5月3日(日) 晴れ  チェスキークロムロフ〜テルチ〜トシェビッチ〜ブルノ

起床(0500)散策(0535〜1640)朝食(0700)チェスキークロムロフ・ホテル発(0844)チェスキークロムロフ・駐車場発(0908)チェスキー・・・通過(0930)テルチ(1050〜1312)トシェビッチ(1415〜1500)ブルノ(1600〜1805)ブルノ・ホテル着(1815)



3−1 朝
未だ明け切らないうちにホテルを出て散歩に行くことにした。ホテルの出入り口はまだ閉まっていたが、ロビーのソファーで寝ていたホテルマン?が開けてくれた。
外はひんやりした空気が流れている。フリースを着ていてちょうど良い。
さすがに誰もいなかった。

3−1−1 城
  城へ着くと、早いもので既にお掃除の人なのか制服を着た係員が働いていた。
昨日通った道を逆に上るように進んでいく。
途中でちょうど聖ヴィート教会の向こうから陽が上ってきた。
写真を撮っていると、中国系の人たちがやはり散歩しているのに出会った。その人達の後に付くように庭の方へ行ってみたのだが、残念なことにまだ開いていなかったので、向かいにある修道院のような建物を写して、戻ることにした。

3−1−2 朝食(0700〜)
 少し早かったが、朝食会場へ行ってみると追い出されてしまった。まだ準備段階だったが、ドアが開いていたのでつい。するとドアの所に椅子を置かれて入れ無くされてしまった。
そのうちに他の人も来たので、定刻に朝食を始めた。いつもの質素な内容だ。

3−2 道々
 ホテルから駐車場まで歩いて、バスが出発したのは9時を回った頃。
  途中、バドワイザーを作った町チェスケー・ブジェヨヴィツェを通った。そこでその誕生の話やらその後の話を聞いた。バドワイザーの名前は、評判の高かったチェコのブドヴァイス 産ビール「ブドヴァイゼル 」から借用しアメリカ合衆国にて商標登録したものだが、後になってチェコのブドヴァイゼル・ブドヴァル社との間でこの名称をめぐって訴訟が起き、そのため、アメリカの会社は欧州でバドワイザー名での販売はできず、「Bud(バド)」、または「Busch(ブッシュ)」名での販売となっているそうだ。日本では、バドワイザーは米国社製のものだ。
この後も、チェコの建築の歴史の説明などで、ガイドさんの口は止まらない。が、申し訳ないけれど、junは既に眠りの世界へ。
  この地方も道の両側には菜の花畑が広がる。

3−3 テルチ(1050〜1312) 207

                                 より大きな地図で テルチ を表示
 「モラヴィアの真珠」とも称される、優雅なルネッサンス風の町だ。旧市街は沼と池で囲まれて街道からは全く見えない。テルチは1339年にボヘミア王ヨハンからこの地方の貴族ウルリヒ・フォン・ノイハウスに与えられ、その支配は1604年まで続いた。
大きな駐車場には観光バスが何台も止まっていて、ここが一大観光地であることが伺える。トイレも10kcと、最高の金額だった。
 少し歩いて行くと、右手にテレビで見慣れた家が建ち並ぶ一角へ出る。これらの家々は元は木造であったが、1530年の大火の後、町は石造りになり、壁と人工池で強化された。すべての家がルネッサンス様式で建てられ、ファサードは各自の好きなようにした結果がこういう町並みになったらしい。また、どの家も一階はアーケードでつながり公共の通路となっている。ただここで残念なのはその殆どは土産物屋というのが実態だ。もはやテルチ旧市街地区は完全に歴史的遺物となってしまっていて生活の匂いは失われている。
 が、観光よりもまず食事だ。今回はここの昼食がない。ということで、ガイドさんは色々とレストランを紹介してくれたが、そんなことをしていたのでは肝心の観光の時間が少なくなってしまう。そこで、我が家は旅行用に買い込んでいる保存食を作って持って行った。始めにベンチでそれを食べてから観光開始。この作戦は結果的には正解だった。かなりの時間を割くか、ファーストフードを選択するしか他の人はなかったようだ。

3−3−1 ザハリアーシュ広場

 といっても、写真に撮れる家並みは広場に面したこの一角だけなのだ。まずは、広場の中央にある聖母マリアの柱像。周りに聖人達を廃したバロック様式の大きな柱像で、18世紀初めにペストの終焉を記念し、この街に住む裕福な市民の寄付によって建てられたものだ。
 しばらくフラフラしながら写真を撮りまくる。黄色や白、ピンクなどの淡い壁の色が青空に映える。ここにも例のだまし絵の飾りの家があった。

