5月2日(土) 晴れ  プラハ〜チェスキークロムロフ

起床(0500)朝食(0630)プラハホテル発(0810)フルボカー城(1010〜1215)昼食(1230〜1330)ホラショビッツェ(1415〜1450)チェスキークロムルフ(1540〜1800)ホテル着(1800)夕食(1915〜2030)エッゲンベルグ(2105〜2230)チェスキークロムホテル着(2250)



2−1 朝
 起きたのは5時と言っても、noriはそれよりも早く起きていた。
 荷物を用意してから、食事に行った。あまり広くもなく、食材も豊富とはいえなかったが、まあ、朝食だから。(どうもこの会場は団体客専用のものだったようだ)
 それから少し、最終日に乗るバスの停留所と時刻などを確かめるなどフラフラしてから部屋へ戻った。

2−2 道々
 これから約2時間走る。
 チェコの今頃は花の時期ということで、たくさんの花々を見る事になる。
 特にすごかったのは菜の花。印度でも見渡す限りの菜の花畑を目にしたが、ここは行けども行けども菜の花畑という広大さ。真っ黄色が青空にとてもよく似合っていた。
 フルボカー城が近づいてくると、ライラックやマロニエの木も多くなってきた。勿論それらの木も花で覆われていた。

2−3 フルボカー城(1010〜1215)
 駐車場へ着くと、すぐに物売りが来た。と言っても、土産物などを持って「千円、千円」と連発するそういうたぐいの物ではない。なんと、日本語の解説書だった。どうしてバスを下りた瞬間に我々が日本人だとわかった?値段だけ聞いてまずは城へ向かう。
 駐車場のトイレ5kc。そこから上り坂を行くことほぼ10分。今日のように青空に恵まれるのは珍しいとのこと。坂を上りきる頃にはもう汗びっしょりだった。
 このフルボカー城は、古い城で、1285年には史料に記述が見られる。16代にわたって持ち主が変わった。13世紀には3人も持ち主が変わった。
 城としての形は16世紀に完成。このときはルネッサンス様式だったが、18世紀にバロック様式に改築された。19世紀にシュワルツベルグ家のエレオノラが、イギリスのウインザー城を真似して現在の形にした。この夫妻はタペストリーのコレクターとして40枚収拾し、この城の部屋を飾っている。その後、城は1947年に国家の物となる 。
 以下の写真は「フルボカー城」の公式?のウェブページからの引用。何しろ写真が撮れなかったので。

2−3−1 中庭
 入場時刻まで少し待つ。壁を飾る鹿は本物。中の見学はガイド付きなのだが、約束の時間に遅れたにもかかわらず、我々だけのグループにガイドが付いて案内してくれることになった。

2−3−2 入口「階段の間」
 中は壁や天井に木の装飾が多く施されている。また、正面には大きなタペストリーが掛けられている。
 階段の手すりは豪華な木彫りになっている。廊下はアーケードに覆われ、19世紀のロマンティズムの傾向を踏み、肖像画、武器類、武具類で派手に飾り尽くされている。

2−3−3 茶室(喫茶室)
 典型的なヨーロッパの造りで、周りの壁はタペストリーで飾られ、小さなバルコニーのような物もある。

2−3−4 展示の部屋
 何代にもわたって改築された様子の分かる古い城の絵や当時の家具が並べられている。
 エレオノラ44歳の時の肖像画もある。当時のヨーロッパ随一の美女だったそうだ。

2−3−5 エレオノラの寝室
 豪華。天蓋付きの木製ベッドには金糸で織られたカーテンが下がっている。2×2×2の大きさでバロック様式。天井は木のように見えるが実は皮を使用している。飾りには金糸を豊富に使っている。
 エレオノラはマリアが好きだったということで、周りの壁には沢山のマリアの絵がある。中にはラファエロの作品もある。ただし、1点を除いては複製である。勿論タペストリーもある。
 暖炉がある。焚き口は後ろの別の所から。バロック式の豪華な木彫りの衣装ダンスもあるが、中には2着しか入らない。当時の衣装はスカートの部分を大きく広げる形であったため。
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2−3−6 礼拝堂
 寝室に付随するような形で礼拝堂がある。4畳程度の狭い部屋だが、ステンドグラスもあり、きちんと整っている。

2−3−7 衣装部屋
     (着替えをする部屋)

