ワイナピチュからのマチュピチュを見てみたい

  - 日本人があこがれる世界遺産bPへの旅 -



★我が家でマチュピチュの話題は長い間禁句であった。
  もう10数年前のことだ。マチュピチュに順が行きたいと言った。則は浅はかにも、「あんな屋根の残っていない壁ばっかりの遺跡に行って面白くないだろう」とたいした考えもなく答えた。もちろん順はお冠である。それ以来長い間マチュピチュへの旅は俎上に上らなかった。数年前、南米大陸の横断18日間という、実現すれば我が家最長記録となる海外旅行ツアーに申し込み、この中にペルーも含まれていた。ブラジルのVISAまでとったのだけれども、あえなく催行中止となった。こうしてマチュピチュ(ペルー)への旅は再び遠のいた。
 今回順が退職したこともあって、少し日程的に余裕が出来たので、何年かぶりでゴールデンウイークに海外旅行をしようと計画を立てた。はじめそれは、ボルガ川の船旅となるはずであったが、どうも集まり加減がよろしくなく、日程が決まらないとダメな現状の我が家としては、代替を考える必要に迫られた。好条件で他のツアーに参加できるのはおなじ旅行会社から選ぶしか他はない。こうして急遽条件日程にあったコースとして、ペルー旅行が急遽決定した。則が職場へ旅程訂正の申請を出したのは、4月になってからのことだった。
 こうして長い間我が家では禁句だったマチュピチュへの旅が実現される運びになった。則としてはこれで懸案事項の一つが解決されることにもなった。そしてそれは我が家での最初の南米への旅となった。
★日本人がこれほどまでにマチュピチュへ行きたいと思うのは、何故なのだろう。我が家でも先に書いたように、十数年前から俎上に上っていた。しかしこの地球の裏側とも言うべき場所に行くには、金銭的なこともそうだが時間的にも相当のものを要する。我が家としてはこれまだ見ていない、モン・サン・ミシェルより遙かに道は遠い。しかしながら、ワイナピチュの峰を背景としたマチュピチュはたぶんモン・サン・ミシェルより遙かに知名度は高い。そこには日本的な郷愁の何かがあるのだろうか。この謎多い古代都市へのあこがれは、また平均的な日本人としての我々も同様であった。
 インカ古道を歩いた人が則の友人にいた。その人は、マチュピチュに関する著書もある友人(正確にはそのときは友人だったが今はそうではないらしい)に同行して、かなりディープな旅をしたらしい。そのことも則の頭の隅にあった。
★我が家は一時期短波放送の受信機を持って旅に出ていた。それはペルー・リマの日本大使公邸占拠事件があったからだ。海外にいても、世情に疎くなるのを避けたかったが、今のようにインターネットを何処でもつなげる環境にはなかった時代のことだ。その主役の一人だったフジモリ氏も今は囚われの身である。しかしながら我々日本人にとっては、まだまだペルーはフジモリ氏が「かつて」大統領だった国だ。
 また南米と言えば、日本人観光客が不用意に向けたカメラがきっかけで不幸な事件が起きたことも記憶の中にまだあることだ。南米はやや危険というのが頭の中に残っている知識の一つだった。
 そして多くの日本人が移民として渡った国ということが、ペルーの認識の最大のものであることは間違いのないところだ。

★観光資源的に言えば、日本人の我々にとっては今回のツアーそのものが最大の関心地域を回るものといえる。「ナスカの地上絵飛行機による観光」と「チチカカ湖の湖面に浮かぶ島ウロス島への観光」と最大のハイライト「マチュピチュ遺跡観光」がそれだ。だが行って知ったが、実は国土の大半を占める自然(アマゾン)こそが今後の観光資源となることだろう。