3−3−2 池からの風景
 町並みの裏手へ回ると池があり、橋を渡っていくとイエズス教会、ヤコブ教会が望める所へ出る。それらが池に映ってこれまた綺麗。ずっと眺めていたい風景で、旧市街の中よりこちらの方が景色的には気に入った。
 ちなみに、そこへ行くまでの間にトイレがあったが3kc。いかに駐車場がぼっているかということだ。

3−3−3 テルチ城

 13世紀、ノイハウスの支配下のときに建てられたテルチ城は、もともとはゴシック様式の城だったが、16世紀後半にザハリアーシュがイタリアの建築家を呼び寄せて、ルネッサンス様式の城に改築した。17世紀にイエズス会の所有となり、その後はリヒテンシュタイン家に受け継がれていった。第二次世界大戦後は、国の管理下に置かれ、現在は、いくつかの部屋が城博物館となって公開されている。
 内部は、天井の羽目板が黄金に輝く部屋などもありかなり華やからしいが、我々は解放されている素朴な庭だけ鑑賞した。
 ちなみにここのトイレは無料。

3−3−4 聖ヤコブ教会
 ゴシック様式の聖ヤコブ教会は、14世紀に創建されたが、火事の後、現在の姿に建て直されたのは1892年のことだ。
 開いていれば塔(テルチ城の縦長の写真の後ろに見える塔がそれ)に上れるということだったが、残念。閉まっていたので、廊下のような所を通って一寸だけ覗いた。
 教会の裏は大きな庭園が広がっており、子ども連れの家族などが散歩を楽しんでいた。ここまで旧市街裏の池が広がっており、田園都市の佇まいを感じることが出来る。

3−4 トシェビッチ(1415〜1500) 208
 トジェビーチの価値は中世のユダヤ人街が残るだけではなく、ユダヤ教徒とキリスト教徒が共存の歴史を歩んできたことにある。
  4万6千人の村。チェコの世界遺産の中で一番最後に指定された。

3−4−1 聖プリコピウス教会
 丘の頂に建つ聖プリコピウス教会は、13世紀初頭にベネディクト会修道院の一部として建造され、その後16世紀に改築された為に、フランスやドイツの影響を受けたロマネスクと初期ゴシック様式の特徴を兼ね備えたものになっている。
 天国の門はロマネスク。門の周りの彫刻が見事で、これが故に指定された。プロテスタントの教会で、初めて聖書をスラブ語で表した人の教会。

3−4−2 ユダヤ人地区
 ここには現在およそ120件の家があり、生活の場となっている。ただし、今日ではその全てがユダヤ人というわけではない。この地区のことは、1140年頃から記録に残っている。白いシナゴークは、昔から人々の中心となっていた。
 北斜面にあるユダヤ人墓地には3,000基もの墓が残されているという。
 しかしながら正直、何処に価値があるのかよく分からない。何処がユダヤ的なのか、何処に文化的香りがするのか、印象的にはよく分からない。確かに一部新しく模様替えしている家々の中に、所々古い煉瓦がむき出しになった家々が残る。しかし町を囲んでいた壁などはなく、確かにユダヤ人地区ならではのシナゴークもあったが、ここをして世界遺産と言わしめるようなものは見あたらなかったように思う。

3−5 ブルノ(1600〜1805)
 ここも町中へは入れないので、適当な所で下車。後は歩いての観光となる。ちょうど道路の工事中(トラムの線路を造っていた?)で、ブルノ国際ホテルの少し手前でバスを降り、国際ホテルでトイレを使わせてもらってから観光に出掛けた。
 ここは、チェコ第二の都市である。町が急速に発展したのは、14世紀。カレル1世がモラヴィア辺境伯になった時期からだ。ポーランド、ハンガリー、オーストリアを結ぶ通商路がブルノを通るようにし、町は大いに潤った。18世紀以降は織物工業の町となって発展し、現在は、国際見本市が開かれるほどの大都市となった。近代的な商人の町と言える。ウイーンとの関わりが強いために、ウイーン風のカフェテリアが多く見られる。
 他の町でもそうだが、隣の家と境目がないのは、税金のため。間口の広さで税金が決まるために、隙間があるとその分税金が取れなくなるために国の方策だったらしい。まるで京都のようだ。

