2008年4月30日(水)

▲起床(0530)−朝食(0600)−バス発(0840)−バス着(0904)−マチュピチュ(0915〜1320)−昼食(1330〜1413)−マチュピチュ自由(1414〜1644)−バス発(1646)−ホテル着(1718)−夕食(1900)
                                          マチュピチュ・イン泊

5−1 朝
 モーニングコールは7時なのだが、我が家はやはり早起きで5時30分には用意を始めた。それからすぐに朝食を済ませて、まだ時間があったので、近くの散歩に出かけた。
 昨日行き損ねた温泉まで行ってみた。かなり階段を上っていくので、疲れた。ようやく着いてみると、入口から更にまた階段を上っているので、これは大変なところだという印象を持ってホテルへ戻ることにした。
 朝早いのであまり人はいないのだが、道をお掃除する人はもう仕事をしていた。

5−2 バスで
 いよいよマチュピチュへ行く。これが今回の旅のメーンだ。
 ホテルから歩いて5分もかからないところにバス停があった。殆ど人がいなくて待っているバスにすぐに乗ることができた。
 このバスは人が集まると出発するということで、我々の団体でほぼ一杯になったのですぐに出発した。くねくねと13回も曲がりくねったハイラム・ビンガム道路をバスはどんどん上っていく。狭い道のように見えるが、ちゃんとバスはすれ違っていく。さすがの腕前だ。
 しばらく行くと前方に朝日に輝いたマチュピチュが見え隠れしながら次第に姿を現してきた。見えるたびにバスの中では歓声が上がる。それを聞いてか、マチュピチュがきれいに見えるところでバスは一旦停止して撮影タイムを取ってくれた(下りのバスとの交換のための停車を兼ねていたかもしれない)。運転手は得意気な顔でにこにこしていた。

5−3 マチュピチュ
 マチュピチュ(バーチャル・ツアー)が建設されたのは、インカが帝国と呼べるほどに拡大し財力・労働力を持った第9代皇帝パチャクティの頃と推定される。もともとは小さな砦だった所に都市を建設したのだ。ここは、インカ帝国の権威と信仰の象徴だった。
 遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
 16世紀半ば、征服者達によってクスコを追われたインカ帝国は、迫り来る略奪者からこの聖なる都を隠すため、奥地の密林に移動した。遺跡から藁葺き屋根を燃やした灰が発見されている。また人骨も173体発見されている。以前はそのうちの150体ほどが若い女性で、逃亡の足手まといになるのを恐れて殺害された太陽の処女ではないかと言われていたが、その後の調べで、男女半々らしいということが分かってきた(というか過去のずさんな調査は歴史の解明の妨げになった)。
 その後この遺跡は400年以上も人の目に触れることなく、草の中の廃墟となっていた。
 アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムが1911年7月、石の建造物群を発見しマチュピチュと名付けた。ビンガム以前にも盗掘者がこの遺跡を見つけており、従ってビンガムは科学的発見者といわれる。もっと極端に言えば、このマチュピチュをその当時も耕しているものがいた。これら工作車は租税を逃れるためにこうした山奥に畑を持っていたらしい。
 マチュピチュ関係の地図を示す。拡大地図を適宜拡大してもらいたい。ただ、このエリアのGoogleは肝心な部分が陰になっているので、遺跡のメイン部分はあまり詳細には見ることが出来ない。 大きな地図で見る

5−3−1 入口 0915
 バスを下りてから、唯一あるトイレに行った。1ソルなり。トイレの横には荷物の一時預かり所もある。
 それから入口へ。チケットは小さい方がもぎり取られ、大きな方にはスタンプが押されて戻される。このスタンプを見せれば何度でも自由に当日限りはいることが出来る。それほど待たずに中に入ることができた。細い道を少し歩いて行くとお馴染みの光景が目に入ってきた。が、近すぎて全景を目にすることはできないので、始めに展望所へ行くことになった。

5−3−2 第1ポイント 0927〜
 結構きつい階段を上りきるとようやく第1の展望所に着いた。丁度見張り小屋の下の方に当たる場所だ。
 これが何時も写真やビデオで目にするマチュピチュの全景か。これを見たいがためにやってきたのだ、とシャッターを何度も切り続けた。結構人がいるのだが、写真を撮るのに人が入らないくらいにばらけて、結構いいのが撮れた。