★ペルーという国をにきて大きくそれまでの考えを改めなければならないと感じた点の中で主な三つを書いておきたい。第一は軍事立国ではないかと思っていた点だ。日本大使館占拠事件の救出からそう思っていた。しかし街角に警官の姿はあっても、軍人の姿はなかった。機関銃の姿も見なかった。軍事施設も観光ルートにはなかった。飛行場にはダミーの航空機は他の国々同様並んではいたが。武装警官や軍隊をたくさん見るだろうと思っていたが、その想像は外れた。リマ以外は外出に対しての注意はなかった。治安が軍によって保たれているという風情は皆無だった。またホテルやレストランに大統領の写真が掲げられているというような光景も、少なくも我々は目にしなかった。その国のルールさえ守ればそう安全性が損なわれることはないと感じた。
 それから移民のかつての受け入れなどから漫然と想像していたことだが、結構貧しい国ではないのかというある意味相当失礼な想像があった。観光地でも2.5リットルのミネラルウォーターが4ソル役150円程度(国内線の空港では6ソルだった)で買えるので、一般的な物価はそう高くはない。ちなみに町の屋台での庶民の食事は1〜2ソル、邦貨にして50円玉100円玉の世界。感じた点は、ペルーの平均月収が200ドルくらいとの説明であったが、貧富の差が大きいということだ。というか、二極分化しているのではないだろうか。最後に訪れた大型スーパーマーケットは富裕層の住む地域にあったが、その物価は日本に比べて少し安い程度のものだった。この貧富の格差が相当大きくかつ更に拡大しつつあると思われる社会構造が今後この国にとってどう作用するのだろうか。物価について興味深いもう一つは、ガソリンが日本並み(旅行しているときは例の税金のない時代だったのひょっとしたら日本の方が安いくらい)だったことだ。それでも町は車にあふれていたし、旅行前に聞いたいたような日本の中古車を漢字宣伝を消すこともなく使っているというような光景にはお目にかからなかった。車も日本ほどとは言わないが、見るからにポンコツというような車はごくまれであった。
 最後にこの国は非常にきれい好きな国だと言うことを書いておきたい。マチュピチュの夜明けはチリンチリンという昔の日本のゴミ回収の時の「おふれ」に似た音と風景から始まる。清掃員の数はかなり多い。乾燥していた埃っぽいというような所は数多くあったが、町がゴミであふれているというようなことはなかった。文明の悪影響で、土に戻れないポリエチレンなどの袋が舞い散っているというような光景もなかった。それは大都市や観光地だけのことではなかったように思う。この点は特筆べきことではないかと思う。ミックスした文化というのがペルーだが、こういう点伝が日本の影響だとすればうれしいことなのだが・・・

★今回は前回のイスラエルと同じ会社になった。それは前述のとおり。添乗員氏も平均的な対応をしてもらった。その意味で、最後に言及する点を除けば不満はない旅だった。(もっともそのことも添乗員氏の責めに帰するのはこくでもあろう。)
 また今回も事前に整腸剤を服用するなど健康上の留意も行ったので、旅行中に体調を崩すこともなく、したがって添乗員氏などに迷惑をかけることもなかった。則は相変わらず左足半月板の不良で、杖をつき足を引きづりながらの見学となったが、それでもワイナピチュ登山には果敢にも挑戦をして果たした。
  現地ガイド氏について言えば、日本人だった主にマチュピチュ観光に同行したYさんは、漂白の旅人そのものといった感じで楽しかった。総じて同行の人々の評判もよかった。飄々としていて、しかもウイットに富んだ説明は、おおむね好評だったと思う。多くの同行者の一番印象に残ったガイドさんと言うことだろう。
 しかし一番の印象を残してくれたガイドさんは、ほぼ最終日だけの日系三世のガイドさんだった。我々から見ればごくごく普通の日本人という容貌の方だった。彼女の言動で、印象に残ったものは二つ。第一は、「元々のインディアンであるインカの末裔も、一番最初に連れてこられた中国人○世も、その後に引き継がれた日本人○世も、そして更にその後の黒人たちも、みな全体で今のペルー人」という言葉だ。そもそもの人種や、宗教などといったものが、今日の国際紛争の火だねともなっている(ように思われる)。そうした点をこの国はどう克服しているのだろうか。残念ながらその点を聞くほど長い滞在時間ではなかった。しかし彼女にとっては何気ない一言かもしれないが、強く印象に残った。
 それから、そのことと相反するようにも思うが、「私も3年に一回は日本に行きます」という言葉だ。イスラエルのガイドさんのIさんも日本国籍を離すことはしないと言っていたが、彼女もまた日本国籍を未だ持っていたいと言うことのようだった。愛されている日本とだけ言ってよいのかどうか、多少の戸惑いを含めて彼女の話を聞いた。

★ペルーの料理はその国家の近代の動きとともにあるとのことだ。ペルー人は特に中華料理が好きで、一週間に一度は食べるとも聞いた。それから 日本風に言えば、「牛ハツ」の串焼きのようなものも有名な料理なのだそうだ。これは黒人たちが、主人の持ち去った残渣をいかにうまく食べるかを工夫したものが残ったものとのことだ。パエリアにしても、サフランの代わりにパプリカを使用してペルーナイズしている。これは我々も食べた。こうした融通の良さが、今日のペルーの他民族性多宗教性を保証しているのか、その結果が料理の多様性にも及んでいるのかは定かではないが、両者の深い関連はあるように感じた。
 総じて言えば、やはりおしきせのホテルの食事はまずく、人気の人だかりのするレストランはおいしかった。これはいつものことだ。今回は庶民感覚のレストランには立ち寄れなかったが、街角の屋台で食べている人々や、深夜にかかわらず開いている店にたむろしている人々を見ると、貧しいながらも選んで食事をしているように感じた。

