル Posada del Inca Yucay 513号室
 峠を越えて、日がすっかり落ちてからホテルに着いた。
 ここには、かつて第11代皇帝ワイナ・カパック(在位1493年〜1527年)の別荘があり、その後修道院に変えられ、今はホテルになっている。スペインのように修道院そのままではなく手が加えられている。
 高い建物ではなく2階建ての建物が数棟建っており、そのうちの一つが我々の団体用になっていた。

3−11 夕食
 夕食は教会横の広場に設けられたテントの中。今日は、フォルクローレショーがあるというので、囲みの席になっている。我が家は正面の席を偶然占めることが出来たが、結果的に以下の出来事がありはそれがよかったように思う。
 メニューは、パンプキンスープ、ステーキ、野菜・フライドポテト、等だ。
 ショーの音楽や踊りに盛んに拍手をしていると、突然灯りが落ち、「ハッピーバースディ」の歌声。そう昨日は順の誕生日だったのだ。それを今夜この場でお祝いをしてくれた。目の前のバースディケーキには1本のろうそくが立てられていたので、それをフッと吹き消して、儀式終了。
 その後はみんなで踊りまくる。最初にもちろん順が呼び出された。ここは仕方のないところだ。予期せぬ出来事だったので、アルコールを飲んでしまっていた順は、足下へろへろだった。が、思いがけず、楽しいひとときだった。

2008年5月31日追記:
 クスコの観光スナップ写真集作りました。