5月6日(水) 曇り  プラハ市内観光(2)

朝食(0700)ホテル発(0816)バスにて駅へ・・・地下鉄乗車(0826)トラム22番線・下車(0902)プラハ城(0910〜)<ヴィート大聖堂・王宮・城の歴史・美術館・火薬塔>(〜1150)昼食(1300〜1405)時計塔(1455〜1515)ティーン教会(1523〜1535)国立博物館(1608〜1735)ホテル着(1910)



6−1 朝
 起きるのも朝食に行くのもいつもよりゆっくりした。朝から雨模様で、やや気分が重い。

6−2 プラハの交通
 今日はプラハの乗り物に自由に乗り降りできるという切符をもらっているので、購入するという煩わしさはない。何回でも利用できるというので、そういうのに目がない我が家は、何度も乗り降りすることを考えている。
 プラハは地下鉄の表示もわかりやすく工夫されているし、トラムもたくさん走っているのでとても便利。行きたい所さえはっきりわかっていればとても都合がいい交通網が張り巡らされている。

6−2−1 バス(0816〜)
 まずは中心に出かけるためには、ホテル前のバスに乗らなければならない。一方通行なので、バス停は一つしかない。とにかく来たバスに乗ればいいというのでその点は安心だ。
 程なくバスは来た。乗り口は何カ所かあるが、乗り込んでからそこに設置してある黄色いboxに1日券を差し込んで今日の日付を印字する。
 バス停の数を数えながら下車停留所まで行く。しかし目的の地下鉄の駅では殆どの人が下りるのでこれは間違えるという心配なかった。

6−2−2 地下鉄(0826〜)
 次に地下鉄に乗り換える。地下鉄はA・B・Cという3本の線が走っていて、それぞれ緑・黄色・赤と色分けされているのでとてもわかりやすい。しかも日本語の解説書つきパンフレットまで備えてあったのには驚いた。
 我々は黄色の路線を乗って、赤の路線に乗り換える。これは上下2方向に走っているので、行く方を間違えないように乗るために、一寸不安があったのでホームにいた人に聞いた。親切に教えてくれたが、危うく乗り損ねるところで、閉まりかけたドアを強引に押し開けて乗り込んだ。日本ならすぐに放送で注意されるところだ。(因みに中国では罰金ものだとテレビで最近見た。)
 前日に教えてもらった乗り換え方を思い出して、また地図で確認をしながら途中ミュージアム駅で乗り換えて、無事に目的の駅(左写真)で降りた。

6−2−3 トラム22番線

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 これからはトラムになる。昨日昼食を摂ったレストランの前なので、すぐにわかった。目的地はプラハ城。
 昨日通ったバスの道と同じなので、風景を見ながら下車駅を確認した。スリが非常に多いと聞いていたが、ここまでは全くその心配はなかった。

6−3 プラハ城(0910〜〜1150)
 小雨の中をプラハ城に直行。ちょうど衛兵が歩いて行くのに出会った。

6−3−1 聖ヴィート大聖堂
 朝早かったせいか、昨日のように並ぶことなくすぐに中に入ることが出来た。まだ観光客はそれほど多くない。中も昨日に比べてひっそりとしている。
 そこで、昨日見ているのだがもう一度ゆっくりと見て回った。なにより写真取り放題というのがいい。バラ窓も、ステンドグラスも、天井も、教会全体をゆっくりと見ることが出来て、満足。
 それから外へ出て、もう一度黄金の門を眺めた。