 寝室と同じように天井は皮。壁のタペストリーは、17世紀のオランダ製。時計は14世紀のフランス製。鏡は18世紀のベネチア製。ヨーロッパ各地から集めていたことが分かる。
 ただし、この鏡はゆがんで見えるので、エレオノラは見なかったそうだ。
 また、壁板にはめ込むように隠し扉が2ヶ所にある。一つは洗面所へ行くための物、もう一つはクローゼットのような所へ行くための物。よく見ないと分からない。

2−3−8 書斎(ハミルトンの間)
 沢山飾ってある馬の絵の作者の名前を取った部屋。他にも17世紀のオランダ製の陶器の絵皿が壁を飾っている。暖炉は木製で形作られているが、実は飾り物で実際には使用できない。本物の暖房はその横の小窓のような所から暖気を送ってくるようになっている。シャンデリアはベネチア製。

2−3−9 朝の間
 朝日が差し込むような方角に窓を開けて朝食を楽しんだ部屋。シュワルツベルグ家の人々の肖像画が壁を飾る。その絵は、額縁というより壁に埋め込まれた豪華にレリーフされた木枠の中にある。
 天井には唐草模様のような物が施されており、5基のシャンデリアがある。17世紀のイタリア製の家具は、鼈甲などで飾られている。18世紀の中国の陶器の壺もあった。

2−3−10 読書室
 部屋の形が円形という珍しい造り。6本の柱にそれぞれ2枚ずつの絵と皿が飾られている。星座を表しているのだそうだ。柱の間の壁には沢山の陶器皿があり、その中にたった1枚ではあるが日本の物がある。
 ベネチア製のシャンデリアは、色鮮やかで赤や緑など複数の色がついている。
 大理石の暖炉は17ヶ月かけて造った物で、その上には木彫りの枠に入った大きな鏡がある。

2−3−11 小さな食堂
 プライベートな食堂で、家族のみが使用。周りの壁は、狩りの様子や、食用になる動物や魚類が描かれている。
 シャンデリアはチェコ製の物で、質素。1909年に電気設備が整えられるまで活躍した。

2−3−12 喫煙室
 女性は原則として入室できない。男性用の談話室。食後の喫煙やゲームなどに興じた部屋。26トンもあるという大理石の暖炉は、床から天井まで占めており、そこには、シュワルツベルグ家の紋章(トルコ人の頭をつつくカラス)と「Nil nisi rectum(正義以外のものはなし)」という家訓がある。トルコ人を痛めつけた人のあだ名がカラスだったことからそうなったそうだ。

2−3−13 接見の間
 入口から直接来られるようになっている。エレノア61歳の肖像画とナポレオンの結婚式に行ってその蝋燭の火で焼死した人の肖像画がある。

2−3−14 大きな食堂
 客用のもので、最高72人もの人が並んで座れるほど広い。壁には7枚の大きなタペストリーがあり、それぞれに異なったことわざが刺繍されている。「空腹こそ一番の料理人」「一番明るいときが一番暗い」「多すぎるお金は病気より悪い」「よいことはよい」等々。ただし、ガイドさんがうまく通訳できないのでこれであっているかどうかは分からない。

2−3−15 図書室
 12000冊もの本が、4段にわたってびっしりと両側の書架に収まっている。独・仏・英語などのものもある。天井には幾何学模様が描かれている。
  大きな地球儀と天球儀もあった。

2−3−16 武器の間
 始めに鎧と馬に乗った鎧武者がある部屋に行き、そこから武器の飾られている廊下を通っていくと、更に沢山の武器を展示してあるいくつかの部屋に行くようになっている。
 剣からピストル(この言葉はチェコ語なのだという)、鉄砲、大筒、大砲等々。いかに武器が重要視されていたかが伺える。たくさん集められた銃の一部を使って、天井には飾りが作られていた。

2−3−17 外観
 最後は外へ出て少し自由時間。全体の写真を撮って歩いた。
 門の入口の取っ手は例のカラス。

2−4 昼食(1230〜1330)
 レストランに入るとどんどん案内されていった部屋は、地下室のような薄暗い部屋。他の客はいない。
 メニューはタラの唐揚げポテト添え、デザートケーキ。ビールは大で28Kc。