                                より大きな地図で ブルノ を表示

3−5−1 旧市庁舎
 最初に向かったのは、旧市庁舎。国際ホテルからは500メートルくらい離れている。旧市庁舎には、13世紀に建てられた最初の建物の壁がまだ残っていて、その内部には博物館と観光案内所がある。
 入口に施されたゴシック様式の石細工は、1511年に造られた。言い伝えによると、作者のピルグラムは充分な報酬を得られなかったため、腹いせに5本ある中の真ん中の小塔をゆがませたとか。右の写真でも塔に張り付くように飾られている中央部分が右に曲がっているのが分かる。その下には最後の審判をする天秤を持った女神がいて、これも作者の皮肉だろうと説明された。
 続く通路の天井では、ブルノのシンボルである「ドラゴン」が目を光らせている。このシンボルになっている「ドラゴン」だが、その昔家畜を食い荒らし、人間にも危害を与えていた悪者だった。それを若者が退治した。あまりにも珍しい動物だったので、人々がそれを市庁舎の入口につり下げたという・・・が、実はそれはワニだったという。現在の物はレプリカである。どうも当時の人はワニを知らなかったためにドラゴンということになったらしい。近くの町に見せ物か何かでやってきたワニが逃げ出してのことだろうかと思う。それにしても現在あるものは巨大なものだった。

3−5−2 緑の広場
  旧市庁舎の前の通りを抜けると、緑の広場に出る。
  別名を野菜の広場とかキャベツの広場という。昔、ここでキャベツが売られていたためにそういう名が付いた。いまでも、毎朝青物市が立ち、新鮮な野菜や果物を売っているとのことだ。広場の中央には17世紀に建てられた岩屋のようなモニュメント「パルナス」と呼ばれる噴水がある。
 広場の西の方向の少し膨らんだ部分には、モラヴィア博物館がありその前にまた三位一体像があった。

3−5−3 聖ペテロ聖パウロ教会
 三位一体の像の左側の道を、少し坂を上るように行くと、聖ペテロ聖パウロ教会に着く。ここから町が始まったと言われている。ずうっと昔、そもそもはケルト人の祭壇があったのではないかとガイドさんは説明した。その二つの尖塔はブルノのシンボル的存在。
 スラブ人が定住するようになったのは6世紀になってからで、10世紀に町の形が形成された。
 文献によれば、1092年にはすでにこの場所にロマネスク様式のバシリカ(キリスト教会堂)が建っていた。現在見られるようなゴシック様式になったのは、14世紀に入ってからである。その後改修は18世紀中頃まで続けられ、最終的には1904年から1905年にかけて、現在見られるネオゴシック様式の独特な形をした塔を建てて完成した。いろいろな石を組み合わせて作ってあるのは珍しいそうだ。
 入口には、ペテロとパウロの像が並んでいた。これは「聖ペテロ聖パウロ教会」と呼ばれるゆえん。
 中へ入る。両側に4つずつ礼拝堂がある。正面には祭壇とキリストの像があり、その向こうに見えるステンドグラスの見事さにも目を奪われる。ただ、これは19世紀から20世紀にかけて造られたものだろうということだ。内装はその意味でかなりシンプルな印象を受けた。しかしながら天井も高く、圧倒されるような大きさを感じる。(実はここ内部撮影禁止だった。)
 教会の裏手には、この教会の主だっただろう人々の墓などがあり、その中には聖書の上に手だけ出ているような少し気味が悪いようなものもあった。また裏手からはブルノの町が一望できて、きれいだった。

3−5−4 自由広場
 旧市街の中心に位置する大きな広場。車の乗り入れが制限されているので、安心して歩くことができるということだったが、トラムは走っているので、そこだけ注意をしてということで少し自由時間。
といっても、することがないし足も疲れていたので、初マック体験。マックシェイクを頼んでゆっくりした。何とか我々の英語で通じた。


3−5−5 再び旧市庁舎
 バスの所へ戻る途中に今度は中庭を見た。ガイドさんはスルーしたかったようだが、元気なおばさん達の声に押されてしまった。が、入れば入ったで見る物はあるものだ。
 ここにもやはり噴水(労働者を表現している)があった。面白かったのは雨樋と日時計。色々と考えるものだ。
 迎えのバスはちょうどマサリック大学(チェコスロバキアの初代大統領)の前から乗った。
 この大学は、チェコ共和国で2番目の歴史を誇る大学で、日本語教育コース(人文学部言語学科)が開講されている。

3−6 ブルノ・ホテル着(1815)
          ★★★★  ホテル ボロネーズ1  838号室

 部屋は日本のシティーホテル並み。今日はツインだ。まどからは先ほどの聖ペテロ聖パウロ教会がよく見えた。夜はそれがライトアップされて綺麗だった。
※インターネットOK、シャワー、ドライヤー