6−3−2 王宮
  http://www.hrad.cz/en/prague-castle/photogallery/prague-castle/9.shtml 昨日は外観だけだったので、今日は内部を見学することにした。というのも、昨日購入したプラハ城1日券が、24時間使用可能ということで、今日も使えるのだ。それを使わない手はない。
 かつて王宮だった建物は、外観からは一寸そう思えない。大聖堂と同じ高さにあるようだが、実はそこは3階部分にあたるという。下へ下りて中に入る。写真は別料金なので、noriのみ。
 ここに最初の城が建てられたのは12世紀。15世紀末から16世紀初頭にかけてボヘミア王のヴラディスラフが大改築を行った。通称「ヴラディスラフホール」と呼ばれる大きなホールは、幅16m、天井の高さが13mあり、柱がない。中世には、商人達が商取引をするのにも利用されていたという。
 この部屋もそうだが、他の部屋も質素で、ただ広いだけという印象だ。壁の飾りや家具など殆ど無い。
 この建物で、30年戦争の引き金となった「窓外投出事件」が起こった。ただ、実際には投げ出された3人は下にあった城壕とそこを埋め尽くしていた落ち葉のお陰で死なずに逃げ出したということだ。

6−3−3 城の歴史博物館
 http://www.hrad.cz/en/prague-castle/photogallery/prague-castle/10.shtml
 昔の物がたくさん並べられているが、パンフレットや英語の説明書きなどがないので、想像しながら見て歩く。
 撮影できなかったので、写真は出口の所だけ。

6−3−4 王立美術館
  http://www.hrad.cz/en/prague-castle/photogallery/prague-castle/19.shtml
 とにかく、券で入れる所は全て入ろうということで、もう既にかなり疲れてはいたが、美術館にも入った。リュックは無料のコインロッカーに預ける。
 絵について話していたら係員に注意されたが、彼女たちも話しているではないか。後から来た二人連れの男性などもっと大きな声で話しているのに全く無視。思わず睨んでしまった。
 写真は美術館入り口から見た外の風景。



6−3−5 火薬塔
 最後は火薬塔。昔は火薬を保管していたというが、現在は、軍の歴史なのだろうか、いろいろな軍服などが展示されていた。
 これで切符は全て使用済み。変な満足感を持って、プラハ城を後にした。


6−4 昼食(1300〜1405)
 昼食は町中へ出ることにして、また、トラム、地下鉄を乗り継いだ。
 予めnoriが調べておいた所へ行く。地下鉄を下りてからnoriの勘を頼りに行くと、少しウロウロはしたがほぼ無駄歩きをしないでたどり着くことが出来た。
 品物は注文ではなくて、カウンター式になっているので、自分で選んでトレーに乗せていき、最後に会計するタイプだ。先に何があるのかわからないので、ジュースやらサンドイッチなど少しずつ取っていくと、おばちゃんが選んでくれるメーンの所に来た。何が何だかわからないが、一つ一つ見せてくれたので、適当に選んだ。量が多い。そして、最後はjunのたっての願いでビールを。
 セルフサービスなので、席も自分で選ぶので、適当な所に座った。周りには食事をするだけではなく、飲み物だけの人もいる。広くてゆったりしていて、なかなかいいなあと話しながら、食事を終えた。
 その後この後の動き方を相談して、ゆっくりした。
 とりあえずまた旧市庁舎へ行くことにした。

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6−5 時計塔(1455〜1515)
 と言うわけで、旧市街広場に再び戻ってきた。まずは、時計塔へ上ることにした。隣の建物の入り口から入って、チケットを買うとエレベーターで登ることが出来る。
 塔の上からは市内が一望できる。広場の中央に立っているフスの像もデキーン教会も市街地も、手に取るように見える。
 眼下には、もうすぐ動き出すからくり時計を見るために大勢の人が集まってきている。
 また、広場に面した方には、地面に白い十字架が27ほど記されている。これは、フス戦争から2世紀を経た、1620年11月8日、ハプスブルク皇帝軍とボヘミア連合軍がプラハ郊外のビーラー・ホラ(白山)で対決し、わずか2時間ほどで決着がついたという戦いの記憶。翌1621年6月21日、旧市街広場の市庁舎前で反乱軍の首謀者27名が処刑され、その首を置いた所を表している。
 その後、プロテスタントの市民をこの町から追放し、完全にハプスブルク家の支配下に入った。町は急速にオーストリア化し、至る所にウイーンのような華やかなバロック様式の建物が建てられるようになった。
 フスといい、この印といい、旧市街広場は、権力に立ち向かったボヘミアの歴史を記録している。(右の写真は前日5月5日のもの。今日はもう片付けられていた。旧市庁舎はプラハにおける数少ない第二次世界大戦での被害を受けたった建物。5日かその少し前の日が何かの記念日だったのだろうと思う。)
 歴史といえば、第二次世界大戦で、プラハが大規模な戦火に曝されることはなかったが、市庁舎の建物の一部が、ドイツ軍から空爆を受けた。壊れた部分は今は公園のようになっている。人々の記憶に留めるためだそうだ。