2−5 ホラショビッツェ(1415〜1450) 205
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 1998年世界遺産登録。
 ホラショビッツェの名が古文書に初めて出てくるのは13世紀。その後、オーストリアやバイエルン地方の農民がこの辺りに移住してきた。1840年頃から1880年の間に民家の建て替えが始まり、独特のバロック様式(ボヘミアンバロック様式と言われる)に変わっていった。第二次大戦の終結まではドイツ系住民がそのほとんどを占めていた。その後の冷戦時代は荒れ果てた状態であったという。
 その中心には池を持つ楕円形の広場を囲んで家々が建つが、その数は23軒。現在ホラショビッツェの人口はこれらを含めても140人の小さな村だ。18世紀から19世紀にかけてのボヘミアの農村の風景が当時のままの状態がほぼ完全に保存されている。各家々は門を挟んで特徴的な形式の二棟の建物から構成される。その間に門があり、大きなものは馬車用で、人々は通常はそのわきの小さな門から中庭ともいうべき場所に出入りしていた。
 家々の壁は淡いクリーム色やピンク、水色などパステルカラーに塗られた大きな壁に小さな窓(暖房効率を高めるためだろうか)、そして家ごとに工夫を凝らしたマークというか絵が描かれている。南ボヘミア地方一帯で見られるスタイルだが、ホラショヴィツェでは当時のままの状態がほぼ完全に保存されている。なんでも、近くの町からお嫁さんを迎えるために家々をきれいに飾ったのだとか・・・NHKの「世界遺産100」ではそのように紹介されている。ただ今はほとんどは農家ではなくなっているらしい。
 このボヘミアンバロック様式と言われる、南ボヘミア地方一帯で見られるスタイルだが、現地のガイドの説明では、そもそもはナポレオンに対抗する気持ちが民族意識の高揚となり、村が一丸となって家屋が建てられたとのことだが、年代的にみるとナポレオンは1821年に死去しているので少し怪しい気がする。中央の入口を挟んで両側に高い屋根が見えるが、その入口の少しわきの前には、各戸用のそれぞれ井戸がある。
 スメタナのオペラ「売られた花嫁」の映画化における撮影現場にもなったとも聞いた。そうおもわせるような、まるで映画のセットの中にいるような村だった。
 昨日は5月1日、メーデーということで広場にはメイ・ポールが立てられていた。
 池の淵にカッパ?の像があった。日本と同じように人にいたずらをしたり水死した人の魂を取ったりするらしい。でも感じとしてはおばあさんのように思えた。

2−6 チェスキークロムルフ(1540〜1800) 206

                        より大きな地図で チェスキークロムルフ を表示
 チェスキークロムルフjはプラハ歴史地区、テルチ歴史地区と一緒にチェコとエリアとしては初めて1992年に世界遺産登録された。
 16世紀に、ルネッサンス都市として現在の姿がほほできあがり、その後、次第に近代化から取り残され寂れていったために、最も繁栄した時代の風景が損なわれることなく現代まで保存され、ルネサンス様式の建物が並ぶ。
 バロックの重々しさから抜け出して、宗教というより遊び心をふんだんに取り入れ、だまし絵と言われるスグラフィット(かき落とし)という手法で壁などを飾っている。これは、煉瓦の上に漆喰を塗り、立体的に見えるように表面をかき落としながら模様をつける。家の外装や窓、人など沢山見られると言うのでそれらを探すのも楽しみだ。

2−6−1 クルムロフ城
 駐車場から少し歩いて坂を少しだけ上ると城の入口に着く。中を見たい人はオプションで、とガイドさんが案内してくれたが、あいにくと人数が一杯で入れないとのことだ。代わりに塔に上ったらしい。我々は楽しみにしていた劇場が見られないというので、このオプションは申し込まなかった。
 そこで、我々は景色を楽しむことにして、まず城の全景が見える所に行った。全景と言っても、塔が上から下まで見える所だ。1250年、この地の有力な領主クロムルフが最初の城を建設した。その後次々に新しい建物が付け加えられ、それぞれの時代の建築様式が入り交じっている。
 綺麗に曲線を描いている川沿いに、旧市街の外に建っている。青い空に突き出すように聳え立っている。赤いレンガとのコントラストと共にとても綺麗だ。
 塔の周りには早速「だまし絵」が見られる。
 また、そこからは市街地が一望できる。聖ヴィート教会を中心にした川向こうの旧市街もオレンジ色の甍一色の景色だ。
 城内劇場の横を抜けて城内に入る塀にもだまし模様がある。また、そこの穴から見える旧市街もなかなか絵になる。
 聖人の像が並ぶ橋を渡って城の中の通路に入る。この通路は通り抜け自由と言うことだ。そこを抜けて中庭に出る。周りの壁は全てだまし絵。見事なものだ。だまし絵のスグラフィットという技法はつまり平面なのに立体的に見せる技法と言うことだ。煉瓦を積み上げたように見える壁面は、皆描かれているものだ。ただし窓は本物。
 更に進んでいくと天井にローゼンベルク家の紋章にちなんだ「五弁のバラ」が天井を見上げると描かれていた。
 どんどん下って熊の小屋を抜けてから級坂になっているところを右折して旧市街地へ向かった。やや細い路地のようなところで、両側には土産物屋などが広がっていた。