5−3−3 第2ポイント 見張り小屋 0941〜
 次のポイントは見張り小屋の所。ここの方が高いところになるので、また全体が見渡せてなかなかいい。ガイドブックなどには、ここから全体写真を撮るようなことが書いてあった。
 ここで全体を見ながら約1時間ほど説明がなされた。
 やはり宗教の場と考えるのが正解で、ワイナピチュがワカ(聖霊)として崇められたと考えられる。スペインはここまでこなかったので破壊を免れ、現存する物のうち70%がインカ時代の物で残り30%は修復されたものだという。一番下の石が、地下1〜1.5mまで埋められているので造り自体も丈夫で倒れることがなかった。
 また、ここはアンデスの高地とアマゾンの熱帯との境目に当たる雲霧林といわれる地域になるので植物が豊富で、ランの400種を含む2,000種くらいの花が咲く。
 そこにマチュピチュを象ったのではないかというような生贄台と思われる岩があった。やはりインカにも生贄の風習があったようだが、アステカと違って人間よりはリャマを捧げることが殆どだったそうだ。人間を捧げるのは、戦勝祈願の時や天変地異の様な災害があった時になる。それでも、リャマの生贄は多いときには2,000頭というときもあったそうだ。これは普段リャマを食べることは禁じられていたので、こういう機会の時だけ皆で分け合ったという。
 現在、観光用に数頭のリャマが放牧されている。
 一通り説明を聞いてから、記念撮影のために更に上へ行った。こちらも眺めがよかった。この写真は帰国してから旅行会社から郵送されてきた。

5−3−4 市街地への入口 1120〜
 撮影を終えた後いよいよマチュピチュ内部に入る。
 市街地の入り口に当たる門は、今は枠組みだけが残っているが、ビンガムはここに木のドアがあったと想定して想像図を残している。が、ガイドさんは絨毯のカーテンのような物ではなかったかと持論を述べた。
 ここはまたクスコからおそらくは連なるインカ古道の終着点でもある。
 狭い道を少し進んでいくと、段々畑や太陽の神殿が見えた。

5−3−5 石切場 1134〜
 大きな石がごろごろしているところ。これらは花崗岩だ。自然の石の割れ目に乾いた木の杭を入れ、それに水を含ませてその膨張の力を利用して石を割ったという。そしてヒワイヤという黒い硬い石で加工したのだそうだ。黒曜石のことか?あるいは鉄分を含んだ何か硬い石だったのだろうか。ただ、目の前にある大きな石の割れ目は、その方法で石が割れるかどうかを近年試したときの傷跡だ。この分野での実験考古学が更に進むことを願う。
 では、インカの石の作り方・・・1.割る。2.大体の形にする。3.表面を石でこする。4.濡れた砂を置き、端切れでこする。そうするとカミソリの刃も通さないような石ができる。・・・のだそうだ。
 この頃になるとあまりの暑さにさすがの則もややお疲れ気味。とにかく雲一つ無い青空で,気持ちはとてもよいのだが、このことが思わぬ悲劇を後で則にもたらすことになる。

5−3−6 小植物園
 植物が多いということを紹介するためか小さな植物園があった。といっても2畳くらいの本当に小さなものだ。ランの仲間のソブリアカトリマ(ピンク色)やウニャイワイナ(ピンクの小さな花の集合体)、チリモヤの木、コカの木、パッションフルーツの木(実も付いていた)、ブロミネア(パイナップルの仲間で赤い)等を教えてもらった。
 コカは、30cmほどの小さい物だったが、本当はこんな高地ではなく1,000m位の所にある木だそうだ。元々は地元の人の薬だった物を,ヨーロッパ人達が麻薬に作り変えたので、ペルーやコロンビアの人が悪いのではないとガイドさんは言った。

5−3−7 聖なる広場  1150〜
 ここには神殿が二つあってこういう名がついている広場だ。

5−3−7−1 3つの窓の神殿
 3つの窓の神殿はインカ帝国発祥の伝説が残る場所。それは・・・タンプトッコという3つの穴から8人の兄弟が出てきて、そのうちの一人、マンコ・カパックが初代皇帝になったという話だ。
 さて、この3つの窓からは朝日が差し込むように設計され、天上、地上、地下の世界を表しているとか、高貴な人たちが祭りを見物した所とかいうような説もある。

5−3−7−2 主神殿
 その名のとおり、聖なる広場で一番重要と呼ばれている神殿。ビラコチャを祀っている。左右の壁にに5個ずつ正面の壁にに7個の合計17個の壁がんが並び、地面には4.5mもの大石が置かれている。残念ながら地震で右側が崩れている。
  この神殿は未完成。この神殿の下にも石組みがあり、インカ以前からの聖地だった可能性もあるとのこと。