★今回の旅行での最大の話はワイナピチュ登山でも、チチカカ湖で芦船に乗ったことでも、地上絵を堪能したことでもない。おそらくはかような危機と紙一重の状況はかつて経験したことのないことだった。
 我々のツアーの出発直前にフランス人がナスカの地上絵観光で墜落事故にあい全員が死亡とのニュースが入ってきた。しかしながら利用したE旅行社は以下のような文面のメールをよこした。『既にご存知の方もいらっしゃるかと存じますが、日本時間で4/10の早朝、皆様にも訪れて頂く予定でございます、ペルー・ナスカの地上絵の観光中にセスナ機が墜落し、死亡者を出す事故が発生致しました。多々ニュース等で報道されておりますのでご心配の方もいらっしゃるかと存じますが今回事故を起こしました航空会社と今回のツアーで利用する航空会社は全く違う航空会社であり、また利用する空港さえも異なります。現在のところ、全く観光に支障はございませんのでご安心頂ければと存じます。』しかしそれは後からわかったことだけれども、かなり怪しい説明だった。事故を含み5ヶ月に4件の事故が発生していたし、そのうちの一つは今回利用したアエロコンドル社のものだった(12月4日発生)。
 にもかかわらず、添乗員のT氏はまるでアエロコンドル社が墜落事故を起こしたより大きな会社で(この点は事実かも知れないが)利用したアエロコンドル社についてはいかにもあり得ない事故の如く我々に語っていたことだ。上のニュースによればこのことはえらく信用性に欠ける説明だ。ただ、実際の所これはT氏が我々に錯誤の説明を結果的にしただけで、あるいはE社自身もつかんでいなかっただけであったのかもしれない。いや多分そうだろう。その意味で、単に添乗に出ているT氏を責めるのは酷かもしれない。責められるべきはE社の方だろう。
 しかしながらこの確率は、年間に数回起きているワイナピチュ滑落事故の確率よりも十分に高い確率で起きていることを認識すべきだと思う。我々はワイナピチュに登ろうとしたときに、しつこいくらいの忠告を受けたのだけれども。
  ・・・そうなのだ、我々はその日くじ引きで総勢22名が3つのグループに分けられた。第一にグループは6名で、その中に入った我々は一番小型の飛行機に乗り込むこととなった。この時点で不運を呪ったものだった。第二のグループは小型セスナ機12名。第三のグループは残り4名と他の客の混載の12名のセスナ機。私たちは一番事故の起きそうな小型機でパイロットを含め7名でイカの空港を飛び立った。
  事故は二番機で起きた。実は我々の飛行機は同行の方の配慮のおかげで少し通常のコースより多めのメニューをこなして還ってきた。つまりは二番機よりも遅くかあるいは同時くらいのタイミングで還ってくる感じだった。だから我々が戻ってきたときには、そのニュースの一報が既に届いていた。添乗員氏は「二番機がナスカ空港に機体不良で臨時に着陸した」と我々に伝えてきた。だから全員無事だと言うことだった。時間的な関係からいっても、聞いた直後の話を我々に伝えていたのであろう。
 だがこの説明は直ぐに間違いであることが判明した。「機体はパンアメリカンハイウエイに不時着した」というのが正解だった。そう12名を載せたセスナ機は不時着をしたのだ。それは先の記事の内容を修正するものだった。すなわち5ヶ月に5件・・・つまりは平均1ヶ月に1回は起こっているナスカ地上絵観光の機体不良による事故・・・このことはナスカ地上絵観光に行こうとしているあるいはそれに関わっている全ての人々が認識すべき実態なのだ。
 幸いにも彼らは無事にその日の夕刻のリマに戻る飛行機には搭乗が出来た。我々は、そして同行者たちもよく車(特に大型トラック)にぶつからずに止まれたものだとその幸いをかみしめた。しかし事実はニュースが伝えるように、たぶん警察の力を借りたのだろう。だから着陸が可能だったのだろう。そしてそれは最近日常化しつつあるものだったのかもしれないことをも物語っている。
 翌日我々は一日ナスカ地上絵観光がストップされたことを知った。多くを占める日本人観光客のこの事故は、少しは当局にとっても深刻なものだったのだろうか。これを機会に少しは前向きの改善に動き出すのかもしれない(elcomercio紙5月8日付ウエブページ参照)。いや、そうあってほしいものだ。写真は翌日の報道(elcomercio紙より)。またこの模様は日本でも報道された模様。


 タイトル写真はチチカカ湖の夜明け前の様子です。