6−6 ティーン教会(1523〜1535)
 広場の東側にはゴシック様式のティーン教会がある。高さ80mの2本の塔が有名だ。
 15世紀にはヤン・フスの宗教改革の本拠地となった。
 現在の姿は、1365年に改築されたもの。「ティーン(税関)の前の聖母マリア教会」が正式名称。教会の裏に税関があったからだそうだ。
 今は、教会のファサードを遮ってカフェやレストランが建っている。そのためどこから入るのかよくわからなくてウロウロしてしまった。これは、ビーラーホラの戦いの敗北により、この教会もカトリック教会に変えられることになってしまったため、それに抵抗したフス派穏健派の人達が、中に入れないように教会の前に建物を建てて塞いでしまったということらしい。
 どう見てもレストランに入って行くようにしか見えない所から、入り口アーチをくぐり進んでいくと教会の入口扉に辿り着く。中の豪華な装飾はバロックだそうだ。
 ここから地下鉄に乗って国立博物館に向かった。

6−7 国立博物館(1608〜1735)
 ヴァーツラフ広場にあるヨーゼフ・シュルツによって設計されたネオルネッサンス様式の重厚な建物。ボヘミアングラスの出土品やコインコレクションがある歴史博物館、鉱物学や動物学部門がある自然史博物館、約340万冊の蔵書を誇る図書館などから成っている。
 切符を買ってから、荷物を預け、そこでカメラ券を購入すると写真撮影も出来ると聞いたので、また、切符売り場へ戻って購入。
 階段を上がっていくと最初の玄関ホールはとても素晴らしい。
 しかし驚きはその先にあった。
 鉱物の部屋にも動物学の部屋にも蒐集された内容物がびっ〜しりと展示されている。しかも一部屋だけなどというのではなく、同じジャンルのものが何部屋も続いている。
 専門的に見ると多分かなりの価値のある物なのだろうが、関心のない者にとっては何とも無意味なことか。
 junは途中で見るのを放棄して座ってnoriの戻るのを待った。
 疲れたので、外へ出てからまたマックに入って休憩。
 その後地下鉄に乗ってホテルへ戻ろうと乗り場へ向かった。その地下鉄乗り場の前がヴァーツラフ広場。馬にまたがるヴァーツラフ像の足元に記念碑がある。
 “IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”「共産主義の犠牲者たちを記念して」
 1968年、いわゆる「プラハの春」のその時、この広場で人々がデモをし、演説をし、やがてソ連軍の戦車が広場に入り込む事態になり、抗議するヤン・パラフはヴァーツラフ像の元で焼身自殺を行ったのだ。

6−8 スーパー
 地下鉄を降りてホテルへ戻る前に、駅に隣接するビルにあるスーパーで、今夜の宴会用材料の買い物をした。今夜も自前の夕食になる。
 大きなスーパーだった。が、総菜がない。かろうじてハムなどを売っている部署があったので、そこで生ハムなどすぐに食べられるものを数点購入した。みな、量り売りだった。

6−9 ホテル着(1910)
 荷物をぶら下げてバス停へ行く。他に一組の夫婦が帰る所だった。
 他の人たちは、プラハの中心部で添乗員さんと待ち合わせをしてから帰るのだが、我々はちょっと早めに帰ってきたのだ。

6−10 宴会
 ホテルに戻ってから荷作りを完成させたが、どうも重すぎるようなので、買い込んだワインを1本飲んでしまうことにした。
 そして荷作りを終え、宴会をしてから寝た。