5−3−8 インティワタナ 1157〜
 見た目では、マチュピチュ遺跡内部では一番高い位置にあると思われる場所にそれはあった。名前はインティ (太陽)、ワタナ(つなぐもの)という意味。つまりは、冬至の日にそれ以上逃げないように太陽をつなぎ止めようと試みた石か?
  石は高さ1.8mの花崗岩製。それを削って台座をつくり、その上に高さ40pほどの角形の突起を設けてある。突起は東西南北を示し、冬至や夏至を判断し、農事や祭事を決めたのではないか、とみられている。一説には日時計と言われているが、ガイドさんは違うという。確かに厳密に言うと日時計とは毎日の時間を知らせるものだから、それとは違うということなのだろう。何れにせよ遺跡の中では一番太陽に近いところにあるのだから、いろいろとその種の想像がかき立てられるところだ。
 ここに手をかざすとパワーがもらえるというので、みんなそうして“気”をもらった。ちなみに、則が手をかざしている写真の右上に写っている黄緑色の衣服と旗を持ったおじさんは、マチュピチュ遺跡3000回を超えるという超ベテランのガイドで熱く英語で語っているのを他の場所で目にした。
 実はここに上がってきた当初みんなの関心が崖下に注がれた。崖を除くと中断あたりになきウサギ(ビスカチャ)がいたからだ。順はカメラにしっかり納めたが、則はとうとうわからずじまいだった。

5−3−9 大広場 1214〜
 インティワタナを下りてきて少し行くと、遺跡の最奥部(遺跡の入り口から見て)に出る。ここには左右に屋根付きの休憩小屋がある。インカ時代の方法で作ってある。皆疲れたのでしばし休憩。腰をかけて日陰に入れるだけで嬉しい。則は一番に小屋に入ってしっかり座って休んだ。遠くに見える頂はワイナピチュで、ここの裏にはその登山口がある。ここで15分ほど休んだ。

5−3−10 聖なる岩
 後方に見えるジャナンデン山とほぼ同じ形をしている。これは自然のものではなく、やはりワカ信仰に基づいて作られたものであろうということだった。
 前項でも書いたが、このすぐ脇左手方向にワイナピチュへの登山口がある。登る気満々の則は,すぐに確かめに行く。あくまでも元気な則だ。入り口の扉は既に閉じられており、一日の入山制限数400人に既に達していたらしい。

5−3−11 職人の居住区 1233〜
 何故この辺りがそういわれるのかというと、織物や土器が沢山出土したからだそうだ。その中に、珍しい2階建ての建物があった。マチュピチュの遺跡で二階建てとの説明を聞いたのはこの場所だけだった。つまりは基本的な建物は平屋建てと言うことだったらしい。更に言えば、この建物も内部に階段はなく、二階部分はこの写真の反対側が一階分高くなっている傾斜地なので、それぞれ上下別々の入り口から出入りしていたと言うことだ。だから感じとしてはこれも変形の一階建てのコンプレックスと言うことなのかもしれない。
 という説明を聞いていると,ビスカチャ(なきうさぎ)が見えます、というので皆そちらの方に注目。岩の上につがいだろうか、親子だろうか、二羽のビスカチャが寄り添うようにいた。聞けば、この場所にいつもいて、高さもあるので安全と思ってかいつも悠々としているとのことだ。従って今度は則も見ることが出来た。(しかし結果的に二枚もビスカチャの写真を載せることになってしまった)

5−3−12 石臼 1241〜
 ここに二つだけある石臼。何故これを石臼というかというと、ビンガムが、案内してきた少年にこれは何かと聞いたところ、その少年が石臼を使う真似をしたということから、ビンガムが石臼と名付けた。
  が、実際には水を張って天文的な鏡として(たとえば月を写して愛でるなど)使ったのではないか。それはこの建物が太陽の処女の神殿だからだ、というのがガイドさんの説。

5−3−13 コンドルの神殿 1249〜
 コンドルの神殿といわれているのは、下の部分の手前の三角の岩がコンドルの頭になっており、後ろの岩がコンドルの両翼になっている様に見えるから。柵に囲まれた部分に生贄をささげて、神聖な儀式が行われた場所ではないかといわれている。またコンドルの石の奥の部分からミイラがでてきたことからビンガムはこの場所は牢屋だったのではないかと言う。 
 その傍証だが、狭い通路を抜け少し上に上ると、壁がんの両側に小さな穴が開いている所に出る。一説にはここに罪人の両腕を動かないように固定した、そういう穴ではないかと言われているが、ガイドさんは違うと言った。要は分からないと言うところらしい。