2−6−2 旧市街
 そこから少し市内散策。
 川を渡ってからまた城の外観を見る。先ほど渡って来た橋梁も思ったより大きくてなかなか立派な造りだ。
 我々が泊まるホテルに面した広場を抜けて、先ほどホテルから見えた聖ヴィート教会までフラフラした。
 日本語で案内しているカフェなどもあり、やはり相当数の日本人がこの地を訪れているようだ。その後は自由時間。それぞれでホテルにチェックインをする。
 我々は、ビール工場を遠望できる所まで行って引き返し、ホテルに入る。
 ホテル前の広場にもやはりペスト記念塔なのか、そのような塔が建てられてた。また取り囲む建物も例のルネサンス様式のものが建ち並ぶ。ヒトラーがこの町に来て、チェコのドイツ併合を宣言したのが、このスヴォルノステ広場だそうだ。
 結構立地条件の良い所にある。

2−7 チェスキークルムロフ・ホテル着(1800)
                    ジ・オールド・イン 258号室

 ダブルベッド、シャワーのみ。
 ここは当初分宿の予定が、この1軒で全員が泊まれるという。代わりにご夫婦の何組かはダブルベッドで、と言うことなので、我が家はそれ。ベッドが入って一杯くらいの部屋だった。しかし、ここまでバスが入れないということで、スーツケースは持ってきていないので、窮屈で困るということは無い。

2−8 夕食(1915〜2030)
 パンケーキ、牛ステーキリゾット風ご飯添え。デザートはティラミス。それぞれ名前は同じでも、日本のそれを期待してはいけない。別物と思って良い。
 この後、事前に調べておいたビアホールに行くので、半分くらいは残してしまった。

2−9 エッゲンベルグ(2105〜2230)
 noriの作った地図を見ながらエッゲンベルグというビアホールへ行く。途中暗くて人も通っていない道に少し不安を覚えながら、ようやく到着。ただ、入口もわかりにくいので、またもや不安になる。
 が、始めの入口を入っていくと間違いないことが分かったので、更に奥へ行き、ドアを押して中へ入ると、何処でも好きな所へというそぶりを見せたので、手近な席に着く。
 直ぐにメニューを持ってきてくれたが、なんと日本語もついている。非常に分かり易くて、それまでの不安も一気に吹き飛んだ。
 値段を見てまたびっくり。安い。本当にこれで品物が来るのかと思いながら、表示を信じて500mlのビールを頼む。これで25kc(邦貨125−150円程度)。確かにその通りのものが来た。他につまみとして2品頼んだが、こちらは失敗。値段の割に量が馬鹿多くて、半分は残してしまった。
 一つ目の「まな板にのせた農民のお皿」は、やさいを想像していたのだが、数種類の厚切りの肉。これだけでも十分な量だ。
 もう一つは「とんかつレモン」。これも大きい。へビーな物を頼んでしまった。
 会計もきちんとしていて、安心して入れるビアホールだった。
 途中で入ってきた、タクシーで来たという我がグループの人たちを案内する形で一緒にホテルへ向かう。タクシーでは川を渡るのに大きく迂回しながらだから、却って遠かっただろうに。

2−10 チェスキークルムロフ城ライトアップ
 城の横の道を通るので、ライトアップされた城を見ながら帰った。真っ暗な夜空に、くっきりと浮かんでいた。
 少し写真タイムを楽しんでからホテルを目指す。

2−11 ホテル着(2250)
  特に荷物の整理とかはないので、すぐに就寝。明日は朝の城を見に行くつもりだ。