5−3−14 水くみ場 1258〜
 これだけの大きな遺跡(最近の研究では住民は750人くらいと言われている)で人々の生活を支えるのに水は欠かせないものだが、マチュピチュ山から水路を通して取り入れているのだそうで、写真右のような水くみ場が何カ所かある。
 一番最初、5-3-2の第1ポイントに登る際にも疎水があったが(左の写真)、それがここまで引かれててきているのだろう。

5−3−15 太陽の神殿  1300〜
 太陽の神殿は、陵墓の屋上部分にある、円形の施設。クスコの太陽の神殿(コリカンチャ)に似たデザインなので、同じように太陽の神殿と呼ばれているとのこと。
 この想像は当たっているだろう。冬至の日、窓(写真で一番正面のもの)から差し込む朝日が塔の中央にある台座に当たって一直線になる用に設計されている。内部には入ることは出来ない。
 石積みが直線ではなく曲面のカーブで構成されていて、とてもきれいな建物だ。

5−3−16 陵墓  1306〜
 洞窟のようになっており、入り口に階段の岩があった。ミイラを安置した、といわれれる場所だ。
 奥の祭壇には生け贄が供えらた。
 このミイラというのは、やはり王か王族なのだろうか。
 先にも書いたように、岩の割れ目の中に陵墓はあるが、その上は美しい曲線を描いた壁があり、太陽の神殿になっている。この感覚はちょっとわからない。死んだ後もなお同じ生活をするというインカの人々の死生観と関わりがあるのだろうとは思うが。
 右の写真で、開いている窓が冬至の日に太陽の昇る方向を向いている窓。

5−3−17 終わり
 これでようやく見学が終わり。あまりの暑さに皆グロッキー気味で、最後の方はただひたすらガイドさんについて歩いていた感じだ。
 明日ワイナピチュへ上る人のために、入口から入場門への近道を教えてもらいながら昼食場所のサンクチュアリ・ロッジへと向かった。(写真は遺跡を背後にしながらチェックポイント方向を眺めたもの。)

5−4 昼食 サンクチュアリ・ロッジ   1330〜1413
 昼食は入り口の所にある高級ホテル。場所がいいだけに1泊10万は下らないそうだ。
 そこのレストランで昼食バイキング。一人30ドルになるが、食べ放題飲み放題(ソフトドリンク)。そのせいが長蛇の列。暑い中しばらく待つこととなった。
 ようやく中に入って、とにかくのどが渇いたので飲み物をガブガブと何杯も飲んで,やっと落ち着いた。味もそう悪くなかったので、明日の自由昼食はここでもいいかなと話し合った。飲み物が自由なのが何よりうれしい。乾ききった体にしみ込むように入っていく。
 ここで今日のみんなそろっての観光は終わり。後は自由時間になる。かなりの人は疲れ果ててホテルへ戻るというが、我が家はそんなもったいないことはしない。
 マチュピチュの入場券は,その日に限りで入り自由というので、午後もまた観光に行くことにした。

5−5 インティプンクへ 1415〜
 インティプンクとは”インティ=太陽”、”プンク=門”と言うことで”太陽の門”と言う意味。マチュピチュから見て、夏至の日に太陽が昇る地点が、ここなのである。それ故に太陽の門と言われる。
 マチュピチュは聖域なのでその入り口であるインティプンクでは、かつて3枚のコカ葉を持ち太陽と自然と水に対して祈りの儀式をしたという。
 マチュピチュの表玄関になり、インカ・トレイルを歩いてくると、ここにたどり着く。そしてマチュピチュが見えたときには、涙がこぼれるくらい感動するとガイドさんは言っていた。

5−5−1 インカ道
 チェックポイントもチケットをかざすだけで通過。途中までは午前と同じ道をたどり、やがてインティプンクへの分かれ道(5-3-2第1ポイント直前から左折してインカ道へ)に着いた。
 道は更に上っていく。足下には石がごろごろしているが結構整備されているので、そう歩きにくいことはない。古人もここを足繁く通ったのであろうか。ただ、道幅は人二人が並べるくらいで左側は崖になっているので、転ばないようにふらつかないように気をつけながら歩く必要がある。
 午前の疲れもあって、順の足取りは重くどんどん則から遅れていく。すれ違う人もまばらで、こちらの方まで足を伸ばす人はそれほど多くないようだ。歩き始めて少しすると、途中でマチュピチュ山へ登る分岐点を通る。インカ道はそのまま真っ直ぐに続いている。この道は所々に道標もあり、また分岐もほとんど無いので、道を間違えるというような心配は要らない。

5−5−2 花々
 それでも、道の両側には花がたくさん咲いていて、気持ちを高ぶらせた。次にはどんな花が咲いているのだろうと思うことで先へ進むことができた。丁度雨期の終わりで花がたくさん咲いている時期なのだそうだ。

5−5−3 門  1455
 ようやく一つの遺跡のような門に着いた。ここが太陽の門かと安堵して休憩しながら水を飲んだ。向かいにはマチュピチュの遺跡が見える。
 とそこへ来た日本人の若者達が、更に先がありますよ、と言ったので、我々も気持ちを取り直して先へ行くことにした。
 が、そこからの道は、これまでとは違ってかなり厳しいものだった。
 段差の大きい石の階段をエッチラオッチラと上っていく。則と順の間は益々開いていく。

5−5−4 インティプンク 2720m  1525〜1536
 先に上り着いた則の「もうすぐ着くぞー」という励ましの言葉で、順もようやくたどり着いた。
 そこからはマチュピチュの全容が見える。後ろのワイナピチュも素晴らしい。バス道もくっきりと見える。大変だったけどここまで来てよかったと思った。風も心地よかった。 
 そこに先ほどの若者達もいた。彼らは、午前中にワイナピチュに上ってきたのだという。とても良かったですというようなことを沢山話してくれた上に,是非行ってみた方がいいですよ、行ってくださいと盛んに勧めてくれた。
 その話を聞いて、絶対にワイナピチュには行かないと言っていた順の心は揺れ動いた。

5−5−5 門  1555
 下りは足も痛い上にふらついている分、十分に気をつけないといけない。疲れもあって、帰りはひたすら歩いて下りるだけだった。ようやく途中の門に着いたのは、行くときに休憩してから丁度1時間後だった。写真はインティプンク付近から見たもの。遺構が結構大きなものであることがわかる。
 それから更に40分ほどかけてようやく入口へ到着し。

5−6 バスで 1646〜
 帰りのバスも丁度乗車が始まったところで、我々が乗るとすぐに出発したので、ラッキー。後ろを振り返りながらマチュピチュに名残を惜しんだ。
 と、グッバイボーイの通る階段の道に一人の女性。我々のバスを見るとすぐにそこを駆け下りていったので、何事かと興味を惹かれた。今はかつて名物だったグッバイボーイはいない(長期の休暇中だけ復活するとも聞く)。それはそれで残念と思っていたので、女性の姿を追うことになった。バスが大きなカーブを曲がっていくと、先ほどの女性は次の階段を下り始めていた。どうやらこのバスと競走をしているらしい。
 次の曲がり終えた所でも、その次でも、女性の姿があった。なるほど、これがグッバイボーイの正体かと感心した。
 最後の直線になってようやくバスの方が先行するようになったのだが、その後を走って付いてきたので、更に驚いた。隣にいた男性も確か上で見かけた人だ。
 結局彼らは、このバスに乗っている一団と同じグループだったようで、キャンプ場のバス停で下りた一団と肩をたたき合って談笑していた。

5−7 ホテル Machu Picchu Inn Hotel 205号室  連泊  1718
 ようやくホテルに戻ったが、疲れ果てていた。丁度温泉から戻ってきた人たちがいたが、お湯の温度はぬるくて日本のを考えていってはいけないと言われた。昼食の場所でも、昨日行った人の話によると,ぬるいし人が多いし立って入らなくてはならないのであまりお勧めではないというのを聞いていたので、我々は部屋でのんびりすることにした。
 そうそう、この青空の中、バンダナで1日過ごした則の顔は、ものすごい日焼けでバンダナラインが出来上がっていた。

5−8 夕食 1900〜
 今日も選択メニューの夕食。手始めに旅行会社のサービス料理のそうめんが出た。その後は、
     則・・野菜スープ、牛肉細切り炒め    順・・チキンスープ、鱒のピカタ
 その後は明日に備えて早めに部屋へ戻った。この時点で、二人の明日の行動は決まっていた。

2008年6月1日追記:
 午前中のスナップを作成しました。